" 良いことを思い続けたら、運が良くなる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『よいことを おもい つづけたら うんが よくなる』
「一念通天(いちねんつうてん)」
「一念凝る所巖をも透す(いちねんこるところいわをもとおす)」
強い信念を持って
努力をすれば、
どんなことでも
成し遂げられる
という意味です。
念じる、念ずる。
思い続けるという
念の力には、
口では説明できない
不思議な力が
あるものですね。
これを
運と呼ぶのかもしれない。
良いこと、
プラスのことを
寝ても覚めても
思い続ける。
良いこと、
プラスのことを
思い続けた人を
「運がいい人」、
一方で
悪いこと、
マイナスのことを
思い続けた人を
「運が悪い人」になる。
しかし、
良いこと、
プラスのことを
思い続け、
志をたてても、
志というものは
一朝一夕には
達成できない。
だから
今すぐ
できることから
取り掛かることだ。
例えば、
神戸から東京に
行こうと決めたら、
新幹線、飛行機、
夜行バス、
車、バイクと
次々に手段が
思い浮かぶ。
もし
旅費がない場合は
自転車でも、
歩いてでも
行けるのだ。
「絶対に行くのだ」
「何としてでも行かねばならない」
その思いさえあれば、
時間はかかっても
必ず目的地に
到着するのだ。
とても
歩くのがつらい、
歩いてなど
行けないと
思う人は、
絶対に行けないのだ。
達成する力がないのだ。
幸運は
やる氣のある人に
集まり、
氣が出ている人に
寄ってくるものだ。
念じる力とは
とてつもなく
強力なものなのだ。
それが
天地大自然の法則です。
私利私欲ではなく、
世の中ため、
人のために
なることが
信念となった
志であるなら、
必ず
天地大自然が
守ってくださり、
応援してくださる。
予期せぬ
ところから
幸運に恵まれる。
「運がいい人」に
なるのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" どちらでもいいから迷う "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『どちらでも いいから まよう』
何か事を始めるとする。
しかし、
選択肢がいくつもあって
決められない。
そのために
なかなか
始めることができない。
それは
欲に目がくらんでいる
だけのこと。
そんな無駄な時間を
費やす暇があったら、
どっちでもいいから
さっさと
やってみればよいのだ。
もし
目の前に
5百円と1万円が
置かれていて、
「どちらでも好きな方をあげます」
そう言われたら
どうですか。
迷わないでしょ。
即答するでしょう。
はっきりしている
場合は
悩まないのだ。
1000円札が
10枚置いてあって、
1万円札が
1枚置いてあって、
どちらでも好きな方を
と言われたら
迷うかもしれない。
人は
どちらでも
いい時にこそ
迷うのだ。
与えられた
その場所で
その環境で、
やれることを
ひたすら
やるだけ。
その場所で
全力を出し尽くす。
ただそれだけ。
簡単なことなのだ。
自分には
才能や技術もない。
そんなことで
嘆くことはない。
才能がなくても
一生懸命に
弛まぬ努力を
続ける。
それが才能だ。
その仕事が
自分を守ってくれる。
必ず
天は見てくださっている。
天地大自然が
守ってくれる。
これほど
心強いものは
ないのだから、
安心して
その仕事に
自分のすべてを
任せれば
良いのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 安心が一番 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『あんしん が いちばん』
医者は
「絶対安静ですよ」という。
「昼は安静、夜は安眠」
そうしなさいといわれる。
もっともといえば、
もっともな話だ。
夜眠れないなら
睡眠薬までだされる。
でも、
これおかしくないか。
そんなことできるかい。
これは
病人の身になって
考えない人の
言葉ではないか。
昼間、
安静にしていたら、
身体は疲れない。
人間は
夜、眠ることによって
新たな氣が
天地大自然と交流する。
その氣の交流により
疲れた心身を
リペアしてくれるのだ。
従って、
昼間、
安静にしていた心身は
修繕もいらない。
リペアの必要がないのだ。
だから
深い眠りもいらない
ということになるはずだ。
眠くならないのだ。
それを無理に
眠ろうとすから、
逆に心はいら立つ。
焦る。
ついに
睡眠薬を服用してまで
眠ろうとする。
「寝なければ」
病む人の
夜の長さの
悲しみや辛さが
心身を苛む。
もし医者が、
「昼間は安静にしなさいよ」
「そうすれば当然、夜は眠れません」
「それは眠る必要がないほど心身が休んだ証拠です」
「それを知って安心なさい」
夜に眠りたいなら、
昼間に身体を使い、
疲れきるより
他に方法はありません
といってくれたら、
夜眠れないことも
安心でき、
静かに
一人で楽しい思い出を
巡らせることも出来る。
偉人の著書を
たくさん読んで
心を豊かにすることもできる。
安心して
瞑想でも呼吸法でも、
とことん思う存分できる。
安静より
安眠より、
安心が
一番大切なのでは
ないだろうか。
安心。
心が
安らかになれば、
病も治る。
心が
清らかに静まれば、
病の方から
遠ざかっていくものだ。
心を静めるには、
まず
安心しなければならない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 相反する二つのものが溶け合い、力を生む "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『あいはんする ふたつの ものが とけあい、ちからを うむ』
投げと受けがなければ、
合氣道にはならない。
投げる側と
受ける側である。
投げの左手を
受けは右手で握る。
この時、
投げの氣の方向と
受けの氣の方向は
全く逆である。
合氣道を
知らない人のために、
分かりやすく説明すると、
投げる人と
受ける人が
向かい合って
立っている。
すなわち、
全く反対の方向を
見ているということです。
このままでは
お互い、
相反するだけなので
技は成立しない。
力の強いほうが
勝つことになる。
しかし、
投げが受けの
氣を尊重し、
相手の見ている方向を
見るために
身体を動かし、
受けと同じ方向に
並んだら
技は成立する。
それを合氣道では
「転換」という。
そして両者の
氣の方向が合致し、
投げと受けの
中心が一つになり、
そこに
大きな遠心力を
生みだし、
一つの技が成立する。
元々は
相反する二つのもの。
水と火は
溶け合い湯になる。
上に高く
飛び上がろうと
思えば、
まず下に下がり
地面を蹴る。
地面は
蹴る力を受ける強さと
堅さがあるから、
上に大きく
飛び上がる力を
生み出す。
この両者が
溶け合うことで
成立する。
一億円持って
無人島へ行く。
そこでは
何も買うものがない。
海に潜って
魚や貝をとり、
川がなければ
雨水を飲み、
木の実を食べ、
果物を食べ、
動物や虫を捕まえて
命を繋ぐしかない。
大自然のままの
生活では
一億円という
金の力も生まれない。
大金を所持していても、
その使い道がない。
金の力を
発揮しよう思えば、
買うものがなければ
力は生まれない。
そこにも
相手がいるのだ。
何事も
自分一人では
大した力は生まれない。
無力に近いのだ。
人間も同じだ。
そのものの
力を存分に
発揮しようと思えば、
必ず相手が必要だ。
相反する二つのものが
溶け合ってこそ、
無限大の力を生むのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 求道という心と、向学の心があるか "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『きゅうどう という こころ と こうがく の こころ が ある か』
ネットの辞書には
求道心とは
"真理や宗教的な悟りを求めて修行すること"とある。
また
「自らの能力を高めようとする強い意志のこと」という意味もある。
それを向学心という。
勉強したい、
学びたいという意欲、
学ぼうとする姿勢のことです。
求道心と向学心
どちらも同じような
意味合いだが、
何事においても、
その両方が大事だ。
先日、
テレビをつけたら、
あるお相撲さんの
生い立ちを紹介していた。
高校生の相撲では
全国屈指の強豪校に
親元離れて
入学したそうだ。
その相撲部の
監督さんが、
その力士の
当時を振り返った
話の内容に共感した。
それは
「〇〇君はどんなに厳しい稽古にも泣き言を言わなかった」
また
「強くなりたい一心で稽古していました」と話されていた。
それは
とても大切な
心の持ちようだ。
しかし、
私が一番共感したのは
次の事柄だ。
強くなりたい一心で
何事にも取り組むから、
「同じ腕立て伏せを10回しても他の生徒とは違う」、
「同じ10回、四股を踏んでも違う。その1回、1回に差が出てくるから、他の生徒とは大きく違いが出てくる」
そのように
監督さんは
仰っていました。
全ては
その人の思いなのだ。
合氣道においても
全く同じことだ。
私のように
合氣道を習い始めて
半年そこそこで、
指導者になろうと
決心して
稽古する者など、
ほとんどいない。
ほとんどの人が、
少しでも
人として
向上できるように、
成長できるように。
心身が強くなるように。
健康であり続けたい。
また
氣という
眼には見えないものを
学ぶために。
老若男女問わず、
だいたい
そのような決意で
道場に通って
おられるだろう。
しかし、
求道心と向学心が
なければ、
その決意も
実らないのでは
ないでしょうか。
5年、6年、7年と
続けている
門人においては、
およそ、
求道、向学心は
少なからずある。
子どもでもある。
年少、年中から
始めて
小学生の高学年になる
門人や、
小学生低学年から
始めて、
中学生、高校生になる
門人達が、
大人クラスの稽古に
多く通っている。
年齢や性別など、
老若男女問わず、
求道心と向学心は
強く持ち続けなければ、
ものにはならないのだ。
一方で、
口では立派なことを
言ってはいるが、
何一つとして
行動が伴わない
門人もいる。
特に高齢者に
みられるようだ。
合氣道に限らず、
求道心と向学心が
ある人は
「何をしても、ものになる人」
であり、
「何をしても人として成長する人」
である。
求道心、向学心に
欠ける人は
「何をしても、ものにはならない」
また
「そのような人が取り組む仕事も大したことはない」
そう言い切れるのだ。
一つのことすら、
深掘りできない人が
成就するとは、
到底思えない。
求道心と向学心のない者は
合氣道の稽古が
日常に活かされること
などないのだ。
求道心と向学心を
持ち続け、
人として
成長し続ける
門人達とは、
生涯において、
共に同じ道を
歩み続けたい。
そういう人が
一生の友でもあるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝