" 相反する二つのものが溶け合い、力を生む "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『あいはんする ふたつの ものが とけあい、ちからを うむ』
投げと受けがなければ、
合氣道にはならない。
投げる側と
受ける側である。
投げの左手を
受けは右手で握る。
この時、
投げの氣の方向と
受けの氣の方向は
全く逆である。
合氣道を
知らない人のために、
分かりやすく説明すると、
投げる人と
受ける人が
向かい合って
立っている。
すなわち、
全く反対の方向を
見ているということです。
このままでは
お互い、
相反するだけなので
技は成立しない。
力の強いほうが
勝つことになる。
しかし、
投げが受けの
氣を尊重し、
相手の見ている方向を
見るために
身体を動かし、
受けと同じ方向に
並んだら
技は成立する。
それを合氣道では
「転換」という。
そして両者の
氣の方向が合致し、
投げと受けの
中心が一つになり、
そこに
大きな遠心力を
生みだし、
一つの技が成立する。
元々は
相反する二つのもの。
水と火は
溶け合い湯になる。
上に高く
飛び上がろうと
思えば、
まず下に下がり
地面を蹴る。
地面は
蹴る力を受ける強さと
堅さがあるから、
上に大きく
飛び上がる力を
生み出す。
この両者が
溶け合うことで
成立する。
一億円持って
無人島へ行く。
そこでは
何も買うものがない。
海に潜って
魚や貝をとり、
川がなければ
雨水を飲み、
木の実を食べ、
果物を食べ、
動物や虫を捕まえて
命を繋ぐしかない。
大自然のままの
生活では
一億円という
金の力も生まれない。
大金を所持していても、
その使い道がない。
金の力を
発揮しよう思えば、
買うものがなければ
力は生まれない。
そこにも
相手がいるのだ。
何事も
自分一人では
大した力は生まれない。
無力に近いのだ。
人間も同じだ。
そのものの
力を存分に
発揮しようと思えば、
必ず相手が必要だ。
相反する二つのものが
溶け合ってこそ、
無限大の力を生むのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 求道という心と、向学の心があるか "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『きゅうどう という こころ と こうがく の こころ が ある か』
ネットの辞書には
求道心とは
"真理や宗教的な悟りを求めて修行すること"とある。
また
「自らの能力を高めようとする強い意志のこと」という意味もある。
それを向学心という。
勉強したい、
学びたいという意欲、
学ぼうとする姿勢のことです。
求道心と向学心
どちらも同じような
意味合いだが、
何事においても、
その両方が大事だ。
先日、
テレビをつけたら、
あるお相撲さんの
生い立ちを紹介していた。
高校生の相撲では
全国屈指の強豪校に
親元離れて
入学したそうだ。
その相撲部の
監督さんが、
その力士の
当時を振り返った
話の内容に共感した。
それは
「〇〇君はどんなに厳しい稽古にも泣き言を言わなかった」
また
「強くなりたい一心で稽古していました」と話されていた。
それは
とても大切な
心の持ちようだ。
しかし、
私が一番共感したのは
次の事柄だ。
強くなりたい一心で
何事にも取り組むから、
「同じ腕立て伏せを10回しても他の生徒とは違う」、
「同じ10回、四股を踏んでも違う。その1回、1回に差が出てくるから、他の生徒とは大きく違いが出てくる」
そのように
監督さんは
仰っていました。
全ては
その人の思いなのだ。
合氣道においても
全く同じことだ。
私のように
合氣道を習い始めて
半年そこそこで、
指導者になろうと
決心して
稽古する者など、
ほとんどいない。
ほとんどの人が、
少しでも
人として
向上できるように、
成長できるように。
心身が強くなるように。
健康であり続けたい。
また
氣という
眼には見えないものを
学ぶために。
老若男女問わず、
だいたい
そのような決意で
道場に通って
おられるだろう。
しかし、
求道心と向学心が
なければ、
その決意も
実らないのでは
ないでしょうか。
5年、6年、7年と
続けている
門人においては、
およそ、
求道、向学心は
少なからずある。
子どもでもある。
年少、年中から
始めて
小学生の高学年になる
門人や、
小学生低学年から
始めて、
中学生、高校生になる
門人達が、
大人クラスの稽古に
多く通っている。
年齢や性別など、
老若男女問わず、
求道心と向学心は
強く持ち続けなければ、
ものにはならないのだ。
一方で、
口では立派なことを
言ってはいるが、
何一つとして
行動が伴わない
門人もいる。
特に高齢者に
みられるようだ。
合氣道に限らず、
求道心と向学心が
ある人は
「何をしても、ものになる人」
であり、
「何をしても人として成長する人」
である。
求道心、向学心に
欠ける人は
「何をしても、ものにはならない」
また
「そのような人が取り組む仕事も大したことはない」
そう言い切れるのだ。
一つのことすら、
深掘りできない人が
成就するとは、
到底思えない。
求道心と向学心のない者は
合氣道の稽古が
日常に活かされること
などないのだ。
求道心と向学心を
持ち続け、
人として
成長し続ける
門人達とは、
生涯において、
共に同じ道を
歩み続けたい。
そういう人が
一生の友でもあるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 太陽さん、ありがとう "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『たいよう さん ありがとう』
毎朝、仕事に出かけるとき
太陽に向かって
「太陽さん、ありがとう」と
太陽に感謝することを
私は日課にしている。
今朝は
ザーザー降りの雨だったが、
毎朝のことなので、
太陽の位置は
おおよそ見当がつく。
曇って
太陽が見えない時でも、
その方向に向かって
太陽さんに感謝する。
それは
地球が無事に
自転をした証でもあるのだ。
それらは
けっして当たり前のこと
などではないのだ。
もし
太陽がなくなれば
私達は生きてはいけない。
全ての動植物は
全滅するのだ。
ありとあらゆる
生命は消滅してしまうのだ。
太陽による
光合成が植物を育み、
私達人間だけでなく、
それ以外の
あらゆる動物の食料となり、
植物が作り出す
酸素によって
全ての動植物は
生かされている。
空気、水、雨、雪など、
生命を維持できるのは、
太陽の熱の力なのだ。
毎日、
感謝せずには
いられない。
当たり前のことだ。
すべてのものには
始まりがあれば
終わりがある。
いつか
この地球も太陽も
なくなるのかもしれない。
そうなれば
私達は生きることすらできない。
生きているから
楽しいこともあり、
嬉しいこともあり、
ワクワクすることもあり、
勉強もでき、
仕事もできる。
そして
人として
成長することもできる。
その根源が
太陽、地球を含む
天地大自然なのだから、
今日も感謝せずには
いられない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" プロとアマチュア "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『プロとアマチュア』
プロ、専門家というのは
寝ても覚めても
仕事や、その特定の分野や
事柄のことを考えている。
生活すべてが
それなのだ。
日常生活における
様々な出来事も、
それに置き換え
考えることができる。
それは
何も特別なことではなく、
無意識にそうなる。
氣がつけば
そうなっている。
身体の一部を切れば、
血液の変わりに、
その思いが
物凄い勢いで
溢れ出てくる。
そこが
アマチュアとの
絶対的な違いである。
脇目もふらず、
一心不乱に
それだけを深堀りする。
プロや専門家には
納得とか
満足という
言葉などないのだ。
そこまでやらないと
「分かった」とは
言えないからだ。
それこそが
尊いことであり、
誇りでもあるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" できる、使いこなす、極める "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『できる、つかいこなす、きわめる』
できることと、
使いこなすこと、
極めることは
それぞれ違います。
合氣道でいうなら
技、心身統一、心を静める、
臍下の一点、体幹、呼吸、
立ち居振る舞い、
氣を出すことなど。
また
料理人なら
フライパンや包丁の
扱い方というように、
あらゆる仕事や、
その分野において、
「できる」とは、
繰り返し稽古、練習して
決まった型や動作が
「できる」ようになることです。
そして、
「使いこなす」とは、
それをどんな体勢や状況、
どのような
環境下においてでも、
適材適所で
出せるようになるのが
「使いこなす」ことです。
さらに
その使いこなしている
技や動作を、
他の誰よりも速く強く、
常に最大限の力で
出せるよう
練り上げることが
「極める」ことです。
従って、
「できる」や「使いこなす」
程度の修得で
満足しているようでは、
現実を知らない、
現実を見ない、
オメデタイ人なのだ。
例えば、
技において、
使いこなせるから、
「日常、何かあったら対応できる」
などと
妄想を抱いていては
いけない。
「極める」まで
技を練り上げず、
どうして対応できようか。
その程度では
何の役にも立たない
ということを
思い知ったほうが
身のためだ。
まだまだ、
まだまだ、
私達は
修行中の身であり、
未熟者である
ということを
決して忘れては
いけないのだ。
弛まぬ努力を
怠ってはいけない。
まだまだ
これからだ。
道は永遠なり。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝