" 氣を出すということ。お弟子さん方に感謝だ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう
『き を だす という こと。おでし さん がた に かんしゃ だ』
神戸も本格的な梅雨を迎え、
蒸し暑い日が続いている。
先日、
日曜日の合氣道の稽古後、
自宅で迂闊(うかつ)にも
半ズボンで
昼寝をしてしまった。
エアコンこそ
かけてはいなかったのだが、
部屋の窓は全開だった。
あまりの寒さに
目が覚めた時、
嫌な予感がした。
いわゆる
風邪の諸症状
というやつだ。
私は歯医者さん以外は
医者にはかからない。
自分で治す。
薬も飲まない。
コロナワクチンも
一度も接種していない。
でも元氣なのだ。
しかし、
翌朝からは
少しずつ
風邪の症状が
出てきだした。
火曜の朝は
身体がだるい。
しかし、
朝から
合氣道の稽古がある。
私は指導者だから、
休むわけにはいかない。
道場に着き、
道着に着替えて
袴を着用すれば
無意識にスイッチが入る。
稽古中は、
お弟子さん方に
心が集中しているので、
風邪のことは忘れている。
終わってみれば、
朝より元氣に
なっていたのだ。
翌水曜日は
火曜日より身体がだるい。
頭も少し痛い。
でも、
この日も稽古がある。
たくさんの
子ども、親子の
お弟子さん方に
100%心を向け、
いつもより
楽しく稽古する
ことを心がけた。
少年部の稽古が
終わってみれば、
身体のだるさも
頭の痛さもなくなっている。
その後の
大人の稽古でも
同様に氣を出して
稽古を終えた。
風邪もすっかり
治っていたのだ。
風邪は治りかけが
大事だというから、
今週はいつもより
腹八分目で
多めに呼吸法を
することにしよう。
全ての出来事には
要因がある。
暑いからと
半ズボンで
寝てしまった
自分の行いの
結果なのだ。
中村天風翁の言葉に
「人間と犬が同じような切り傷をした場合、犬のほうが治りが早い」と
あったような記憶がある。
犬は
切り傷に執着せず、
人間は
切り傷を
氣にしているから
治らないのだ。
このような経験は
これまでにも
何度もあった。
30代の時、
趣味のサーフィンが
高じて
海の近くで
民宿を営んでいた。
ゴールデンウィークの
前日に風邪をひいてしまい、
熱も出ていた。
翌朝には
全国から
多くのお客様を
お迎えしなければならないから、
「今日は早く寝よう」と
思って布団に入った時に、
信じられないような
事件が起こったのだ。
内容は
ここでは
伏せさせていただくが、
あっては
ならないような
事件であり、
許されることのない、
れっきとした
犯罪なのだ。
それに
対応しなければ
ならなかった。
時間にして
3時間程の
出来事であったが、
氣がつけば
風邪は治っていた。
心が
風邪には
見向きも
できなかったからである。
心身が100%
その出来事の対応に
向いたから
風邪が治ってしまったのだ。
許されることではないが、
ある意味、
その出来事に感謝だ。
ついつい
私達は
心身の不調に
遭遇すると、
それを治そうと
自分をかばう。
全ての要因は
自分にあるはずで
あるのに、
「そんなことは知ったことか」
それを
治すことに
必死になるのだ。
仕事は休んで、
医者にかかり、
薬を飲む。
その結果、
長引くのだ。
まるで
要因は
自分以外に
あるかのように。
それは間違いだ。
誰しも
生身の人間なので、
風邪もひくだろう。
でも
その要因は
自分にあるのだから、
治すことより、
氣を出して、
その日の仕事を
全うして、
できる範囲で
呼吸法をし、
なんなら絶食して、
酒も飲まずに
早く寝る。
これで治るのだ。
そして
心身が
また
強くもなるのだ。
私の場合は
合氣道で
お弟子さん方に
指導させて
いただくことが
仕事だ。
だから
風邪が早く治ったのも
お弟子さん方の
おかげなのだ。
ありがたいことだ。
不思議なことでも
あるのだ。
自分で
治そうとすると
長引くが、
氣を出して
仕事を全うすると
早く治ってしまう。
その仕事を
させてくださるのが、
私の場合は
お弟子さん方なのである。
「ありがとう」
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 医者いらず "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『いしゃ いらず』
日常の生活の中で、
爪先立ちを
数回して、
上半身の
余分な力みを
取り除き、
いつも
仙骨だけは起こして
姿勢を正します。
時々、
口から
静かに息を吐き、
鼻から
静かに吸う。
そして
心を積極的に使い、
心のありようにも
注意すれば、
学校で、職場で、
家庭で、家事で、
いつも一日中、
合氣道の稽古を
しているのと
同じです。
一つの立ち居振る舞い、
一挙手一投足が、
すべて合氣道だと
思って生きていると、
心身ともに
氣が出る
健康体になりますよ。
そこに
「臍下の一点(せいかのいってん)」が
深まってくれば、
医者いらずに
なりますよ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 自由自在とは合わせること "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『じゆう じざい とは あわせる こと』
野球で
自分が打者だとする。
相手チームの投手は
打ちやすい球を
投げてはくれない。
困るような球や
打ちにくい球を
投げてくる。
これを打つには、
その球に
バットを合わせるしかない。
見事に
球とタイミングを合わせ、
バットの芯で
とらえてこそ、
ヒットになり
ホ ームランも生れる。
それが勝利への道となる。
まるで
球にタイミングが合わない。
これが空振りである。
三振で
敗退への道にもつながる。
バレーボールの場合でも、
なるべく
相手の嫌がるところに
ボールを打ち込む。
それが嫌であっても、
そのボールに合わせる。
自分の方から飛んで行く。
そのボールに
合わせた
見事なレシーブが、
やがて勝利に結びつく。
合わせることが
出来なかったら
負けである。
人生も同じだ。
何が表れ、
出て来るか分らない。
その出来事を
天命の球として
受けて
楽しく迎える。
自分の方を変える。
相手に合わせる。
力んで
身構えていたのでは、
全く動けない。
合わせやすいように
自分の心身を
軽くしておく。
いつでも
丁度よいタイミングで
合わせることができる。
逆らわず
何もかも
天地大自然に
合わせるのだ。
それが
上手になる程、
人生の達人に
なれるのだ。
お茶を飲む時も、
箸をとって
ご飯を食べる時も、
まず
自分の手と指を
相手である
湯呑みや箸に合わせる。
それができたら
思うように
飲めて食べられる。
まず、
「その相手に合わせよ」と
天地大自然は
教えてくれているのだ。
自分の手を
ペンに合わせたら
ペンを自由に使え
字が書ける。
何でも
合わせた後にこそ、
自由自在に
動かせるようになるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 奥深くまでやり抜くこと "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おくふかく まで やりぬく こと』
広く浅く
知ることは、
浅薄(せんぱく)な知識を
隠すことができず、
短慮な
振る舞いにも表れる。
結局は
何も知らない、
何も学んでいない
ことと同じなのだ。
ひとつのことを
徹底的に
奥深くまで
実践躬行(じっせんきゅうこう)し、
探求することによって、
決して
表面に表れてこない
物事の真理を
つかむことができるのだ。
そして、
その真理が
やがて全てのことに
通じていくように
思います。
それが
その人の
誇りにもなり、
仕事にも
生き方にも
「矜持を持つ」ことが
できるのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" プラトーという名の平地があるよ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『プラトーという名の平地があるよ』
合氣道の上達というのは
決して正比例グラフの
ようにはいかない。
それは
どのような競技や
スポーツも同様だ。
少し坂を登ったら、
長い平地を歩く、
そして
また少し坂を登って、
また長い平地を歩く。
こんな感じで
上達するということだ。
長い平地が
努力を重ねる
時間であり、
登り坂が
上達と思ってもらえば
いいだろう。
この長い平地である
水平の状態のところを
「プラトー」と呼ぶのだ。
プラトーとは
技能の学習過程で、
一時的に
進歩が足踏みする状態。
学習曲線が
この時期に高原状となる。
高原現象。
従って、
ここでは、
いくら努力をしても、
見た目には
上達しない
ということであり、
その実感すらないのだ。
それは
努力をしている人に
「誰にでも」
起こることなのだ。
どれほど
身体能力に優れ
素質のある人でも、
どんなに
一生懸命に
正しい練習を重ねても、
ここでは
上達しない
ということなのだ。
それに氣が付かない、
又は、
そういうことを
知らない人が、
そこで
挫折してしまうのだ。
それは
非常にもったいない
ことである。
変わらず
弛まぬ努力を
重ねていけば、
また次の
上達のラインに入れる。
しかし、
プラトーの間に、
「稽古しても上達しないから無駄だ」
とか
「いくらやってもだめだ」と、
稽古をやめてしまったら、
絶対に
次の上達ラインまで
いけない
ということなのだ。
でも、
あきらめずに続ければ、
また必ず上達する。
それは表現を変えると
「プラトーの間にも目には見えない実感しないところで、実は進歩が進んでいる」
「上達というグラスに実力という水が貯まっている」
ということだ。
水を貯めていた
グラスから
水が溢れ出すときが
上達なのだ。
グラスに水を注いでも、
すぐには溢れない。
溢れ出てくるまで
注ぎ込まねばならない。
登り坂を
登ったからこそ、
プラトーに辿り着いた。
従って、
プラトーに辿り着いた
ということは、
進歩したから
辿り着いたのだ。
一度、
それを経験すれば、
後は
同じことの繰り返しだ。
次のプラトーが
出現したら、
「おっ!上達したな」と
思えば
良いのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝