" 天から与えられた仕事をしているか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】末候
七十二候
第五十七候 金盞香(きんせんかさく)
11月17日~21日ごろ。
寒い冬の訪れとともに、可憐で香りの良い水仙が咲き始めるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 てん から あたえ られた しごと を している か? 』
「天から与えられた仕事をしているか?」
「その仕事が天職であると思えるか?」
「それが世のため人のためになっているか?」
道場長として
毎日、道場に立つ時、
私は常に
この三つの問いを自らに課しています。
不肖私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場は、
単に技を教えるだけの道場ではありません。
僭越ではございますが、
私はこの道場での指導こそが、
まさに天から与えられた仕事「天職」で
あると確信しています。
" 未来の子どもたちのための「人間教育」"
現代社会、
特に学校教育の場では、
知識やスキルを
学ぶ機会は豊富にあります。
しかし、
私たちが
最も大切にしなければならない
「核」となる部分が、
置き去りにされがちではないでしょうか。
私が
合氣道の指導を通じて、
未来の
子どもたちに伝えたいのは、
以下の四つの柱です。
一つ、
美しい所作と言葉
相手を敬う姿勢、
場を清める動作、
そして心ある言葉遣い、
日本人として世界に誇れる礼儀作法。
二つ、
心と身体の使い方
合氣道の技の理合いから学ぶ、
無理のない効率的な身体の使い方。
感情に流されない強い心の持ち方。
三つ、
日本人としての誇り
伝統文化への理解と、
先人たちが築いてきた精神性への敬意。
四つ、
どう生きるか
困難に立ち向かう姿勢、
自己と他者への向き合い方。
人生の「道」を切り開く指針。
これらは、
子どもたちが
これから生きていく上で、
どんなスキルよりも
深く、長く、
自分の人生を支える
人間としての土台となります。
" 収入ゼロでも、私は同じことをやれるか "
道場運営は、
決して楽な道ではありません。
それでも、
なぜこの活動を続けるのか。
それは、
たとえ、ほんの僅かでも
「世のため、人のため、地域のためになっている」という
強い確信があるからです。
子どもたちが目を輝かせ、
「ありがとうございました」と
深く一礼する姿、
また、
内氣だった子が
自信を持って発言できるようになる瞬間。
それこそが、
私にとって
何物にも代えがたい報酬なのです。
したがって、
もし、この活動が
一切の収入がない
ボランティアになったとしても、
私は「命の続く限りやり続けます」 。
私が伝えているのは、
合氣道の技を超えた「生きる道」です。
この真髄を
未来ある子どもたちに継承すること、
彼らが自信と誇りをもって
生きていくための「種」を蒔くこと。
それが
私の「天命」であり、
私にとっての「合氣道」なのです。
私たちは皆、
他者との関係性の中で生きています。
合氣道を通じて育む「調和の心」は、
必ずや
社会全体をより良いものに
変えていくと信じています。
今日も明日も、
その信念をもって
私はお弟子さんの前に立ち続けます。
今週もありがとうございました。
良い週末、三連休を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 無意識の所作、親の「躾」と子の「未来」 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】末候
七十二候
第五十七候 金盞香(きんせんかさく)
11月17日~21日ごろ。
寒い冬の訪れとともに、可憐で香りの良い水仙が咲き始めるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 むいしき の しょさ、おや の「しつけ」と この「みらい」 』
先日、
所用でとあるお店に立ち寄りました。
目的の鞄売り場のすぐ前が、
店舗の試着室スペースになっていました。
そこで、
目を覆いたくなるような
光景を目にしました。
一人の男性(40~50歳くらい)が
試着室にズボンを持って入ろうとした際、
脱いだ履き物(サンダル)を
あたり構わず脱ぎ散らかして
そのままにしてしまったのです。
それは、
試着室の前を通る人を
塞ぐかのように散乱していました。
本来、
履き物を脱ぐという行為には、
わずかな時間であっても、
「次に履く時のこと」
「その場を使う人のこと」を考える、
一種の作法が伴うはずです。
それは
合氣道の道場における
「履物を揃える」という、
ごく基本的な所作と全く同じです。
" 履き物を揃える、一つの教え "
合氣道琴心館寺崎道場では、
この「履物を揃える」という
所作を非常に重んじます。
これは、
単に見た目の美しさや
整頓のためだけではありません。
それは「心」の整頓です。
それは「次の人」への配慮です。
それは「自分」を律する修業です。
履き物が
バラバラに散らかった状態は、
そのまま
その人の「心の乱れ」を象徴しています。
自己中心的な振る舞いであり、
「公」の場における
「道」の欠如と言わざるを得ません。
まことに見苦しく、
一日本人として、
とても恥ずかしく思いました。
" 躾は連鎖する。
親の「行い」は子の「未来」"
この男性は、
おそらく幼少期に
「履き物を揃える」という
基本的な躾を
受ける機会がなかったのでしょう。
そして、
もしこの男性に
子どもがいるとすれば、
その子どもたちも、
親である彼の「行い」を
無意識のうちに学んでしまいます。
注意する
親の姿を見ていないのですから、
彼らもまた、
同じように
履き物をバラバラにしてしまうでしょう。
「躾」とは、
「身を美しく」と書きます。
親から子へ、
目上から目下へと
受け継がれていくものです。
" 常に「道場」の意識を持つ "
私たちは、
道場を一歩出た場所でも、
常に
「道場にいるのと同じ心」を
持ち続けるべきです。
試着室の前であっても
お風呂屋さんのトイレであっても、
「履物を揃える」という
たった一つの行いが、
その人の「人間性」を映し出します。
他者への配慮、
自らを律する心。
この当たり前の「道」を、
私自身も日々の稽古と
生活の中で実践し続け、
お弟子さんたち(特に子どもたち)に
伝えていきたいと改めて強く誓いました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 学びは役割を引き受けた後に始まる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】末候
七十二候
第五十七候 金盞香(きんせんかさく)
11月17日~21日ごろ。
寒い冬の訪れとともに、可憐で香りの良い水仙が咲き始めるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 まなび は やくわり を ひきうけ た あと に はじま る 』
" 即断即行!「快諾力」が人生を拓く "
人生の質、
そして人間的な深みは、
誰と時間を共にするかで
劇的に変わってきます。
私が心から信頼し、
ずっと
一緒にいたいと願う人物像。
それは、
どんな困難な
仕事や役割を頼まれても、
即座に
「それ得意です!」
「私にやらせてください!」と
快く引き受けられる人です。
"「やります!」が先、学びは後 — 師範自身の体験 "
大切なのは、
引き受けた時点で
「得意である」必要は
全くないということです。
これは、
何を隠そう
私自身の歩んできた道でもあります。
私自身、
合氣道を始めたのは
五十歳という遅いスタートでした。
にもかかわらず、
私の師匠である
兵庫県合氣道連盟会長
合氣道琴心館館長の
琴地 茂先生から
「明日から大学へ指導に行きなさい」
そう命ぜられ、
合氣道琴心館の
末席に加えていただいた
わずか一年後には、
大学の合氣道部で
指導を任されることになりました。
当時の私の級は四級。
対して、
指導する立場の学生たちは
皆、二級でした。
経験も技も、
そして級も、
私より彼らの方が上だったのです。
その指導の場では、
数多くの苦い思いも経験しました。
しかし、
その時「指導者」という役割を快諾し、
引き受けたからこそ、
今の私がある。
多くの人は、
技を深く習得し、
知識を積み重ねてから
「師範」という
立場になると考えるでしょう。
しかし、
私の場合は、
まず師範という
役割になってから、
文字通り
合氣道を一から学びました。
「教える」という
責任を負ったことで、
否応なく
誰よりも深く、
誰よりも真剣に
稽古に
打ち込まざるを得なくなったのです。
" 快諾力の後に秘められた成長のサイクル "
「やります!」と手を挙げた後、
その役割を果たすために
必死に学び、調べ、
知識や技術を身につけていく。
この
「まず引き受ける→すぐに学ぶ・実行する」という
サイクルこそが、
人間を最も早く、
そして深く成長させる原動力なのです。
これは成長のための大原則です。
にもかかわらず、
それを分かってない人が多くいます。
しかし、
そんな中で
私の弟子たちの中にも、
この快諾力を持った若者、
志を持った日本女子が3人、4人といます。
彼女らと一緒にいると、
本当に楽しく、場が明るくなります。
そして何より、
その前向きな姿勢、
貪欲な学びの姿勢からは、
私自身も
「まだまだだな」と襟を正す
多くの学ぶべき点があるのです。
彼女らは、
道場、
そして社会にとって
不可欠な存在へと
確実に成長していくでしょう。
" 信頼とチャンスを遠ざける姿勢 "
一方で、
残念ながらその対極にいる人もいます。
声をかけられても、
うつむき、
手も上がらず、声も出ず、
私と
目を合わすことすらできない人。
不安からか、
挑戦を避け、
自分を小さな枠に
閉じ込めてしまうような人です。
このような
受動的な姿勢では、
人生において
チャンスも、
重要な役割も、大きな仕事も、
決して
回ってくることはありません。
なぜなら、
他者からの
信頼関係の構築ができないからです。
大事な局面で
「この人に任せても大丈夫だろうか?」
という疑念が生まれてしまう。
一緒にいても場が重くなり、
共にいる喜びを感じることが難しい。
結果として、
人望も信頼も得られず、
成長の機会から遠ざかってしまうのです。
合氣道の稽古は、
人生という舞台で、
いかに積極的に、
主体的に生きるかを学ぶ場であります。
人生は人選びで大きく変わります。
私たちは、誰と共に生きていくか。
そして、
自分自身は、
誰かに「一緒にいたい」と
思われる人間であるか。
「快く引き受け、後に必死で学ぶ」
という姿勢は、
合氣道の
「受け」の精神にも通じます。
相手の技を正面から受け入れ
そこから次の自分の動きを生み出す。
この
「まず受け入れる」
精神こそが、
人生を切り開く鍵となります。
「それ、私にやらせてください!」
その一言が、
あなたの人生をより深く、
より楽しいものへと導く
最初の一歩となるでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" もし今日が人生最後の一日なら、あなたは「時間潰し」をしますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】末候
七十二候
第五十七候 金盞香(きんせんかさく)
11月17日~21日ごろ。
寒い冬の訪れとともに、可憐で香りの良い水仙が咲き始めるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 もし きょう が じんせい さいご の いち にち なら、あなた は 「じかん つぶ し」を します か? 』
「時間潰しには〇〇がいいですよ」
「暇潰しに最適ですよ」
「いい暇潰しになりました」
時々、
軽々しく
他人に対して口にする人がある。
あえてはっきりと言いましょう。
私は、
「時間潰し」という言葉が大嫌いです!
この世から
『時間潰し』『暇潰し』という
言葉がなくなることを願っています。
「いい暇潰しになりました」
そんなことを言う
人ほど、
人生を無駄に過ごし
病を恐れ、
医者に頼り、
死に至る時に必ず、狼狽える人なのです。
なぜなら、
その言葉は、
我々人間が持つ、
いや、「生きとし生けるもの」
命あるもの全てが持つ
最も尊いもの、
すなわち
『命』を粗末にしている証だからです。
「退屈だから」
「やることがないから」
「待ち合わせの時間までの間」などと、
無為に過ごして、
それを軽く
「時間潰し」と言う人がいますが、
本当にそうでしょうか?
本来、
武道の修業とは、
己の命と時間を懸けて、
道を極めようとする営みです。
畳の上で流す一滴の汗は、
決して「潰された」時間から
生まれるものではありません。
それは、
全身全霊で「今」を生きた証です。
" あなたは 「潰しますか?」か「磨きますか?」:人としての態度 "
合氣道の稽古では、
「今、この瞬間」に全身の神経を
集中させます。
技が生まれ、
氣が満ちるのは、
寸分も氣を抜かぬ、
真剣な一瞬の積み重ねです。
この真剣さこそが、
人生のすべてにおいて
持つべき姿勢だと、
私は確信しています。
もし、
今日が人生最後の一日だと
わかっていたとしたら、
一体誰が、
自分の命の残りを
「潰そう」と考えるでしょうか?
残された時間を
慈しみ、
大切に、意味のあるものとして
「活かそう」とするはずです。
「時間潰し」とは、
その「時間を活かす」
努力を放棄している状態を指します。
それは怠慢であり、
武道の道に生きる者として、
絶対に許容できない態度です。
道場長として、
私は日々こう行動しています。
命の限りを伝える
私の命が尽きる直前まで、
合氣道の真髄、
そして私が学んだ「生きる姿勢」を、
お弟子さんたちに魂を込めて伝えます。
伝えるべきことは、
一つ残らず、全身全霊で伝えます。
愛と感謝の表明
家族や、
共に歩んでくれた人々に、
心からの感謝と尊敬を、
力強く、そして明確な言葉で伝えます。
後悔の種は、一切残さない、最高の「一日一心」稽古
そして、
私は今日も
自分自身の「道」に対する、
最高に研ぎ澄まされた、
「これが最後かもしれない」
稽古を全うします。
それは
「時間潰し」とは対極にある、
命を磨き上げる時間であり、
合氣道という道に対しての「礼儀」です。
" 「一日一心」:命を輝かせるための哲学 "
僭越ながら、
不肖私が毎日書く
このブログ「一日一心」とは、
「今日という一日は、
二度と手に入らない
尊い命のかけらである。
だからこそ、
その一瞬たりとも氣を緩めず、
心を尽くして懸命に生き抜け」
という、私の哲学です。
暇や時間を「潰す」ような
愚かなことはやめ、
その時間を、
自分の夢、愛、
自分を
「磨き上げる」時間に変えましょう。
私たちには、
皆平等に
今日という、
尊い一日が与えられています。
道場での稽古と同じように、
その一日、
その僅かな時間にも
真剣に向き合い、
全身全霊で活かしきりましょう。
それが、
真に生きる賢者の覚悟の証です。
暇や時間を潰して
生きるような
愚か者にだけは
なってはいけませぬ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 宇宙の真理。「行き詰まり」は幻想、人生は停滞しない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】末候
七十二候
第五十七候 金盞香(きんせんかさく)
11月17日~21日ごろ。
寒い冬の訪れとともに、可憐で香りの良い水仙が咲き始めるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 うちゅう の しんり。 「いきづまり」は げんそう、じんせい は ていたい しない 』
「どうにも進まない」
「袋小路に入った」
「もう手詰まりだ」
私たちは人生の中で、
時として
友人から、知人から、
あるいは自分自身の内側から、
「行き詰まり」という言葉を
聞くことがあります。
しかし、
本当に私たちの世界は、
そして私たちの人生は
「行き詰まる」ことができるのでしょうか?
私たちが生きる
この大宇宙の営みを考えてみましょう。
" 宇宙の真理は「停滞しない」という動かしがたい事実 "
私たちが暮らす
この地球は、
私たちが寝ている間も、
悩んでいる間も、
決して
立ち止まることはありません。
地球は毎日、自転し続けています。
地球は太陽の周りを公転し続けています。
この壮大な宇宙の営み、
大自然の法則は、
絶えず動き、変化し、
進化し続けることで成り立っています。
宇宙に「停滞」という状態は存在しません。
そして、
私たち人間は、
この「決して止まらない」
宇宙の中で、
生かされている存在です。
私たちは、
毎日歳を取り、
細胞が入れ替わり、
考え方が変わり、
経験を積み重ねています。
物理的にも精神的にも、
私たちは一瞬たりとも
「昨日と同じ自分」でいることはできません。
人間は毎日、
過去に向かって
進んでいるのではなく、
未来に
向かって変化しています。
この事実を前に、
「行き詰まる」という考えは、
宇宙の真理に照らして
絶対にあり得ないと
言えるのではないでしょうか。
もし
「行き詰まった」と
感じる瞬間があるとしたら、
それは
外部の事実ではなく、
自分の内側で生まれている「幻想」です。
それは、
特定の目標に対する「期待」と、
現在の状況との間に生じた「ズレ」を、
自分の心が
勝手に「停滞」と解釈しているに過ぎません。
私たちは今も呼吸をし、
心臓を動かし、思考しています。
これは最大の「動き」です。
物理的な大きな変化がなくとも、
内側では必ず何かが動いています。
行き詰まりとは、
たとえば、
地図のゴールにたどり着くための
「道」が見えなくなった状態です。
または、
進む方向が間違っているかもしれません。
地図(目標や計画)自体が
現状に合っていないかもしれません。
そこで、
立ち止まるのではなく、
「進む方向」を見直す時なのかもしれません。
少し横に動いたり、
別のルートを探したり、
「動きのベクトル」を変える
ことも、
停滞を破る一つの方法です。
"「小さな変化」を成長と定義する "
昨日の自分より、
ほんの少しだけ知識が増えた、
感情をコントロールできた、
新しい場所に足を踏み入れた。
どんなに小さな変化でも、
それは「前進」であり、「成長」です。
常に動き続ける
大宇宙の法則に倣(なら)い、
「大きな成果」ではなく
「小さな変化」を
積み重ねることを意識しましょう。
私たちは、
常に変化し続ける大宇宙の一部です。
人生は、絶対に停滞しません。
さあ、
今日も一歩、
新たな方向へと動き出しましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝