" 終を慎むこと始の如く "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 おわ り を つつし む こと はじ め の ごと く 』
" 終わりを「慎む」ことが、成功への道を開く "
合氣道師範として、
日々の生活、生き方、
稽古や道場運営に携わる中で、
また、
時に " 氣の抜けた弟子 " の
立ち居振る舞いや言動に触れるたびに、
いつも心に留めている言葉があります。
それは、
老子のこの言葉です。
「終を慎むこと始の如くなれば、事を敗ることなし」。
おわりをつつしむことはじめのごとくなれば、ことをやぶることなし。
物事の終わりを、
まるで始めたばかりのように
細心の注意を払って行うなら、
まず失敗することはない、という意味です。
この言葉は、
私たちの日常や仕事にも
深く通じることではないでしょうか。
嫌々、始めることは論外ですが、
自分の意思で、何かを始める時、
私たちは皆、誰もが
良い緊張感と情熱に満ち溢れています。
新しい挑戦への期待や成功への強い意志。
しかし、
時間が経つにつれ、
その熱意は徐々に薄れ、
慣れからくる油断や疲労によって、
つい氣が緩んでしまう。
老子は、
「人のすることを見ていると、とかく完成間近になって失敗することが多い。
終わりを心を引き締めてすること始めのようであるなら、失敗で終わることはない」と、
戒めています。
本当にその通りで、
私たちは、
九分九厘まで
成功や完成に近づきながらも、
最後の肝心な局面で
「終わりを慎むこと」ができずに、
すべてを台無しにしてしまう経験が
少なからずあるのではないでしょうか。
始めた物事が軌道に乗り、
" あと一歩 " というところで氣を緩め、
そのままフェードアウトしてしまう。
それは、
これまでの努力を自ら、壊し、
手放してしまうようなものです。
"「終わり」を大切にするための心構え "
では、
この「終わりを慎む」という教えを、
私たちはどのように
実践していけば良いのでしょうか。
* 初心を忘れない
始めたときの情熱や目標を常に意識し、
振り返る時間を持つことが大切です。
* 集中力を維持する
終わりが近づくほど、
細部への注意を払い、
集中力を高める努力が必要です。
* 「氣」を切らない
いつも「氣が出ている」から
次のステップにもスムーズに進めます。
* 手放す勇氣を持つ
状況に応じて、
不必要なものや関係性から
決別する決断も一つの「終わりを慎む」
行為であると思います。
合氣道の稽古においても、
この「終わりを慎む」という
意識は非常に重要です。
たとえば、
一つの技を習得する際、
最初は基本動作を丁寧に学びます。
そして、
技の形が整ってきた時こそ、
最後の極めや残心(技の後の心構え)まで
氣を抜かずに集中する。
それを繰り返し稽古することが、
真の習得に繋がります。
あなたの現在進行中の
「九分九厘」のプロジェクト、
今一度、「終わり」を意識して
取り組み直してみませんか?
一度きりのあなただけの人生です。
最後まで精一杯やり遂げましょう。
今週もありがとうございました。
よい週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 心の目、開いていますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 こころ の め、あいて いますか? 』
" 見えるものの、その奥に "
私は、日々の稽古や生活の中で、
常に「目に見えるもの」の奥にある
「目に見えないもの」を感じ取るよう努めています。
私たちが認識する事実は、
具体的な現象や出来事として目に映るものです。
しかし、
その目に見える事実の底には、
常に「真理」が潜んでいます。
それはまるで、
湖面に映る景色が、
どんな花も咲いては散るように、
その湖の深奥にある
「すべては移ろいゆく」という
「真理」や、
" 自分 " というものは、
常に「変化し続けるものであり、決して一つにとどまらない」
という「真理」を映し出しているかのようです。
つまり、
この世のあらゆる「目に見える現象」は、
すべて「目に見えない真理の表れ」であると
私は思うのです。
" 言葉の奥に隠された真理 "
それは、
人との対話においても同様に重要です。
私たちは日頃、
家族であったり、友人であったり、
様々な人と話し、
様々な人の言葉を耳にします。
その言葉の
「表面的な意味」だけを捉えるのではなく、
その言葉の奥底に
どのような「真理が隠されている」のか、
それを「感じ取る力」が重要です。
これはまさに「心の鍛錬」です。
この鍛錬が不足している人は、
うわべの言葉だけを鵜呑みにしてしまい、
それ以上に深く考えようとしません。
結果として、
自分の都合の良いように、
あるいは傲慢に物事を解釈してしまいます。
それは残念ながら、
身体は大人になっても、
" 中身は低学年の子どものように幼いまま "
であるかのように映ります。
そういう人、みなさんの周りにも
たくさんいるのではないでしょうか。
この「心の鍛錬」こそが、
人間としての成長に不可欠であると
私は思うのです。
" 心を鍛える日々 "
いつも言っていることですが、
合氣道琴心館寺崎道場の稽古は、
単に技を磨く場ではありません。
相手の心の動き、呼吸、
そしてその奥底にある意図を深く読み取ることで、
私たちは
目に見えない真理を感じ取る力を養います。
これは、
日常生活における「人間関係」や、
様々な問題に対する「洞察力」にも繋がります。
目に見える事実の奥底にある真理を見抜く力。
それは、
日々の「稽古」と「心の鍛錬」によってのみ
培われるものです。
私たち
合氣道琴心館寺崎道場の修行者は、
この真理を探求する姿勢を
常に持ち続けることで、
心の目を開化させ、
人として成長し、
真に豊かな人生を送ることができるのだ、と
私は深く魂から信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 稽古でわかる、あなたの「わがまま心」"
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 けいこ で わか る、あなた の「わがまま ごころ」 』
生きていく上で、私たちは
「心地良い暮らし」 や 「便利な世の中」 、
そして「快適さ」を求めます。
それは誰もが望むものだと思います。
さはさりながら、
その「快適さ」への「こだわり」が過ぎると、
私たちは、
知らず知らずのうちに
自分自身に蓋をしてしまうことがあります。
たとえば、
" 聞きたくないものは聞かない " 。
" 自分と合わない人とは会わない " 。
" 見たくないものは見ない " … 。
もし、
世の中がそんなに都合良く回るなら、
それはそれで良いと思いますが、
世の中、
決してそんな都合の良いものでは
ございませぬ。
無人島にでも行って、誰にも会わず、
たった一人で暮らすというなら話は別ですが…。
しかし、
人間は一人では生きていけません。
私たちは、
互いに「助け」、「助け合い」ながら
生きています。
自分の思い通りにならないことの方が
圧倒的に多いのが現実です。
それが、世の中です。
それなのに、
自分の「心の弱さ」から目を背け、
他人や環境のせいにして、
挙句の果てには
「聞かなくていい」「見なくていい」と、
自分を正当化してしまう。
もし、
そんな人ばかりになってしまったら、
この世はどうなってしまうのでしょうか。
心の弱さを露呈した
「わがまま」、「氣まま」、「傲慢」な
人間ばかりになってしまうことは
想像に難くありません。
"「貪欲」という心の迷い "
お釈迦様は、
「貪欲」を人間の迷いの一つと説かれました。
私たちは、
他人と自分を比較し、
より良い暮らしを「貪欲」に
求めすぎてはいないでしょうか?
「便利」なもの、
「快適」なものに慣れすぎた結果、
少しでも
「不快」なものを排除しようとする
不寛容さが「怒り」へと繋がってはいないでしょうか?
自分の好きなもの、
興味のあるもの以外には、
知ろうとせず、関わろうとしない。
そんな自分の「無知な愚かさ」に、
目をつぶってはいませんか?
心の「平穏」は、
外界の都合の良い状況によって
もたらされるものではありません。
お釈迦様は、
自分の外側に目を向けるのではなく、
「内側」に眠っている「宝」に氣づくことで、
これらの「迷い」に打ち勝てると説いています。
" 合氣道の稽古は心の鏡、自分と向き合う時間 "
合氣道の稽古もまた、
この「心の鍛錬」に通じます。
私たちは道場で、
自分の思い通りにならないこと、
時には不快に感じることも経験します。
特に、
わがまま、氣まま、傲慢な心を持つ人は、
稽古の中で
その傾向が顕著に出ることがあります。
「相手に持たせた手が痛い」
「投げるときに重い」
「関節技は痛くて嫌だ」…
などといった言葉は、その典型です。
時に女性に多く見られる傾向ですが、
これは自分の
「鍛錬不足」や「稽古不足」、「経験不足」、
そして全く「成長していない自分」に
氣づいていない証拠に他なりません。
考えてみてください。
手が痛いと感じるなら、
それは自分が「力んでいる」からです。
自分が「力んでいる」から、相手も「力む」のです。
自分が力を抜けば痛みは軽減します。
それは、
相手にしてみれば、
一切、力みのない人の手を持つ時、
力いっぱい持つ必要がなくなるからです。
投げるときに「重い」と感じるのは、
自分の「中心がぶれている」からであり、
相手の重さに頼りすぎているからです。
関節技は、そもそも痛みを伴うものです。
それを「嫌だ」と拒絶したり、
相手のせいにすることは、
自身の成長の機会を「放棄」しているのと
同じことです。
そもそも、
自分の成長の機会を放棄するなら、
道場に来ることも必要ないことなのです。
一体、
このような人たちは、
何が目的で、何がしたくて合氣道の稽古をするのか?
私には理解不能でございます。
合氣道はあなた一人でできるものではありません。
相手がいて初めて成り立つものです。
相手のせいにするのではなく、
自身の内面に目を向け、
なぜそう感じるのか、
どうすれば改善できるのかを考えること。
これこそが、
合氣道の稽古を通じて得られる
「心の鍛錬」なのです。
" 快適さの先にある「心の豊かさ」"
私たちは快適さを追求するあまり、
時に大切なものを見失いがちです。
「不便さ」の中に、
「不快な」感情の中に、
そして自分にとって
「都合の悪い」状況の中にこそ、
私たちを「成長」させる「ヒント」が
隠されています。
自分の内なる声に耳を傾け、
心の奥底に眠る「宝」に氣づくこと。
それが、真の心の豊かさへの道です。
最後にもう一度、まとめます。
* 快適さは時に心の成長を阻む。
* 「貪欲」は人間関係や心の平穏を乱す。
* 不寛容さや無知は「怒り」や「愚かさ」に繋がる。
* 稽古は自分の心の状態を映し出す鏡である。
* 真の豊かさは、自分の内面と向き合い、成長することで得られる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「タダ」からは何も得られない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 「タダ」から は なに も え ら れ ない 』
"「無料」とは負のエネルギー、「タダ」ほど損をすることはない "
私は日々の生活の中で、
「無料」や「タダ」という言葉の裏に
隠された落とし穴について
深く考えさせられることがあります。
「できることなら、お金は一銭も使わずに何かを得たい」
それは、
人間の自然な感情かもしれません。
しかし、
本当に何かを「学び」、
自分自身を
「高めたい」と「願う」のであれば、
この「無料」や「タダ」に対する見方を
一度、
考え直してみることが大切ではないでしょうか。
"「無料」や「タダ」という場が持つ、見えない「負のエネルギー」"
なぜ、
私が「無料」というものに対して、
慎重な視点を持つのか。
それは、
「無料」の場所には往々にして、
「エネルギーが低い」人が集まるからです。
時に、
その場の「空氣」が重く、
「学びの場」としての
「質が低く」なりがち だと感じるからです。
そこには、「学び」に対する
意識がまだ定まっていない人や、
様々な背景を抱えた人、
いわゆる
「マイナスの氣」が
集まることが 往々にしてあります。
「お金を払う」という
コミットメント、責任がない分、
そこに集まる人々の
雰囲氣や意識の質も「低く」なりがちです。
そうした多種多様な
「マイナスの氣」が混在する
空間に身を置くことは、
知らず知らずのうちに、
悪い影響しかない
「負のエネルギー」を
受け取ってしまう可能性は否定できない。
"「対価」を支払うことで生まれる「真剣さ」と「質の高い学び」"
私たちが何かを得る時、
そこには「対価」という概念が深く関わっています。
当たり前のことですが、
「お金」は、 提供者の「知識」や「技術」、
そして、
その提供者がその場に注ぎ込む
「労力」や「情熱」に対する
「感謝の氣持ちの表れ」であり、
正当な「対価」として支払われるものです。
私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場の道場運営においても、
月会費を納めていただき、
指導を提供する以上、
その金額に見合うだけの「価値」を
お弟子さんに「提供する責任」があるのです。
そして、
どのような分野においても、
参加費用が高くなればなるほど、
提供する側も人間ですので、
「より質の高いものを届けたい」という
強い想いが生まれるものなのです。
道場という場は、
いわば師範の「技術」や「知識」、
そして何よりその「心」が、
稽古を通じて
お弟子さんへと伝わる場所です。
支払われる金額が、
その受け取れる
「学びの深さ」や「質の高さ」と
" 比例する " と言っても良いでしょう。
であるならば、
学ぶ側も、
きちんと「対価」を支払うことによって、
より「質の高い指導」と「充実した稽古」を 得られる可能性が高まると、
当然ながら考えられます。
"「自己投資」としての意識が、あなたの成長を加速させる "
そして、
お金を支払って参加することには、
もう一つ、
非常に大きな意味があります。
それは、
「この場から最大限のものを得よう」という
強い意識が生まれることです。
「せっかく費用を払ったのだから、無駄にはできない。しっかりと学び取ろう!」
誰もがそう思うはずです。
この「学び取ろう」という
意識こそが、
学びの「質」を
飛躍的に「高める」のです。
積極的に質問したり、
指導を深く吸収しようとし、自ら工夫する。
こうした周囲をも
「プラスの氣」に変える能動的な姿勢は、
無料の場では
芽生えることは決してありませぬ。
実際、私の道場でも、
月会費をきちんと納め、
休まず稽古に臨んでいる門人ほど、
どんなに小さなことでも
自分の糧にしようと努力し、
目覚ましい成長を遂げています。
彼らは、
ただ道場の稽古に参加するのではなく、
支払った対価以上のものを得ようと
真剣に取り組んでいるからこそ、
成長していくのです。
"「少し高いな」と感じるものにこそ、「真の学び」がある "
もし、
本当に何かを学び、
自分自身を成長させたいと
願うのであれば、
「有料の場」に目を向けることが肝要だ。
自分の金銭感覚で、
「少しだけ高いな、背伸びが必要だな」と
感じるくらいのものが、
実は一番「良い選択」なのです。
「タダ」だからその場に通ったり
情報を得たいが、
「対価」を支払ってまでして
学ぶ氣がない、
そんな傲慢な人は、
何も学んだり得たりする必要はない。
そもそも、
我が命を削ってまで、
「情熱」や「経験」、「技術」、
また苦労して得た「情報」などを提供する
その場の指導者や先生、師に対して、
失礼極まりないのではないか?
まあ、
「どうせタダなんでしょ?適当にやっててね」という
指導者や先生もいるだろうが…
少々費用がかかっても
「どうしても学びたい」という
強い情熱を持ってその場所へ通うなら、
それは質の高い学びと、
それに伴う大きな成長を得ることに
繋がります。
そのような場所にこそ、
人が真に学び、 成長する意味と証が
そこにはあるのだと思います。
自分の学びへの「投資」は、
きっと「自己成長」という形で、
未来の自分に
素晴らしいリターンをもたらしてくれるでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「氣」を抜くな! 昇級審査後が本番だ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】次候
七十二候
第二十九候 菖蒲華【あやめはなさく】
「夏至」は次候へと移りました。「菖蒲華」は6月26日~30日ころにあたります。
あやめの花が咲き始める時期を指します。
初夏に紫や白の花を咲かせ、初夏の訪れを告げる象徴ですね。
今日の道場長の一日一心
『 「き」を ぬく な! しょうきゅう しんさ ご が ほんばん だ 』
"「過程」の大切さ "
昨日、六月二十九日、
合氣道琴心館寺崎道場では
令和七年 前期 昇級審査が執り行われました。
子どもクラスから大人クラスまで、
全ての受験者が
日頃の稽古の成果を存分に発揮し、
審査基準の技を懸命にこなす姿は、
まさに、各々の普段の稽古の
" そのもの " と言えるものでした。
" そのもの " とは
言い換えると、" 集大成 " ということです。
" 合氣道琴心館寺崎道場の「黄金世代」が牽引する新たな成長 "
特にこの二、三年、
中学生から高校生にかけての門人の
著しい 「進歩」には目を見張るものがあります。
彼らは今回の昇級審査でも
その成長ぶりを遺憾なく発揮し、
まさに道場の「黄金世代」と呼ぶに
ふさわしい存在感を放っていました。
彼らのひたむきな努力と確かな成長は、
きっと小学生の門人にとって
大きな目標となり、
次世代の成長を牽引してくれるものと確信しています。
" 審査の合否を決める基準、そして最も大切にすること "
私が主宰する合氣道琴心館寺崎道場では、
年に二回の昇級審査と
年に一回の昇段審査を実施しています。
審査は目視とビデオの両方で
厳正に合否を判断しますが、
もちろん、審査における
立ち居振る舞い、礼、技、
間合い、氣、姿勢といった要素が
合否を左右する
重要なポイントであることは言うまでもありません。
しかし、
私がこれらの基準以上に最も重要視しているのは、
その審査に至るまでの「過程」です。
受験を決意してから数ヶ月間、
受験者各々が
どのような思いで稽古に励んだのか。
この一点こそが、
昇級、昇段、また技術の習得以上に
価値のあるものだと私は考えています。
" 合格の先にある「本当の差」"
休まず稽古に通い、審査基準となる技を
一度でも多く稽古した者と、
そうでない者とでは、
たとえ同じ
「合格」という結果を得たとしても、
その先に必ず「大きな差」が生まれます。
それは、
単なる技の習熟度だけでなく、
合氣道を通じて培われる
「精神力」や「忍耐力」、
そして目標に向かって
「努力」する姿勢といった、
目には見えないけれど
確かな「成長」となって表れるからです。
" 昇級審査後こそ問われる「心の姿勢」"
そして、
昇級審査が終わった「今日から」の
心の姿勢こそが非常に重要です。
審査日までは高い「氣」を持って
稽古に打ち込んでいたにもかかわらず、
昇級審査が終わった途端に
「氣」が抜けて稽古を休みがちになったり、
集中力が欠けたりする
門人も残念ながら " 必ず " 存在します。
これでは、
これまで積み重ねてきた努力が
" 水泡に帰して " しまうことにもなりかねません。
合氣道は、
一時的な成果を追い求めるものではなく、
日々の稽古を通して自分自身と向き合い、
心身を鍛錬し続ける「道」です。
審査はあくまで通過点であり、
真の成長は、
その後の「弛まぬ努力」と
「研鑽 (けんさん) 」によってこそ
築かれるものです。
今後も
合氣道琴心館寺崎道場は、
門人一人ひとりが「過程」を大切にし、
常に前向きな「心の姿勢」で稽古に励めるよう、
全力で指導してまいりまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝