" 難技『二人掛け』に見る、「個」と「和」の中心軸 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 なんぎ『ににんがけ』に み る、「こ」と「わ」の ちゅうしん じく 』
先日の
大人クラスの稽古では、
「二人掛け(ににんがけ)」という
技を稽古しました。
合氣道をされていない方に
分かりやすく言えば、
これは、
投げの右手首を
一人が両手で持ち、
左手首を
もう一人が両手で持つ
という状況から始まります。
「両手を封じられた状態で、二人同時に投げる」
という、非常に難易度の高い技です。
当然ながら、
力任せに投げようとしても相手は二人。
ビクともしません。
お弟子さんたちも、
二人の氣と、重さと、力に
相当苦労されているようでした。
この技を
スムーズに行うための重要なポイントは、
「受けの二人を常に引っ付けておくこと」です。
二人が離れてしまっては力が分散し、
到底投げることはできません。
「二人を一つの塊のように扱う必要があります」。
師範として指導の場に立つ時、
私はいつも感じることがあります。
それは、
「合氣道の技は、人間関係や生き方そのものである」
ということです。
この二人掛けの極意もまた、
そのまま人生の教訓に通じます。
まず第一に、「姿勢」です。
相手を動かそうとする前に、
まず自分の姿勢が整っていること。
これは生き方において、
ブレない確固たる
信念を持つことに他なりません。
第二に、「結び」です。
相手と離れていては技は掛かりません。
相手を拒絶するのではなく、
思いやりと愛情を持って寄り添うこと。
その心の「結び」があって初めて、
人は動いてくれるのです。
そして最後に、
最も大切なのが「中心(バランス)」です。
二人掛けでは、
左右に相手がいます。
どちらか一方に
意識や力が偏れば、
もう片方を制御できなくなり、
技は成立しません。
つまり、
片方は投げることができても、
もう片方を投げることはできません。
これを
人生に置き換えて考えてみましょう。
右手が「内なる守り」
" 自分や子ども、家庭 " であるならば、
左手は「外への働き」
" 仕事、社会貢献、親や恩人のため " と
考えることができます。
自分や家族のことばかり
(右)に偏れば、
社会との調和を失います。
一方で、
外の仕事や社会のこと
(左)ばかりに氣を取られれば、
自分自身や家族がおろそかになってしまいます。
右にも左にも傾かない。
自分の信念は絶対にブレず、
他者も生かす。
どちらにも傾かない、
この絶妙なバランスを保つことこそが、
「中心の道」なのです。
「二人掛け」という
二人を同時に導くこの難技を通して、
私たちが歩むべき道は
偏りのない、調和の取れた
「天地のど真ん中」であることを学びました。
そして、
お弟子さんを指導する
私もまた、己のバランスを問い直す
貴重な一日となりました。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 相手が「天」なら、どうしますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 あいて が「てん」なら、どう します か? 』
私は
二ヶ月に一度、寄席に足を運びます。
高座(こうざ)に上がる
噺家(はなしか)の芸を見て笑うため?
もちろん、それもあります。
しかし、
真の目的は別にあります。
それは「学び」です。
不肖私は
合氣道琴心館寺崎道場の師範として、
僭越ながら、
日々お弟子さんの前に
立たせていただいています。
そこで指導にあたるのは
技の理合いだけではありません。
日本人としての在り方、
所作、心の持ちよう、生きる哲学。
それらを指導する際、
いかにして相手の心に言葉を届けるか。
噺家の立ち居振る舞い、
話の間合い、強弱、抑揚、そして表情。
高座という
結界の中から、全身全霊で放たれる「氣」。
それを浴び、
自らの糧とするために、私は寄席に通うのです。
ある夏の日の寄席で、
ある噺家のネタが、
人生の極意のように私の胸に刺さりました。
それは、
短氣な男を諭す、こんな一節でした。
あるところに、
ひどく短氣な男がいました。
氣に食わないことがあれば
すぐに怒鳴り、手が出る。
ある日、
丁稚が軒先で打ち水をしていたところ、
その水が
男の着物の裾にかかってしまった。
「どこに目をつけているんだ!」と、
男はまた烈火のごとく怒り、
丁稚を殴ろうとします。
そんな男に、ある人がこう諭しました。
「お前さん、道を歩いていて、屋根から瓦が落ちてきて頭に当たったらどうする?」
「そりゃあ、その家の主に文句を言って、殴り込んでやるさ」
「じゃあ、そこが空き家だったら?」
「持ち主を探し出して、やっぱり怒鳴り込んでやる」
「なるほど。じゃあな、木も一本も生えていない、見渡す限りの " ひろ〜い野原 " にいたとしてだ。
そこで突然、大雨が降ってきたらどうする? お前さんは、空に向かって喧嘩を売るのか?」
男は少し考えて答えました。
「……いや、そんな馬鹿なことはしねぇよ」
「なぜだ?」
「相手が『天』なら、仕方がない。あきらめるさ」
「そうだろう。なら、道行く人と肩がぶつかっても、水をかけられても、
それを『人』がやったと思わず、『天』がやったことだと思えばいい。
天がやったことなら、どうする?」
「……あきらめる」
この話を
聞いた時、私は膝を打つ思いでした。
ここで言う
「あきらめる」とは、
決して敗北や放棄を
意味するものではないと、私は思うのです。
「諦める(あきらめる)」の語源は、
「明らめる(あきらめる)」。
つまり、
物事の道理を明らかにし、
事実をありのままに受け入れる
という意味があります。
広野で雨に降られた時、
空に向かって
拳を突き上げても雨は止みません。
濡れるという事実があるだけです。
そこで怒り狂うのは、
己の「氣」を無駄に浪費するだけのこと。
合氣道も人生も同じです。
相手が掛かってきた時、
それを「敵」だと思い、
力でねじ伏せようとすれば
そこに衝突が生まれます。
しかし、
相手の力を、
雨や風のような「自然現象(天の働き)」として
捉えたらどうでしょうか。
雨が降れば
傘をさすように、
風が吹けば
柳がなびくように。
相手を「人」だと思うから、
自我(エゴ)がぶつかり合うのです。
相手が「天」だと思えば、
そこに争いは生まれません。
ただ、
あるがままを受け入れ、流すことができる。
「天が相手ならあきらめる」
腹が立つことがあった時、
理不尽な目に遭った時、
ふと空を見上げ
これは天の仕業なんだ。
そう腹をくくった瞬間、
私たちの心から無駄な力みが消え、
本当の意味での
「最強の自然体」になれるのかもしれませぬ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 美しい感情、美しい佇まい、美しい人 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】初候
七十二候
第六十一候 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)
12月7日~10日ごろ。
重たい灰色の雲が空を覆い尽くし、天と地が塞がれたように真冬が訪れるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 うつくし い かんじょう、うつく しい たたずまい、うつくし い ひと 』
今日のキーワードは
" 佇まい (たたずまい) " です。
「美しい佇まい」とは、
人や建物などが
静止している時の姿や様子が、
見た目の美しさだけでなく、
内面からにじみ出る
品格・調和・落ち着き・趣(おもむき)
といった要素を含めて、
全体的に魅力的で
心惹かれる状態を指します。
単なる外見の
綺麗さ(麗しさ)だけでなく、
その背景にある
設計思想、素材の質、周囲との調和、
さらには人の場合は
立ち振る舞いや内面性まで含んだ、
深みのある美しさを表す言葉ですね。
道場でお弟子さんたちと稽古をし、
また日常で多くの人と接する中で、
ふと感じることがあります。
ただ
その人の隣に座っているだけで、
言葉を交わさずとも、
何とも言えない心地よさや、
陽だまりのような
温かさを感じることがあるのです。
まるで、
その場の空氣が
柔らかく澄んでいくような感覚。
そういう「氣」を
自然と発することができる人は、
個性が輝き、
感情の美しい人なのだと思います。
内面の静けさと豊かさが、
そのまま外へと滲み出ているのでしょう。
一方で、
なぜか心がざわつく、
なんとなく
居心地が悪いと感じさせる空氣もあります。
それは往々にして、
心に余裕がなく、
自分本位な感情が
渦巻いている時に生じる
「不協和音」のようなものかもしれません。
ありのままに表現すると、
わがまま、傲慢、自分勝手、あつかましい、
周りの空氣が読めない、ふてぶてしい。
そのような人であります。
合氣道の技で言うところの、
相手とぶつかってしまっている状態です。
私たち
合氣道を学ぶ者が目指すべきは、
強さだけではありません。
技の稽古を通じて
自身の角を取り、心を丸く磨いていくこと。
「あの人のそばにいると、なぜか元氣が湧いてくる」
「あの人がいるだけで、場が和む」
そんな、
美しい感情を周囲に灯せる人間に、
私はなりたい。
美しい感情、美しい佇まい、
美しい人でありたい。
そして、
そんな人を友に持ち、
互いにそうありたいと願う
友垣(ともがき)と、
この先も
歩んでいきたいと切に願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 【師範の視点】 道場長は見抜いている。稽古後の「その一言」で変わる若者たちの未来 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】初候
七十二候
第六十一候 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)
12月7日~10日ごろ。
重たい灰色の雲が空を覆い尽くし、天と地が塞がれたように真冬が訪れるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 【しはん の してん】 どうじょう ちょう は みぬ い て いる。けいこ ご の「その ひとこと」で かわ る わかもの たち の みらい 』
" 何にでも興味を持つことが、人生の「深み」をつくる "
今年も
残りわずかとなりましたが、
合氣道琴心館寺崎道場の
全ての道場、教室を見渡すと、
20代、30代の若者たちや
中学生、高校生たちの
目覚ましい成長に驚かされます。
日々、
この日本男子、
日本女子らと共に汗を流し、
そのひたむきな姿を見ることは、
師範として何よりの喜びであり、
誇りでもあります。
技のキレ、体捌き、呼吸……。
しかし、
私がもっとも注目しているのは、
実は「稽古以外の時間」にあります。
多くの若者を見ていて、
はっきりと
二つのタイプに
分かれることに氣づかされます。
一つは、
「自分の興味があることだけを学ぼうとする人」。
もう一つは、
「何にでも興味を持ち、深く学ぼうとする人」です。
これは何も
若者だけに限ったことではありません。
何歳になっても同じことです。
道場に通う人たちの
誰がどちらのタイプか、私にはすぐに分かります。
それは、
道場での私の話、
いわゆる
話を聞く時の
「態度」と「眼差し」に出るからです。
前者のタイプは、
自分が関心のない話題になると、
フッと視線が下がります。
あるいは目は開いていても、
焦点が合っていない。
「心ここに在らず」の状態です。
自分のフィルターにかからない情報は、
無意識に遮断してしまっているのでしょう。
一方で、
後者のタイプは違います。
どんな話題であっても、
私の目を真っ直ぐに見つめ、
一言一句を
吸収しようとする氣迫があります。
そして
何よりの違いは、
稽古が終わった後の行動です。
「先生、さっきの話ですが、もう少し詳しく教えてください」
「もっとそのことを知りたいです」
「私もそこへ行きたいです」
そうやって、
貪欲に食らいついてくるのです。
合氣道の技だけでなく、
一見関係なさそうな
世間話や旅先の話
また、哲学的な話であっても、
そこに
学びの種を見つけようとする姿勢。
私は確信しています。
何にでも興味を持ち、
そこから何かを掴み取ろうとする
後者のような人こそが、
圧倒的に
「人間に深みがある人」へと育っていくのだと。
「好き嫌い」で情報を選り好みせず、
森羅万象に師を求める。
その好奇心こそが、
やがて大きな知恵となり、
その人の
人生を豊かに支える土台となります。
伸びゆく若者たちには、
技を磨くと同時に、
その「心の眼」も
大いに養ってほしいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 冬の静寂(しじま)、針供養の日に想う「道具への愛」 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】初候
七十二候
第六十一候 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)
12月7日~10日ごろ。
重たい灰色の雲が空を覆い尽くし、天と地が塞がれたように真冬が訪れるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ふゆ の しじま、はりくよう の ひ に おも う「どうぐ へ の あい」 』
暦の上では、
二十四節氣の大雪(たいせつ)、
その初候である
「閉塞成冬(そらさむく ふゆとなる)」に入りました。
空は重たい雲に覆われ、
真冬の氣が天と地を塞ぐころ。
" 冬の静寂の中で「氣」を練る "
動物たちが
冬眠で命を守るように、
私たちもまた、
自身の中心である
「臍下の一点」に心を静め、
春の芽吹きに向けて力を蓄える、
そんな時期でもあるのかもしれませんね。
寒さで身体が縮こまる時こそ
氣を出して、
無理に動くのではなく、
静かに呼吸法で内側から熱を作る。
派手な技の稽古よりも、
基本動作や呼吸法を見直すのに、
適した季節でもあります。
そして本日、
12月8日は「針供養」の日です。
( 関東では2月8日に行うところもあるようです )
折れたり曲がったりした針を、
豆腐やこんにゃくといった
柔らかいものに刺して供養し、神社に納めます。
硬い布地と格闘し、
働き続けた針を、
最後は柔らかい場所で休ませてやる。
これは、
合氣道を学ぶ
私たちの心にも通じる氣がしてなりません。
道場、教室、
稽古着や帯、袴や足袋、
木剣、短刀、杖など。
己の身を守り、
高めてくれる道具に対し、
「お疲れ様、いつもありがとう」と
労う心を持つこと。
それは、
技の稽古で
相手を尊重する「礼」の精神と同じです。
" 道具を愛で、己を磨く "
使い古した道具には、
使い手の魂が宿ると言われます。
針一本、
木剣一本、
そして道場の雑巾一枚に至るまで。
物言わぬ道具たちへの
感謝を忘れた時、
私たちの技は荒れ、心は乱れます。
寒さが厳しくなるこれからの季節。
自分の身の回りの
小さな道具たちに思いを馳せてみましょう。
そして道場では、
寒さに負けぬ
熱い「氣」で、共に汗を流しましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝