" 稽古は人生にあり、心を乱す相手との「間合い」の取り方、その一 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】初候
七十二候
第五十二候 霜始降花(しもはじめてふる)
10月23日~10月27日頃。
だんだんと北国や山間部で霜が降り始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 けいこ は じんせい に あり、こころ を みだ す あいて と の「まあい」の とり かた、その いち 』
" 合氣道で培った智慧を人生最大の稽古場(人間関係)で活かす "
合氣道師範である
私の信念は、
「道場での稽古」と
「人生での立ち居振る舞い」は
不可分であるということです。
合氣道の技を磨くことは、
すなわち人生を
より良く生きるための
「心のあり方」を練ること。
そして、
その核心にあるのが
「間合い(まあい)」の取り方です。
道場を一歩出た
「人間関係」という
人生最大の稽古場においても、
この「間合い」の取り方を
間違えれば、
私たちの心は
疲弊し、
最悪の場合は、
心身を痛めるトラブルに
巻き込まれてしまうことがあります。
そして、私は
心が乱れている人が発する
「不吉な無言のサイン」を
感じ取るようになり、
その後の展開は、
ほぼ私の予感通りとなります。
" 心が乱れた人が発する「不吉な無言のサイン」"
長年、
多くのお弟子さんや
人々と接する中で、
私は無意識のうちに
自然と「人間観察」という智慧を
養ってきました。
心に何か
強い「わだかまり」を持った人には、
たとえ道場以外、
道端で会ったとしても、
また、
実際に会わなくても
LINEやメールの文面からも
私は非常に強い違和感を感じます。
それは、
心が澄んでいる人とは
明らかに違う
ありのままに申して、
とても氣持ち悪い
「不吉な無言のサイン」なのです。
私は、
「心の乱れは、必ず身体や表情、特に視線に表れる」
と確信しています。
私が感じ取る
数あるサインのうち、
今日は二つを取り上げ、
私なりのその
「間合いの心得」をお話します。
一つ、
心の和合を拒む「否定から入る人」
このタイプは、
対話を「協力」ではなく
「勝ち負けの戦い」と捉えています。
彼らにとって、
相手の言葉は
受け入れるべき情報ではなく、
打ち負かすべき「敵」の攻撃なのです。
その動作や顔の表れには
「怒りに満ちた目」を感じます。
自分の意見が通らない時や、
相手を言い負かした瞬間に、
目が猛禽類のように
鋭く光るのが特徴です。
その目の奥には、
常に戦いを求める苛立ちが
宿っているのです。
相手の言葉を
理解しようとする前に、
「いや、それは違う」
「でも、現実は」と
否定から入るのが常です。
常に相手の提案の「粗探し」をし、
マウントを取ることで
自己を保とうとします。
常に戦いを求め、
和合を拒む相手と深く関わることは、
自分自身の平穏を
奪われることに他なりません。
彼らと戦う必要はありません。
自分の「中心」を崩さぬよう、
静かに距離を置くのが
賢明であると私は思います。
こういう心の持ち主に
育てられた子どもは
一体、
どんな大人に
育っていくのでしょうか?
つい最近も、
そのような人は
ご自分のご意思で
退会なされました。
そのご意思を尊重して、
私はお天道さまの良き計らいに
感謝しています。
二つ、
不誠実さを隠す「核心で泳ぐ視線の人」
視線は言葉よりも雄弁に、
その人の本質、心の度合いを語ります。
動作・顔の表れには
核心での「視線回避」があります。
真実や重要な約束事、
あるいは自身にとって
不利な事実など、
「核心」に触れる瞬間に、
視線が定まらずに泳ぐ、
あるいは
露骨に目を逸らします。
視線が定まらないのは、
心に「後ろめたさ」や
「隠し事」がある動かぬ証拠です。
口では流暢な言葉を並べても、
また、張り子の虎のように
「うんうん」と頷いていても、
視線は言葉の裏にある
「不誠実さ」や「嘘」を物語っています。
相手を
欺(あざむ)こうとする心は、
自身の「氣」を停滞させ、
それが視線の動きとして現れます。
誠実な「氣」を
持たない相手とは、
深い信頼関係を築くことは不可能です。
どれほど良い条件や
口上があっても、
この「視線」という
非言語サインを私は唯一信用します。
言葉の表面に惑わされず、
自分の心のセンサーを最優先することです。
" 究極の自己防衛と危機管理 "
私は、
自分の心が「違和感」を覚えたら、
それは天地から与えられた
「最高の智慧」という
心のセンサーであると信じています。
相手の「乱れ」に引きずられ、
その氣の渦に巻き込まれてはなりません。
常に、
自分の中心「臍下の一点」を
崩さぬよう、
心身統一を保つことが大切です。
そして、
違和感を感じたら、
適切な「間合い」を取ること。
これが、
人間関係のトラブルを
未然に防ぐ
「究極の自己防衛術」であり
「危機管理能力」です。
" 普段の何氣ない会話にこそ、その人の心の闇が顕著に表れる "
道場での何氣ない会話や、
街でたまたま出会った際の
「こんにちは」の挨拶にも、
私は、
その智慧という
センサーは弛まず働かせます。
そして、
度重なるように
とても氣持ち悪い
「不吉な無言のサイン」
を感じ取った人とは、
「今はその人とは接するべきではない」と判断し、
その相手と間合いをとった後の
「人間関係」、
「お付き合い」は、
ことさら意図的な行動は起こしません。
全てを
天地大自然の
良き計らいにお任せするのみです。
ご縁が「繋がる」も「切れる」も
私はお天道さま任せです。
最後までお読みいただき、ありがとうございますございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 今日できることは今日やる。明日もできる保証はない。 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】初候
七十二候
第五十二候 霜始降花(しもはじめてふる)
10月23日~10月27日頃。
だんだんと北国や山間部で霜が降り始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 きょう でき る こと は きょう や る。あす も でき る ほしょう は な い。 』
野球界の偉人、
長嶋茂雄氏は生前、
現役時代に
ヘルメットが飛ぶほどの
フルスイングで三振した理由を問われ、
こうお答えになったそうです。
「 球場に何万人もの
お客さんが観戦する中で、
一生に一回しか
見に来ない人もいる。
その人の前で、
元氣のない長嶋を見せたくない。
人間、
好調の時ばかりじゃなくて、
不調の時だってあるでしょう。
ダメならダメなりに、
長嶋は打てなかったけど、
一所懸命やっていたと
思って帰ってもらいたいから、
たとえ当たらなくても
思いっ切り振る。
そうすると、
偶然当たったりするんだよ 」
私は
この言葉に深く感銘しました。
プロとしての
あり方の教訓ではないでしょうか。
僭越にならぬよう
申し上げなければなりません。
それを承知の上で、
私もプロの合氣道師範として、
これまで
数えきれないほどの稽古を重ね、
お弟子さんの指導にあたるため
道場に立ち続けてきましたが、
その中で
「今日できることは今日しかできない。明日もできる保証はない。」
という思いで、
私は常に道場に立っています。
特に年齢を重ねてからは、
体力の衰えも感じますし、
身体が昔のように
思うように動かないこともあります。
また、
身近な人が天へ旅立つ経験もしています。
だからこそ、
「この稽古が、また、この指導が私にとって最後の稽古かもしれない」
という覚悟で、
恥ずかしくないよう、
出し惜しみせず、
全身全霊で
合氣道の道を歩んでまいりました。
これからも、
この姿勢を貫いていきます。
この長嶋氏の言葉は、
私たち合氣道指導者、
また、
学ぶ者にとっても、
非常に重要な教えを含んでいます。
合氣道の稽古は、
まさに「一期一会」です。
その日、その日の稽古に、
全身全霊を込めて臨むこと。
たとえ体調が優れなくても、
悲しいことがあったとしても、
技が思うようにいかなくても、
その瞬間にできる
精一杯を出し切ること。
それが、
自身の成長に繋がり、
そして、
ともに汗を流す
道友への範ともなります。
長嶋氏の言葉にある
「元氣のない長嶋を見せたくない」
というプロ意識は、
道場に立つ師範として、
また稽古に励むお弟子さんにも
通じるのではないでしょうか。
合氣道琴心館寺崎道場に
来てくださる全てのお弟子さん方、
そして、
ともに合氣道を追求する
先輩、後輩、道友たちに、
常に最高に氣が出た自分で接したい。
僭越ながら、
不肖私、その一心で、
日々精進を重ねてまいります。
「惜しまず、出し切る、絞りきる」
それは、
合氣道の「残心」の
精神にも深く繋がります。
技が終わった後も、
心と身体の集中を保ち、
「臍下の一点」を失うことなく
その相手に氣を送り、
次の動きに備える。
それは、
その瞬間、瞬間に
全力を尽くし、
一切の出し惜しみを
しないことの表れです。
人生においても、
仕事においても、
そして
合氣道の稽古においても、
私たちは
「今日」という
一度きりの時間を生きています。
明日、何が起こるか
分からないからこそ、
今この瞬間に全力を尽くす。
後悔のないよう、
出し惜しみせず、
一所懸命に生きる。
長嶋氏の言葉が教えてくれる
「惜しむな、出し切れ」の
精神を胸に、
私もまた、
道場長として、
そして一人の人間として、
「一日を精いっぱいやり切る」の
精神で
日々、
歩んでいきたいと思います。
今日という日を大切に、
精一杯生きていきましょう。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長;拝
" 一つを励み、究めれば、すべてが変わる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】初候
七十二候
第五十二候 霜始降花(しもはじめてふる)
10月23日~10月27日頃。
だんだんと北国や山間部で霜が降り始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ひとつ を はげ み、きわめ れ ば、すべて が かわ る 』
「あれも覚えなさい。この技も間違わずにやりなさい。」
指導者育成はそうであっても、
一般のお弟子さんに、
私がそう指導したら、
「そんなにたくさんできません」と
諦めてしまう人や、
やるにはやるけれども、
どれも中途半端に終わってしまう人も
いると思います。
合氣道の稽古においても、
人生の学びにおいても、
この
「すべてやろうとして、何も身につかない」
という現象は
往々にして起こります。
私は、
長年の師範としての経験から、
そして自身の継続的な実践から、
この問題に対する
明確な答えを見つけました。
それは、
「一つを励み究めれば、すべてが変わる」
という真理です。
" 一点を深掘りすることの驚くべき効果 "
あれもこれもしようとして、
どれも中途半端に終わるくらいなら
「これならやれる」
「これをとことんやってやろう」
というものを一つ選んで、
それを徹底して
やり込むように
お弟子さんに指導します。
但し、
それは一般のお弟子さんに対する
指導方です。
一方で、
指導者育成は
あらゆる分野を同時進行で
一つも抜けることなく
奥深く追求し、
自分のものになるよう
稽古を続けます。
ここに
一般のお弟子さん向けの稽古と
指導者育成稽古の
大きな違いがあるのです。
話を元に戻します。
「この技だけは誰にも負けない」と
心から思えるくらい、
一つの技を深掘りしてみる。
それを実践し続ける。
不思議なことに、
この「一点集中」を
徹底してやるうちに、
次のような変化が
起こり始めるのです。
一つ、集中の深化
選んだ一つを深く追求する過程で、
真の集中力が養われます。
二つ、学びのコツの体得
その分野における本質や、
効率的な上達の
「型」が自然と身につきます。
三つ、自信の確立
「一つを究めた」という
揺るぎない自信が、
他のすべてへの挑戦の土台になります。
やがて、
その深掘りした
学びのコツが横展開され、
以前は難易度が高すぎると
感じていた他の技まで、
驚くほどスムーズに
できるようになるのです。
学びの本質を知り、
自信がついたからこそ、
次の新たな挑戦が可能になるのです。
" 継続が人生を豊かにする "
私自身の人生もまた、
「一点集中」
によって劇的に変化しました。
今から二年半ほど前、
私は「道場長の一日一心」という
このブログの制作を始めました。
月曜から金曜の平日、
午前三時から一日も欠かさず、
書き続けています。
朝三時に起きて書き始め、
ひたすら推敲に推敲を重ね、
その日の「一心」を文章にする。
また、
合氣道琴心館寺崎道場の会員向けに
毎月、会報誌
「ぼくらの合氣道」を発行しています。
どちらも
決して、簡単な作業ではありません。
手を抜くこともいたしませぬ。
全身全霊でその文章に
魂を注ぎ込みます。
毎日の睡眠は四時間弱、
当然、命が削られます。
しかし、
心は晴れ晴れとするのです。
そして、
この道場長ブログと会報誌を
継続するうちに、
私自身の人生が
大きく変わってきたと実感しています。
特に大きいのは
「氣づく力」が育てられたことです。
毎日の題材探しをするうち、
「今日は何を書こうか」と
意識を研ぎ澄まし、
日常のささいな出来事や
稽古の一瞬一瞬を
深く見つめる習慣がつきました。
その結果、
「氣づく力」が育ち、
見るもの聞くこと
すべてが興味深くなりました。
人生とは、
「氣づき」の連続です。
その「氣づき」が増えるほど、
人生は豊かで楽しくなる。
これは、
一つのことを徹底して
継続したからこそ得られた、
天地からの最大の恩恵です。
合氣道の稽古であれ、
仕事であれ、趣味であれ、
「あれもこれもしなきゃ」と
焦る必要はないと思います。
まずは、
心から「これだ」と思える
一つを見つけ、
それを
誰にも負けないくらい
徹底的にやり込んでみてください。
その一つを究めることこそが、
自身の人生すべてを、
想像もしなかった
豊かなものへと
変えていく鍵となるのですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「安定」は成長の敵 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
寒露【かんろ】末候
七十二候
第五十一候 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)
10月18日~10月22日頃。
秋の虫たちが戸口で鳴きはじめる頃。
キリギリスは、昔はコオロギのことを指していたそうです。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 " あんてい " は せいちょう の てき 』
これは、
私自身のこれまでの人生と
合氣道の修行を通じて、
そして、
道場長として多くの人を見てきて、
確信していることです。
私たちは、
つい「安定」を求めがちです。
但し、
ここで言う「安定」とは、
心身の落ち着きや、
盤石な姿勢といったものではありません。
ここで言う「安定」とは、
たとえば、
安定した生活、安定した収入、
安定した関係などを指します。
こと
自己成長と人生の充実に限っては、
この「安定」は、
最も警戒すべき状態なのです。
" 合氣道の「居着き」が示すもの "
合氣道の稽古で、
「居着く」という言葉があります。
これは、
相手の動きや状況に
思考や身体がとらわれ、
心がそこに「執着」して、
一瞬でも動きが止まってしまうこと。
居着いた瞬間、
その者は相手の攻撃を受け、
技は決まりません。
人生も同じです。
「もう大丈夫」
「これで十分」と現状に満足し、
精神が居着いた状態こそが、
この「安定」の正体です。
居着いた心は、
新しい挑戦や学びを拒否します。
「面倒だ」
「リスクがある」と変化を恐れ、
成長を止めてしまう。
成長が止まった人間は、
時代の変化という名の攻撃に、
抵抗できなくなってしまいます。
それは、
生きているのに、
精神的には死んでいる状態。
これこそが
人生の「負け」であると、
私は思います。
では、
どうすれば
「負け」から逃れられるのか?
それは、
意識的に自分を「不安定」な
状態に置き続けることです。
" 新しい技術や知識への挑戦 "
稽古のたびに
「一つでも新しい発見をする」
たとえば、
あえて不慣れな動きや、
自分が苦手な相手と組む。
私なら
「この指導法は最適か?」
「道場運営はこれで良いか?」と、
毎日、
自分のやり方に疑いの目を向け、
改善点を探します。
" 読書と学びの継続 "
「安定」した
思考を打ち破るため、
常に異分野の知恵を取り込み、
視野を広げます。
新たなことや
未経験の分野に
一歩踏み出すたびに、
時に心はざわつき、
失敗を恐れることもあります。
しかし、
この「不安定」な状態こそが、
精神を研ぎ澄まし、
真の「安定」
(どんな変化にも対応できる能力)を
生む源となるのです。
道場長として、
お弟子さんのみなさんに
伝えたいことは、
人生の「安定」は、
心地良いぬるま湯で
居心地が良いかもしれません。
しかし、
そのぬるま湯は、
あなたの活力をゆっくりと奪い、
やがてあなたを「居着かせ」ます。
本当に
心が強くなりたいのなら、
意図的に
不安定な場所へ踏み出しましょう。
日常の生活において、
たとえば、
今まで
話さなかった人に声をかけてみたり、
仕事で
一歩先の役割を引き受けたり。
その一歩一歩が、
自分自身を「居着き」から解放し、
人生という名の試合に
勝ち続ける力となるはずです。
さあ、
今日から
「安定」を打ち破る挑戦を
ともにしてまいりましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 戦没者を追悼する日にたまたま出会った、心を「洗う」坂。九段「一口坂」編 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
寒露【かんろ】末候
七十二候
第五十一候 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)
10月18日~10月22日頃。
秋の虫たちが戸口で鳴きはじめる頃。
キリギリスは、昔はコオロギのことを指していたそうです。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 せんぼつしゃ を ついとう する ひ に たまたま であっ た、こころ を「あら う」さか。くだん " いもあらいざか " へん 』
" 8月15日、「一口坂」との邂逅 (かいこう) 。
喧騒から静寂へ、平和を想う "
今年の8月15日は、
私にとって
例年とは違う、
非常に記憶に残る一日となりました。
8月1日から
約3週間にわたって行われた、
東京での夏期集中稽古期間において
唯一の休日であった
令和7年8月15日。
その日の午前中、
私は防衛省の市ヶ谷地区見学ツアーに
参加しました。
そして、
その後に向かったのは、
かねてより心に決めていた場所、
千鳥ヶ淵戦没者墓苑でした。
JR市ヶ谷駅から
靖国通りを歩き始めたその時、
私は言葉を失いました。
前日の8月14日に
先の大戦で尊い命を捧げられた
英霊の御霊に、
心から感謝を捧げるため
参拝した靖国神社の近くで、
警察による厳戒態勢の中、
反天皇や打倒靖国神社を
掲げるデモ隊と、
そのデモを阻止しようとする
政治団体が入り乱れ、
靖国通りは物々しいほどの
騒然とした
雰囲氣に包まれていたのです。
人々の熱氣と
怒号が飛び交う中、
私は
その騒音を避けるように、
無意識のうちに
一本の路地へと足を踏み入れました。
すると、
目の前に現れたのは、
嘘のように静かで、
時間の流れから切り離されたような、
静寂に包まれた
風情ある坂道でした。
その坂こそ、「一口坂」です。
" ひとくちざか " と呼ばれ、
本来は " いもあらいざか " が
正しいとされているそうです。
この坂は、
靖国通りから
九段北3丁目と4丁目の間を
新見附へと下る歴史ある道でした。
しかし、
なぜ、
その名は「一口坂」と書いて
" いもあらいざか " と読むのでしょうか。
「いも」とは、
かつて恐ろしい病であった
疱瘡(天然痘)のことで、
「いもあらい」とは
「疱瘡を洗う(癒す)」という
意味が込められていたそうです。
デモ隊の喧騒から
逃れるように迷い込んだ路地で、
たまたま出会ったこの坂。
まるで
「争いを鎮め、和をもたらす道」へと
導かれたかのような、
不思議な感覚に包まれました。
たまたまにしては
あまりに出来すぎた、
この「一口坂」との出会いは、
私に改めて、
合氣道の精神、
そして「和」の尊さを
深く問いかける出来事となりました。
この坂が
私の心を平穏にしてくれた
おかげで、
私は
千鳥ヶ淵戦没者墓苑へと
再び向かうことができました。
靖国神社への参拝と同様に、
まだ見ぬ私たちのために
命を捧げてくださった英霊に、
心からの感謝を捧げることができたのです。
平和を願う日に
同じ日本人としての歴史認識の違い、
学校教育の偏り、
オールドメディアの偏向報道、
それらを解決させる、
その道のりは
決して平坦ではないことを
痛感した一方、
一本の路地が持つ
静かなる歴史が、
私たちの心に
そっと安らぎをもたらしてくれます。
令和7年8月15日
終戦から80年目の
「戦没者を追悼し平和を祈念する日」
こんな日くらいは
全国民が英霊に感謝し、
心静かに手を合わせる。
日本に
そんな日がくることを心から願っている。
「平和」とは、なんなのでしょうか?
私たちの
江戸時代から続く由緒ある坂道巡りは
まだまだ続きます。
過去の坂巡りのエントリーはコチラから
↓↓↓
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝