絶対的な強さは、自分自身の根幹にあり
ここに記す絶対的な強さとは、肉体のことではなく、根幹とは身体の体幹ではありません。
身体を鍛え、体幹を鍛え、身体を強くすることは、生活する上で、とても大切なことです。
還暦になった私が、日々元氣に過ごさせていただけるのも合氣道の稽古の賜です。
日々、合氣道と呼吸法に関わってくださる全ての方々に、あらん限りの感謝を申し上げます。
このブログのタイトルにある絶対的な強さとは、弱い者より強い、また他人と比べて強いとかではありません。
そういった相対的な強さではなく、絶対的な強さのことであります。
絶対的な強さとは、自分自身のことであり、根幹とは、ねもと、中心となるものであり、心の根っこのことであります。心の中心にある信念です。
ブレない信念です。
一定に定まらなかったり、ブレが生じたり、揺れ動いたり、人の意見に惑わされたり、安定しないものは、そもそも信念ではございません。
中国古典の一つ菜根譚(さいこんたん)「69.幸せをもたらすには」の一部に「頑固で融通のきかないのは濁り水や朽木のようなもの、いきいきした活気を失っている。こんな人たちはみな、成功も幸せもかちとることができない」(新釈 菜根譚 守屋 洋 1982,P72)とあります。
心が強く、絶対的な信念がある人は、人の意見を尊重し、人の意見に耳を傾け、自分が間違っていると思ったら、即座に改善し、考えを変えられることが出来ます。
反対に心が弱く、絶対的な信念がない人ほど、頑固で融通がきかないのではないでしょうか?
自分自身に自信がない証拠です。
絶対的な信念とは、「私達が生きている大自然の法則に則って、その道理、理屈が100%かなっている」ことです。
それを"理にかなう"といいます。
それが自分自身の根っこにあるのであるから、ブレようがありません。
自分自身の奥深くに、しっかり根付いた、誰に何と言われようが、一生貫き通す信念です。
これが絶対的な強さです。
それは何か?
それは「全ての物体の重みは下にある」ということです。
人間も物体ですから同様です。
私達が生きている、生かされている地球の表面には重力がありますから、それに逆らって生きることは出来ません。
意識が上ずっている、身体に力みがある状態が重力に逆らっている状態です。
そのような心と身体の使い方をしていると、心が病んだり、身体のあちらこちらに不具合が起こって当然です。
日本語はわかりやすく、怒ることを頭にくるといい、緊張することを上がるといいます。
びっくりしたり、悲しんだり、恐れたり、いずれも、意識が上ずっている状態です。
自分の心と身体は自分自身でコントロールするものであり、自分の機嫌は自分でとるものです。
病や身体の不具合は「あなたの心と身体の使い方が間違っていますよ」と氣付かせてくれる、大自然からのありがたいメッセージです。
病や身体の不具合は自分で治すものです。
とはいえ、日常において私達人間は感情に支配されやすく、外部から影響を受け、意識が上ずったり、身体に力みが生じたりしますが、それに氣付いた時に、自分で対処出来ます。
身体の全ての部分の重みが、その最下部にある状態が自然体であり、落ち着いている状態です。だから私達、人間は落ち着いているのが当たり前なのです。
落ち着いているのが当たり前なら、意識が上ずったり、身体に力みが生じたりすることは異常なこと、ということになります。
これが、私達が生活している大自然の法則です。
感情に左右され、自分自身で「意識が上ずっているな」と認識したら、上半身の力を抜いて意識を下げると、徐々に落ち着いていきます。
その時、正しい判断と持てる力を100%発揮することができます。
それを日常に活かすこと。家事、仕事、趣味、学生なら勉強、部活に活かすこと。
それこそが合氣道琴心館寺崎道場で学ぶことです。
これが絶対的な強さの根幹です。
合氣道琴心館寺崎道場では、合氣道、呼吸法の稽古を通じて、前述の正しい心と身体の使い方を学び、しっかり根付かせ、絶対的な強さを会得していきます。
初回無料体験出来ます。
お申込みはトップページ「お問い合せ」より承ります。
最後までお読みくださりありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 寺崎 秀行
ぼくらの合氣道~生きるヒントがここにある~「私達は人のために学び、人のために努力する、地球の一員だ」
何事においても「地球の一員として、人のために学び、人のために努力することが一番大切である」
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 寺崎 秀行
アメブロは コチラ
愉快に人のために
合氣道琴心館寺崎道場 道場長の寺崎 秀行です。
まず最初に一般に合氣道といっても、たくさんの流派、団体があり、それぞれ目的や稽古法、心身の使い方など異なります。
ここに記す内容は、「合氣道琴心館寺崎道場」に基づくものであります。
さて、合氣道創始者である植芝盛平翁は「稽古は愉快におこなわねばならない」と説かれました。
愉快に稽古することで、リラックスでき、自身の心身をのびのびと使うことができます。
真剣に稽古する中で、難易度の高い技の稽古でも、愉快であるから面白く、楽しく、やる氣も増し、一緒に稽古する相手も愉快になります。
「一緒に稽古する相手も愉快になる」
これが1つのキーワードです。
自分がプラスの氣を発すれば、それが相手にも伝わり、相手もプラスの氣を出します。
それが道場全体に広がります。
自分を成長させるために、熱心に稽古することは良いことですが、あまり上手くいかない時が多々あります。
では良い方法は?
それは「相手を成長させてあげること」
もっと言うなら、
「人のために稽古すること」
これが最重要キーワードです!
合氣道の組技は、相手がいるから稽古できるものです。
まず、相手を尊重し、相手の立場に立って、相手を少しでも上達させるために自分が何をすべきか?
それを常に考え、行動する人は必ず上達します!
たとえ、先輩で、相手が自分より級、段位が上であっても、その人のために稽古することです。
ついつい、私達は自分が上達したいから、成長したいからという思いのみで稽古してしまい、思うように上達しないから、さらにもっと自分のために稽古を重ねます。
重ねても重ねても、上達しないから、そのうち嫌になって道半ばで、自ら稽古を止めてしまうという悪循環に陥ってしまいます。
そもそも合氣道の技は、自分の都合の良いように相手を投げようと思っても技が効きません。投げることが出来ません。
私自身も稽古を止めてしまったことは無いですが、この悪循環に陥った経験があります。
もともと、人は一人では生きていけません。
私達の住んでいる地球と人の関係はどうでしょう?
太陽からの光を受け、空氣があり、たくさんの動植物のおかげで私達は生かしていただいています。
そして生活していく上で、人との繋がり無くしては何の仕事も成り立ちません。
人のために役立つ自分に、地球のために役立つ自分になるためには、自分自身がより成長しなくてはなれません。
そういう心得を持続するには、自分の心が静まっていなければ出来ませぬ。
そのために日頃から呼吸法をして、常に心を落ち着くべき所「臍下の一点」に静めていなくてはなりません。
その日頃の鍛錬があるからこそ、自分自身が上達、成長出来るのです!
日本をもっと良い国にし、日本のみならず、世界を、もっと言うなら、私達生命を育んでくださる地球のために自分自身ができることを考え、行動することが大切です。
人のために生きれば、戦争なんか起こるはずがありません!
人のために生きれば、いじめなんかあるはずがありません!
人のために生きることは尊いものです。
合氣道の稽古はその最たるものです。
合氣道には、今の日本を変える力を持っていると私は信じてます。
まずは今の自分に出来ることからはじめよう!
相手を愉快に、相手のために稽古をする心得で道場に行くなら、
カビの生えたような薄汚い稽古着など着用するはずがないでしょう。
相手の手を持ったときに、相手の手指を傷つけてしまう可能性がある爪を、伸ばしたままにするはずがないでしょう。
自ずと身だしなみも整うはずですよね!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
人は必ず育ちます
合氣道琴心館寺崎道場 道場長の寺崎 秀行です。
まず最初に一般に合氣道といっても、たくさんの流派、団体があり、それぞれ目的や稽古法、心身の使い方など異なります。
ここに記す内容は、「合氣道琴心館寺崎道場」に基づくものであります。
昨日は淡路市東浦サンパーク柔道場(正式には淡路市東浦P&G海洋センター2階トレーニングルーム内柔道場)にて全身全霊で語り、語り、身体を動かし、お弟子さんとお稽古してきました。
教える立場の指導者、師範、先生と呼ばれる立場の人は常に相手(お弟子さん)の立場に立って指導しなければなりません。
子どもには子どもなりの、親子には親子なりの、初心者には初心者なりの、上級者には上級者なりの、指導者育成にはそれなりの、それぞれの稽古の仕方があります。
例えば、上級者でも指導者を目指す者と、そうでない者とでは指導方法も内容も違います。
人を教える立場の指導者は道場での稽古において、工夫をしなければなりません。
いくら自身が内弟子修行を積んでいても、それをそのまま上級者だから指導者育成と同じ稽古しか出来ない師範がいたとしたら、それは師範の稽古への工夫の無さであり、怠慢としか言いようがありませぬ。
植芝盛平翁が創始なさった日本の武道である合氣道も、今やたくさんの流派があり、派生し、団体が違えば、技も目的も違います。
同じ流派であっても先生、指導者、師範により違います。
極まれな武道愛好家や、研究熱心な人は例外ですが、ほとんどの一般の人が近くの道場や教室で合氣道を始めるにあたって、その会や団体が「どのような目的を持つ合氣道」なのか?など知らずに入門してきます。
「どのような目的を持つ合氣道」なのか?
それは非常に重要な事です。
入門した人には、まず、最初にそれをしっかり教えなければなりません。
最初が肝心要でございます。
入門して5年以上のベテランが未だ、その意味が分からない。
だから本当の意味での上達ができない。
技ができるから上達ではありませぬ!
私達の所属している団体では、「力を抜くこと」を稽古します。
でも何故、力を抜かなければならないのでしょうか?
その意味をお弟子さんが良く理解できるまで、言葉で教えなければなりませぬ。
難しい言葉で教えることは簡単であり、誰にでもできます。
それを簡単に分かりやすい言葉で、教える努力をしなければなりません。
そして、言葉だけでは理解できない領域は正しい姿勢の確認と、身体を動かし、組技、体術で指導しなければなりません。
自分は話すのが苦手だから、言葉で教えることができない指導者は勉強と努力が不足しています。
もっと言うなら指導者失格!
言葉を発することができる人なら、誰でもできる事だと私は思います。
人は必ず育ちます!
当会が何の目的を持って稽古している合氣道なのか?
今日もそれを全身全霊で語り、語り、語ってまいりました。
その人が深く理解できるまで、根氣良く続けなければなりませぬ。
お弟子さんは師範に沿って成長します。
師範はお弟子さんを教えることで成長します。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。