" 「積ん読」も悪いばかりではない。未来への種 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】初候
七十二候
第二十八候 乃東枯【なつかれくさかるる】
二十四節氣は「芒種」から「夏至」へと移りました。
「乃東枯」は6月21日~25日ころにあたります。
乃東は「夏枯草」とも呼ばれる「ウツボグサ」の別名。
他の植物が夏の日差しを浴びて青々と生い茂る中で、
ウツボグサは冬至の頃に芽を出し夏至に花穂を枯らす姿が、
昔の人々の目に留まり、七十二候の一つとして選ばれたのかもしれませんね。
今日の道場長の一日一心
『 " つんどく " も わる い ばかり では ない 。 みらい への たね 』
"「積ん読」の価値と「おかげさま」の循環 "
どんなに忙しい日でも、
私は必ず本を手に取り読みます。
寝る前に1ページ、
いや、たった1行の日もあります。
良書との出会いは
心を豊かにし、
時に「あっ、そうだったのか!」と
新たな氣づきを与えてくれます。
だからこそ、
良い本と出会えば、迷わず購入します。
古書店で見かければ、すぐに手に入れます。
こうして私の手元には、
良い本がたまっていく一方です。
世に言う「積ん読」の状態なのです。
しかし、
私はこの「積ん読」を
悪いことばかりだとは考えていません。
"「積ん読」が未来へ繋ぐ「知の遺産」 "
「この本、良いから読んでごらん」と
勧めても、
なかなか
手に取ろうとしない " わが家の娘たち " 。
しかし、
そのうち私がこの世を去り、
娘たちも年を重ねた時、
あるいはその先の孫たちが
学ぶ機会を得た時、
これらの「積ん読」が、
娘や孫たちにとっての
「良き師」となることを願っています。
本棚に並んだ本が、
未来の誰かの知的好奇心を刺激し、
成長を促すきっかけになるかもしれない。
そう考えると、
「積ん読」もまた、
未来への投資と言えるのかもしれません。
" 道場に活きる「積ん読」:知識の共有と「おかげさま」の連鎖 "
さらに、
この「積ん読」は、
私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場でも
有効活用されています。
「読みたい人は持って帰って読んでみて」と、
道場の一角に
私の「積ん読」を並べています。
すると、
子どもから大人まで、
お弟子さんたちが自然と手に取り、
読んでくれています。
ある本がきっかけで、
道場でお弟子さん方に
新しい会話が生まれたり、
誰かの悩みが解決したり
することもあるかもしれません。
僭越ですが、
不肖私一人が持っている知識や感動が、
こうして多くの人へと伝わっていく。
ほんの少しの工夫で、
「積ん読」は単なる本の山ではなく、
知識を共有し、
人と人との繋がりを深めるツールへと
変わるのですね。
良書から教えていただいた
「おかげさま」。
人から与えてもらった
「おかげさま」。
そして、
天地大自然から学んだ
「おかげさま」。
これらの恩恵は、
自分の中でとどまることなく、
次へと順送りに
伝えていくべきものであると思うのです。
合氣道の稽古を通して、
また良い本を通して、
様々な形で
「おかげさま」の心を拡げてまいりましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 不利益が利益に変わる「魔法の言葉」 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
芒種【ぼうしゅ】末候
七十二候
第二十七候 梅子黄【うめのみきばむ】
「芒種」は末候へと移りました。
「梅子黄」は6月16日~20日ころにあたります。
青かった梅の実がだんだんと黄色く色づき始める頃を指します。
これは、梅が収穫の時期を迎えるサイン。
梅干しや梅酒、梅のジャムなど、日本の夏には欠かせない、
梅の加工品づくりが盛んになる季節の到来を告げる候です。
今日の道場長の一日一心
『 ふりえき が りえき に かわ る 「まほう の ことば」 』
暁の空が白み始める午前3時。
天地大自然に
今日も目覚めることができたことに感謝し、
「ありがとう」と心の中で呟くことから
私の一日が始まります。
そして神仏に手を合わせ、
「ありがとうございます」と声に出します。
このブログを
今、まさに書いているこの瞬間も、
私にとっては「有難う」なのです。
"「有難う」その言葉の深淵 "
ずいぶん昔、
合氣道に出会うずっとずっと前の話です。
友人が口癖のように言っていた
言葉を思い出します。
あえて、
ありのままに関西言葉で、
「最近な、" ありがたいことがない " から、
" ありがとう " って、ほんま言わへんわ」
当時の私も
「そらそうやな」と返したものです。
しかし、
合氣道師範として
日々「精神修養」を実践する中で、
たくさんの良い本に出会い
「ありがとう」という言葉の持つ
本当の意味に氣づかされました。
漢字で書くと
「有難う」は「有ること難し」。
つまり、
「滅多にないこと」
「稀有なこと」という意味です。
今、
この暁の朝に、
私が
この「ぼくらの合氣道 道場長の一日一心」
というブログを書いていること自体が、
まさに「有ること難し」なのです。
この「滅多にないこと」を
毎朝、続けられるのは、
他でもない、
" 今朝も目覚めることができたから " なのです。
したがって、
「生きていられること」
そのものが、「有難う」なのですね。
" 不利益さえも「ありがとう」に変える実践 "
そう考えると、
当時の友人の言葉が
いかに表面的なものだったか痛感します。
たとえ、
自分にとってありがたくないこと、
不利益なことが起こったとしても、
それもまた「有ることが難し」、
すなわち「ありがとう」になるのです。
どなたかの著書で
読んだ記憶がありますが、
「交通事故にあっても、その瞬間に " ありがとう " と言う」。
これを初めて読んだ時は、
ほんと驚きましたが、
今ではその真意が理解できます。
腹が立ったら「ありがとう」。
最近、不肖私、これを実践しています。
この言葉を心で強く思った途端、
不思議とそれ以上、
怒りが込み上げてこないのです。
「ありがとう」は、まさに魔法の言葉。
自分の心だけでなく、
周囲をも明るくする力を持っています。
"「ありがとう」を習慣にすることの力 "
私たちの日常には、
意識すれば「感謝」できることで
溢れています。
* 目覚めることができた朝に「ありがとう」。
* 食事ができることに「ありがとう」。
* 健康であることに「ありがとう」。
* 病や怪我に「ありがとう」。
* 不利益なことに「ありがとう」。
* 財布を落として「ありがとう」。
* 腹が立ったら「ありがとう」。
* 悲しみに「ありがとう」。
* 家族や友人がいることに「ありがとう」。
* そして、合氣道の稽古ができることに「ありがとう」。
些細なことにも
感謝の氣持ちを持つことで、
心の持ちようは大きく変わります。
そして、
不利益な出来事に対しても
「有難う」の心で向き合うことで、
その不利益が
"「それ以上の不利益」にならなくなる " のです。
そして、
新たな " 氣づき " や " 成長の機会 " と
捉えることができるようになるのです。
皆さんも、
今日から「ありがとう」
この " 魔法の言葉 " を
口癖にしてみてはいかがでしょうか。
素敵な週末をお過ごしください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 目の前の小石か、迫る巨岩か? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
芒種【ぼうしゅ】末候
七十二候
第二十七候 梅子黄【うめのみきばむ】
「芒種」は末候へと移りました。
「梅子黄」は6月16日~20日ころにあたります。
青かった梅の実がだんだんと黄色く色づき始める頃を指します。
これは、梅が収穫の時期を迎えるサイン。
梅干しや梅酒、梅のジャムなど、日本の夏には欠かせない、
梅の加工品づくりが盛んになる季節の到来を告げる候です。
今日の道場長の一日一心
『 め の まえ の こいし か、せま る きょせき か? 』
歴史学者が語る
民族が滅びる三原則をご存じでしょうか。
一、理想(夢)を喪った民族
二、物の価値のみに走り心の価値を見失った民族
三、自国の歴史を忘れた民族
残念ながら、
現在の私たちの国が
この衰亡の道を歩んでいることは、
多くを語るまでもないでしょう。
"「蟷螂の斧」(とうろうのおの)と日本の現状 "
私たちの国のリーダーである、
石破茂首相をはじめとする、
多くの政治家たちの「国家観の欠如」は、
「蟷螂 (とうろう) の斧」と
なりかねないように思います。
「蟷螂の斧」とは、
カマキリが斧 (前足) を振り上げて、
通り過ぎる車を止めようとするように、
自分の実力もわきまえず、
大きな敵や強大なものに
立ち向かおうとすることを指す、
無謀な行いのたとえですが、
国家運営においては、
その「国家観の無さ」が、
国を危うくする
可能性を秘めているのではないでしょうか。
石破茂首相が物価高対策として、
7月の参院選で全ての国民に一律2万円を
給付する公約を掲げました。
なんでも、
消費税を下げるには
相当な時間がかかるので、
生活が困窮している国民に
一律2万円を給付するほうが、効果的なのだとか?
はぁ?
2万円が効果的?
元々、消費税なんて下げる氣もないのに、
よく言いますね…
増税はあるが、減税はない。
「国家観」だけでなく「経済観」もない。
しかし、
私たちはいつまでも、
私たちの代理人である
一部の政治家たちの「国家観の無さ」に
嘆いているだけでは、何も変わりません。
今こそ、
私たち日本国民の一人ひとりが、
もっと前を見つめる
必要がある時にきていると、私は思うのです。
" 目を外へ、世界へ "
今、私たちは
目の前のことばかりに目を奪われがちです。
米の値段がどうだとか、
政府備蓄米が2千円でスーパーに並んだとか…
もちろん、
これらは私たちの生活に直結する
大切なことです。
しかし、
私たちは「内」にばかり
目が行きすぎていないでしょうか。
目を「外」に向けてみてください。
イスラエル、イラン、ロシア、ウクライナ、
中東から、やがてヨーロッパを含む
広大な地域で、
第三次世界大戦の導線に
火がつけられようとしている
という、
深刻な現実がそこにはあります。
" 明日はわが身なんだ "
米の値段や消費税の問題も
大事ですが、
私たちの命に直結する、
もっと大きく、
そして喫緊の問題が、
まさにこの瞬間、
私たちのすぐ「外の世界」で進行しているのです。
いつまでも
「平和ボケ」していては、
私たちの祖国、
日本が日本でなくなり、
子々孫々の命が
途絶える可能性すらあります。
" 私たち一人ひとりにとっての「武道」"
合氣道の稽古では、
常に周りに「氣」を配り、
相手の「氣の動き」を感じ取り、
状況を判断する力を養います。
これは、
現代の世界情勢においても、
私たち一人ひとりに求められる
「武道」なのではないでしょうか。
目の前の小さな問題に囚われず、
もっと広く、深く世界を見つめ、
未来のために何ができるのかを
真剣に考える時が来ています。
私たち一人ひとりが、
自らの心に「日本」を取り戻し、
「心の価値」を見失わず、
そして
「自国の歴史」を正しく
胸に刻むこと。
それが、
この困難な時代を生き抜き、
次世代へと命をつなぐ
唯一の道だと思うのです。
その責務が
私たちにはあるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 一事を究めれば全てに通ず、簡単な日々の実践 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
芒種【ぼうしゅ】末候
七十二候
第二十七候 梅子黄【うめのみきばむ】
「芒種」は末候へと移りました。
「梅子黄」は6月16日~20日ころにあたります。
青かった梅の実がだんだんと黄色く色づき始める頃を指します。
これは、梅が収穫の時期を迎えるサイン。
梅干しや梅酒、梅のジャムなど、日本の夏には欠かせない、
梅の加工品づくりが盛んになる季節の到来を告げる候です。
今日の道場長の一日一心
『 いちじ を きわめ れ ば すべて に つう ず、かんたん な ひび の じっせん 』
「一事を究めれば全てに通ず」
この言葉は、
私が日々の稽古や生活の中で
痛感する真理です。
たとえば、
合氣道で基本の型を極めれば、
その心身の使い方や呼吸は、
他の技にも応用できます。
私が主宰する、
合氣道琴心館寺崎道場では、
技は、書道と同じく基本の型(楷書)から
始まり、徐々に
行書、草書へと進んでいきます。
基本の型に熟達するには、
ひたすら繰り返し稽古を重ね、
身体に動きを
染み込ませるしかありません。
熱心に継続すれば、必ず上達しますが、
肝心なのは、
心が結果や相手への執着から離れ、
「自分の技を磨く」
という覚悟を持つことです。
何をするにしても、
「本物」を目指すことは、
そのまま
「精神修養」に繋がると私は信じています。
そして、
今取り組んでいることが「本物」であれば、
その学びはあらゆる側面に波及し、
それ以外のことも
すべてのものが「精神修養」に役立つのです。
たとえば、
合氣道琴心館寺崎道場の
" 子ども親子クラス " では、
稽古の前にみんなで雑巾がけをします。
同じ雑巾がけでも、
丁寧にする子と雑な子がいます。
雑な子には
「もっと丁寧に拭こうね」と促しますが、
悪い癖はなかなか簡単には直りません。
一つの悪い癖がいつまでも直らないのは、
きっと、その子が雑巾がけ以外のことも
雑にしている証拠なのだと思うのです。
食べること、歩くこと、歌うこと、
なんでもいい、
どんなことでも「本物」になりさえすれば、
その姿勢は
必ず他の様々なことにも良い影響を及ぼします。
なぜなら、
" 何事にも共通する「原則」が存在する " からです。
いわゆる「極意」と呼ばれるものは、
まさにこの「原則」であり、
すべてのことに通じる
普遍的な教えなのだ、と私は考えます。
だからこそ、
一度、志を立てたなら、
脇目も振らずに「一心に邁進」すること。
決して
途中で諦めず、
たゆまず努力し続けることが大切です。
たとえ障害が目の前に現れても、
それを乗り越え、
たとえ転んでしまっても、
再び立ち上がって前へ進む。
そうすれば、
必ずや「極意」に到達できるはずです。
そして、
一つのことの「極意」に達しさえすれば、
それは他のあらゆる分野にも
応用できるようになる、と思うのです。
" 簡単で「ほんの少しだけ苦労」することを選ぶ "
「継続する心」を養う上で大切なのは、
最初から
立派なことや難しいことを選ばないことです。
私たち凡人が、
いきなり崇高な目標を立てても、
往々にして「続かない」という
失敗に終わるのではないでしょうか。
むしろ、「簡単」で、
かつ「少しだけ苦労だな」と
感じるくらいのことを選び、
それを「継続」することで、
継続力を鍛錬するのが
賢明なやり方だと、私は思います。
たとえば、
私自身が日課にしている例を挙げると、
* 食事の前には作り手の方に感謝する。
* 食事の際に手を合わせ「いただきます」「ごちそうさまでした」と言う。
* 脱ぎ散らかされた履き物を見れば、必ず揃える。
* 毎日のウォーキングは呼吸法をしながら歩く。
* 毎朝、決めた道に落ちているタバコの吸い殻を拾う。
* 平日は毎朝3時に起きる。
* 起床後すぐに、このブログを書く。
* Instagramのストーリーの更新に使う画像や動画は、その日のブログ記事と関連付ける。
* 家のトイレであれ、公衆トイレであれ、自分が使ったトイレは、入った時よりきれいにしてから出る。
* 月に一度は神社にお参りする。
* 両親の命日、月命日には花を捧げる。
* 神仏には感謝を捧げるだけで、お願い事は一切しない。
* 一日、一行でも本を読む。
* 一冊の本は三日で読み終える。
* 寝る前にその日の反省をする。
これらは、
私の日課のほんの一例ですが、
一見すると何でもないことのように思えます。
しかし、
実は少しだけ、
「苦労だな」と感じるくらいの
「やりにくさ」が、
この一例の中にはいくつかあるのです。
でも、
こういったことを繰り返し行うことが、
「継続力を育む土台」となるのではないでしょうか。
地道な繰り返しこそが、
「継続」を「習慣」へと変え、
一つのことに熟達した経験が、
やがて、
他のあらゆることにも応用されるようになる。
僭越ながら、私はそう確信するのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 刀に学ぶ「平和」の心 : 合氣道に通じる武士道の真髄 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
芒種【ぼうしゅ】末候
七十二候
第二十七候 梅子黄【うめのみきばむ】
「芒種」は末候へと移りました。
「梅子黄」は6月16日~20日ころにあたります。
青かった梅の実がだんだんと黄色く色づき始める頃を指します。
これは、梅が収穫の時期を迎えるサイン。
梅干しや梅酒、梅のジャムなど、日本の夏には欠かせない、
梅の加工品づくりが盛んになる季節の到来を告げる候です。
今日の道場長の一日一心
『 かたな に まな ぶ「へいわ」の こころ : あいきどう に つうじ る ぶしどう の しんずい 』
" 刀に宿る武士の魂と合氣道の「和」の心 "
合氣道は、
争いを避け、「和を尊ぶ」ことを
根幹とする武道です。
この精神は、
古くから武士たちが重んじてきた
「武士道」と深く相通じるものがあると、
私は思います。
武士と聞けば、多くの方が
「刀」を思い浮かべるのではないでしょうか。
刀は単なる武器ではなく、
「刀は武士の魂」とまで言われたように、
武士の生き様そのものを象徴する、
かけがえのない存在でした。
" 幼少期からの武家の「教育」:端午の節句に息づく伝統 "
武家の子どもは、
幼い頃から刀との深い関わりが始まり、
わずか5歳で武士の装束をまとい、
本物の刀を腰に差すことを許されたと
伝えられています。
これは、
単に剣術を学ぶだけでなく、
刀の扱い方、
ひいては武士としての正しい立ち居振る舞いを、
心身両面から
徹底的に叩き込まれることを意味しました。
この習わしは、
現代の日本にも「端午の節句」として
色濃く残っているのですね。
5月5日に
男の子の成長を願うこの行事では、
鎧兜 (よろいかぶと) や
刀、弓矢などを飾り、鯉のぼりを立てます。
これらは、
かつて武士が
戦場で身を守るために用いた武具であり、
「強く、たくましく、そして正しく成長してほしい」
という「親の願い」が込められています。
まさしく、
幼い頃から武士としての
「自覚」と「心構え」を育んだ、
当時の「武家の教育」の精神が、
形を変えて受け継がれている証と
言えるのではないでしょうか。
15歳で「元服」の儀式を経て
一人前の武士と認められるまで、
彼らにとって刀は、
まさに「一心同体」とも呼べる存在だったのでしょう。
" 刀が教える「真の勝利」とは "
武士は、
その魂ともいえる刀を最大限に尊重しました。
刀に対する不敬は、
持ち主への侮辱に等しいとされ、
決して容認されませんでした。
同時に、彼らは軽々に
刀を抜くことを潔しとしませんでした。
真の武士は、
刀を使うべき「時と場」を心得ていたのです。
常に武力の象徴である
刀を身につけていた武士だからこそ、
彼らは深く理解していました。
「真の勝利は、暴力の先に存在するものではない。」
そして、
血を流さずに争いを収めることこそが、
最善の道であると。
なぜなら、
彼ら武士が追い求めた究極の理想は、
他ならぬ「平和」だったからです。
" 現代の言葉に息づく「武士道精神」 "
武士と刀の関係性から生まれた
伝統や精神は、
現代社会にも脈々と受け継がれています。
私たちの日常会話にも、
その名残を見出すことができます。
たとえば、
「抜き打ち」とは、
事前の予告なしに行動することであり、
「付け焼刃」とは、
一夜漬けの知識や急場しのぎの対応のこと、
また「反りが合わない」とは、
性格や意見が食い違い、しっくりこない様であり、
「鎬(しのぎ)を削る」とは、
激しい競争を繰り広げること、
さらに「元の鞘(さや)に収まる」とは、
揉め事が解決し、元の良好な関係に戻ることなど…
これらの表現は、
すべて武士と刀の深い関わりから
生まれたものです。
言葉の端々に、
彼らの生きた時代と精神が息づいている、
そう思うと、感慨深いものがありますね。
" 合氣道に宿る武士の「和」の心 "
合氣道もまた、
相手を打ち負かすことではなく、
相手との調和を図り、
争いを鎮めることを目指します。
これは、
刀を携えながらも「平和」を
究極の理想とした
武士の精神と、
まさしく軌を一にするものであると
私は思います。
僭越ではありますが、
私たち合氣道を学ぶ者は、
現代において、
物理的な刀を持たずとも、
「武士道精神」を体現する存在で
ありたいものです。
合氣道琴心館寺崎道場に集う
お弟子さん一人ひとりが、
日々の稽古を通じて、
単に技を磨くだけでなく、
心身を鍛錬し、
平和を尊ぶ「和」の心を
育んでもらいたいと願っています。
合氣道に少しでもご興味を
お持ちいただけましたら、
ぜひ一度、道場へ足をお運びください。
心よりお待ちしております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝