" イルミネーションより美しい?雨のメリケンパークで見つけた「静かな奇跡」 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】末候
七十二候
第六十三候 鱖魚群 (さけのうおむらがる)
12月16日~20日ごろ。
鮭が川を遡上するために群れをなすころ。
海で大きく育った鮭は産卵のため、
ふるさとの川へ帰っていきます。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 いるみねーしょん より うつくし い? あめ の めりけんぱーく で みつけ た「しずか な きせき」 』
今年も
残り僅かとなりました。
神戸メリケンパークは
クリスマスイルミネーションに彩られ、
一年で最も
華やかな季節を迎えていますが、
私の心にふと蘇ったのは、
そんな賑わいとは対極にある、
11月の雨の日の記憶でした。
今日は、
少し前の静かな神戸で出会った景色と、
そこで感じた
「季節と命」について
綴ってみようと思います。
" 1ヶ月前、雨音だけが響く神戸メリケンパークへ "
11月のある日のこと。
元町周辺での用事を終え、
メリケンパークへと向かいました。
空からは
ポツリポツリと雨。
前日の天氣予報を見て
鞄に入れておいた折りたたみ傘を開き、
私はそのまま歩き続けました。
12月の今となっては
多くの人で賑わうこの場所も、
あの日は人けも少なく、
聞こえるのは雨音だけ。
でも、
そんな静寂に包まれた神戸もまた、
良いものだと
感じながら歩を進めていました。
" 雨の日だからこそ出会えた「絶景」"
公園に着く頃には雨足も強まり、
そこら中に水たまりができていました。
足元が悪く、
少し歩きにくい状況。
しかし、
ふと視線を落とした瞬間、
私はハッと息を呑みました。
水たまりが鏡となり、
赤い神戸ポートタワーを
くっきりと映し出していたのです。
雨が降らなければ、
水たまりができなければ、
決して見ることのできなかった景色。
それは、
雨の日だけがくれる
特別なプレゼントのようでした。
" 足元の絶景に心を奪われて "
自宅から
歩いて行ける見慣れた場所で、
こんなにも美しい
リフレクション写真が撮れるなんて。
そればかりか、
その時、一瞬雨がやんだのです。
雨粒で水面が乱れていては、
リフレクションも乱れます。
鮮明にあるがままの姿の
逆さ神戸ポートタワーを映し出していました。
まさに、お天道さまが
「今撮れ!」と言わんばかりです。
この状況に
一人静かに感動し、
「これはインスタグラムに投稿しよう」と
何度もスマホのシャッターを切りました。
煌びやかな
イルミネーションも素敵ですが、
あの雨の日に見た、
水鏡の中の静かな
神戸ポートタワーの美しさは、
1ヶ月経った今でも
鮮明に焼き付いています。
" 巡る季節、それぞれの「良さ」と「命」"
今、東雲の空を見上げながら
あの日のことを反芻 (はんすう) し、
このブログを執筆しています。
雨には雨の良さがあるように、
季節にもそれぞれの
役割があるのだと改めて思うのです。
寒い冬は
手も凍える厳しさがあるけれど、
その分、空氣が澄み渡る冬の良さ。
酷暑の夏は
身体にはこたえるけれど、
生命力が爆発する夏の良さ。
夏にしか育たないものがあり、
冬の寒さを耐えて大きく育つものがある。
私たちも、動物も、植物も。
それぞれの季節、
それぞれの環境の中で
懸命に生きている「尊い命」です。
" 地球って凄いな "
雨も、晴れも、寒さも、暑さも。
すべてがこの星の営みであり、
その中で私たちは生かされている。
1ヶ月前の雨の日の記憶と、
今の夜明け前の静けさが
繋がったとき、素直にこう思いました。
「改めて、地球って凄いな!」
このブログを読んでくださる
読者のみなさまも
もし雨が降ったら、
がっかりせずに足元を見てみてください。
そこには、
その時しか出会えない
「命の輝き」や
「静かな絶景」が
待っているかもしれませんね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 命は母からの「ギフト」ではなく、天からの「預かりもの」。私たちが勘違いしてはいけないこと "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】末候
七十二候
第六十三候 鱖魚群 (さけのうおむらがる)
12月16日~20日ごろ。
鮭が川を遡上するために群れをなすころ。
海で大きく育った鮭は産卵のため、
ふるさとの川へ帰っていきます。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 いのち は はは から の「ギフト」で は なく、てん から の「あずかり もの」。わたし たち が かんちがい して は いけない こと 』
ふと、
車で信号待ちをしていたときのことです。
歩道の掲示板に、
こんな標語が掲げられていました。
「おかあさんからもらったこの命、大切にしよう」
一見すると、
親への感謝や
自愛を促す美しい言葉に見えます。
しかし、
その言葉を目にした瞬間、
私の胸には温かさとは全く違う、
ある種の「強烈な違和感」が去来しました。
この言葉には、
無意識のうちに
「命の真理」を見誤らせる
リスクが潜んでいるのではないか。
そう感じたのです。
" その命、
本当に「お母さん」が
作ったものですか?"
「お母さんからもらった命」という
表現は正しいのでしょうか。
もし、
命が人間の意志で作れるものなら、
この世の理(ことわり)は
もっと単純なはずではないでしょうか?
どれほど
子どもが欲しいと切望しても、
授からないことがあるのが現実です。
逆に、
予期せぬタイミングで
新しい命が宿ることもあります。
ここには、
人間の意志や肉体的な努力だけでは
どうにもならない、
「人智を超えた領域」が働いています。
人間は、
命というシステムを
一から創造することなどできません。
"「産んであげた」という驕(おご)りが招くもの "
私が最も危惧するのは、
親自身が「この子の命は私があげたもの」
「私が産んであげた」と錯覚してしまうことです。
「私が与えた命なのだから、この子は私のものだ」
「こんな子に育つために、あなたを産んだのではない」
この意識が芽生えた瞬間、
親は無自覚に
子どもを「私物化」し始めます。
自分の所有物だから、
自分の意のままに育てていい。
自分の理想通りに動かしていい。
そんなコントロール欲求の根源が、
ここにあるように私は思うのです。
「あなたのために産んで育ててあげたのよ」
そんな言葉で
子どもを縛り付けてしまう悲劇は、
命の出処を
「自分(親)」だと
勘違いすることから
始まっているのではないでしょうか。
" 命は「天地」からの一時的な預かりもの "
では、
私たちの命はどこから来たのか。
それは
母からではなく、
「天地」から授かったものです。
お母さんは、
命の創造主ではありません。
天から降りてくる
命をこの世に迎えるために
身体を貸し、
痛みに耐えて産んでくれた、
尊い「代理人」です。
あくまで、
天と地をつなぐ
パイプ役を果たしてくれた存在なのです。
こう考えると、
親子関係の景色はガラリと変わります。
親にとって子とは、
自分の所有物ではなく、
天から一時的に預かり、
大切に育て上げる
責任を負った「預かりもの」。
子にとって命とは、
親の所有物ではなく、
天から授かった
一回きりの尊い自分だけの輝き。
" 天に還すその日まで "
「命を大切にしよう」
掲示板にあった
結論そのものは、
間違いのない真実です。
しかし、
それは「お母さんからもらったから」
大切にするのではありません。
天地から授かり、
いつかは
天にお返ししなければならない
尊い「借り物」だからこそ、
粗末にしてはいけないのです。
親も子も、
互いに「天からの授かりもの」である
という謙虚な認識を持つこと。
それこそが、
親子の執着や支配から自由になり、
本当の意味で
命を大切にすることに繋がるのだと思います。
信号待ちで見かけた
あの一言は、
私に
「親としての在り方」と「命のルーツ」を
深く問い直させてくれました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 師範の独り言 「こんなに素晴らしい弟子を持てて幸せです」 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 しはん の ひとりごと 「こんな に すばらし い でし を もて て しあわせ です」 』
合氣道琴心館寺崎道場では、
年に2回、
前期と後期に昇級審査を行っています。
去る令和7年12月7日(日)、
令和7年後期 合同昇級審査を執り行いました。
当日は、
子どもクラスから大人クラスまで、
多くの受験者が道場に集いました。
張り詰めた空氣の中、
審査開始の号令とともに、
皆が一所懸命に
日頃の稽古の成果を披露してくれました。
今回の審査を通じ、
私は師範として
胸が熱くなる瞬間が何度もありました。
ある小学生は、
審査の最初から最後まで
一切「氣」を切らすことなく、
持てる実力を存分に発揮しました。
技の終わりの残心、
礼法、そして所作に至るまで、
到底9級とは思えぬレベルでした。
これは、
普段の稽古において
私の言葉を一つひとつ大切にし、
忠実に実践してきた努力の賜物です。
今後のさらなる成長を確信しました。
また、
ある低学年の子は、
小さな身体から
溢れんばかりの氣迫を見せてくれました。
10級の枠を
遥かに超えたダイナミックな受身、
そして技の要点を深く理解し
実践しようとするその姿勢には、
審査員である私自身が圧倒されるほどでした。
また、ある小学生は
緊張からか足捌きを
間違えてしまった者もいました。
しかし、
私が評価したのは失敗そのものではなく、
その「過程」です。
苦手な半身(左右の構え)の
修正に真摯に取り組み、
なんとか克服しようと道場で取り組む姿。
それだけではなく、
自宅でも
ご両親を相手に稽古していると聞きました。
その心の姿勢こそが、
合氣道のみならず、
人生において最も尊いものです。
そして
何より嬉しかったのは、「人の和」です。
今回の審査対象では
ないにも関わらず、
道友のために
快く「受け」を務めてくれた道場生たち。
そして、
張り詰めた緊張感の中で、
道友の挑戦を温かく見守ってくれた
すべてのお弟子さんたち。
彼らの姿を見て、私は改めて思いました。
「こんなにも素晴らしいお弟子さんたちを持てて、私は本当に幸せ者だ」と。
合氣道は一人ではできません。
相手がいて、
仲間がいて、
初めて己を磨くことができます。
技術の向上はもちろんですが、
合氣道琴心館寺崎道場が、
こうして
互いを高め合える場で
あり続けていることを、
道場長として誇りに思います。
今回、
合格した皆さんは、
この結果に慢心することなく。
惜しくも
合格に届かなかった皆さんは、
その悔しさをバネに。
また今日から、
共に稽古に励んでいきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 難技『二人掛け』に見る、「個」と「和」の中心軸 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 なんぎ『ににんがけ』に み る、「こ」と「わ」の ちゅうしん じく 』
先日の
大人クラスの稽古では、
「二人掛け(ににんがけ)」という
技を稽古しました。
合氣道をされていない方に
分かりやすく言えば、
これは、
投げの右手首を
一人が両手で持ち、
左手首を
もう一人が両手で持つ
という状況から始まります。
「両手を封じられた状態で、二人同時に投げる」
という、非常に難易度の高い技です。
当然ながら、
力任せに投げようとしても相手は二人。
ビクともしません。
お弟子さんたちも、
二人の氣と、重さと、力に
相当苦労されているようでした。
この技を
スムーズに行うための重要なポイントは、
「受けの二人を常に引っ付けておくこと」です。
二人が離れてしまっては力が分散し、
到底投げることはできません。
「二人を一つの塊のように扱う必要があります」。
師範として指導の場に立つ時、
私はいつも感じることがあります。
それは、
「合氣道の技は、人間関係や生き方そのものである」
ということです。
この二人掛けの極意もまた、
そのまま人生の教訓に通じます。
まず第一に、「姿勢」です。
相手を動かそうとする前に、
まず自分の姿勢が整っていること。
これは生き方において、
ブレない確固たる
信念を持つことに他なりません。
第二に、「結び」です。
相手と離れていては技は掛かりません。
相手を拒絶するのではなく、
思いやりと愛情を持って寄り添うこと。
その心の「結び」があって初めて、
人は動いてくれるのです。
そして最後に、
最も大切なのが「中心(バランス)」です。
二人掛けでは、
左右に相手がいます。
どちらか一方に
意識や力が偏れば、
もう片方を制御できなくなり、
技は成立しません。
つまり、
片方は投げることができても、
もう片方を投げることはできません。
これを
人生に置き換えて考えてみましょう。
右手が「内なる守り」
" 自分や子ども、家庭 " であるならば、
左手は「外への働き」
" 仕事、社会貢献、親や恩人のため " と
考えることができます。
自分や家族のことばかり
(右)に偏れば、
社会との調和を失います。
一方で、
外の仕事や社会のこと
(左)ばかりに氣を取られれば、
自分自身や家族がおろそかになってしまいます。
右にも左にも傾かない。
自分の信念は絶対にブレず、
他者も生かす。
どちらにも傾かない、
この絶妙なバランスを保つことこそが、
「中心の道」なのです。
「二人掛け」という
二人を同時に導くこの難技を通して、
私たちが歩むべき道は
偏りのない、調和の取れた
「天地のど真ん中」であることを学びました。
そして、
お弟子さんを指導する
私もまた、己のバランスを問い直す
貴重な一日となりました。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 相手が「天」なら、どうしますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 あいて が「てん」なら、どう します か? 』
私は
二ヶ月に一度、寄席に足を運びます。
高座(こうざ)に上がる
噺家(はなしか)の芸を見て笑うため?
もちろん、それもあります。
しかし、
真の目的は別にあります。
それは「学び」です。
不肖私は
合氣道琴心館寺崎道場の師範として、
僭越ながら、
日々お弟子さんの前に
立たせていただいています。
そこで指導にあたるのは
技の理合いだけではありません。
日本人としての在り方、
所作、心の持ちよう、生きる哲学。
それらを指導する際、
いかにして相手の心に言葉を届けるか。
噺家の立ち居振る舞い、
話の間合い、強弱、抑揚、そして表情。
高座という
結界の中から、全身全霊で放たれる「氣」。
それを浴び、
自らの糧とするために、私は寄席に通うのです。
ある夏の日の寄席で、
ある噺家のネタが、
人生の極意のように私の胸に刺さりました。
それは、
短氣な男を諭す、こんな一節でした。
あるところに、
ひどく短氣な男がいました。
氣に食わないことがあれば
すぐに怒鳴り、手が出る。
ある日、
丁稚が軒先で打ち水をしていたところ、
その水が
男の着物の裾にかかってしまった。
「どこに目をつけているんだ!」と、
男はまた烈火のごとく怒り、
丁稚を殴ろうとします。
そんな男に、ある人がこう諭しました。
「お前さん、道を歩いていて、屋根から瓦が落ちてきて頭に当たったらどうする?」
「そりゃあ、その家の主に文句を言って、殴り込んでやるさ」
「じゃあ、そこが空き家だったら?」
「持ち主を探し出して、やっぱり怒鳴り込んでやる」
「なるほど。じゃあな、木も一本も生えていない、見渡す限りの " ひろ〜い野原 " にいたとしてだ。
そこで突然、大雨が降ってきたらどうする? お前さんは、空に向かって喧嘩を売るのか?」
男は少し考えて答えました。
「……いや、そんな馬鹿なことはしねぇよ」
「なぜだ?」
「相手が『天』なら、仕方がない。あきらめるさ」
「そうだろう。なら、道行く人と肩がぶつかっても、水をかけられても、
それを『人』がやったと思わず、『天』がやったことだと思えばいい。
天がやったことなら、どうする?」
「……あきらめる」
この話を
聞いた時、私は膝を打つ思いでした。
ここで言う
「あきらめる」とは、
決して敗北や放棄を
意味するものではないと、私は思うのです。
「諦める(あきらめる)」の語源は、
「明らめる(あきらめる)」。
つまり、
物事の道理を明らかにし、
事実をありのままに受け入れる
という意味があります。
広野で雨に降られた時、
空に向かって
拳を突き上げても雨は止みません。
濡れるという事実があるだけです。
そこで怒り狂うのは、
己の「氣」を無駄に浪費するだけのこと。
合氣道も人生も同じです。
相手が掛かってきた時、
それを「敵」だと思い、
力でねじ伏せようとすれば
そこに衝突が生まれます。
しかし、
相手の力を、
雨や風のような「自然現象(天の働き)」として
捉えたらどうでしょうか。
雨が降れば
傘をさすように、
風が吹けば
柳がなびくように。
相手を「人」だと思うから、
自我(エゴ)がぶつかり合うのです。
相手が「天」だと思えば、
そこに争いは生まれません。
ただ、
あるがままを受け入れ、流すことができる。
「天が相手ならあきらめる」
腹が立つことがあった時、
理不尽な目に遭った時、
ふと空を見上げ
これは天の仕業なんだ。
そう腹をくくった瞬間、
私たちの心から無駄な力みが消え、
本当の意味での
「最強の自然体」になれるのかもしれませぬ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝