" 一つの技に一つの魂、一つの言葉に一つの魂 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
立冬【りっとう】初候
七十二候
第五十五候 山茶始開(つばきはじめてひらく)
11月7日~11日頃。
山茶花(さざんか)の花が咲き始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ひとつ の わざ に ひとつ の たましい。ひとつ のことば に ひとつ の たましい。 』
本日から「立冬」です。
暦の上では、いよいよ冬の始まりとなりますね。
朝の空氣が
一段と冷たく感じられるようになり、
日の出の時刻も
日に日に遅くなっているのを実感します。
本日11月7日
今朝の神戸の日の出も
6時25分と、
太陽が
顔を出すのが遅くなりました。
本格的な
寒さはこれからですが、
木枯らしが吹き、
冬の足音が
聞こえてくるようなこの時期。
体調には
十分、氣をつけて過ごしましょう。
さて、
私事ですが、
氣がつけば
今年で63歳を迎えました。
長いようであっという間、
この年齢になると、
身近な大切な人たちとの
永遠の別れを
経験する機会が増えてきます。
そうした現実を前に、
ふと胸をよぎるのは、
「私もいつ死ぬかもしれない」
という、命の有限性です。
人生は本当に
長いマラソンのようですが、
振り返ると
一瞬の夢のよう。
「まだ時間がある」と
油断していた日々こそ、
二度と戻らない
尊い時間だったのだと痛感します。
この一瞬一瞬は、
まさしく二度と戻ってこない、
たった一度きりの「ご縁」なのです。
だからこそ、
残された時間をどう生きるか。
僭越ではありますが、
不肖私は、
合氣道を通じて
この自らの問いに答えるなら、
「一つの技に、一つの魂」
「一つの言葉に、一つの魂」
という言葉です。
投げ技一つ、
受け身一つ、
手刀一つ、
その瞬間に
そこに全神経を集中させる。
お弟子さんにかける
激励の言葉一つ、
指導の言葉一つに、
真剣な思いと魂から語りかける。
これは何も
特別なことではありません。
この「今、ここ」の集中は、
人生のあらゆる瞬間に活きる心構えです。
家族と食卓を囲む時、
目の前の料理と会話に一心になる。
友人とお茶を飲む時、
その人の話に一心に耳を傾ける。
「いつか」のために
取っておいた時間など、どこにもありません。
私たちの人生は、
ただ「今、ここ」という連続でできています。
一呼吸、
一歩、
一つの挨拶。
それらが
二度とない
一瞬の結晶です。
今日という
尊い一日に感謝し、
本日もまた、
真摯にお弟子さんの前に立ちたい。
このブログを書きながら、
窓の外に目をやると、
暁の空はまだ深く、
心静かに夜明けを待っています。
この闇の中にこそ、
新たな一日の尊い始まりがあるのだと感じます。
皆さまにとっても、
感謝と実り多き一日となりますように。
素晴らしい週末をお過ごしください。
今週もありがとうございました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 一瞬でわかる!あなたの習慣と心の状態を映す「履物」の法則 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】末候
七十二候
第五十四候 楓蔦黄(もみじつたきばむ)
11月2日~11月6日頃。
野山の楓(かえで)や蔦(つた)の葉が、赤や黄に色づく頃という意味です。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 いっしゅん で わか る!あなた の しゅうかん と こころ の じょうたい を うつ す「はきもの」の ほうそく 』
スーパー銭湯や温泉施設、
本当に氣持ちがいいですよね。
ただ、
いつも氣になるのが、
トイレの履物 (スリッパや下駄) の乱れです。
グチャグチャに散らかったスリッパ。
片方が奥に、
もう片方が手前を向いている。
横や斜めに、
脱ぎ散らかされたままの状態。
「せっかく氣持ちよく入浴したのに、これではちょっと残念…」
そう感じた経験、ありませんか?
" 「乱れ」の原因はきっと家庭の習慣 "
乱れた履物を見ると、
「ああ、この方はきっとご自宅でも脱いだものを揃える習慣がないのだろうな」と
思ってしまいます。
もちろん、
深く考えていないだけかもしれません。
しかし、
公共の場での
こうした「無意識の行動」には、
日頃の習慣が色濃く反映されるものです。
家でやらないことは、
外でもなかなかできません。
" 揃っている履物がもたらす「快適さ」と「心のゆとり」"
トイレに入った瞬間、
スリッパがきちんと揃っていたら
誰でも
視覚的な心地よさが得られます。
また、
次に使う人が何のストレスもなく
サッと履けます。
履物が揃うだけで、
その空間全体の印象が格段に良くなり、
場が整います。
たったこれだけのことで、
利用する全員が快適になれるのです。
" 誰かの「乱れ」を直す「小さな親切」"
私は、
この乱れを目の当たりにした時、
ある「実験」を
試みるようになりました。
誰かが乱した履物も、
自分がサッと揃えておく。
すると、
不思議な現象が起きるのです。
自分が揃えた数時間後に
同じトイレに行ってみると、
スリッパは
揃っていることが圧倒的に多いのです。
誰かが
その「整った状態」を見て、
自然と意識して
揃えてくれたのかもしれません。
しかし、
帰り際にまたトイレに行くと、
再び乱れていることもあります。
その時もサッと揃えて、帰ります。
" 「履物を揃える」習慣が自分を変える "
この「乱れ」と「整え」のループ。
究極を言えば、
みんなが脱いだ履物を揃えて帰る。
これだけで
永遠に乱れることはありません。
そして、
「履物を揃える」という行為は、
単なる
マナー以上の意味があります。
仏教の言葉に
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」
というものがあります。
「自分の足元を見つめよ」
他人ばかりを氣にせず、
まずは自分の行動や心を調えなさい、
という意味。
それが転じて、
「履物を揃える」という
所作を大切にする
教えにもなっています。
自分の履物だけでなく、
人の履物の乱れにも氣づき、
そっと直してあげる。
これは、
自分の「心のゆとり」と
「他人への思いやり」の
バロメーターです。
たった一つの
小さな行動が、
自分自身の心を整えることに
つながるのです。
自分の履物は、
次に使う人のために必ず揃える。
もし乱れているものを見たら、
そっと直してあげる。
「乱れたものを整える」
この小さな習慣は、
やがて、
所作の美しい
" たおやか " な人へと
自分自身を
変えてくれるのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 子の運命を支配する種。親が子に残す「徳」の遺産 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】末候
七十二候
第五十四候 楓蔦黄(もみじつたきばむ)
11月2日~11月6日頃。
野山の楓(かえで)や蔦(つた)の葉が、赤や黄に色づく頃という意味です。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 こ の うんめい を しはい す る たね 。おや が こ に のこ す「とく」の いさん 』
" 子の運命を拓く! 「親の生き方」こそ最強の財産と教え "
道場長を務める私が、
稽古を通して
人の「生き方」というものを
日々見つめる中で、
最も重要だと感じる哲学があります。
それは、
親が子に遺すべき、
形のない、
しかし、
最も強力な財産についてです。
多くの親御さんは、
子の将来のために
有形の財産や
良い学歴といった
「結果」を残そうと努力されます。
しかし、
真に子孫の人生を支え、
導く力となるのは、
それら物質的な
ものだけではありません。
第一に子に残してやるもの、
それは、
親の生きてきた「生き方」、
「考え方」であります。
私はこの言葉に、
すべてが凝縮されていると思います。
私たちは日々の生活の
一挙手一投足を通じて、
子に
「人生の型」を伝えているのです。
" 「徳」か「不徳」か "
親の生き方が種となる。
合氣道の技には、
理合い(動きの法則)があり、
それを忠実に体得することで、
技は初めて生きたものとなります。
人生の「型」も同じです。
親の生き方こそが、
子にとっての人生の理合いとなります。
" 生き方が「よければ」、それが「徳」になる "
親が誠実に、
他者への感謝と敬意を持って生き、
世のため、人のためになる
生き方、働き方をし、
それを全うするための
困難に正対し、
諦めや安易な逃げ道を
選ばない姿勢は、
子にとって
揺るぎない心の軸となります。
この「徳」は、
子孫の道に光を灯し、
人生の厳しい荒波を乗り越える
精神的な力(氣)となります。
" 生き方が「悪ければ」、「不徳の種」になる "
たとえ言葉で
正論を語っても、
親が自分のことや
家族のことしか考えず
不誠実であったり、
その責任から逃げる姿勢を
見せたりすれば、
それは子にとって
致命的な「不徳の種」となります。
この種は、
子の心に疑念や不安を植え付け、
人生において
誤った選択をする
「悪いくせ」として、
子孫の運命、性格に
深くかかわっていくのです。
この「徳」または
「不徳」の種が、
やがて芽吹き、
その子の運命を支配していくのです。
" 合氣道の教えに見る「無言の力」"
私たち
合氣道の師範は、
言葉で教える以上に、
自らの身体の使い方、
間の取り方、
動くタイミングといった
技や立ち居振る舞いを通して、
「生き方」
そのものをお弟子さんに示します。
道場で真摯に
稽古に向き合う姿は、
親が家庭で
人生に向き合う姿と同じです。
子に示すもの、
残すべきものは、
「どれだけ成功したか」
という結果論ではなく、
「どういう姿勢で生きたか」
という親の背中です。
親が人生の道場で
常に学び、
成長し、
失敗しても
受け身を取り、
再び
立ち上がる姿を見せること。
それこそが、
子孫の人生を豊かにし、
社会を力強く生きていくための
「力」となるのです。
私たち
子を持つ親は、
今日という日を大切に、
徳を積む生き方を選択し続けること。
それこそが、
子孫の運命を明るく照らす、
最高の「遺産」となるのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 不完全さの美学。「侘び・寂び」の心で愛でる十三夜の月 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】末候
七十二候
第五十四候 楓蔦黄(もみじつたきばむ)
11月2日~11月6日頃。
野山の楓(かえで)や蔦(つた)の葉が、赤や黄に色づく頃という意味です。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ふかんぜん さ の びがく。「わび・さび」の こころ で め で る じゅうさんや の つき 』
先日11月2日の十三夜、
多くのお弟子さんから
「先生、先月の十五夜に続いて、ばっちりお月見ができましたよ」と、
美しい月の写真が
LINEで送られてきました。
毎月、
不肖私がこのブログ同様に
全身全霊で書く
合氣道琴心館寺崎道場
会員向け会報誌
「ぼくらの合氣道」を熱心に熟読し、
古くから伝わる
日本の風習を大切にしてくれる姿勢に、
心から感謝しています。
" 風に流された一瞬の美。神戸で見た十三夜 "
私の住む神戸では、
十三夜当日は風が強く、
全般に曇りがちの空模様でした。
正直なところ、
「今夜のお月見は難しいかな」と
半ば諦めていたのです。
しかし、
ある商業施設の屋上駐車場から
ふと空を見上げた、そのほんの一瞬。
強い風に流された雲がちぎれ、
そこから顔を出した十三夜の月を、
運良く拝むことができました。
十五夜の満月に比べて、
十三夜の月は満月の2日前という
わずかに欠けたその月は、
やはりどこか儚げで、
深い味わいがありました。
「一瞬でも見られたことの喜び」。
この体験こそ、
合氣道の稽古や人生にも通じる
大切な教えを
運んでくれたように感じています。
" 十五夜だけでは「片月見」? 二夜の月見をする理由 "
古来より、
日本には十五夜(中秋の名月)だけでなく、
その約一ヶ月後の
十三夜(後の月)も合わせて
二度お月見をする風習があります。
十五夜が中国から伝わった
風習であるのに対し、
十三夜は
日本独自の風習とされています。
この二つの月見を
セットで行うことを
「二夜の月(ふたよのつき)」とも呼びます。
なぜ二度か?
これにはいくつかの意味があります。
収穫への感謝
十五夜は芋などを供える
「芋名月」として収穫前の豊作を祈り、
十三夜は栗や豆を供える
「栗名月」「豆名月」として
収穫後の感謝を捧げるという、
秋の収穫祭としての意味合いがありました。
縁起担ぎ
どちらか片方の
お月見しかしないことを
「片見月(かたみつき)」と言い、
昔から縁起が悪いと
忌み嫌われました。
両方拝んでこそ、
正式な感謝とされ、
福を招くと考えられてきたのですね。
" 完璧ではない「十三夜の美」にこそ、合氣道の教えが宿る "
さて、
お弟子さんから送られてきた
十三夜の月は、
十五夜の満月に比べて、
少しだけ欠けていました。
私が見た、
雲の切れ間からの
十三夜の月も欠けていました。
この完璧ではない形にこそ、
私は深い意味があると感じます。
十五夜が
「完成」された満月ならば、
十三夜は「未完成」の月。
しかし、
このわずかな歪み、
満ち切らない美しさこそが、
私たち日本人が古くから愛する
「侘び・寂び」の心に
通じるのではないでしょうか。
合氣道の稽古もまた、
常に「未完成」の状態です。
技に完璧はありません。
今日はできたと思っても、
相手が変われば、
次の瞬間には崩れるかもしれない。
もっと言えば、
心が落ち着く深度に100%はない。
行き着くところはないのです。
私たちは、
丸い満月のような
完成された状態を
目標としながらも、
欠けた月のような
未熟な自分を受け入れ、
その不完全さの中で、
たゆまず精進を続けることに
価値を見出します。
完璧ではないからこそ、
次がある。
未完成だからこそ、
明日も道場へ向かう情熱が湧く。
"「今、ここ」の満ち欠けを受け入れる "
十五夜と十三夜、
形は違えど、
どちらの月も
私たちに秋の恵みと
静かな安らぎを与えてくれます。
この二つの月見は、
「完成と未完成」の両方を愛(め)で、
「今、ここ」にある
自分の満ち欠けを
受け入れることの大切さを
教えてくれているように思います。
お弟子さんたちが送ってくれた
見事な十五夜の月、
また完璧ではない十三夜の月。
その両方の写真を見るたびに、
私自身もまた、
この「二夜の月」の教えを胸に、
本日からの指導に
励もうと、襟を正しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「共に生きよう。」胸を打たれたアシタカの不動心に学ぶ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】次候
七十二候
第五十三候 霎時施(こさめときどきふる)
10月28日~11月1日頃。ときどき小雨が降る頃。
小雨はすぐに止んでしまうような降っては止み、すぐに晴れるといった時雨(しぐれ)のことを指します。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 " とも に いき よ う " むね を うたれ た アシタカ の ふどうしん に まな ぶ 』
『もののけ姫』
4Kデジタルリマスターが
期間限定でIMAX上映されています。
いまさらながら、
私はこれまで『もののけ姫』を
じっくり観たことがありませんでした。
次女から
「お父さんにちゃんと観てほしい」
そう誘われ、
昨日10月30日(金)、
『もののけ姫』IMAX上映を鑑賞しました。
私にとって人生初のIMAX体験です。
IMAXの圧倒的な音響と映像は、
森の神々や
巨大な動物たちの
息づかいを肌で感じさせ、
私を
深く作品の世界へと引き込みました。
『もののけ姫』は、
単なるファンタジーや
環境保護の物語ではなく、
私たち人間に突きつけられた
根源的な問いであり、
「生きる」ことの
全容を描き出した作品ですね。
"『もののけ姫』が私たちに訴えかけた、人間と世界の根源的な真実 "
次女とのIMAX鑑賞体験を経て、
私は『もののけ姫』という映画が
私たちに
何を訴えようとしたのかを、
深く考え直しました。
この映画は、
私たちに二つの根源的な真実を
訴えかけているように思います。
一つ、
「憎しみ」の連鎖と、「共に生きる」道の困難さ
『もののけ姫』の物語は、
森の神々、人間、動物たちが、
それぞれの「生きる」ための
正義やエゴをぶつけ合った結果、
「憎しみ」と「呪い」が
連鎖していく様を描いています。
人間は、
より豊かな生活、病者の救済、
差別からの解放という
「生きる」ための前進のために、
森を破壊する。
森の神々・動物は、
人間の勝手な欲望に対し、
自らの「生」と
「居場所」を守るため、
激しい怒りと憎しみをぶつける。
この対立は、
どちらかが一方的に
「悪」ではないのですね。
どちらも
「生きたい」という
本能的な
欲求のために戦っているのです。
この映画が訴えるのは、
「どちらが正しいか」という
簡単な答えではなく、
「どうして人は争うのか」
「どうして憎しみは連鎖するのか」
という、
人類が文明を持つ
以前から抱える
根本的な
問いかけではないでしょうか。
そして、
この憎しみの連鎖を断ち切るには、
アシタカが示したような
「曇りなき眼」で、
相手の「生の尊厳」を認めるという、
困難な道しか
ないことを訴えかけているのですね。
二つ、
「生と死」は一体であり、
世界はつながっているという真実
この映画が
私たちに最も強く
訴えかけるテーマは、
「生と死の捉え直し」であると
私は感じました。
人間は、
自らの「死」を恐れ、
呪いを避け、
少しでも長く、
豊かに「生きたい」と願います。
しかし、
タタリ神の呪いも、
シシ神の圧倒的な生命力も、
※(この部分はネタバレになるので、削除しました。)
私たちに次のように語りかけます。
「生」の裏には必ず「死」がある。
「死」は終わりではなく、
次の「生」を生み出す糧となる。
土に還り、命を育む。
天地大自然とは、
すべての命が絶えず生まれ、
死に、
循環しあう巨大な生命体である。
アシタカがサンに語る
「シシ神さまは死にはしないよ。生命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」
という言葉は、
まさに合氣道が目指す
「天地と一体になる」、
つまり
「万物愛護」「万物育成」に通じる、
壮大な死生観なのですね。
『もののけ姫』は、
「人間は、自然や動物とは切り離された、特別な存在ではない」
という真実を、
凄まじい大迫力をもって
私たちに突きつけます。
そして、
この「繋がっている世界」の中で、
私たちは
「憎しみに身を委ねるな」
「共存の道を考え、それぞれの場所で生きろ」
というメッセージを受け取るのですね。
私たちが
『もののけ姫』を観て、
遠いファンタジーだと
感じる一方で、
現実社会では、
アシタカたちが直面したような
「人間と獣の避けがたい対立」が、
今、深刻な形で起こっています。
特に今年は、
北海道や東北地方で、
クマが人間を襲う被害が
多発するという
痛ましい問題が
連日報道されています。
獣側の論理としては、
かつて森だった場所が
人間の生活圏となり、
餌場を失った熊が、
人間の世界に
踏み込まざるを得なくなっている。
そして、
ここに来れば
食べ物があるということを学んだ。
これは、
森を奪われた獣たちの
ある意味
「生きるための怒り」の表れとも
捉えられるのではないでしょうか。
人間側の論理としては、
命を守るため、
生活を守るため、
危険な個体を駆除せざるを得ない。
これは、
エボシ御前たちが
生存のために森を切り開いた
「やむを得ない業」と
同じ苦悩かもしれませんね。
映画で描かれた対立は、
まさしく現代の日本で起きている、
「共存の問題」を
示していると言えます。
『もののけ姫』が
私たちに訴えかけたのは、
「共存は美しい理想郷ではない」という
厳然たる真実です。
共存とは、
安易な「仲良しごっこ」ではなく、
互いの存在と、
それに伴う危険を認め合い、
互いの存在を尊重する。
「万物の霊長」として
生まれた人間にはその能力がある。
痛みと苦悩の中で、
それでも
「共に生きる道」を
探し続けるという、
血の滲むような
覚悟を必要とすることなのです。
合氣道でいう「和合」とは、
単に調和するだけでなく、
対立する力を
すべて受け入れる
「器」を持つことなのです。
この映画は、
私たち現代社会を生きる
すべての人に、
自らの「生」と、
周囲のすべての
命との関係性を問い直し、
真の「共存の道」とは
何かを考えさせる、
決して簡単な道ではない、
不朽の問いかけなのですね。
「どうやった?お父さん」
「観て良かったやろ?」
次女からの問いかけに
「観て良かった。ありがとう!」
と素直に答えました。
「お父さんにちゃんと観てほしいねん」
この誘いがなければ、
もしかしたら、
この先も
観ることはなかったかもしれませぬ。
また、
ポップコーンが
こんなにも美味かったのかと思いました。
ワッハッハ。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝