2026-02-12 03:16:00

" 敗戦で消え、復活した祝日。私たちが受け継ぐべきもの "

今朝目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

 

本日は、二十四節氣

立春(りっしゅん)次候

 

七十二候

第ニ候 黄鴬睍睆(うぐいすなく)

2月9日~13日ごろ。

春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれる

ウグイスが、春の到来を告げるように

山里で鳴き始めるころ。

 

 

 

 

 

今日の " 道場長の一日一心 "

​『 ​​​はいせん で きえ、ふっかつ した しゅくじつ。わたし たち が つけつぐ べき もの 』

 

 

 

 

 

​昨日2月11日は

「建国記念の日」でした。

 

 

​この日は、

「建国をしのび、国を愛する心を養う」という

趣旨の国民の祝日です。

 

 

 

私たち

日本国民一人一人が、

 

我が国の

長い成り立ちをしのび、

 

今日に至るまでの

先人の努力に思いをはせ、

更なる国の発展を願う日です。

 

 

 

 

​例年であれば、

私は奈良県にある

 

橿原神宮(かしはらじんぐう)

「紀元祭」へと足を運びます。

 

 

 

 

『日本書紀』に記された

建国の地、橿原。

 

 

ここは、

天照大神の末裔(まつえい)である

神武天皇が、

 

九州・高千穂からの

過酷な東征を経て

たどり着いた約束の場所です。

 

「平和な国を築く」という

不屈の志のもと、

 

畝傍山(うねびやま)の麓に

橿原宮が開かれたことで、

 

「日本」という国の

長い歴史が始まりました。 

 

 

 

 

この地で執り行われる

「紀元祭」は、

 

橿原神宮にとって

年間で最も重要な祭典であると同時に、

 

天皇陛下の御使いである

「勅使(ちょくし)」をお迎えする

「勅祭(ちょくさい)」でもあります。

 

 

勅祭とは、

古来より朝廷の崇敬が

極めて厚い神社に対し、

 

陛下からの

お供え物(幣帛へいはく)が

捧げられ、

 

御祭文が奏上される

格式高い儀式のこと。

 

 

 

 

現在、

この「勅祭」が執り行われるのは、

 

全国約8万社ある

神社の中でも、

わずか17社のみだそうです。

 

 

その中でも、

別格の存在とされる

 

「伊勢の神宮(伊勢神宮)」を除き、

 

「勅祭社」

定められているのは、

以下の16社に限られています。

 

 

【勅祭社 16社】

​賀茂別雷神社(上賀茂神社/京都府)

​賀茂御祖神社(下鴨神社/京都府)

​石清水八幡宮(京都府)

​春日大社(奈良県)

​氷川神社(埼玉県)

​香取神宮(千葉県)

​鹿島神宮(茨城県)

​熱田神宮(愛知県)

​出雲大社(島根県)

​宇佐神宮(大分県)

​香椎宮(福岡県)

​橿原神宮(奈良県)

​平安神宮(京都府)

​明治神宮(東京都)

​近江神宮(滋賀県)

​靖國神社(東京都)

 

 

 

​ここ橿原の地が

いかに特別な場所として

守られてきたか。

 

 

その歴史の深さと重みを、

改めて感じずにはいられません。

 

 

 

 

​しかし

今年は叶わず、

 

地元の神戸にある

「生田神社」の紀元祭にて、

遥拝(ようはい)を行いました。

 

 

 

 

" 遥拝とは "

 

遠く離れた場所から

その方角に向かって拝むこと。

 

 

全国各地の神社で

紀元祭が執り行われ、

 

多くの人々が橿原の方角、

すなわち日本の原点に向かって

祈りを捧げました。

 

私もその一人として、

静かに手を合わせました。

 

 

 

 

​長い長い歴史の中で、

私たちの国、日本は

 

幾度となく大きな

困難や試練に直面してきました。

 

 

 

明治維新、

戦後復興、

高度経済成長。

 

 

 

その度に先人たちは、

勇氣と希望を持って立ち上がり、

 

社会変革を実現することで、

数多の国難を乗り越えてきました。

 

 

 

自由と民主主義を守り、

人権を尊重し、

 

法を貴ぶ

国柄を育て上げたその歴史。

 

 

 

今の我が国の発展は、

これまでの国民一人一人の

 

弛まぬ努力の

礎(いしずえ)の上にあります。

 

 

 

 

​折しも今年は、

昭和元年から起算して

満百年の節目の年です。

 

 

 

​激動の昭和、

戦禍や災害を乗り越え、

 

今日の日本の礎を

築かれた先人たち。

 

 

その不屈の

叡智(えいち)と努力を、

 

私たちは

受け継がねばなりません。

 

 

 

次代を担う若者が

日本の未来を信じ、

 

心から

「希望」を抱ける国へ。

 

 

 

 

この日本列島を、

より「強く、豊かな」ものへと

育んでいく。

 

 

 

日本の誇るべき国柄を、

未来を担う次の世代へと

しっかりと引き継いでいくこと。

 

 

 

 

それこそが、

現代(いま)を生きる

私たちの責務だと感じています。

 

 

 

 

橿原の杜(もり)に想いを馳せ、

来年こそはこの地で

祈りを捧げたく存じます。

 

その時まで、

一日一日を大切に。

 

 

今日よりまた、

合氣道の研鑽(けんさん)と

指導に邁進いたします。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2026-02-11 07:50:00

" 建国記念の日 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

 

今日は2月11日、

「建国記念の日」です。

 

 

「建国をしのび、国を愛する心を養う」

という趣旨の下に、

 

更なる国の発展を願う

国民の祝日です。

 

 

今日は

全国各地の神社で

「紀元祭(きげんさい)」

祭典が執り行われます。

 

 

 

 

「紀元祭」とは、

初代天皇である神武天皇が

即位された日を祝い、

国の安泰を祈るお祭りです。

 

 

 

神武天皇が

お祀りされているのは、

 

奈良県の

「橿原(かしはら)神宮」。

 

 

 

​この日、

宮中や全国の神社では、

 

この橿原神宮の

方角に向かって拝礼する

 

「遥拝(ようはい)」

行われます。

 

 

 

 

遠く離れていても、

想いをその場所へ馳せ、

深く頭を下げる。

 

 

 

これは、

私たちの国が始まった

「原点」を確認することでもあります。

 

 

 

 

​私たち

合氣道を学ぶ者にとっても、

 

この「遥拝」の心

非常に通じるものがあります。

 

 

 

道場に入り、礼をする。

お互いに礼をする。

 

 

 

その所作の一つひとつは、

単なる形ではなく、

感謝と敬意の表現です。

 

 

 

 

​今日は「国の礎(いしずえ)」、

奈良の橿原の方角を意識してみましょう。

 

 

 

自分がいま

立っているこの場所と、

 

遥か昔から続く

歴史の原点が、

 

一本の線で

繋がっている感覚。

 

 

 

その繋がりを感じることで、

身体の軸(中心)もまた、

自然と整います。

 

 

 

「国を愛する心を養う」

という言葉。

 

 

 

 

「繋がりを大切にする心」

 

 

 

先人との繋がり、

自然との繋がり、

そして目の前の稽古相手との繋がり。

 

 

 

相手と争うのではなく、

和合する。

 

 

 

 

その合氣道の精神

そのものが、

 

日本の風土が育んだ

「和の心」であり、

 

国を愛することの

実践だと私は思います。

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2026-02-10 03:28:00

" 【古を歩く】 伝説の武将が歩いた道。 綱の手引坂 編 "

今朝目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

 

本日は、二十四節氣

立春(りっしゅん)次候

 

七十二候

第ニ候 黄鴬睍睆(うぐいすなく)

2月9日~13日ごろ。

春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれる

ウグイスが、春の到来を告げるように

山里で鳴き始めるころ。

 

 

 

 

 

今日の " 道場長の一日一心 "

​『 ​​​【いにしえ を あるく】 でんせつ の ぶしょう が あるい た みち。 つなのてびきざか  へん 』

 

 

 

 

 

※前回の記事はコチラ

 

さて、お正月の東京出張

坂道巡りの続きです。

 

 

東京という街は、

コンクリートのジャングルの

ように見えて、

 

一歩路地に入ると

江戸の骨格が

 

そのまま

残っていることに驚かされます。

 

 

 

​以前から、

私がどうしても訪れたかった場所。

 

 

 

それが

港区三田 (みた) にある

 

「綱の手引坂(つなのてびきざか)」です。

 

 

​地下鉄都営三田線三田駅、

JR田町駅から徒歩約3分ほど、

 

港区三田一丁目四と

二丁目六の間にある坂道です。

 

 

 

平安時代の勇猛な武将、

源頼光の四天王の一人である

 

「渡辺綱(わたなべのつな)」

由来するこの坂。

 

 

 

渡辺綱は

鬼の腕を切り落としたなど、

 

英雄伝説として

名を残した武将ですね。

 

 

 

この「綱の手引坂」という

ユニークでインパクトのある

坂名の由来は、

 

彼がこの地で生まれ、

幼少の綱が、

 

姥に手を引かれて

この坂を行き来したことから

名付けられたとか。

 

また「姥坂(うばざか)」と

呼ばれていたという説もあります。

 

 

 

大都会 東京の真ん中、

オーストラリア大使館、

綱町三井倶楽部の道沿いに

ひっそりと佇むこの坂道。

 

 

 

 

一歩足を踏み入れると、

そこだけ空氣が

凪 (な) いでいるような、

不思議な静けさがありました。

 

 

 

その静かな坂道を

ただ景色を眺めて

歩くのではありません。

 

 

 

 

かつて

この急坂 (きゅうはん) を、

 

踏みしめた

人々の身体感覚を想像するのです。

 

 

 

現代の私たちが履く靴は、

特に指先に意識を置かなくても

脱げることはありません。

 

 

 

しかし、

その結果、

 

私たちの姿勢が

踵よりの不安定な姿勢を

 

作り出した原因でもあると、

私は思っています。

 

 

 

 

 

話を元に戻すと、

 

当時の

雪駄や下駄、

草鞋といった履物は

 

常に指先に意識がなければ

簡単に脱げてしまう。

 

 

 

おそらく、

臍下の一点を据え、

重力に逆らわず、

 

全身の重みが

自然と軽く母趾球にかかり

大地を踏みしめていたはず。

 

 

 

 

そして何より、

この「手引き」という名前。

 

 

 

 

これこそ、

人生にも合氣道にも通じる

極意ではないかと感じ入りました。

 

 

 

 

​馬であれ、鬼であれ、

何かを「引く」時。

 

力任せに引っ張れば、

相手は抵抗し、綱は切れます。

 

 

 

相手の心を感じ、

氣を合わせ、

 

抵抗させないように

導くことで

 

はじめて、

重いものも動かすことができる。

 

 

 

まさに「導き」です。

 

 

 

 

 

そんなことを考えながら、

私たちがこの急坂を下っていた、

ちょうどその時のことです。

 

 

 

​一台の自転車が

風のように私たちを追い抜き、

坂を下っていきました。

 

 

お母さんです。

 

続いて、

小学低学年くらいの男の子が、

 

小さな自転車で

一生懸命に後を追っていきます。

 

 

 

​先を行くお母さんは、

坂の下まで降りきったところで

自転車を止め、

 

振り返って

じっとお子さんを待っていました。

 

 

 

やがて

追いついた少年と、

 

ふたこと三こと、

言葉を交わす二人。

 

 

 

 

お母さんの眼差しが、

見えない糸で

少年をふわりと引き寄せ、

 

安全な場所へと導いた、

そんな温かな光景でした。

 

 

 

 

 

二人はまた軽やかに、

ペダルを漕いで

走り去っていきました。

 

 

 

​その

あまりに自然な阿吽の呼吸。

 

 

 

 

隣で

案内をしてくれていたお弟子さんと、

思わず顔を見合わせました。

 

 

 

「まるで、姥(うば)が幼い綱の手を引いているようですね…」

 

 

 

一千年の時を超え、

目の前の親子の姿が、

 

この坂の名の由来と

完全にリンクした瞬間でした。

 

 

 

 

形は見えずとも、

そこには確かな

「手引き (導き) 」があった。

 

 

 

 

古の伝説が、

現代の日常の中にふと蘇る。

 

 

その不思議な巡り合わせに、

私たちは静かな感動を

覚えずにはいられませんでした。

 

 

 

 

​何百年、何千年も前の

武将、侍、庶民が、

 

この坂で何を感じ、

どう「心と身体」を使っていたのか。

 

 

 

 

石垣の苔や、風、

場に流れる氣、

足裏から伝わる地面の凹凸。

 

 

 

そういった情報

すべてを五感で受け止めること。

​感性を磨くこと。

 

 

 

​道場の畳やマットの上だけが

稽古場ではありません。

 

 

 

 

歴史ある坂道を歩き、

先人の息吹に

耳を澄ませることもまた、

 

合氣の心を養う

大切な時間なのだと、

この坂は教えてくれました。

 

 

 

皆さんも、

近くにある「古」を探して

歩いてみてはいかがでしょうか。

 

 

きっと、

新しい感性が開くはずですよ。

 

 

 

 

 

 

さて、

次はどの坂が、

私たちを待っているのでしょうか。

 

 

 

 

​古の江戸を歩く旅、

まだまだ続きます。

 

 

 

 

​過去の坂巡りのエントリーはコチラから

↓↓↓

雁木坂 中坂 檜坂 狸坂 冬青木坂

七面坂 二合半坂 狸穴坂 乃木坂

大黒坂 鳥居坂 一口坂 本氷川坂

芋洗坂 饂飩坂 永坂 於多福坂 鼠坂

植木坂 日向坂 神明坂

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2026-02-09 03:50:00

" 喝采の影にある「一憂」に、心を澄ませているか "

今朝目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

今週もよろしくお願いします。

 

 

 

本日は、二十四節氣

立春(りっしゅん)次候

 

七十二候

第ニ候 黄鴬睍睆(うぐいすなく)

2月9日~13日ごろ。

春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれる

ウグイスが、春の到来を告げるように

山里で鳴き始めるころ。

 

 

 

 

 

今日の " 道場長の一日一心 "

​『 ​​​かっさい の かげ に ある「いちゆう」に、こころ を すませて いる か 』

 

 

 

 

 

先の衆議院選挙。

 

 

街頭で候補者の演説に

耳を傾ける機会がありました。

 

 

候補者は、

自分の信じる正義を、本心を、

 

全身全霊で

聴衆に向けて熱弁していました。

 

 

 

その氣迫に呼応するように、

集まった大勢の支持者からは

 

「そのとおりだ!」と

大きな拍手が湧き起こる。

 

 

 

熱狂と一体感。

 

 

 

その場は、

強烈な「陽」のエネルギー (氣) に

満ちていました。

 

 

 

しかし、

ふと周囲を見渡した時です。

 

 

 

 

大勢が「一喜」するその隣で、

複雑な心境で

 

その話しを聞いている

人の姿が目に留まりました。

 

 

 

昨今、社会問題になっている

大声で叫びながら

 

演説の妨害をする輩とは

明らかに違う。

 

 

 

 

 

真剣にその候補者の話を聴いて、

 「それは少し違うのではないか」

 

 

言葉には出さずとも、

その表情、立ち姿からは、

 

周囲の熱狂とは異なる

「一憂」の氣配が漂っていました。

 

 

 

ごく少数かもしれない。

 

たった一人かもしれない。

 

 

 

 

でも、

その人が抱える違和感もまた、

 

その人にとっては

紛れもない真実なのです。

 

 

 

 

​場が熱狂に包まれた

拍手喝采の中で、

 

 

ふと空を見上げると、

 

 

 

 

「こういうことにも、

きちんと心を向けなさいよ」

 

 

 

 

そう、天地が

私に教えてくれたように感じました。

 

 

 

 

私たちが生きる

この世の中は「相対的」な世界です。

 

 

 

 

合氣道では一つの技で

 

入身(いりみ)と

転換(てんかん)という

 

二通りの投げ方を学びます。

 

 

 

それを

「表(おもて)」と「裏(うら)」と

呼ぶように、

 

物事には必ず両面があります。

 

 

 

 

強い光が当たれば、

必ず濃い影ができる。

 

 

プラスがあれば、

マイナスがある。

 

 

 

 

そのどちらか一方が

正しいのではなく、

 

日なたも日陰も、

どちらもが等しく「世界の真実」です。

 

 

 

 

どうしても私たちは、

自分に賛同してくれる人、

 

拍手を送ってくれる

「光」の側に心を奪われがちです。

 

 

 

 

けれど、

合氣道の求道者として、

あえて問いたい。

 

 

 

 

熱狂の中で

かき消されそうになる、

 

その小さな「一憂」に、

どれだけ寄り添うことができるだろうか。

 

 

 

それはとても難しいことです。

 

 

 

 

さはさりながら、

難しいからこそ、

 

その微かな氣配にも心を配れる

「心の余裕」が必要なのだと思います。

 

 

 

 

​大勢の拍手よりも、

一人の沈黙に耳を澄ませる。

 

 

 

 

そんな自分への戒めを、

選挙の喧騒と2月の冷たい風の中で、

強く感じた一週間でした。

 

 

 

 

道場での稽古も同じです。

 

 

 

 

投げと受け。

 

 

 

その目に見える

表層的なことだけでなく、

 

その奥に隠された

部分まで包み込めるような、

 

そんな『ぼくらの合氣道』を

共に探求していきたいものです。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2026-02-06 03:33:00

" 感性は「鬱屈」の中にこそ宿る。弟子に伝えた感性の磨き方 "

今朝目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

立春(りっしゅん)初候

 

七十二候

第一候 東風解凍(はるかぜこおりをとく)

2月4日~8日ごろ。

東から暖かい春風が吹いてきて、

厚い氷をゆっくり解かし始めるころ。

 

 

 

 

 

今日の " 道場長の一日一心 "

​『 ​​​かんせい は「うっくつ」の なか に こそ やどる。でし に つたえた かんせい の みがき かた 』

 

 

 

 

 

不肖私が抱く

合氣道哲学の根底にあるもの。

 

 

 

それは、

 

「合氣道とは、闘争技術ではなく、

人間としての『感性』

磨き上げるための道である」

 

という確信です。

 

 

 

私が心から敬愛し、

仰ぎ見る大先輩は

深淵な感性をその身に宿しておられます。

 

 

その大先輩にとって合氣道とは、

道場の中だけで完結するものではなく、

 

人生そのものの在り方として

昇華されているのです。

 

 

 

​一方で、

技の形状――いかにして投げるか、

 

いかにして関節を極めるか―

のみに固執する人はどうでしょうか。

 

 

彼らの眼には往々にして

「相手を倒してこそ」という、

 

勝敗や優劣に囚われた

刹那的な景色しか

映っていないように見受けられます。

 

 

 

 

先月、東京へ出張した際のことです。

 

 

 

 

ある日の稽古の終わりに、

私はその日道場に集まった

 

お弟子さん方に

向けてこう話しました。

 

 

​「合氣道というものは、感性を磨くことで上達するものです」

 

 

​その日の稽古が終わり、

皆が着替えを済ませて

帰り支度をしている時のことです。

 

 

一年ほど前に入門した

ある熱心な二十代の

女性のお弟子さんが、

私の元へ歩み寄ってきました。

 

 

 

彼女は真剣な眼差しで、

こう質問を投げかけてきたのです。

 

 

「先生、どうしたら

その感性を磨く稽古ができますか?

普段の生活で

何をすれば良いのか教えてください」 ​

 

 

 

なんて素直な

お弟子さんでしょうか。

 

 

 

経験上、

こういう「素直さ」

持っている人は、必ず伸びます。

 

 

 

学びを吸収する

心のスポンジが柔らかいからです。

 

 

 

そこで私は、

実際に私が長年実践していること、

 

そして私が大切にしている

「生き方」そのものを、

彼女に包み隠さず教えました。

 

 

 

「感性」とは何か ​。

 

 

 

そもそも感性とは、

印象を受け入れる能力であり、感受性。

 

また、感覚に伴う

感情・衝動や欲望のことです。 ​

 

 

 

 

合氣道の組技の稽古は

相手がいます。

 

 

その相手の表情や

立ち居振る舞い、

 

また相手に手を持たせたとき、

持ったときに

 

ほんの微細なことを

感じ取れるか。

 

 

 

 

私ごときが

僭越ではございますが、

 

それを感じ取れて

初めて相手の氣を

導くことができると私は思っています。

 

 

では、その感性を磨く稽古は

道場だけでするものでしょうか?

 

 

 

もちろん道場においても

少しづつ深めて行くことができますが、

 

やはり道場以外の

日常において

 

どれだけその稽古をするか

ではないでしょうか。

 

 

 

" 私流・日常を「稽古場」にする方法 "

 

 

私が実践している

具体的な「日常の稽古」は、

 

想像力を働かせ、

勝手にストーリーを作ることです。 ​

 

 

 

たとえば、

東京出張の際の新幹線の車内。

 

隣近所の人を見て想像します。

 

「この人は今からどこへ何をしに行くのか」と。

 

 

 

車窓から見える

風景も稽古相手です。

 

 

信号待ちをしている

車の運転手、

 

スーパーに出入りする

自転車や歩行者を見て、

 

「ああ、この人たちは何を買うのだろうか?今晩の食材か?」

 

「育ち盛りの子どもに明日持たすお弁当の食材を買ってきたのか?」

 

 

「自転車でこれからどこに行くのか?」

 

「仕事へ行くのか?帰宅するのかなあ?」

 

 

 

 

そうやって自分なりに

勝手にストーリーを作ってみるのです。 ​

 

 

 

 

また、

文化に触れることも大切です。

 

 

 

色んな分野の

色んな著者の本をたくさん読む。

 

色んな分野の

アーティストの音楽を聴く。

 

好む好まざるに関わらず、

あらゆるジャンルの映画を観る。

 

落語を聴きに寄席に行く。

 

 

 

そして、

ただ見るだけではありません。

 

 

氣に入ったドラマや

映画の俳優の台詞や言い回し、

表現の仕方を

 

誰かと会話する時に

実際に使ってみるのです。

 

 

氣に入った映画等で

実際に使われた場所に

行ってみることもあります。

 

 

俗に言う

「聖地巡礼」とは少し違います。

 

 

その場所で

今度は自分が映画監督に

なったつもりで

 

自分のオリジナルストーリーを作って、

そのワンシーンを

思い浮かべるのです。

 

人の真似ではダメ。

 

あくまで

完全オリジナルストーリーです。 ​

 

 

 

 

ほんの一部ですが、

こんなことも実践しています。

 

私は子どもの頃から

「怪談」が大好きでした。

 

人一倍怖がりのくせに

怖い話は聴きたくなるのです。

 

 

ただ大人になるにつれ

「怪談=怖いだけの話」だと思い、

 

怪談なんて子どもじみた

ものだと思って

見聞きもしなくなっていました。 ​

 

 

 

それが数年前に

" 宇津呂鹿太郎 " 

(うつろ しかたろう)さんという

 

怪談作家のツイートが

X(旧Twitter)で

タイムラインから流れてきました。

 

 

その投稿にはこうありました。

 

 

 

「怪談はただの怖い話ではなく、それは日本の文化だ」

 

 

 

なるほど!

素直な(笑い)私は早速、

宇津呂鹿太郎さんをフォローし、

 

何冊か著書も拝読し

数回怪談のイベントにも足を運びました。

 

 

怪談というのは

感性を磨くのに適しているのです。

 

 

話を聞くだけの

想像であるからです。

 

 

見えないものを観る力、

氣配を感じる力。

 

 

これは合氣道に通じます。

 

 

 

この「あっ、そうか!」と

素直にすぐに

行動することが大事なのです。

 

 

 

 

そしてもう一つ。

 

 

 

それは、

現在ご覧いただいている

 

このブログ

「ぼくらの合氣道」の執筆です。

 

 

 

下書き保存も含めれば、

その数は800件(令和8年2月現在)を

超えました。

 

 

 

たとえ睡眠時間が

1時間しか取れない

過酷な状況であっても、

 

私は平日の毎日、

午前3時に身を起こし、

スマホに向かいます。

 

 

漆黒の静寂の中で、

己の感覚を言葉として刻み込む。

 

 

 

この孤独な

作業の積み重ねは、

 

道場の畳の上だけでは

決して到達し得ない

 

精神の領域を

私に教えてくれています。 ​

 

 

 

 

また、

私は常日頃、

 

物事を深く

突き詰めて考える性分(しょうぶん)です。

 

 

 

それゆえ、

独りになった時、

 

ふと得体の知れない

「鬱屈 (うっくつ)」

 

苛まれる (さいなまれる)

ことがあります。

 

 

 

誤解しないで

いただきたいのは、

 

これは氣が枯渇 (こかつ) している

わけではありません。

 

 

 

氣は満ち満ちている

にも関わらず、

 

心に重い霧が

かかったように

物憂げ (ものうげ) になるのです。 ​

 

 

 

 

私は

今も未熟者ではありますが、

 

さらに未熟であった

若き日の私は、

 

そのような自身の弱さを

情けないと恥じていました。

 

 

 

不肖私、

道場や人前では

決してそのような影は見せません。

 

 

 

鬱屈が訪れるのは、

決まって孤独な刻(とき)です。 ​

 

 

 

しかし、

今になって

ようやく氣づいたのです。

 

 

 

 

光が強ければ

影もまた濃くなるように、

 

そうした

物憂げな心のひだに

触れる時間こそが、

 

「感性」を研ぎ澄ます

砥石になるのではないか、と。

 

 

 

孤独を知り、

己の弱さと対峙するからこそ、

 

他者の痛みを

我がことのように感じ取り、

 

相手の立場を

真に尊ぶことが

できるのではないでしょうか。 ​

 

 

 

 

私は、

傲慢 (ごうまん) で

独りよがりな、

 

わがままで

あつかましい人間にだけは

なりたくない。

 

 

人様の厚意に甘え、

あぐらをかくような人間にだけは、

死んでもなりたくない。

 

 

 

 

あの一人の

時間の鬱屈や物憂げは、

 

私がそうならないための、

神様が与えてくれた

 

「戒め」であり

「人生の稽古」なのです。

 

 

 

 

そうであるならば、

清濁 (せいだく) あわせ飲み、

 

私はただやるべきことを

淡々と遂行するのみです。

 

 

 

 

 

その日、

稽古の後に質問をしてきた

お弟子さんを含め、

 

6名のお弟子さん方が

帰らずに道場に残ってくれました。

 

 

 

私たちは、

差し入れにいただいた

熱々の「たい焼き」を頬張りながら、

 

車座 (くるまざ) になって

語り合いました。

 

 

 

甘い餡の香りが漂う、

道場での

 

とても貴重で

温かな時間でした。

 

 

 

 

 

​このブログは

不特定多数の方に向けて

発信しているため、

 

私の実体験

すべてを詳らか (つまびらか) に

ここに記すことはできません。

 

 

しかし、あの日道場で、

私は自身の泥臭い実体験や、

 

心の葛藤も

ありのままに吐露 (とろ) しました。

 

 

 

ここに残ってくれた

お弟子さん達には、

 

合氣道の技を超えた、

 

私の「生き様」そのものを

伝授するのが

 

師としての

責務だと感じたからです。

 

 

 

 

​私がその時に

話せるすべてを語り終えた時、

 

ふと見ると、

最初に質問をしてきた

 

あの女性のお弟子さんが、

ハラハラと涙を流していました。

 

私の拙い (つたない) 言葉の

何かが、

 

彼女の琴線 (きんせん) に

触れたのでしょう。

 

 

 

 

その清らかな

涙の姿は、

 

今も私の網膜に

焼き付いています。

 

 

​この日本女子は

もう既に、

素晴らしい「感性」の持ち主です。

 

 

 

その感受性をさらに磨き上げ、

やがては良き指導者として

 

後進を導く

光となっていただきたい。 ​

 

 

 

 

感性を磨く道に、

唯一絶対の正解はありません。

 

 

 

「私のやり方を真似しろ」などと

強制するつもりも夢ございませぬ。

 

 

 

 

あくまで

不肖私の実践経験を

一つの道標として、

 

「なるほど、そういう磨き方もあるんだな」と

捉えていただければ幸いです。 ​

 

 

 

そして、

ご自身なりの

「感性の磨き方」を発見し、

 

それを弛(たゆ)まず

実践していっていただきたい。

 

 

 

その日々の

積み重ねの先にこそ、

 

合氣道、いや

「生きるとはこういうことなんや」

 

という人生の真髄に

触れる瞬間が訪れることを、

 

僭越なから

私は切に願ってやみません。

 

 

 

 

 

今週もありがとうございました。

良い週末を。

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝