" 持つと持たされる "
今朝も目覚めることができた
ありがとう。
『もつ と もたされ る』
両手に物を持てば、
もう何も持てません。
朝食で
左手にコーヒーのマグカップ、
右手にトーストを持てば
テーブルに置いてある
バナナは持つことが出来ない。
コーヒーかトーストの
どちらかを
テーブルに置かねば、
バナナは食べることが出来ない。
両手に食べのもを
持っている間は
両手の自由が失われ、
その他のものとは
一切、縁が切れる。
一切のものとの
つながりが絶たれる。
持っているものを
放さない限り、
新たなご縁は結べない。
自由自在の手の働き、
いろいろなものと
自由自在に
ご縁を結ぶには、
執着しないことと
天地大自然のお許しがいる。
自らの意思でものを持つ、
それは掴んで持ったのである。
そこに執着が生まれる。
一方で
天地大自然のお許しで
持ったものには
何の執着もないのだ。
天地大自然のお許しで
持つものとは、
例えば、
手や足や口や目や耳などを
持ったまま、
飛行機に乗って
地球の裏側まで
何十時間の間、
座席で放りっぱなしで眠っても、
取り替える必要はない、
誰から盗まれるわけでもない。
持っていること自体、
忘れているから、
そこに執着など
あるはずもない。
それは天地大自然の
お許しがあって
持っているから、
持つ必要があって
備えられているからなのですね。
つまり、
持たされて持っていることと、
掴んで持つこととは
大きな違いがあるのです。
人と争い、
人を蹴落としてでも
掴んで持つ。
たとえそれが、
生きていくためであっても、
家族のためであっても、
子どもを養うためであっても、
社員の生活のためなどで
あったとしても、
それは、
災難や不幸と
縁を結ぶ持ち方です。
それとは逆に、
日々の行いにより
それと釣り合うだけの
徳があるのなら、
地位も名誉も富も、
いくらでも持つことができる。
天地大自然から
持つことを許される。
世のため、人のために
自分にできることを
人知れず、精一杯に
ひたすら徳を積む。
天地大自然に許されて
釣り合いのある持ち方をする。
これこそが、
正しい物の持ち方であり、
正しい生き方ではあるまいか。
近年、連続強盗事件が
各地で起きている。
同一犯罪グループが
闇バイトを募り、
起こした事件と
連日報じられている。
この場合、
目先の金欲しさに
SNSを通じて、
闇バイトに応募する。
それは将来の
不幸と災難との
縁を結ぶこととなる。
これは一目瞭然である。
然は然り乍ら、
狙われ被害に遭った
貴金属店や個人の家宅にも
不徳があったのではなかろうか。
釣り合わない物や金を
掴んで持ったために
不幸や災難との
縁を結んだのではあるまいか。
天地大自然に
許されて持った
富や財であるなら、
そのような
凶悪な災難とは
不縁であるはずである。
いつも
天地大自然は
誰に限らず
公平、平等だ。
今日も
持たされたものだけ
持つようにしよう。
自分と釣り合うものだけ
持っていよう。
今日も一日、
世のため、人のために
徳を積もう。
天地大自然と結ぶべき縁。
それは
幸せになるご縁、
嬉しくなるご縁、
楽しくなるご縁、
家族が喜ぶご縁、
子ども、孫も喜ぶご縁、
周りのみんなが喜ぶご縁、
何より尊いご縁を
結ぶことが大切でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 再びすれば斯に可なり "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ふたたび すれ ば ここ に か なり』
論語に
" 再びすれば斯に可なり "
という言葉がある。
一度きりではなくて、
もう一度検討すれば良い、
という意味である。
この毎日のプログの
書き込みも同様に、
一度、書き込んだ後で
少し時間をおいてから、
もう一度、読み直して
訂正したり、
更に加筆すると
全体が良くなる。
文章を十分に考え、
練りなおす。
この作業を
推敲 (すいこう) という。
何事も
やりっ放しにしない。
合氣道も同じだ。
習った技も
その場限りに
していてはいけない。
稽古が終わって、
自宅に帰れば
まだ覚えているうちに、
相手がいなくても
一人で反復練習してみる。
これが上達の
初歩的な秘訣だ。
一度で終わらず、
再びやってみる。
再び考えてみる。
「 再び 」というのは
何事においても
伸びる、
上達する、
その大切な要素でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 驚くほどの力を出せる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『おどろく ほど の ちから を だせる』
自分にはできない、
自分一人ではできない、
自分にはそんな力はない、
そのような言葉を
単なる言い訳にして、
努力を怠る者にとっては
冒頭の「できない」は
その通りだろう。
だって、
やろうとしないのだから、
そんな弱虫は何もできない。
一方で、
心は前向きで
やろうとする
意欲がある人が
言い訳ではなく、
自分のことを
そう思っているとしたら、
それは
「自分自身の力」を
過小評価している。
人は誰でも、
本氣になれぱ
ものすごい力を出せるものだ。
ただ、一つだけ
条件がある。
それは
「世のため、人のため」に
行動する時に限り、
自分でもおどろくほどの
力を出せるのだ。
「自分のため」に
やることは、
大した力は出せない。
これは絶対的な
天地大自然の法則だ。
それを
私は何度も体験し、
深く身にしみて実感した。
不思議と
「世のため、人のため」に
動き出したら、
おどろくほどの力を
出せるだけではなく、
自分の身の回りには
良いこと、
嬉しいこと、
楽しい現象が多く表れ、
良き師、
良き友、
良き書に恵まれた。
そして、
天地大自然と
完全に歯車が一致し、
回りだした。
これこそが、
天地大自然を
味方に付けた生き方であり、
天地大自然から
応援される生き方なのだと、
つくづく思うのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 護られている "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『まもられて いる』
私が現役サーファーだった
一昔前でも
ウェットスーツの
改良のお陰で、
真冬でも快適に
サーフィンできた。
当時は
背中の防水ジップから
ほんの僅かに
海水が入る程度であった。
現代では
さらに進化した
ウェットスーツの登場で
サーファーは
より快適になった。
サーフィン用に開かれた
サーフポイントには
温かいシャワーも
完備されているから
なんの問題もないが、
人知れず
波のある場所には
シャワーなどないものだ。
たとえ、
真冬であっても
海から上がれば、
シャワーは浴びたい。
そのために、
20リッターのポリタンクに
あらかじめ、
自宅から水を入れて
車に積んでおく。
寒風身を突き刺す、
真冬の野外で
氣合いを込めて
頭から水をかぶる。
当時の私は
「氣を出す」ことを
知らなかったから、
あたり構わず、
「うぉぉぉ~」
雄叫びをあげながら
かぶる。
あまりの冷たさに
黙ってかぶれないのだ。
一瞬にして、
身体が凍って
しまうのではないかと思う。
しかし、
熱を測っても
36度の平熱なのだ。
凍ってはいないし、
体温も下がってはいない。
それどころか、
タオルで身体を拭いて
洋服に着替えると、
逆にポカポカしてくる。
あまりの心地よさに
うつらうつらと
昼寝までしてしまうほどだ。
本当に
人間の身体の設計には
驚かされる。
天地大自然から
与えられた、
見事な
身体の設計である。
触れば、
大火傷ですまないほどに
赤々と、
いこった炭であっても
20リッターの
水をかければ、
冷えてしまうというのに。
本当にありがたいことです。
ここに
人間の身体は
物ではないことが
立証できる。
天地大自然から
いただいた賜であると思う。
このように、
私達人間は
天地大自然に護られて
生きているということになる。
そうであるなら、
自分で自分を
守ることなど、
本当に必要なことだろうか。
仮に、
必死のパッチで
自分を自分で
守れたとしても、
私達は
この世に生まれた限り、
いつかは死ななくては
ならないのだ。
いくら守っても
死ぬ時は死ぬのだ。
自分で自分を守ることほど
疲れるものはない。
それを必死で
やっている人の多くが
病んだり、怪我をしたり
廃人のような姿になる
場合が多々ある。
今まで、
そういう人を
たくさん見てきました。
その姿を通して、
自分で自分を守るという
ことが、
いかに天地の大道から外れ、
それとは真逆の方向に
歩んでいる。
まさしく
「理に適ってない」
それを学ばせていただいた。
「理に適ってない」ことを
「無理」というのである。
我々のことは
心配しなくても
天地大自然が
ちゃんと護っていて
くださるのだから、
安心して
やるべきをやる。
世のため、人のために
なること、
たとえ、
それが小さな事でも
自分にできる
精一杯のことを
やれば良いだけだ。
なんて簡単なこと
なのだろうと、
毎日、思うのでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 近くに簡単な道がある "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ちかく に かんたん な みち が ある』
やるべきことは
生活の中にあるのに、
すぐ近くにあるのに、
わざわざ、
遠くのことを
やろうとしている。
簡単で易しいことなのに、
自ら、難しい、
困難なことをやっている。
全くもって、
「ご苦労なことだな」と思う。
そんな難しいことに
エネルギーを費やす
時間があるのなら、
さっさと簡単な道を
歩んだらどうか。
時間的に、
経済的に、
やれない理由ばかりを
探している間は、
自分自身が、
苦しむばかりだ。
それに氣付いていない。
氣付かないから、
何年も前から
同じことを言ってる、
同じことをやってる。
この先、
来年も、再来年も
同じことを言って、
同じことをやるのである。
負の連鎖の繰り返し。
その負の連鎖を
断ち切る勇氣もない、
進歩なき愚か者である。
愚者は
難解なものを
好んで相手にする。
賢者は
素直に簡単な
ことから始める。
その違いだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝