" それは自分の意志の範囲内か、範囲外か "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣
雨水 (うすい) 次候
七十二候
霞始靆 かすみはじめてたなびく
第五候
「雨水」初候から次候へと移り、2月24日~28日くらいにあたります。
氣温も少しずつ上がり、日差しも春らしくなり、遠くの景色が淡くぼんやり見える日があります。
「霞がたなびく」とは、まさにそんな風景のこと。
霞は春に使われる言葉、またその現象を指し、春の霧のことを「霞(かすみ)」と呼ぶのですね。
また春以外では、霧や靄(もや)と呼ばれます。
今日のお題
『 それ は じぶん の いし の はんい ない か、はんい がい か 』
生きていると、
" どうしようもないこと " ってありますよね。
地震とか台風といった自然災害とか、
他人がどう思うかとか、過去の出来事とか。
でも、
そういう「自分の意志の範囲外」のことに
心を動かされても、
結局どうにもならないんです。
そういう
" 自分の力じゃどうにもならないこと " に、
いちいち心を乱されてたら、
心が疲弊してしまいます。
だから、
まずは「コントロールできること」と
「できないこと」を分けて考えよう。
たとえば、
コントロールできないこととは、
天災、他人の評価、過去の出来事など。
一方で、
コントロールできることとは、
自分の行動、考え方、努力など。
「自分のやるべきことをやろうとする」
これは自分の意志の範囲にあるものですね。
どうにもならないことは、
「ま、いっか!」くらいに
軽く受け流して、
自分にできることをするのが大事!
地震が起きたら、
地震そのものを止めることはできないけど、
防災グッズの準備はできるし、
家族で避難先の確認もできる。
他人の行動などは、
自分ではどうすることもできない。
でも、
" 人の振り見て我が振りなおす " ことはできる。
過去のことは変えられないけど、
そこから学んで次に活かすことはできる。
過去や未来のことを考えて、
不安になったり後悔したりするよりも、
「今、ここ」で
自分にできることだけをやろう!
今日やるべきことをやる。
人を喜ばすことをする。
自分の成長につながることをする。
自分にできることだけに集中すれば、
心が穏やかになって、
毎日がもっと楽しくなる。
" どうにもならないこと "
" 自分の意志の範囲にないこと " は
氣にしない。
一切、心を動かさない。
そして、自分にできることに集中する。
ただし、
それも容易なことでは到底ございませぬ。
徹底して、それをやる努力が要りまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" なぜ、それが起きたのかを考える人でありたい "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣
雨水 (うすい) 次候
七十二候
霞始靆 かすみはじめてたなびく
第五候
「雨水」初候から次候へと移り、2月24日~28日くらいにあたります。
氣温も少しずつ上がり、日差しも春らしくなり、遠くの景色が淡くぼんやり見える日があります。
「霞がたなびく」とは、まさにそんな風景のこと。
霞は春に使われる言葉、またその現象を指し、春の霧のことを「霞(かすみ)」と呼ぶのですね。
また春以外では、霧や靄(もや)と呼ばれます。
今日のお題
『 なぜ それ が おきた のか を かんがえ る ひと で ありたい 』
" 道でばったり知人に会った "
" 欲しかったものがたまたま安く手に入った "
" 歩いていたら突然、横道から自転車が出てきてぶつかった " …
私たちは日常生活で、
このような「偶然」の出来事に
遭遇することがあります。
しかし、
本当にそれはただの偶然なのでしょうか?
私は、常日頃より
「人生に偶然の出来事はない」と
考えています。
なぜなら、
道で知人に偶然出会ったとしても、
それは
「自分がその道を歩いた」という
行動があったからこそ
生まれた出来事だからです。
もし家にいれば、
その知人に会うことはなかったでしょう。
横道から自転車が飛び出してきて、
転んでケガをしたとしても、
その時にその道を歩かなければ、
転んでケガをしなくて済んだ。
つまり、
「偶然」とは、
自分の行動や選択によって
「必然的」に生まれるものなのではないでしょうか。
それが、
「天地大自然の法則」であると私は思います。
私たちは、
この法則が支配する自然の中で
生まれ、生きて、生涯を過ごします。
つまり、
私たちの行動や選択は、
天地大自然の法則と密接に関わっており、
「偶然」にみえる出来事も、
実は「必然的」な結果として
起こっていると考えられるのです。
たとえば、
以下のようなことがいえます。
「出会い」とは
「偶然」出会ったようにみえる人も、
実は過去の行動や選択が
引き寄せた「必然的」な出会いである。
「出来事」とは
「偶然」起きたようにみえる出来事も、
実は自然の法則や過去の行動が
もたらした「必然的」な結果である。
このように考えると、
「偶然」という言葉で片付けていた出来事も、
違った意味を持って
みえてくるのではないでしょうか。
「偶然」という言葉で片付けるのではなく、
「なぜそれが起きたのか」、
自分の行動や選択と
どのように繋がっているのかを考えることで、
人生はより深く、
より豊かなものになるはずです。
自分の身の周りに起こった
マイナスの出来事でさえ、
プラスの出来事に変えて
次への教訓にすることも可能です。
同じ過ちを
二度、三度繰り返す人は、
身の周りに起こる出来事を
「ただの偶然」としか、捉えていない人なのです。
「天地大自然の絶対的大法則」に
則るならば、
「なぜ、それが起きたのか」
それを考えるべきでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 日々の小さな体験こそ宝物 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣
雨水 (うすい) 次候
七十二候
霞始靆 かすみはじめてたなびく
第五候
「雨水」初候から次候へと移り、2月24日~28日くらいにあたります。
氣温も少しずつ上がり、日差しも春らしくなり、遠くの景色が淡くぼんやり見える日があります。
「霞がたなびく」とは、まさにそんな風景のこと。
霞は春に使われる言葉、またその現象を指し、春の霧のことを「霞(かすみ)」と呼ぶのですね。
また春以外では、霧や靄(もや)と呼ばれます。
今日のお題
『 日々の小さな体験こそ宝物 』
人間は、大小さまざまな
体験の積み重ねにより育っていきます。
たとえば、
食べ物や飲み物は
実際に口にしなければ、
その味を知ることはできません。
「甘い」「辛い」といった具体的な感覚は、
食べたり飲んだりする体験を通して、
初めて得られるものです。
このように、
「体験を積む」ということは、
決して特別なことではありません。
日々の小さな出来事の中に、
学びの種はたくさん隠されているのです。
人間は、
成功からも学びますが、
むしろ、失敗から
より多くのことを学ぶことができます。
仕事で「うまくいった」と感じた時も、
それで、やりっ放しにしては
いけないように思うのです。
「本当に成功だったのか?」
「もっと改善できる点はなかったか?」と
自問自答し、
自ら反省することで、
さらなる成長へとつながります。
たとえ平穏無事な一日であっても、
漫然と過ごすのではなく、
常に問題意識を持つことが
大切なような氣がします。
今日一日の出来事から何を学んだか?
次に活かせる教訓は何か?
このように、
日々の出来事を振り返り
内省することで、
どんな小さな体験も
人生の糧となり、
かけがえのない
大きな宝物になるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 教育とは共育であるべき "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣
雨水 (うすい) 初候
七十二候
土脉潤起 つちのしょううるおいおこる
第四候
「立春」末候から「雨水」初候へと移り、2月19日~23日くらいにあたります。
「雨水」とは雪から雨へと変わり、雪や氷が解け、農耕の準備をはじめる目安とされるころ。
雪から春の暖かな雨に変わり、冷たく固くなっていた大地が潤い、動植物が目覚めるころ。
今日のお題
『 きょういく( 教育 ) とは きょういく( 共育 ) で ある べき 』
あなたは
「共育(きょういく)」という言葉を
聞いたことがありますか?
「共育」とは、
子どもが成長に必要なことを
学ぶだけではなく、
子どもと接する親も一緒に学び
成長するという考え方です。
また、
親、教師、学校といった
教育権を持つ主体だけでなく、
多様な立場や
領域の人々や組織が
連携して教育を担うことも意味します。
それは「協育」とも呼ぶことができます。
「教育」とは「共育」であり、
また「協育」でもあるのです。
教育、養育、指導を行う側と
受ける側がともに学び、
成長することが重要なのです。
私は常々、
「誰もが教育者であるべき」
と考えています。
例えば、
子どもを持たない大人は
「私には子どもがないから関係ない」と
思うかもしれません。
しかし、
少し考えてみてください。
確かに子育てには
直接関わらないかもしれませんが、
大人は子どもの
「見習うべきお手本」で
あるべきではないでしょうか。
身近な例を挙げると、
当たり前ですが、
道を歩いていて
信号無視をしないことです。
いつどこで
子どもが見ているかわかりません。
ときどき、
子どもが信号を守っている傍らで、
自転車の後部に小さな子どもを
乗せた親が信号無視しているのを
見かけます。
なんて情けない親でしょう。
また、
大人だけでなく
子どもも立派な教育者となりえます。
合氣道の稽古は、
その目的も兼ね備えています。
合氣道から学ぶ「共育」の精神です。
道場では、
年上の子どもが年下の子どもに
丁寧に教え、
先輩が後輩を、
級が上の子どもが下の子どもを教えます。
年上の子どもが年下の面倒を見る。
その結果、
年下の子どもは年上を敬い、
年上は年下を慈しむ心が育まれます。
年下は年上の子どもとの
関わりを通して、
社会のルールや
他人との接し方を学ぶのです。
また、
年上や先輩を目標とし、
様々なことに挑戦する意欲が湧きます。
人に教えることは
最高の学びのアウトプットになり、
自分自身の学びも深まります。
人に教えることでの学びの深化は
子どもだけに限らず、大人も同様です。
これからの時代を担う
子どもたちのため、
日本をより良い国にするためにも、
社会全体で
信念を持って人を育て、
自分も育つ
「共育」を実践しましょう。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 私たちは生きながら、生まれ変わることができる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣
雨水 (うすい) 初候
七十二候
土脉潤起 つちのしょううるおいおこる
第四候
「立春」末候から「雨水」初候へと移り、2月19日~23日くらいにあたります。
「雨水」とは雪から雨へと変わり、雪や氷が解け、農耕の準備をはじめる目安とされるころ。
雪から春の暖かな雨に変わり、冷たく固くなっていた大地が潤い、動植物が目覚めるころ。
今日のお題
『 わたし たち は いきながら うまれ かわる こと が できる 』
人間は生まれ変わる。
" 輪廻転生 " という言葉があるが、
それが本当にあるのかどうか、
私たちに知る由もありません。
なぜなら、
私たちは
まだ死んでないからです。
まだ一度も
死んだことがない人から
「輪廻転生はあるのだ」
そう言われても
全く説得力はありません。
しかし、
確実に言えることは、
私たちは
" 生きている間に、何度も生まれ変わることができる "
ということです。
それは
肉体的な生まれ変わりではなく、
" 心の成長 "
という意味での生まれ変わりです。
私たちは
日々、様々な経験をします。
その中で
喜びや悲しみ、
怒りや感動など、
様々な感情を抱きます。
そして、
時には自分の未熟さや過ちを
痛感することもあるでしょう。
しかし、
それらの経験を通して、
私たちは少しずつ成長していきます。
新しい知識を身につけたり、
新しい価値観に触れたり、
良き友や、良き師、良き書に
巡り合ったりすることで、
物事に対しての考え方や感じ方が
変わることがあります。
また、
人との出会いや別れ、
成功や失敗などを経験することで、
人間として
深みや奥行きが増すこともあります。
もちろん、
成長には苦痛や挫折、葛藤が
伴うこともあります。
しかし、
それを乗り越えることで、
私たちはより強く、
より優しくなることができるのです。
私たちは
" 生きている間に、何度も生まれ変わることができます "
それは
過去の自分との決別であり、
未来の自分への希望でもあります。
私たちは
昨日までの自分よりも、
今日、そして明日へと、
より良く自分を成長させて
生きていくことができます。
その過程こそが、
私たちが人間として
「この世に生を享けた」
生きる意味
そのものなのかもしれませんね。
人間は生きている間に、
いくらでも生まれ変われるのです。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝