2024-05-27 07:09:00

" 継続と反復は相違なるもの "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『けいぞく と はんぷく は そうい なるもの』

 

 

 

 

 

継続という言葉がある。

 

 

 

「継続は力なり」という。

 

 

 

物事を成就するためには

 

日々の正しい努力の

 

積み重ねが重要だ。

 

 

 

こうした一日一日が

 

幾重にも積み重なっていく。

 

 

 

 

 

このように

 

継続することで、

 

 

 

その人の

 

技術を伸ばし、

 

能力を育て、

 

人として成長していく。

 

 

 

 

 

ただ

 

勘違いしては

 

ならないことがある。

 

 

 

 

 

それは

 

日々、

 

何の反省もなく、

 

その日を顧みることもせずに、

 

 

 

ただ同じことを

 

繰り返していても

 

何の意味もない

 

ということです。

 

 

 

 

 

同じことの繰り返し、

 

いわゆる反復とは

 

大きく異なるのです。

 

 

 

継続と反復は

 

相違なるもの。

 

 

 

 

 

このままで良いのか?

 

 

 

何を改善しなければ

 

ならないのか?

 

 

 

今日の過ちを

 

今後起こさないために

 

どうすれば良いか。

 

 

 

今日の失敗は

 

何故そうなったのか。

 

 

 

 

 

しっかり考えて

 

今日より明日。

 

明日より明後日と、

 

 

 

ほんの数ミリでも

 

良くなるよう努力する。

 

 

 

僅かでも

 

改善点を見つけ出し、

 

創意工夫する。

 

 

 

 

 

たとえ

 

僅かな一歩でも前進する。

 

 

 

 

 

慣れたことをなぞらず。

 

 

 

そういうことの

 

積み重ねを

 

「継続」

 

というのでありまする。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-24 07:26:00

" ご縁尊し "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『ごえん たっとし』

 

 

 

 

 

存在するご縁。

 

 

 

子どもと言うと、

 

「あの子は私の子どもだ」と

 

 

 

親はよく言うけど、

 

実際、その子とのつながりを

 

考えてみると、

 

あらためて思うことがある。

 

 

 

 

 

それは

 

「その子の宝物は何一つ、親が作ったものではない」

 

ということだ。

 

 

 

 

 

すべての人にとって、

 

最も大切なことは

 

生きること。

 

 

 

その生きるために

 

必要な道具がたくさんある。

 

 

 

目、耳、鼻、口、

 

手、足、心臓、肺、

 

神経、血管、胃腸など、

 

 

 

どれを取っても

 

親が設計して組み立て、

 

作ったものはない。

 

 

 

 

 

身体全体の

 

素晴らしい設計、

 

組み立て、

 

運営。

 

 

 

 

 

全てが

 

親の氣づかない間に

 

行われていた。

 

 

 

 

 

だとしたら、

 

自分と子どもの関係は

 

ご縁だけであり、

 

 

 

生まれる際に

 

果たすべき役割が

 

親にあっただけ

 

ではないのかと思う。

 

 

 

 

 

全ての設計、

 

材料集め、

 

組み立ては、

 

 

 

本当の親である

 

天地大自然が行ったこと。

 

 

 

その時の

 

道具の一部として

 

果たすご縁。

 

 

 

これが

 

親子の結びつきである。

 

 

 

 

 

だから

 

わが子といえども

 

親の好き勝手にはできない。

 

 

 

 

 

ご縁こそが自分のもの。

 

 

 

 

 

子どもは

 

天地大自然の子で

 

あることがわかる。

 

 

 

自分自身も

 

天地大自然の子。

 

 

 

自分の子どもも

 

天地大自然の子。

 

 

 

同様に、

 

世界中の全ての人々、

 

全てのものも、

 

 

 

皆、

 

天地大自然を

 

親として

 

生まれてきた。

 

 

 

 

 

人間とこの世に存在する

 

森羅万象は

 

一切合切

 

ご縁だけのもの。

 

 

 

 

 

親子、夫婦、

 

師弟、友人。

 

 

 

 

 

全てのご縁だけが

 

自分のものなのですね。

 

 

 

 

 

その全ての

 

ご縁に

 

感謝して、

 

 

 

 

 

今日も一日ご縁尊し。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-23 06:42:00

" 『修証一如』日常の心のあり方でその道の深浅が出る "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『しゅしょういちにょ』にちじょうの こころの ありかたで そのみちの しんせんが でる

 

 

 

 

 

「修証一如(しゅしょういちにょ)」

 

という言葉がある。

 

 

 

修行と悟りは

 

一つのものという意味だ。

 

 

 

修行を重ねることで

 

悟りができる。

 

 

 

しかし、

 

悟ったといえども

 

修行を怠れば本末転倒だ。

 

 

 

 

 

努力(修)と結果(証)は一緒。

 

 

 

努力することと、

 

その結果が

 

一体になっている。

 

 

 

 

 

毎日、

 

近くの道端に落ちている

 

タバコの吸い殻を拾う。

 

 

 

ついでに空き缶や

 

ペットボトルもプラ袋も拾う。

 

 

 

ごみを拾うと

 

道がきれいになる。

 

 

 

その道を歩く人は

 

氣持ちが良い。

 

 

 

 

 

「修証一如」とは

 

それだけではない。

 

 

 

 

 

ごみを拾う人は

 

拾いながら、

 

ごみを捨てない人に

 

なっているということだ。

 

 

 

 

 

「拾ってもどうせまた誰かが捨てるんだよ。だから拾っても無駄なことだよ」

 

 

 

いたちごっこであり、

 

堂々巡りだ、

 

無益なことだと、

 

ごみを拾うことを

 

そうとらえる人も

 

いるかもしれない。

 

 

 

 

 

しかし、

 

そう考えるなら

 

 

 

「腹がへっても何も食べるな。食うのをやめておけ」となる。

 

 

 

「なぜって?食べてもどうせまた腹がへるんだろう?無駄だからやめとけ」

 

ということになる。

 

 

 

 

 

合氣道には

 

心身一如とか、

 

不動心を養うとか、

 

いろんな修行の言葉があるが、

 

 

 

どれもみな

 

日常の心のあり方によって、

 

その人の人格、技、

 

呼吸の深浅(しんせん)、

 

深いか浅いか、

 

高低、厚薄(こうはく)が

 

表れてくる。

 

 

 

 

 

道場で一生懸命に

 

努力して稽古した。

 

 

 

しかし

 

その結果、

 

進歩するのではない。

 

 

 

 

 

平生の

 

努力、

 

心の持ち方、

 

心がけ、

 

行いの中に

 

結果が入っているのだ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-21 07:16:00

" 心が口についていけなかった "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『こころが くちに ついていけなかった』

 

 

 

 

 

「猿も木から落ちる」

 

「上手の手から水が漏れる」

 

という

 

ことわざがある。

 

 

 

 

 

慣れて油断することは

 

危険である

 

戒めの言葉だ。

 

 

 

同じことの繰り返しに

 

慣れると、

 

油断が生じ、

 

真実と誠意が

 

欠けてしまう可能性がある。

 

 

 

その先に

 

思わぬ破綻が

 

起こるかもしれない。

 

 

 

事を軽く考えることは

 

とても危険だ。

 

 

 

一つ一つに

 

心を込めること、

 

向き合うことが

 

大切であります。

 

 

 

 

 

人間の主体は

 

心であり、

 

人格であることを

 

忘れてはいけない。

 

 

 

 

 

心に真実を

 

築き上げることが、

 

自己を育てる道なのだ。

 

 

 

 

 

人は

 

ついその場しのぎの言葉を

 

発してしまうことがある。

 

 

 

その結果、

 

自らが追い込まれる

 

こともあります。

 

 

 

 

 

その場の勢いに任せて

 

誇大な約束をしてしまい、

 

 

 

その後

 

その約束を忘れてしまう。

 

 

 

 

 

これは

 

一見上手な世渡りに

 

見えるかもしれないが、

 

 

 

真実のないものは

 

必ず崩れる。

 

 

 

 

 

「そんなこと言ったっけ」

 

約束を忘れたふりをする、

 

 

 

悪意があったわけではない。

 

 

 

ただ、その場の勢い、

 

調子に乗りすぎて

 

思わぬ約束を

 

軽はずみにしてしまった

 

までのこと。

 

 

 

心が言動に

 

追いつけなかった

 

だけのことである。

 

 

 

 

 

但し、

 

それは自分一人の

 

過ちでは許されない。

 

 

 

他人に迷惑を

 

かけてしまう結果になる。

 

 

 

楽しみにして

 

当てにしていた

 

相手をがっかりさせ、

 

傷つけることになる。

 

 

 

 

 

そのような行動は、

 

最終的には

 

自分に

 

跳ね返ってくるのだ。

 

 

 

その罪は

 

人間関係に

 

亀裂を生じさせ、

 

 

 

大切な信用も

 

なくなる結果になる。

 

 

 

 

 

肝に銘じておかねば

 

なりませぬ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-20 07:25:00

" 鏡を見て自分を知れ "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『かがみをみて じぶんを しれ』

 

 

 

 

 

野球で投手がボールを投げる。

 

150キロを超える

 

球速の剛速球が

 

打者の胸元すれすれに

 

飛んできた。

 

 

 

 

 

打者は驚き、

 

ギリギリで球を避ける。

 

 

 

打者が血相を変えて

 

投手に詰め寄る。

 

 

 

両軍ベンチから

 

選手たちが飛び出し

 

一触即発の事態に。

 

 

 

 

 

その時、

 

飛んできたボールを

 

叱る人は誰もいない。

 

 

 

 

 

もし当たっていたら、

 

当たり所によれば

 

選手生命さえも

 

脅かす事態にもかかわらず、

 

 

 

「コラ!このバカボール」と

 

ボールを怒る人はいない。

 

 

 

 

 

投手は

 

腕の振り方であったり、

 

踏み出す足の位置だったり、

 

腰の向きが

 

どちらかに向きすぎていた。

 

 

 

また、打者は

 

ベース寄りに立ちすぎていたとか、

 

上半身に力みがあったため

 

ギリギリのところでしか

 

避けられなかったとか。

 

 

 

 

 

後で反省する。

 

 

 

 

 

そして

 

自分を知ることができるのだ。

 

 

 

 

 

自分の練習不足や

 

技術の未熟さを、

 

そのボールに教えられた。

 

 

 

 

 

打者が打ったボールも

 

一度バットに当たって、

 

その球が飛び出したら、

 

一塁へ向かって走り出すが、

 

 

 

飛び出したボールは

 

じっと見ることしか出来ない。

 

 

 

 

 

飛んでいったボールが

 

自分の技術の

 

上達や未熟さを教えてくれる。

 

 

 

 

 

合氣道でも

 

自分を知りたければ

 

相手に技を

 

かけてみることである。

 

 

 

そこに自分の技量が

 

如実に表れ

 

映し出される。

 

 

 

 

 

そこで

 

自分を知ることが出来、

 

自分の値打ちも

 

知ることが出来るのです。

 

 

 

 

 

そこから

 

反省の機会も生まれる。

 

 

 

 

 

慢心、過信、

 

思い上がりもなくなり、

 

 

 

努力、継続、

 

精進のおもしろさ、

 

楽しさも生まれる。

 

 

 

 

 

私たちが生きる

 

この世界は

 

全て自分の鏡なのでは

 

ないだろうか。

 

 

 

 

 

自己を映し出し、

 

直視し、

 

見つめてこそ、

 

 

 

自分を正すことが

 

出来るのではあるまいか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝