2024-09-17 04:06:00

" 人生の旅は身軽に "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『じんせい の たび は みがる に』

 

 

旅行中の移動では

荷物が重いほど大変だ。

 

荷物は重いより軽い方が

楽に決まっている。

 

荷物を詰める時、

できるだけ

不要なものは省き、

最小限の荷物で

旅行に出かける。

 

旅は身軽なほど楽しい。

 

 

合氣道の稽古とは、

まさにこのことだ。

 

 

私達は

生きていく上で、

 

無駄なものを

持ちすぎていないか。

 

つまらないことに

心が囚われては

いないか。

 

合氣道の稽古とは、

一日一日、

自分の薄皮を

剥いでいくようなものだ。

 

不必要で余計なものが

邪魔となり、

自分の心身の自由が

きかなくなる。

 

自分の心身の自由が

きかなければ、

相手に技が

かかるわけがない。

 

自分の心身を

自由に使えない人に

相手を投げることは

できないのだ。

 

道場の稽古で、

それを知り、

反省してみる。

 

それが旅の荷物の

整理と同じなのだ。

 

無駄を省く。

 

不要なものは

捨て去る。

 

自身のこれまでの人生で

身に付けてきた

不要なものは、

 

少しづつでも

削っていく。

 

余計なものを

捨て去れば、

心身もスッキリしてくる。

 

身に付ける

必要のないものは

さっさと

捨ててしまいましょう。

 

 

天地大自然が

与えてくださるものだけ、

しっかりと握りしめて、

 

この先の人生を

楽しく、おおらかに、

歩んでまいりましょう。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-09-13 04:13:00

" 三人虎を成す "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『さんにん とら を なす』

 

 

三人言いて虎を成す。

(さんにん いいて とら を なす)ともいう。

 

 

事実でなくても、

全くのデマであっても、

 

多くの人が

そうだと言ったり、

 

SNSを駆使し、

粘り強く繰り返し

投稿し続ければ、

 

それが

フォロワーの関心を

惹くこともある。

 

さらに何人もの

著名人、有識者が

 

同じことを

声をそろえて語れば、

 

人はやがて

事実だと思われる

ようになっていく。

 

「三人虎を成す」とは

そういうたとえだ。 

 

 

現代人は

テレビ、スマホで、

昼夜流れる

映像、投稿、報道の中で

無意識にその影響下にある。

 

 

ある人が王にたずねた。

 

①「町に虎が出たと一人が言ったら信じますか」とたずねて、

王が「信じない」と答えた。

 

②「二人の人が言ったら信じますか」という問いには、

「もしかしたらと疑うかもしれない」と答えた。

 

③「三人ではどうか」という問いには、

「信ずるようになるだろう」と答えたという。

 

 

町に虎など

いるはずもない、

 

しかし、

多くの人が

虎がいると言えば

信じる人もいるという。

 

「三人虎を成す」とは

そういう話だ。

 

 

 

大東亜戦争、第二次世界大戦、

昔から戦争は

情報戦でもあったのだ。

ロシアによるウクライナ侵攻なども

同様に情報戦だ。

 

 

1923年9月に起きた

関東大震災の

もう一つの悲劇である

福田村事件。

 

悪意のある

流言飛語により

9人が虐殺された。

 

広く拡散された

全くのデマを信じ、

彼らは村を守るという

正義で9人もの

何の罪も犯してない人々を

虐殺してしまった。

 

それは昔も今も何ら変らない。

 

それどころか、

情報が現実を

常に先走りする現代だ。

 

情報の大事さを熟知し、

すすんで

たくさんの情報を

得ようとする

知的な賢者ほど、

 

多数者の声には

敏感になるのだ。

 

そういう賢者が

正義感を持って

 

いつしか、四人目の

虎が出たと言う人に

なりかねないのだ。

 

 

「正義だ」と

人に伝える前に、

しなければならない

ことがあるだろ。

 

自分で現場を踏め。

 

 

現代人の誰もが

未曾有の感染症を経験した。

 

マスク、黙食、

ソーシャルディスタンス、

テレワーク、

ワクチン、

そしてレプリコンワクチン。

 

 

人のことなど

お構いなしに、

 

四方八方上下から

映される大スクリーンと

 

迫りくる大音響の

情報という

映像とサウンドに

 

心身をさらされていると、

 

相当に養われた

胆力をもってしても

 

生理的に衰弱していく

可能性がある。

 

 

真実なのか、

真実ではない

フェイクニュースなのか、

 

それは

あらゆる五感を刺激する、

 

フィクション、

ノンフィクションの世界が、

 

私たちの周囲に

拡散するのだ。

 

 

感受性豊かな

若者世代ほど、

 

そのような

情報の影響を

受けやすいかといえば、

 

そうでもないらしいのだ。

 

高年齢も同じように、

また、それ以上に

意図的な情報に

敏感であるという

傾向もあると聞く。

 

 

情報リテラシ―とは

 

たくさんの情報の中には、

うその情報や、

正確ではない情報も

まぎれているからこそ、

 

正しい情報や

必要な情報を

選びとることが大切で、

 

情報を取捨選択する

能力のことをいう。

 

 

要するに

フェイクニュースに

だまされるな、

 

ということだが、

 

テレビやネットで流れる

日々のニュースに

無関心であれば、

惑わされずに済むのか、

 

いや、

情報に耳を

遮断してしまっては、

 

高齢者なら

痴呆症、認知症を

引きおこす

きっかけとなる

恐れもあるだろう。

 

 

見る、聞く、

読む、考える、

 

その四つが

脳を活性化するから、

 

生きていく上で

必要であり、

自ら遮断して

しまってはいけない。

 

 

今も昔も

報道機関は変わらない。

 

既得権益に繋がる

報道はするが、

 

今までの利益構造を

壊されかねない事実は

捻じ曲げるか、

全く報道されない。

 

 

では、

ネットなら信用できるのか、

 

SNSは

誰でも思っていることを

自由に主張できる。

 

中には

真実もあるだろう。

 

しかし、

営利目的だけで

再生数稼ぎの動画も

数多くある。

 

全く信用などできない。

 

一体、何を信じる?

 

 

このような、

良くも悪くも

情報で覆い尽くされる

世の中で、

真実など

分かりようもない。

 

 

この生きにくい、

人々を分断させるような

世論において私は、

 

" 見ザル 言わザル 聞かザル "

 

圧倒的多数者の

大音量と

巨大スクリーンのような、

 

その映画に

興味がある人しか

集まらないように

聞こえる主張や情報には、

 

耳をふさぐように

しているのだ。

 

猿真似は必ずしも、

遮断ばかりではない。

 

「聴かない」

ということも、

 

また一つの

生きていく上で、

護身的な姿勢

かもしれないのだから。

 

 

私のような

猿真似をしている側から

見れば、

 

「これこそが真実であり正義なのだ」と

 

言わんばかりの言動は、

その正義感ですら

病みに近いようにも見える。

 

 

大声を発するなら、

拡散するなら、

発信するなら、

人に注意を促すなら、

 

まずは己で現場を踏め!

 

そうだろ!

 

自分自ら、

現場を踏み、

それに触り、舐め、

 

味を確かめて、

 

自分の身体に、

それを取り込んでから

発信しろ!

 

それがモラルだ。

 

 

私は、

この世で起こる

全てのことは

天地大自然がなさる

ことだと思っている。

 

それが

たとえ人為的であろうが、

なかろうが、

 

そんなこと

一切関係ございませぬ。

 

どうでもええねん。

 

どうでもよろしゅうございます。

 

 

天地大自然の営みに

逆らわず、

 

右往左往など

いたしませぬ。

 

そのような

無駄な時間は

一利もございません。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-09-12 04:18:00

" 見返りを求めたら続かない "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『みかえり を もとめ たら つづか ない』

 

 

世のため、人のために

なることを実践する。

 

その志を持って、

行動することは、

必ず、何かしら

社会の役に立っている。

 

だが、

そこに私利私欲があるなら、

その志も、

その行動も、

そう永くは続かない。

 

 

何故なら、

良いことをすれば、

いつか巡り巡って

自分に返ってくるという、

 

見返りを求める

心があるからだ。

 

結局は、

自分が得をしたい。

 

それこそが、

私利私欲というのだ。

 

 

大切なことは、

「何のためにやるのか」である。

 

 

私は毎朝、

道端に落ちている

タバコの吸い殻を拾う

ことを日課としている。

 

もう何年続けているだろうか、

 

少なくとも40年以上は

続けている。

 

何のためにやっているのか、

それは、ただただ、

地球のため。

 

ほんとにそれだけ。

 

自分の決めた範囲の

路上に落ちているタバコを

拾うだけだから、

 

地球規模で考えると、

殆ど何の役にも

立っていないと思う。

 

しかし、確実に

ポイ捨てされたタバコは

その路上からは

なくなっているのだ。

 

それは事実である。

 

では、何故、

タバコの吸い殻を拾うのか。

 

それは

タバコの吸い殻の

特にフィルター部分は

土に還らない、

決して、

自然には還らないからだ。

 

放っておけば、

たとえ一本のタバコの

フィルターでも

永遠に地球上に

存在することになる。

 

サーフィンが

生活の一部だった頃、

生まれ育った神戸から

遠く離れた地に移住し、

海から徒歩30秒の場所で

民宿を営みながら、

仕事の合間に

サーフィンするという

生活をしていた。

 

海から上がって

砂浜から民宿までの間に

落ちているタバコの吸い殻を

拾うことを毎日続けていた。

 

その頃から

何も変わってないことがある。

 

 

それは、感謝の心だ。

 

「今日もタバコの吸い殻を拾う事ができた」

 

「拾った分だけ地球がきれいになった」

 

 

「ありがとう」

 

 

それをされてくださった

天地大自然に感謝する。

 

今もその思いは

何ら変わっていない。

 

 

捨てるやつがいるから、

俺が拾わなければ

ならない。

拾ってやってんだから

その分何かちょーだいよ。

 

そんな事を思っていたら

続かないだけでなく、

せっかくのその行為も

無駄になるよ。

 

 

毎日拾ったら、

時々、一本も

落ちていない時もある。

 

でも、必死で探す。

するとアスファルトに

こびり付いたフィルターが

必ずあるのだ。

 

それを見逃さない。

 

 

見返りなど要求しない。

 

巡り巡って

自分に返ってこなくても

全く構わない。

 

ただだだ、

地球のためにだけ

やっているのだから。

 

 

40年以上、

続けているが、

路上にこびり付いた

フィルターも入れると、

一本も拾えなかった日は

いまだかつて、

一度もないのだ。

 

 

今日も地球さんが

少しでもきれいになった。

 

それだけでよかった。

 

自分にできる小さなこと。

それだけでよいのだ。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

 

2024-09-11 04:19:00

" 唯一無二 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『ゆいいつ むに』

 

 

自分という人間は、

世界中にただ一人だけ。

 

そうであるなら、

 

世の中の役割も、

社会の中で持つべき分担も、

 

それぞれ唯一無二の

役割分担があるはずだ。

 

 

たとえば、

私の場合は

合氣道師範であり、

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場を

主宰している。

 

寺崎道場は

私が主宰している限り、

 

他の誰も

これを主宰することは

できない。

 

たとえ、それが

内閣総理大臣であっても、

その地位にとどまる限り、

 

断じて

合氣道寺崎道場の

主宰者にはなれない。

 

 

したがって、

日本人口1億2000万人の

同胞(はらから)、

 

もっと云えば、

世界人口81億1900万人のうち、

 

私以外に寺崎道場を

主宰できる人はいないのだ。

 

 

このように

誰にも侵されず、

 

また

誰にも委せられないものを、

 

合氣道寺崎道場の

主宰者として

私が天地大自然から

授けられているのだ

 

 

これは、

商業施設で働く清掃員も、

スーパーで働く店員も、

 

また、

東京ドームのライブで

一瞬にしてチケットを

完売させるアーティストも

 

全て皆、同様。

 

 

だとしたら、

社会で働く人は全員、

唯一無二、

 

どこの誰にも

委せられない役割を

全うしている

ということになる。

 

ただそれに対する

十分な自覚を

持っていない人が

多いのではないだろうか。

 

 

社会で働く人は皆、

何かしら世の中の

役に立っているのだという、

自信を持とう。

 

 

自信というのは、

誰かにつけてもらう

ものではなくて、

 

自分自身の中から

生まれるものだ。 

 

 

私達には各々、

自己の人生に対して、

 

唯一無二の

責務を果たす

役割があるのだ。

 

 

一生涯をかけて、

その道に徹し、

 

国家と社会の

役に立つよう

貢献しなければなりませぬ。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-09-10 04:04:00

" 応援される人になりたいものだ "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『おうえん される ひと に なりたい ものだ』

 

 

合氣道の稽古は

一人では出来ない。

 

相手がいるから

技が成立して、

 

投げたり、

投げられたり、

という稽古ができるものだ。

 

 

寺崎道場の合氣道は

勝ち負けがなく、

 

投げて喜び、

投げられて喜ぶ。

 

それでこそ、

和を尊ぶ武道

ということだ。

 

 

より盤石な姿勢を

保持した相手なら、

簡単には

投げることができない。

 

しかし、

その簡単には

投げることができない

相手を投げることが

できたら、

 

その人は、相手以上に

盤石な姿勢を

保持している人である。

 

したがって、

それ相応に

進歩したという

ことになる。

 

 

そうして、

投げは受けのために、

受けは投げのために、

 

お互いを高め合う。

それが尊いのである。

 

 

しかし、

頭では理解できても、

うわべだけでは

そう簡単に

何事も上手くはいかない。

 

 

相手が機械で、

ロボットを操作するなら

まだしも、

 

相手は人間だ。

 

教える側も

教えられる側も

 

投げる側も

投げられる側も

同じ人間だ。

 

 

人間には心がある。

 

 

「この人なら応援してあげよう」

 

別に特別な理由なく、

そう思う人がいる。

 

 

一方で、

応援したくなくなる

人もいる。

 

指導者は

皆、平等に

分け隔てなく

指導しなくてはならない。

 

それは常に根底にある。

 

 

しかし、

心の無意識の領域に、

 

応援したくなる人、

応援したくなくなる人。

 

それが存在するのだ。

 

 

指導者も心を持った人間だ。

 

 

何を教えても、

感謝の心がなく、

顔の表情すら変えず、

無愛想な人には、

当たり前のことだが、

応援したくなくなる。

 

 

一方で、

別に大したことを

教えたわけでも無いにも

関わらず、

 

とびきりの笑顔で、

「ありがとうございます」と

 

目を見て、

心から感謝できる

ような人には

「応援してあげよう」

という氣にもなるものだ。

 

そういう人を

素直な人というのだ。

 

合氣道に限らず、

物事が上手くいく、

 

また人として成長する、

 

それは素直な心が

なければ成就しない。

 

 

自分一人で

できることなんて、

たかがしれている。

 

人は皆、

助け合って

生きていくものだ。

 

 

応援したくなくなる人には、

人は寄ってこない。

 

ひねくれ者には

そのうち、

誰も近寄らなくなる。

 

 

合氣道の稽古とは

生き方を勉強する

ためにあるのだ、

 

私はそう確信している。

 

あなたは、

応援したくなる人、

それとも、

応援したくなくなる人、

 

あなたは、素直な人、

それとも、ひねくれ者、

 

さて、

あなたはどっちだ?

 

 

道場で

確かめてみるとよい。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝