" サザエさんと少年野球の審判 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『サザエさん と しょうねんやきゅう の しんぱん』
東京で
できれば
立ち寄りたくない場所が、
銀座とお台場だ。
特に夏は暑さと
異常なまでの人混みだ。
しかし、
その立ち寄りたくない
お台場に行かなくては
ならないことになった。
それはさておき、
フジテレビ本社屋25階の
球体展望室 "はちたま" では、
2024年10月に
アニメの放送開始
55周年を迎える
『サザエさん』の
「みんなのサザエさん展」
が開催されていた。
実際のアニメに
アフレコができる
「あさひが丘録音スタジオ」や、
おなじみの茶の間や
縁側が再現された
フォトスポット
「磯野家 茶の間」など、
『サザエさん』を
さまざまな角度から
体験できる
ブースがあった。
サザエさんといえば
日曜日の
18:30から30分間の放送だ。
放送開始の55年前は
私が7歳の時だ。
放送開始から
見ていたかどうかは
覚えてないが、
とにかく私は
子どもの頃、
サザエさんをよく見ていた。
話は
私の少年時代に
遡ります。
日曜日の夕方、
サザエさんを見るのは
とても楽しくて、
見ている間は
没頭しているのですが、
見終わった後に、
ドッと心が暗くなるのです。
「ああ〜また明日から学校やん。明日も休みやったらええのに」
少年時代に
「サザエさん見終わったら、明日学校行かなあかんやんって思えへん?」って
よく友達に言っていました。
すると友達も
「ああ、分かるわ、ほんま嫌になるよな」
本当に
サザエさんには
申し訳ない
ことなのですが…
話は変わって、
少年野球です。
当時の少年野球は
小学5年生から
入部できるのですが、
私が住んでいた
ご近所の監督さんで、
その監督さんとは、
ご近所の顔見知り
だったこともあり、
4年生から
入部させてもらいました。
当時も
夏は暑かったのですが、
暑いといっても、
せいぜい30度位です。
朝夕などは
涼しかったものです。
今では
最高気温37度とかに
なりますので、
30度なら
涼しく感じられますよね。
それでも当時も
真夏の炎天下で
試合をします。
整列して
相手チームと審判に
礼をする際、
その審判の方から、
毎回このような
注意がありました。
それは
「暑いからね、守備と攻撃の交代はスピーディーにね」
今でも
その審判の顔まで
覚えています。
いつも
その審判の方が
試合には、おられました。
当時の私は
野球少年でした。
野球は楽しかった、
でも試合は
楽しくなかったのです。
なぜ試合を
しなければいけないのか?
試合をするたびに
打てなかったら
打順を下げられ、
エラーをしたら
仲間から監督からも
怒られ、
試合というものに
楽しさは
全く無かったのです。
スポーツ、競技は
勝ち負けがあるから、
その試合によって
それが決まる。
少年時代の私は
それが分からなかったのです。
もし、
その当時、
監督さんなり、両親なり、
周りの大人なり、
学校の先生が
「試合をすることによって自分の練習の足りなさが良く理解できるのですよ」
普段の練習が試合に出る。
試合の最初と最後の礼は
相手チームと審判に
「あなたのお陰で試合をさせていただきました。ありがとうございましたと感謝をするためなんだ」
そう教えてくれていたら、
試合の意味を
子どもながらに、
理解できたと思います。
「サザエさんが終わったら、明日は学校だね。よかったね、また〇〇くんにも会えるし、楽しい一週間が始まるね」
そう両親が
教えてくれていれば、
サザエさんを
見終わっても
暗い氣持ちに
ならなかったかもしれない。
今になればそう思います。
子どもの脳は
柔らかく、
良いことも
悪いことも吸収します。
それが
やがて潜在意識に
深く入り込みます。
親は
もちろんのこと、
学校の先生、
周りの大人、
習い事の先生にしても
子どもに対する
言葉のかけようには
充分注意を
払わなくてはならない。
大人の何氣ない一言が
良いも悪いも
関係なく、
子どもの潜在意識に
影響を及ぼします。
今でも
夏になれば
思い出します。
「暑いからね、交代はスピーディーにね」
子どもの頃に
深く経験したことは、
大人になっても忘れない。
親は子どもに対して、
いついかなる時も、
どのような状況にあっても、
プラスの言葉を
かけなければいけない。
人混みの中の
フジテレビ " はちたま " で
サザエさん展を見て、
ふとそう思った。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 日々に新たに "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ひび に あらた に』
一日一日に新たにして、
又更に
一日一日に新たにしよう。
どれほど
立派な志を持っていても、
それを
怠れば無いのと同じ。
就寝時には
その日を顧みて
反省しよう。
反省無き人、
その先の進歩無し。
翌朝、目が覚めたら
氣持ちを新たに
志を持とう。
倦まず撓まず、
ナマケモノの
おのれの尻を
懸命に叩いて、
今日も一日絞り尽くす。
今日は昨日より、
昨日は一昨日より
進歩していなければいけない。
進歩無き人、
退化する人に
何の魅力も無い。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 無いから出来ないは、あっても出来ない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ない から できない は、あって も できない』
無いから出来ない、
でも、あれば出来る。
何かをしたいけど、
金がないから
何も出来ない
という人は、
金があっても
何も出来ない人なのです。
確かに
金がなければ
出来ないことも
社会にはある。
しかし、
金が無いのは
今現在の
自分の現状なのです。
その現状を
変えようと
努力してないだけのこと。
世の中それほど
甘くはない。
自分自身で
何も変えようと
しない人には
天地大自然は
絶対に応援しない。
今日、金が無い。
だから
明日も金が無い。
来月も金が無い。
来年も金が無い。
その状況が当たり前に
なってしまって、
そこから
抜け出そうとしていない。
まずは、
それに自分自身が
氣付かないといけない。
地球は太陽の周りを
休むことなく
回り続けている。
私達の身体も同じだ。
呼吸は休むことなく続く。
生きている間は
心臓は休むことなく動いている。
これが
天地大自然の
絶対的な大法則だ。
その法則に従わないから、
何事もうまくいかないのだ。
世の中は常に動いている。
変化している。
これに従えば、
今日は金が無くても、
明日も無いとは限らない。
全く同じ日なんて
絶対にないのだから。
金がないなら、
金を調達する努力を、
行動をすれば
良いだけのこと。
昨日と同じ状態を
今日も受け入れて
いてはいけない。
出来ない理由がある所に
解決方法などはない。
出来ない理由などを
嘆く暇があったら、
行動することだ。
それが解決方法だ。
人はあっという間に死ぬ。
ぼやぼやしている間に
死んでゆく。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 食の危機管理能力 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『しょく の ききかんり のうりょく』
先日の東京出張で
渋谷区恵比寿にある
観光客は殆ど知らない、
知る人ぞ知るという
定食屋さんに行ってみた。
そのお店の
常連のお弟子さんに
聞いてみた。
「何がオススメかな?」
「先生の大好物の唐揚げ定食か、チキン南蛮がおすすめですよ」
というので、
迷わず
唐揚げ定食を注文した。
なるほど
サクサクジューシーな
唐揚げは
とても美味しく大満足だ。
その横で
お弟子さん達が
何やらヒソヒソ話を
しているではないか。
どうやら
定食のご飯の量が、
以前より
少なくなっている
とのことらしい。
私はもちろん
初めてのお店なので
分からなかったのだが、
地元でよく通う
定食屋の半分位の
ご飯の量だったことは確かだ。
まぁ東京なので、
渋谷区恵比寿だし、
少し、おハイソなのか
とも思っていたのだが、
以前はそうでは
なかったらしい。
そういえば、
地元のスーパーも
陳列から米が無くなっている。
私は必ず、
地元以外の場所に行けば、
近くのスーパーに
立ち寄ることにしている。
どこにでもあるような
大手スーパーではなく、
地元密着型というか、
個人経営に近いような
スーパーに行くのだ。
そこには
地元の神戸には
無いような
食品や日用品などを
見つけることがある。
そこでしか買えない
地ビールとか、お菓子とかを
探すのが楽しい。
また地元と比較して
価格帯や
並べてあるものなどを見れば、
おおよそ、
その地域の生活水準も分かる。
それにしても、
どこのスーパーも
米が無くなっている。
当時は地震の影響で
水も2リットルお一人2本までと
張り紙が貼ってあった。
何れにしても
世間は米不足なのだそうだ。
昨年の猛暑の影響や
インバウンド客の
米の消費などが
理由というが、
本当のところは分からない。
秋には
新米が出回るから
それまでの我慢だというが、
今年の猛暑は
昨年以上なのだから、
その理由が本当なら、
来年も米不足は
確実ということに
なるのではないのか。
外国人観光客が
1週間から10日
滞在したとして、
その多くが
1日3食
米を食べるとは
考えられない。
確かに東京や京都で
観光地のご飯屋さんで
外国人観光客を
見ない日はなかった。
それでも
マクドナルドや
イタリアン、
パスタやピザ店も
インバウンド客で
大繁盛していたのだ。
そういう事実を
目の当たりにしたら、
とても米不足の原因が
インバウンドの増加で
需要が増えたため、
とは
私は思えない。
何か国民には
知られてはまずい
事情でもあるのではないか。
政府と
マスメディアが
結束して
本当のことを
国民に知らせないことは、
日本は本当に多い。
どうして?
それは
既得権益に
しがみつくためだ。
我が家は
お陰様で
米不足の影響は
今のところ全くない。
値上がりもしていないし、
販売店から
注意喚起すら全くない。
それは
農家と直接契約している
販売店から購入しているからだ。
例えば、
野菜にしても
生産過剰分や
形や色が悪くて
出荷できないものを
毎月お任せで購入している。
お任せだから、
何が届くか分からない。
でも
農家が出荷できない
困ったものを購入するから、
当然安い。
「また大根か、またきゅうりが届いた」
毎月こんな調子だが、
農家も助かる。
常に需要と供給の
バランスが安定しているから、
何の影響もない。
農家も助かるが、
我が家も
助かっているのだ。
世間は
米不足という時にでも、
値上げもしないで、
いくらでも売ってくれる。
まだ子ども達が
小学生の頃に、
田植えから収穫までの
体験会に
家族で参加したことがある。
完全無農薬なので、
雑草が生えるから、
それを取り除く。
夏の炎天下にも関わらず、
普段の農家の人達の
苦労もよく分かった。
子ども達にとっても
非常に良い経験に
なったと思う。
「非常事態には優先的に供給します。それが私達の繋がりです」
その米農家さんが
仰っておられた。
なんて
有り難いことなのだろう。
少しでも安いもの。
あのスーパーのほうが
安いからと
目先のことだけに
囚われていると、
緊急事態には
対応できないものだ。
「食」は生きていく上で
最も重要なこと。
だからこそ、
「もしも」に備えて
普段から準備しておかねば
いけないのではないだろうか。
バランスを考えて。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 心の糧と身体の糧 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『こころ の かて と からだ の かて』
今年の夏は例年より
少し長めの東京出張と
お盆恒例の京都での
勉強会を終えた。
それにしても
東京も京都も
インバウンドでいっぱいだ。
時折聞こえる
日本語にホッとした
氣持ちにもなったものだ。
歩くたび
多くの道行く人とすれ違った。
多くの人達と
新幹線や地下鉄、JR、阪急等で
同じ車両に乗り合わせた。
食事に行くたびに、
多くの人達と同じお店で
飲み食いもした。
もしかしたら、
この人達の中にも
世の中の厄介者である
怠け好きな人が
あるかもしれない。
若い人で
働くことの嫌な人がある。
地球規模で見ても、
ほんの小さな
存在でしかない
私という一人の人間が
少し国内を動くだけで、
これほど多くの人達と、
すれ違うのである。
中には
若くても心の病等に苦しみ、
働きたくても
働けないという人も
いるだろう。
しかし、
そのような状況に
あったとしても、
世のため、人のために
自分の出来ることを考え、
実行しよう。
一個人の力は微力でも
一人が十人、十人が百人、
千人となれば大きな力となる。
怠けていてはいけない。
いつも
心身の糧を
とることを
忘れてはいけない。
どんなに力に充ちた
魂を持った人でも、
心の糧を
とることを忘れたら、
魂もやつれてゆく。
世の中は厳しいものだ。
仕事も同様だ。
些細なことで
泣き言を云うようでは、
身体もどんどん
弱くなる一方だ。
力も出せなくなれば、
みるみるやつれる。
小石にもつまずいて
倒れるようになる。
まずは
心の糧をとることを
最優先することが大切だ。
人間の主体は
肉体ではなく心だ。
心が主体で、
心が身体を動かすのだ。
心にやる氣を起こさせたら、
身体はその通りに
動いてくれる。
それが
「氣を出す」
ということである。
心に糧がなくなれば
苛立ってくる。
暗くもなる。
心が苛立ってくれば
運命も波立つ。
運命が波立てば、
小石のような
小さな事件や、
ちょっとした不幸にも
つまずいて倒れてしまう。
一生を誤り、
取り返しの
つかないことにも
なりかねない。
自分の思いや
行いだけで
運は変わってゆく。
自分次第だ。
将来に希望を持ち、
私利私欲ではなく、
世のため、人のために
伸びゆく人は
日夜、刻々、
心の魂の糧を
とることを怠ってはならない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝