2025-06-04 03:54:00

" 師を伸ばす弟子:合氣道で学ぶ「言行一致」"

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

小満【しょうまん】 末候

 

七十二候

第二十四候  麦秋至【むぎのときいたる】

 

二十四節氣「小満」は末候へと移りました。

「麦秋至」は5月31日~6月4日ころにあたります。

 

冬に種をまいた麦が大きく実り、畑一面が黄金色に輝く頃を指します。

初夏の爽やかな風が吹き渡り、豊かに実った麦が収穫を待つ、

そんな日本の美しい情景がこの「麦秋至」という言葉に込められているのですね。

 

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

道場長の一日一心

 

『 し を のば す でし:あいきどう で まな ぶ " げんこう いっち " 』

 

 

 

 

今月末に控えた令和7年 前期 昇級審査。

 

 

各教室では

審査対象者の練習が熱を帯びています。

 

 

 

そんな中、

ある一人の中学生の女子生徒の

 

「本氣」には、

ただただ胸を打たれるばかりです。

 

 

 

「先生、今回の昇級審査で必ず昇級します。」

 

 

 

この言葉を聞いたとき、

私は彼女の並々ならぬ「覚悟」を感じました。

 

 

 

彼女は決して覚えの早いタイプでは

ありません。

 

 

それを彼女自身が一番良く知っています。

 

 

" 自分は覚えが人より遅い分、

人より多く稽古をしないといけない "

 

 

ということを、よく分かっているのです。

 

 

 

 

二時間の稽古中も

一切、休むことなく技に取り組み、

 

その日に指導をお願いした

有段者の先輩から

 

「少し休憩する?」と聞かれても、

「いえ、続けてやらせてください」と即答する。

 

 

 

その顔つき、目つき、

そして全身から発せられる「氣」は、

 

「人間が本氣になったら、ここまで変わるのか」と、

 

まだまだ、中学生の彼女から

教えてもらったような氣がしました。

 

 

 

こんな素晴らしいお弟子さんを持てて、

私は本当に幸せ者であると、

心からそう思います。

 

 

 

 

 

"「理解」と「行動」の不一致 " 

 

 

 

 

私たちは

「人間は心が身体を動かす」

という大原則を、

 

合氣道を通じて深く学んできました。

 

 

 

 

五年、十年と稽古を続ける者であれば、

 

この原則を深く理解しているはずだと、

私は長年、信じてきました。

 

 

 

しかし、

残念ながら

必ずしもそうではありませんでした。

 

 

 

彼らは口々に「理解しています」と言う。

 

 

 

しかし、

その「理解」と「行動」が

全く一致しない場面を何度も目にします。

 

 

 

 

それは、

果たして本当に理解していると

言えるのでしょうか。

 

 

 

" 天地大自然の理 " から

遠く離れているとしか私には思えません。

 

 

 

 

「できるか」、「できないか」は、やってみないと分からない。

 

 

 

これが「人生の真理」ではないでしょうか。

 

 

 

 

「やったからできた」あるいは

「やったらできませんでした」となるのが

自然な流れです。

 

 

 

「できたらやります」

「できそうならそうします」

「行けそうなら行きます」といった言葉は、

 

 

自身の都合で

「やらない」言い訳を探しているに過ぎません。

 

 

 

こういうタイプの人間って、多いんですよね。

 

 

 

短い、アッという間の大切な人生の時間を

このようなタイプの人間との

時間に取られたくないですね。

 

 

 

 

 

"「やらない」選択肢を捨てる人間の基本的精神 " 

 

 

 

 

私が言いたいのは、

「そんな日本語は存在しない」

ということです。

 

 

 

自分の都合で勝手に言葉を作り、

自分の行動を制限する。

 

 

 

 

それは、

自らの可能性を閉ざすことと同じです。

 

 

それは、

本当に " 心の弱い人間 " であると私は思います。

 

 

 

" 自分の弱い心を強くしたい " 

 

そう願って合氣道を始め、

 

それを実現するために稽古を重ね、

 

それとは真逆の道を歩もうとする。

 

 

 

まさに「主客転倒」でありまする。

 

 

 

 

 

あの稽古に励む

中学生の日本女子の「氣」の出し方。

 

 

 

それはまさに

「できるか、できないか」ではなく、

 

「やる」という選択肢しかないという姿勢。

 

 

 

 

彼女のその「本氣」から、

私たちは " 学ぶべきこと "

たくさんあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

" 師を伸ばす弟子、師匠となる弟子 " 

 

 

 

 

「こんなお弟子さんを持てて、幸せだ」。

 

 

 

師匠に

そう思わせることのできる弟子は、

 

" 師匠自身をも成長させてくれる存在 " です。

 

 

 

それは、

私自身を成長させてくれる

存在であるから、

 

私にとっては「師」でもあるのです。

 

 

 

 

合氣道の道は、

技の技術を磨くだけではありません。

 

 

 

心を磨き、

言葉と行動を一致させ、

 

真摯に物事に向き合う姿勢を学ぶ場なのです。

 

 

 

 

「やります」と即答できる潔さと、

 

それを

成し遂げるための「本氣」の精神こそが、

 

 

合氣道の真髄であり、

より良い人生を生きていく「本質」でありまする。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-06-03 03:17:00

" 君は「臭い大根」になっていないか?私が思う合氣道修行の真髄 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

小満【しょうまん】 末候

 

七十二候

第二十四候  麦秋至【むぎのときいたる】

 

二十四節氣「小満」は末候へと移りました。

「麦秋至」は5月31日~6月4日ころにあたります。

 

冬に種をまいた麦が大きく実り、畑一面が黄金色に輝く頃を指します。

初夏の爽やかな風が吹き渡り、豊かに実った麦が収穫を待つ、

そんな日本の美しい情景がこの「麦秋至」という言葉に込められているのですね。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

道場長の一日一心

 

 

 

 

 

『きみ は「くさ い だいこん」に なって いない か?わたし が おも う あいきどう しゅぎょう の しんずい』

 

 

 

 

 

たった二、三年稽古を続けただけで、

たった五、六年稽古を重ねただけで、

身につけた技や知識を " ひけらかす " 。

 

 

そのような人を見かけることがあります。

 

 

 

 

しかし、

それは合氣道の真髄からは

大きくかけ離れたものです。

 

 

 

 

技の形をいくつか覚えたばかりの者、

部分的な知識を得たばかりの者は、

 

とかく、それを鼻にかける傾向があります。

 

 

 

 

まるで

「恐ろしき愛宕、鞍馬の天狗よりもなお恐ろしき里の小天狗」

 

 

少しばかり合氣道に触れただけで、

すぐにそれを誇示したがるのが

心浅き、傲慢な愚者の行動です。

 

 

 

 

 

" 学びの深さと謙虚さ " 

 

 

 

 

昔の賢人は

 

「学問は臭いものである。ちょうど大根を煮るのと同じで、煮れば煮るほど臭くなるが、完全に煮尽くせば臭みがなくなる」

 

と説きました。

 

 

 

これは合氣道の稽古にも通じる真理です。

 

 

 

表面的な技や知識は、

時に「傲慢、思い上がり」という

「臭み」を伴うことがあります。

 

 

 

そこで慢心して、

立ち止まってしまえば、

「ただの臭い者」で終わってしまう。

 

 

 

 

しかし、

稽古を深め、技と心と身体が

天地大自然と一体になった時、

 

その「臭み」は消え去り、

真の境地へと

到達するものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

" 真の境地に至る者とは " 

 

 

 

 

 

勝ち負けだけにこだわり、

生半可な氣持ちで稽古を続ける者は、

 

とかく大層な態度をとったり、

世間から超越したかのように振る舞い、

 

周囲を不快にさせることがあります。

 

 

 

 

 

しかし、

真に合氣道の道を究めようとしている者、

 

あるいは、

すでにその道を歩んでいると

思われる者は、

 

いたずらに自分を誇示することはありません。

 

 

 

 

彼らは

普段と変わらないように

淡々と稽古に励み、

 

その言動もまた、

ごく自然で穏やかなのです。

 

 

 

 

しかし、

注意深く観察し、耳を傾ければ、

 

彼らの目つきや声には、

どこか常人とは異なる

 

深みがあるように感じます。

 

 

 

 

 

その立ち居振る舞いは

大地に根を張ったかのように揺るぎなく、

 

静かで洗練された動きを見せます。

 

 

 

彼らの言動には、無駄がなく、

あかぬけした「趣」が感じられます。

 

 

 

 

 

もちろん、

このような境地は

 

合氣道のみに

限定されるものではありません。

 

 

 

 

どのような道であれ、

深く追求し、

真摯に修行を重ねれば、

 

必ず同じ高みに到達できると

私は信じています。

 

 

 

合氣道の稽古を通して、

 

私たちは技を磨くだけでなく、

 

人間としての奥深さを追求し、

心身を錬磨していきたい。

 

 

 

そのような人たちと、

ともに向上していきたいものです。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

 

2025-06-02 03:16:00

" 日本に息づく古の教え:「子ども叱るな来た路じゃ」再考 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

 

本日は、二十四節氣

小満【しょうまん】 末候

 

七十二候

第二十四候  麦秋至【むぎのときいたる】

 

二十四節氣「小満」は末候へと移りました。

 「麦秋至」は5月31日~6月4日ころにあたります。

 

冬に種をまいた麦が大きく実り、畑一面が黄金色に輝く頃を指します。

初夏の爽やかな風が吹き渡り、豊かに実った麦が収穫を待つ、

そんな日本の美しい情景がこの「麦秋至」という言葉に込められているのですね。

 

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

 『 にほん に いきづ く いにしえ の おし え:「こども しか る な きた みち じゃ」さいこう』

 

 

 

 


「子ども叱るな来た路じゃ、年寄り笑うな行く路じゃ」。

 

 

この日本の古いことわざをご存知でしょうか。

 

 

ずいぶん昔に読んだ本で

出会ったこの言葉が、

今、私の心に深く響いています。

 

 

 

 

" 「来た路」と「行く路」に自分を見る " 

 

 

 

 

 

この言葉は、

単に「相手の身になって考える」という、

発想とは一線を画します。

 

 

 

子どもの未熟さや、

老人の衰えを、

 

まるで自分の過去の姿や、

やがて来る未来の姿として捉えるのです。

 

 

 

「ああ、これは私だ!」と

心から合点がいった時、

 

子どもへの接し方や、

高齢者への思いやりは、

きっと大きく変わるのではないでしょうか。

 

 

 


私自身、この言葉を思い出した時、

ハッとさせられました。

 

 

 

 

私が主宰する

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場には、

 

子ども親子クラスや

中高齢者向けクラスがあります。

 

 

 

日々の稽古で

子どもたちと向き合い、

また、人生の先輩方と接する中で、

 

この言葉はまさに、

私自身への戒めであると思うのです。

 

 

 

 

 

" 稽古は人生の縮図 " 

 

 

 

 


合氣道の稽古は、まさに人生の縮図です。

 

 

 

子どもたちは、

時に集中力を欠いたり、

思うように身体が動かせなかったりします。

 

 

そんな時、

自分が子どもの頃もそうだったと

顧みることで、

 

感情的に叱るのではなく、

どうすれば彼らが成長できるかを

考えることができる。

 

 

 

また、

中高齢者の方々が、

 

身体の変化と向き合いながらも

真摯に稽古に取り組む姿を見る時、

 

私も今年で63歳ですので、高齢者なのですが…

 

やがて

自分も同じ道を歩むのだと想像します。

 

 

その時、

彼らの努力を心から尊重し、

稽古を通して共に高め合える関係を

築くことができるのではないでしょうか。

 

 

 

 


" 今、この言葉を思い出す意味 " 

 

 

 


ずいぶん昔に読んだ本の言葉を、

 

" 今、このタイミング " で

思い出したことにも、

 

何か深い意味、

そして天地大自然からの

メッセージなのではないかと思います。

 

 

 

 

" 慌ただしい日々の中で忘れがちになる、人としての根源的な姿勢 " 。

 

それを、

このことわざが

改めて教えてくれているのだと感じています。

 

 



 

日々の合氣道の稽古の中で、

 

この言葉の真髄を胸に刻み、

「一日一心」、

子どもたち、そして人生の先輩方と共に、

 

 

天地大自然から

「お前はよくやったね。もういいよ。」

 

 

そう言われる時まで、

人として成長し続けていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-05-30 03:35:00

" 激動の合氣道師範人生:最高の感動と深い落胆 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

小満【しょうまん】 次候

 

七十二候

第二十三候 紅花栄【べにばなさかう】

二十四節氣「小満」は次候へと移りました。

「紅花栄」は5月26日~30日ころにあたります。

 

紅色の染料や食用油の原料となる紅花が、鮮やかに咲き誇る頃のこと。

 

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

 

『 げきどう の あいきどう しはん じんせい:さいこう の かんどう と ふか い らくたん』

 

 

 

 

 

" 新たな始まりと合氣道師範の道 "

 

 

 

昨日、

何十年もの間、

 

私の心を覆っていたものに、

ついに、

本当にケリをつけられました。

 

 

 

それが何かは、

私の個人的なことなので、

ここでは伏せさせていただきますが、

 

この節目を迎えるにあたり、

手を差し伸べてくれた友には、

心から、深く感謝しています。

 

 

 

 

これで、

もう何も思い残すことはありません。

 

 

 

私にとって、

令和7年5月29日は、

 

まさに残り少ない

" 人生の再出発の日 " なのかもしれません。

 

 

 

 

 

" 天地大自然と合氣道師範という選択、そして壮絶な葛藤と比類なきやりがい " 

 

 

 

 

すべきことはすべてやった。

 

そう思うと、

もうこの辺で極楽浄土に

行っても良いような氣さえしてきます。

 

 

 

しかし、

こればかりは

自分で決めることなどできません。

 

 

すべては

天地大自然がお決めになること。

 

 

それに従うほか、

私たちに方法はないのです。

 

 

 

 

なぜ私は、

僭越ながら合氣道師範という道を

選んでしまったのでしょうか。

 

 

" 人を天地大自然の法則に則って正しく導く "

 

 

 

口で言うのは簡単ですが、

この道は常に途方もない

「困難」と絶え間ない「葛藤」の連続です。

 

 

 

人の成長を促すことの難しさ、

 

それぞれの個性を見極め、

時に厳しく、時に優しく寄り添う

適切な導きを与えることの「重責」。

 

 

自分の未熟さに

歯がゆい思いをすることも、

一度や二度ではありません。

 

 

 

もし、

この道を選ばずに

普通に仕事をしていたら、

 

こんな悩みは決してなかったはずだと、

ふと、いや、しばしば考えてしまいます。

 

 

 

 

しかし、

この重責だからこそ

 

味わえる「比類なきやりがい」も、

またこの道には存在します。

 

 

 

稽古生が長年の壁を乗り越え、

目覚ましい成長を遂げた

瞬間の圧倒的な感動。

 

その瞬間にそこに立ち会えたことの喜び。

 

 

 

それは、

他の仕事では決して味わえない、

 

まさに" 魂が震える " ような、

言葉にならない喜びです。

 

 

 

一方で、

自分の指導力不足を痛感し、

深く落胆することもあります。

 

 

 

良い意味でも悪い意味でも、

 

これほどまでに感情を、

全身全霊で揺さぶられる経験は、

 

私の人生において

他に一切ありませんでした。

 

 

 

これほど深く、

激しい「感動」と「落胆」を

味わうことができたこと。

 

 

それが自分の人生にとって

良いことなのか、悪いことなのか、

今の私には計り知れません。

 

 

 

ただ、

この道を歩んだからこそ得られた、

 

他に代えがたい

唯一無二の経験であることは

紛れもない事実です。

 

 

 

 

 

" 私の「天地大自然の理」に根差した生き方 " 

 

 

 

 

私は突出した才能が

あるわけではありませんが、

 

**「正直」「謙虚」「行動」**という

3つのことには

揺るぎない自信を持っています。

 

 

 

私の言う「謙虚」とは、

決して人に媚びへつらう

ことではありません。

 

 

 

常に天地大自然の法則に則った

真理を追求し、

 

それを「素直」に学び、

取り入れる姿勢を指します。

 

そして、

真に正しいと確信すれば、

迷わず「行動」に移す。

 

 

その結果が、今の私を形作っています。

 

 

 


これまで、

天地大自然の理を説く

多くの偉人の書物を読み漁ってきました。

 

 

表現は異なれど、

彼らの教えは一つの真理に集約されます。

 

 

 

 

「自身の身体の重さを感じないのは、天地大自然の御心であり摂理である。ならば、自ら進んで重荷を背負うべし」

 

 

 

先人たちのこの言葉を信じ、

自ら進んで重荷を背負い

私は合氣道師範の道を歩んでいます。

 

 

 

 


"「伝える」と「教える」:合氣道指導者としての信念 " 

 

 

 

 


合氣道師範には、

「伝える」師範と「教える」師範の

二種類があると考えています。

 

 

 


私が師事する

兵庫県合氣道連盟会長、

合氣道琴心館館長である

 

琴地茂先生から学んだ教えを、

そのまま弟子に引き継ぐことは

「伝える」ことにあたります。

 

 

 

しかし、

私が目指すのは

その先、「教える」師範です。

 

 

 

師から授かった教えを、

私の中で何度も反芻 (はんすう) し、

 

深く掘り下げ、

咀嚼することで新たな理を見出す。

 

 

 

その理が腑に落ちるまで探求し、

自分の腕を切れば、血液の代わりに、

その思いが溢れ出すよう自身の血肉とする。

 

 

 

そして、

その研ぎ澄まされた真理を

 

弟子たちに教授することこそが、

「教える」ことです。

 

 

 

僭越ながら、

この「教える」ことができる、

あるいはそう努力する者を

 

真の「指導者」であると私は思います。

 

その真の「指導者」にのみ、

天地大自然は「感動」と「落胆」を

味わせるものであると、私は信じています。

 

 

 

 

" 「一日一心」の教えと、その先へ " 

 

 

 

やるべきことはもう全てやった。

 

だから、

いつ極楽浄土へ行っても構わない。

 

 

 

それでもなお、

生かされるのであれば、

 

その日、一日一日のすべきことを

ただ淡々と、

 

しかし、目の前のことに全力で

心を込めてやっていくだけ

なのかもしれません。

 

 

 

これはまさに " 一日一心 " 。

 

 

 

今日のこの日から、

新たな氣持ちで日々を大切に、

 

精一杯生きていこうと、

強く決意しています。

 

 

 

 

この私が

持っているもの、背負っているもの、

 

その何もかもをサッと手放し、

いずれ訪れる

極楽浄土への日を心待ちにしながら、

 

 

 

残された日々を

精一杯生きていこうと思います。

 

 

 

その日がいつになるのか?

 

今日でも明日でも、

私には何の悔いもございませぬ。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-05-29 03:37:00

" 御朱印一期一会 〜授ける心、受ける心〜 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

小満【しょうまん】 次候

 

七十二候

第二十三候 紅花栄【べにばなさかう】

二十四節氣「小満」は次候へと移りました。

「紅花栄」は5月26日~30日ころにあたります。

 

紅色の染料や食用油の原料となる紅花が、鮮やかに咲き誇る頃のこと。

 

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

 

『 ごしゅいん いちごいちえ 〜さずけ る こころ、うけ る こころ〜』

 

 

 

 

日々、

多くの参拝者が訪れる神社仏閣。

 

その中で、

参拝の証としていただく御朱印は、

参拝者にとって特別なものです。

 

 

 

墨の香り、筆の運び、

そして神仏への敬意が込められた

美しい文字。

 

 

 

それはまさに、

書かれる方の「心の静まり」が

 

映し出された

芸術とも言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

道場では、

常に「一期一会」を旨とし、

 

合氣道の稽古を通して

自身の心と向き合います。

 

 

 

 

御朱印を書く方もまた、

一筆一筆に集中し、

 

雑念を払い、

清らかな心で向き合っているはずです。

 

 

 

だからこそ、

多くの御朱印が私たちを感動させ、

その美しさに息を呑むのです。

 

 

 

 

 

神社仏閣に参拝する時期によって、

参拝者は御朱印をいただくために

1時間近く列に並ぶことも少なくありません。

 

 

 

お正月の伊勢神宮など

5時間並ぶことさえ、ざらにあると聞きます。

 

 

 

参拝者にとっては、

そこでいただく御朱印が

 

「人生で一度きり」のものになるかもしれないのです。

 

 

 

 

 

しかし、

残念ながら、

 

ごく稀に「心の波紋」を感じさせる

御朱印に、私は出会うこともあります。

 

 

 

これは私が実際に体験した、

京都 八坂神社にほど近い

ある有名なお寺に参拝した時の実話です。

 

 

 

お釣りのやり取りは

些細なことかもしれませんが、

 

そこで垣間見える態度は、

時に私の心をざわつかせます。

 

 

 

お釣りを投げるように返す、

無言でそっけなく渡す…

 

 

 

そんな瞬間に、

御朱印を授与する方の「心の苛立ち」が

透けて見えるような氣がするのです。

 

 

 

 

私たち参拝者も、

お釣りのないように準備するなど、

心遣いをすることは当然の務めです。

 

 

 

しかし、

予期せぬことで

お釣りが必要になる場面もあるでしょう。

 

 

 

そんな時、

お互いが氣持ちよくやり取りできることが、

何よりも大切なのではないでしょうか。

 

 

 

 

また奈良のある有名な神社では、

朱印の押し方に

 

明らかに「心のざわつき」を感じさせる

非常に残念な御朱印を

いただいたこともあります。

 

 

 

 

御朱印は、

単なるスタンプではありません。

 

 

 

それは、

神仏とのご縁を結び、

参拝の記憶を形に残す「非常に尊いもの」です。

 

 

 

そして、

そこに宿る「書き手の心」は、

受け取る私たちに大きな影響を与えます。

 

 

 

 

心の静寂が紡ぎ出す

「美しい御朱印」は、

私たちに安らぎと感動を与え、

 

 

 

一方で、

「心の波紋が広がる御朱印」は、

 

残念ながら

その記憶に影を落とすかもしれません。

 

 

 

 

私はまだまだ未熟者ではありますが、

不肖、私、

 

僭越ながら

合氣道師範として、

常に「心」のあり方をお弟子さんに説いています。

 

 

 

 

御朱印もまた、

その「心」が凝縮されたもの。

 

 

 

どうか、

御朱印を通して、

 

書き手と参拝者、

お互いの「心」が通じ合う、

 

穏やかで、厳か謹厳な「氣の交流」が

これからも続いていくことを

私は願ってやみませぬ。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝