" 命の駅伝、あなたは今何区? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
秋分【しゅうぶん】次候
七十二候
第四十七候 蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)
「蟄虫坏戸」は9月28日〜10月2日頃。
春から夏にかけて活発に活動していた
虫たちが、冬ごもりのために土の中へ潜る頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 いのち の えきでん、あなた は いま なんく? 』
" 命のリレー、あなたは今何区を走っていますか?"
「死」とは、
何億年も続く壮大なリレーの一走者として、
次の走者へ「命のバトン」を手渡すこと。
随分前に
何かの本で読んだこの言葉は、
私たちの人生観を根底から揺さぶる、
深い真実を伝えています。
人の命は、
スタートもゴールも定かではない、
永遠に終わることのない
駅伝競技の一区間。
その区間を、
私たちは懸命に走り抜く責任があります。
なぜなら、
この命は、
自分ひとりのものではないからです。
" 受け継ぎ、そして手渡す "
私たちは、
過去から続く
無数の命のリレーの結び目にいます。
先人たちが
必死に繋いできたバトンを受け取り、
今この瞬間を走っているのです。
そのバトンには、
先人たちの希望や苦労、
そして智慧が詰まっています。
そして、また
私たちが今走っている
この区間での経験や努力、成長が、
次に手渡すバトンに
新たな価値を加えていきます。
" あなたの走り方が、未来を創る "
もし、
この人生という区間を無為に過ごしたら、
次の走者に渡せるバトンには
何が残るでしょうか。
私たちは、
ただバトンを受け取って
次に渡すだけではありません。
「どう走るか」が問われています。
自分自身の区間を精一杯、
感謝と誇りを持って走り抜くこと。
それが、
次にバトンを受け取る未来の走者への、
最高の贈り物になるのです。
" 合氣道と「命のバトン」"
合氣道でも同じことが言える。
僭越ながら、私は思うのです。
技は、
師から弟子へと受け継がれ、
進化していきます。
しかし、
本当に受け継ぐべきものは、
技の形だけではありません。
その奥にある「心」であり、「道」です。
感謝の心、謙虚さ、平和を願う心、
そして、
日本人としてどう生きるのか。
これらの「魂のバトン」を、
私たちは稽古を通じて受け継ぎ、
次の世代に渡していく責任があるのです。
今日という一日を、
一歩一歩、大切に進んでいきましょう。
最後までお願いいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 歴史の坂を上る、赤坂から南青山へ。乃木坂編 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
秋分【しゅうぶん】次候
七十二候
第四十七候 蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)
「蟄虫坏戸」は9月28日〜10月2日頃。
春から夏にかけて活発に活動していた
虫たちが、冬ごもりのために土の中へ潜る頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 れきし の さか を のぼ る、あかさか から みなみあおやま へ。のぎざか へん 』
" 乃木坂、歴史に学ぶ武士道魂 "
東京メトロ千代田線 乃木坂駅を降りると、
そこかしこに、
「乃木」の名を
冠する施設が目に留まります。
乃木神社、乃木會館、
旧乃木邸、乃木公園、乃木坂駅、
そして乃木坂。
これらは明治の軍人、
乃木希典(まれすけ)将軍に
由来するものですね。
夏期集中稽古の指導のため、
今夏、東京出張した際、
合氣道の稽古場である
南青山スタジオ教室に向かう道すがら、
この坂を通るたびに、
私は胸が熱くなるのを感じます。
かつてこの場所にあった、
旧乃木邸、馬小屋は
現在は港区により管理されています。
そして、
坂そのものも、
乃木大将の名がつけられる前は
別の名前で呼ばれていたと伝えられています。
" 幽霊坂、なだれ坂、そして乃木坂へ "
現在の乃木坂は、
江戸時代には
「行合坂(ゆきあいざか)」と
呼ばれていたそうです。
これは、
現在の港区六本木周辺の旧町名である
今井町と竜土町へ向かう道が
この坂の上で合流することに由来するそうです。
また、
付近が窪地で
じめじめしていたことから「幽霊坂」、
坂の形状から
「なだれ坂」とも呼ばれたと伝えられています。
大正元年(1912年)
乃木将軍の葬儀と同時に、
それまで呼ばれていた
「幽霊坂」という名は廃され、
「乃木坂」に改められました。
" 合氣道と乃木将軍の精神 "
この日は、
赤坂からこの乃木坂を上り、
乃木神社に参拝してから
南青山にある稽古場へ向かいました。
乃木希典将軍は、
武士道精神を重んじた人物として
知られています。
明治天皇に殉じる形で
妻とともに自決した乃木大将の生涯は、
現代においても賛否両論ありますが、
私は乃木大将が貫いた
「信念」と「忠義」に深い感銘を受けます。
合氣道もまた、
ただ技を学ぶだけではありません。
稽古を通じて、
礼節を重んじ、心身を鍛錬し、
ぶれない自分軸を築くことを目指しています。
それは、
乃木将軍が体現した
武士道精神と
通じるものがあるのではないでしょうか。
今夏に限らず、
東京出張の際は
南青山にある稽古場に向かう道中、
この乃木坂の長い坂道を上りながら、
私はいつも自身の「道」を問い直します。
技術の向上だけでなく、
人間としての成長を求め、
常に
「一日の終わりには、今日という日をどう生き抜いたか」を振り返る。
江戸時代から続く歴史の坂を上り、
先人たちの魂に触れることで、
この日もまた、
新たな氣づきと学びを得ることができました。
そして、
私たちの
江戸時代から続く由緒ある坂道巡りは
まだまだ続きます。
過去の坂巡りのエントリーはコチラから
↓↓↓
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" どんと来い、理不尽 ! いちいち氣にしてたら生きていけない "
ありがとう。
本日は、二十四節氣
秋分【しゅうぶん】次候
七十二候
第四十七候 蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)
「蟄虫坏戸」は9月28日〜10月2日頃。
春から夏にかけて活発に活動していた
虫たちが、冬ごもりのために土の中へ潜る頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 どん と こ い、りふじん ! いちいち き に して た ら いき て い け ない 』
今朝は雨のせいでしょうか、
蒸し暑い朝ですね。
今週も宜しくお願いします。
" どうせ世の中は
理不尽なことばかり。
いちいち氣にしてたら
生きていけない "
努力しても
報われないこともあります。
また、
その努力を踏みにじるような出来事や、
不条理な言動に
心をかき乱される日々。
本当に、
私たちは理不尽なことに
囲まれて生きているように思います。
しかし、
そんなことで
立ち止まってはいられません。
合氣道は、
相手の攻撃に対して
真正面からぶつかるのではなく
相手の行きたい方向、
相手の力の方向、
氣の方向へと導き投げます。
これは、
人生の理不尽に対する
心構えそのものであると、
私は考えています。
" 理不尽を「攻撃」と捉えるな "
合氣道の稽古では、
相手の突きや蹴りを「攻撃」として
恐れたり
受け止めたりするのではなく、
そのエネルギー(氣)を
どう活かすかを考えます。
これは、
日々の生活にも通じます。
たとえば、
理不尽なクレームを受けたとき。
怒りや悲しみで
感情的になるのではなく、
「この言葉の裏には何があるのか」
「この状況をどうすればより良い方向に導けるか」と、
考えてみる。
相手の勢い、
つまり理不尽なエネルギー(氣)を、
自分の成長や
変化のきっかけに変えるのです。
真正面からぶつかって
消耗するのではなく、しなやかに受け流す。
ワッハッハと笑い飛ばしてから、
憤激しよう!
これが、心の力を保つ秘訣です。
" 今、この瞬間に集中する "
私たちは、
過去の理不尽に心を囚われたり、
未来の不安に怯えたりしがちです。
不肖、私が
毎日書き込むこのブログのタイトル
「道場長の一日一心」という言葉。
これは、
「今日、この一日、
この瞬間、その瞬間の心にだけ集中しよう」
という意味でもあります。
今日の稽古に全身全霊を注ぐ。
今日のご飯を心から味わう。
今日、出会った人の顔をしっかり見て話す。
そうすることで、
無駄な心配事が
心を占める隙間が少なくなります。
理不尽な出来事や
不条理な現実に
振り回されるのではなく、
「今」という大切な時間に
エネルギー(氣)を注ぐ。
これこそが、
心を健やかに保つための
最もシンプルな
方法なのではないでしょうか。
" 理不尽に
打ち勝つのではなく、
理不尽と「共に」生きる "
世の中から
理不尽な出来事をなくすことはできません。
だからこそ、
それに打ち勝とうとするのではなく、
理不尽と「共に」生きる知恵を
身につけることが大切です。
合氣道で、
相手と一体となり、
流れに乗って技をかけるように、
人生も同じように、
理不尽な波に逆らうのではなく、
その流れを
うまく使って自分の航海を進める。
それができれば、
私たちはどんな逆境でも、
力強く前に進んでいけるはずです。
理不尽な出来事が起こったときには、
「よし、これを乗りこなすための稽古だ」
ワッハッハ!
そう心の中で笑い飛ばしてから、
立ち上がって前に進もう。
きっと、
新たな一歩を踏み出せるはずです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 天からの「贈答品」。病も老いも力に変える「活機応変」という心のあり方 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
秋分【しゅうぶん】初候
七十二候
第四十六候 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)
「雷乃収声」は9月23日~27日頃。
夏の間に激しく鳴り響いていた
雷の音が次第に収まり、静かになっていく頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 てん から の「ぞうとうひん」やまい も おい も ちから に かえ る「かっきおうへん」という こころ の あ り かた 』
" 人生の荒波を乗りこなす「活機応変」の心 "
合氣道師範として、
また一人の人間として、
私が日々の生活で
大切にしている言葉があります。
それは
「活機応変(かっきおうへん)」
という言葉です。
「機会を活かし、変化に応じる」
という意味を持つこの言葉は、
「臨機応変」を
さらに深く掘り下げた概念だと
私は考えています。
人生は、
まさに変化の連続です。
病や老い、
そしていずれ訪れる死。
これらは時に
私たちを不安にさせ、
立ちすくませるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか?
私たちは「生かされている」
私たちは、
この天地大自然によって生かされています。
命あるものは必ずいつか死ぬ。
でも生きてる間は死なない。
正しく言えば、
人間は生かされている間は死なない
ということ。
私たちは今、生きている。
それは
この天地大自然によって
生かされているということ。
天地大自然のことを
「神」と呼ぼうが「仏」と呼ぼうが、
人それぞれです。
人には
それぞれの思いや考え方があります。
その上で、
私は「神」や「仏」というのは
人間が作ったものであると考えます。
しかし、
天地大自然は
人間が作ったものではありません。
どんな力持ちでも、金持ちでも
この天地大自然を作ることなどできません。
この天地大自然には
勝てるものなど一人もいません。
どんなに
偉大な力や富を持つ人間でも、
この大自然には皆、かないません。
繰り返しますが、
天地を「神」と呼ぶか、「仏」と呼ぶか、
それは人それぞれの考え方です。
しかし、
人間が作ったものではない
この偉大な天地という存在に、
私たちは生かされている。
これは紛れもない事実です。
そうであるなら、
この天地大自然からの
「贈答品」や「授かりもの」として、
人生の
すべての出来事を喜んで受け取ってみる。
私はそう考えるようになってから、
人生観は大きく変わりました。
老いや病、そして死さえも、
人生を深く豊かにする
素晴らしい景色として
受け入れられるようになったのです。
" 病さえも、何もかも「活かす」心構え "
同じ病をしたとしても、
それを単なる不幸と捉えるか、
学びの機会と捉えるかで、
人生は全く違ったものになります。
病を経験し、失うことを通して
初めて氣づく教訓がたくさんあります。
" 恩師から教わった
「活機応変」の真意 "
先日、
私にとって合氣道だけではなく、
生きる姿勢まで
教えてくださった大先輩が、
永眠されました。
私が合氣道琴心館の末席に
加えていただいたばかりの頃、
不器用で何もできなかった私に、
師は技の理合はもちろん、
道場での振る舞い、
そして
人生の様々な局面で大切なことを、
根氣強く教えてくださいました。
合氣道琴心館寺崎道場を主宰し
合氣道師範として歩みだした頃、
不甲斐ない私にいつも優しく
「ずっと応援してるよ」と
いつもあたたかく見守ってくださいました。
その深いご恩を思うと、今も言葉になりません。
活機応変。
この言葉の真の意味を、
私は最期まで恩師から教わっていたのだと、
今になって氣づかされました。
「天地にはね、このように還って逝くんだよ」と、
穏やかに微笑んでおられる
師の姿が頭に浮かびます。
人は、
生まれてから死を迎えるまで、
様々な「変化」に直面します。
若く、
力に満ちていた時もあれば、
病に倒れ、
思うように動けなくなる時もあります。
しかし、
恩師は、その究極の変化である
「死」さえも、
自然な流れとして受け入れ、
天地と一体となり、
天地の一部に
還っていく姿を見せてくださいました。
力で抗うのではなく、
変化を受け入れ、その流れに身を任せる。
これは合氣道の稽古で学ぶ
「統一体」の極意であり、
人生そのものに通じる深い教えです。
何かを失ったら、
それを通して、さらに多くのものを得る
くらいの心構えを持つこと。
五つ失ったら、
それを通して七つ氣づき、
十を得るくらいの心構えで生きる。
そうすれば、
すべての出来事が「喜び」に変わります。
これこそが「活機応変」の心です。
人生の荒波に立ち向かうこと。
それはとても勇ましい心構えです。
さはさりながら、
その荒波を活かして前に進んでいく。
それが、僭越ながら
不肖、私がこの道場で日々皆さんに伝えたい、
合氣道の真髄であり、
人生の真髄でもあるのです。
合氣道琴心館寺崎道場は、
この「活機応変」の精神を、
これからもお弟子さんと共に学び、
深めていきたいと思います。
師から受け継いだ大切な教えを胸に、
今日も一日一心の稽古に励んでまいります。
合掌礼拝。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 言葉が未来を創る。「〇〇できたらな」を今すぐやめるべき理由 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
秋分【しゅうぶん】初候
七十二候
第四十六候 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)
「雷乃収声」は9月23日~27日頃。
夏の間に激しく鳴り響いていた
雷の音が次第に収まり、静かになっていく頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ことば が みらい を つく る。 「〇〇できたらな」を いま すぐ やめ る べ き りゆう 』
「〇〇できたらな」ではなく「〇〇する」
私たちは無意識のうちに
「〇〇できたらいいな」
「〇〇になれたらいいな」といった
言葉を使ってしまいがちです。
しかし、
この言葉の奥には
「どうせ無理だろうな」
「できなくても仕方ないや」という
" 弱さ " や " 甘え " が隠れています。
この言葉には、
どこか他人事のような響きがあり、
自分の未来を他者に委ね、
できなかった時の
言い訳をしているかのように
聞こえます。
合氣道の稽古でも同じです。
技の習得には、
何度も失敗し、壁にぶつかります。
そんな時、
「いつかできるようになれたらいいな」と
漠然と考えているだけでは、
進歩は望めません。
自分の思い描いた
最高の結果を
「完了形」で強くイメージし、
言葉にする。
これが、
「潜在意識」に深く働きかける鍵です。
「〇〇する」「〇〇になる」と
断定的に言い切ることで、
心はもうすでに
その目標を
達成したかのように感じ始めます。
" 心は身体を動かす "
原動力ですから、
自然と自身の行動が
その方向へと向かい始めるのです。
「〇〇できたらなと思います」
「最善の準備をして最高の結果に終われたらな、と思います」
テレビのインタビューや、
日々の会話でよく耳にする言葉です。
謙虚で奥ゆかしい
日本の美徳のようにも聞こえますが、
この言葉の裏には
「心の弱さ」が見え隠れしているのです。
スポーツ選手の
試合前のインタビューで
「最高のプレイができたらな」という
言葉を耳にするたび、
私はとても残念に感じます。
" 言葉が未来を変える "
合氣道の道場でも同じです。
難易度の高い技を習うとき、
多くのお弟子さんが
「いつか先生みたいにできたらいいな」
と言います。
もちろん、
その氣持ちは大切です。
しかし、
それだけではいつまでも
「もしも」の未来のままです。
「〇〇できたらな」は、
「〇〇する」に言い換える。
これは、
自分自身に未来を託すのではなく、
「今、この瞬間から自分の未来を創る」と
決意することに他なりません。
" 潜在意識に働きかける言葉の力 "
私たちの心と身体は繋がっています。
切り離すことはできないのです。
心が「どうせ無理だ」と思えば、
身体は動かなくなります。
しかし、
心が「できる!」と信じれば、
身体は自然と
その目標に向かって動き出すのです。
自分の思い描いた
最高の未来を
「完了形」で強くイメージし、
言葉にする。
たとえば、
「昇級審査に合格する」という
目標があるなら、
「合格できたらいいな」ではなく、
「私は昇級審査に合格する」と
言い切りましょう。
すると、
潜在意識がその言葉を認識し、
自身の行動を
その方向へと導き始めます。
稽古への向き合い方、
日々の過ごし方、
すべてが変わり始めます。
これは魔法ではありません。
心と身体の繋がりと
潜在意識の性質を理解し、
その力を最大限に引き出すための、
活用法であり
「心の鍛錬」なのですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝