" 誰もが皆、師という役割を背負っている "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候
七十二候
虹始見 にじはじめてあらわる
第十五候
「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。
春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。
今日のお題
『 だれ も が みな、し という やくわり を せおって いる 』
「故 (ふる) きを温 (たず) ねて新しきを知る、以 (も) って師と為 (な) るべし」
これは、
『論語』に出てくる誰もが知る名言ですね。
" 過去の事柄や知識を深く学び、
理解することによって、
新しい事柄や知識を
より深く理解することができる。
そうすることで、人は他の人を
教え導くことができるようになる "
過去の学びを土台として、
現在や未来を理解し、
さらにそれを人に伝えることが
できるようになるという、
学びの深化と発展の重要性を
説いた言葉と言えます。
江戸時代中期、
" 石門心学 " を確立し、
商人たちの精神的な支柱となった
思想家・石田梅岩。
彼の「温故知新」の解釈は、
私たちが人を導く「師」となるための
深い示唆を与えてくれます。
石田梅岩が語る「温故知新」とは。
単に、古い知識を学び
新しい知識を得るという
表面的な意味で捉えていませんでした。
彼はこう語ります。
「 " 温故 " とは、師から教わり学ぶこと。
" 知新 " とは、自分で工夫考案して
新しいことを発明することだ。
発明ができたということは、
学んできたことが、
すっかり身に付いたということになる。
そのようになれば、
如何なる問題にも
応じることが出来るようになるから、
窮するということがなくなるのだ。
これを以て師となることができるのだ。」
石田梅岩にとって
「温故」は、先人や師から教えられた
知識や知恵をしっかりと身につけること。
「知新」は、その学びを土台として、
自ら考え、工夫し、新しい価値を生み出す
創造的な行為を指します。
そして、真に学びが身についたとき、
人はどのような問題にも
対応できる力を得て、
初めて「師」となりうると説いているのです。
「師」とは特別な存在だけではありません。
「師」という言葉を聞くと、
学校の先生や医師、
また何か特別な能力や技能を持つ
特定の職業に就いている人を
思い浮かべるかもしれません。
もちろん、
そうした人々も
「師」であることは間違いありません。
しかし、
石田梅岩が示唆するように、
人を導く立場にいるすべての人々が
「師」としての役割を
担うべきであると思うのです。
たとえば、
武道の稽古場を考えてみましょう。
私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場では、
「先輩」が「後輩」に
技を教えるのは日常的な光景です。
子どもクラスでも
それは例外ではありません。
「上の級」の子どもが
「下の級」の子どもに、
「年上」の子どもが
「年下」の子どもに、丁寧に指導します。
「教える側」の子どもは、
教えることを通して
相手を思いやる心を育み、責任感を学びます。
一方、「教えられる側」の子どもは、
先輩や年上の子を
尊敬する心を自然と身につけます。
そして、今まさに
「教えられている」新しい入門者も、
いずれは「教える立場」に立つ日が来るのです。
家庭や職場にも存在する「師」の役割。
家庭における父母、
職場における上司もまた、
「師」としての重要な役割を担っています。
「親」は「子」を養い育て、
人間としての基本的な規範や
人格形成の基礎を教え、
社会で生きていくための教養を身につけさせます。
「上司」は「部下」に対し、
仕事に必要な知識や技術だけでなく、
社会人としての心構えや成長の機会を与え、
一人前の職業人として育成します。
このように考えると、
「師」とは決して特別な肩書を持つ人だけではありません。
私たちは、
日々の生活の中で、
誰かの成長を助け、
導く存在になり得るのです。
「温故知新」を心に、人を育てる。
石田梅岩の言葉を改めて心に刻み、
私たち一人ひとりが
「温故知新」の精神を大切にすることが、
人を育て、社会をより良くしていく
力になるのではないでしょうか。
過去の学びを深く理解し、
そこから新しい価値を
生み出す努力を続けること。
そして、
その経験と知識をもって、
周りの人々を温かく導いていくこと。
今一度、
「温故知新」に真摯に向き合い、
私たち自身の成長とともに、
次世代を育む意識を
高めていきたいものです。
それぞれが、それぞれの場所で
「師」としての輝きを
増していくことができれば…
そう願うのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 安心の一息が油断のはじまり "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候
七十二候
虹始見 にじはじめてあらわる
第十五候
「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。
春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。
今日のお題
『 あんしん の ひといき が ゆだん の はじまり 』
たとえば、
大規模なプロジェクトを成功させる、
念願の資格を取得する、
受験に合格する、
住宅ローンを完済する。
人はこのような目標を達成した時、
大きな安堵感とともに深く息をつく。
また、
やっと部屋の掃除が終わる、
用事を済ませる、
満員電車から解放される。
私たちは日常生活のそんな瞬間にも、
「安心してほっと息をつく」
しかし、
その安心しきった一息こそが、
次の挑戦への準備を怠らせたり、
新たな問題を見過ごさせたりする
" 油断 " の始まりとなり得るのです。
その「終わった」という小さな安心感が、
スイッチを切り忘れたり、
大事な確認を怠ったり、
忘れ物をしてしまったりという、
うっかりとした油断につながることが
少なくないのではないでしょうか。
「油断大敵」という言葉があります。
油断は大きな敵である。
少しでも氣を緩めると、
思わぬ失敗を招く可能性がある。
常に十分に注意すべきであるという
自分への戒めの言葉としたいものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 桜が教えてくれる人生のうつろい "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・次候
七十二候
鴻雁北 こうがんかえる
第十四候
「清明」は初候から次候へと移りました。「鴻雁北」は4月9日~13日ごろに相当します。
春の終わり頃に、冬を日本で過ごした雁(がん)が北の繁殖地へと帰っていく様子を指します。
今日のお題
『さくら が おしえ て くれ る じんせい の うつろい』
春の陽氣に誘われて、
今年も桜が美しく咲き誇りました。
淡いピンク色の花びらが風に舞う姿は、
何度見ても心を奪われますね。
しかし、
その華やかな時間は儚く、
あっという間に過ぎ去っていきます。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
これは江戸時代の
禅僧、良寛 ( りょうかん )和尚の
句とされているそうです。
先に散っていく桜も、
今まさに咲き誇っている桜も、
いずれは必ず散ってしまう。
この世のすべてのものは
移ろいゆく、
万物は常に変化し
不変のものはないという
諸行無常 ( しょぎょうむじょう ) の真理を
桜に託した言葉ですね。
私たちの人生もまた、
この桜のようではないでしょうか。
輝かしい若さ、情熱的な出会い、富や財。
それらは
まるで満開の桜のように、
私たちの人生を彩ります。
しかし、
その輝きは永遠ではありません。
時間は流れ、状況は変わり、
いつか別れや終わりが訪れます。
今この瞬間が
どれほど満たされていても、
それもまた移ろいゆくもの。
その事実を受け入れるのは、
時に切なく、寂しいものです。
しかし、物語はそこで終わりませぬ。
「葉桜もまた美しい」
花びらが散った後、
桜の木は青々とした葉を茂らせます。
日差しを浴びて
力強く輝く葉桜の姿も、
また違った趣があり、
生命力にあふれていて美しいものです。
私たちの人生においても、
華やかな時期が過ぎ去った後にこそ、
見えてくる美しさがあります。
経験を重ね、
円熟味を増した落ち着き。
若い頃にはなかった
深い洞察力や、人に対する優しさ。
様々な出来事を
乗り越えてきたからこその、
内面からにじみ出る強さや豊かさ。
それは、
満開の桜とは異なる、
葉桜のような
滋味深い美しさではないでしょうか。
散りゆく桜に
人生の儚さや無常を感じ、
一抹の寂しさを覚える。
それもまた自然なことですね。
しかし同時に、
花が散った後の葉桜の姿にも
目を向けたいものです。
そこには、
次なる季節へ向かう力強い生命の営みと、
成熟した美しさがあります。
人生のどの瞬間も、
その時々にしかない
「輝き」と「価値」を持っています。
満開の桜の時期も、
そして葉桜の時期も、
どちらも等しく尊く、美しい。
桜のうつろいに人生を重ね、
変化を受け入れながら、
それぞれの季節を味わい深く
生きていきたいものですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 歩く、撮る、学ぶ "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・次候
七十二候
鴻雁北 こうがんかえる
第十四候
「清明」は初候から次候へと移りました。「鴻雁北」は4月9日~13日ごろに相当します。
春の終わり頃に、冬を日本で過ごした雁(がん)が北の繁殖地へと帰っていく様子を指します。
今日のお題
『あるく、とる、まなぶ』
平日は毎朝、
インスタグラムのストーリーを
更新しています。
月曜日から金曜日までの平日、
私は毎朝「道場長の一日一心」と題して、
一言メッセージと共に
インスタグラムのストーリーを
更新しています。
よろしければ aikido.terasakidojo をご覧ください。
" 日々の記録は、自ら切り撮る瞬間たち "
そのストーリーに使う写真や動画は、
日々の生活の中で
私が自分で撮りためたものです。
合氣道の稽古がお休みの日は、
足腰の鍛錬も兼ねて、
できるだけ電車と徒歩で出かけ、
その道中で氣になる風景や瞬間を
写真に収めています。
一度出かけると、200〜300枚くらいは撮ります。
本格的な一眼レフも持ってはいるのですが、
やはりポケットからサッと取り出せる
スマートフォンの手軽さが魅力です。
そのため、
少しでもきれいな写真を撮ろうと思うと、
カメラ性能に特化したスマホ選びが重要です。
時々、きれいな写真は撮りたいが、
安価なスマホで撮影していながら
ブツブツ文句を言っている人を見かける。
まさに「本末転倒」ですね。
私はグーグルピクセルを使っています。(なんかCMにありましたね 😅)
最新機種ではありませんが、
その世代のフラグシップモデルです。
" 今年の春は、たくさんの美しい桜に出会いました "
今年は特に、
各地でたくさんの美しい桜の写真を
撮ることができました。
" 学びのアンテナは常に高く "
インスタグラムでは
他の人がどのように写真や動画を
撮っているのかを研究しています。
それらを見ることで、
改めて自分の写真や動画の下手さに
氣づかされることもしばしばです。
ハッシュタグや場所のリンクなどを参考に、
過去に自分が行ったことのある場所において
他の人が撮った写真や動画を見るのは、
構図や光の捉え方など、
新たな発見があり、学びがあり、
面白いものです。
何事も勉強。
何事も学び。
人生を豊かにする三つの条件。
それは、
良き書、良き友、良き師匠に出会うこと。
それに一つ加えて、
「良きカメラマン」に出会うことですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 朽木に花は咲かず "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・次候
七十二候
鴻雁北 こうがんかえる
第十四候
「清明」は初候から次候へと移りました。
「鴻雁北」は4月9日~13日ごろに相当します。
春の終わり頃に、冬を日本で過ごした雁(がん)が北の繁殖地へと帰っていく様子を指します。
今日のお題
『きゅうぼく に はな は さか ず』
「朽木 ( きゅうぼく ) は雕 ( え ) るべからず」
これは、『論語』の一節にある
孔子の言葉です。
現代語訳では、
「朽ちた木を彫ったところで、立派な彫刻にはならない」 と解釈されるようです。
この言葉を人間に当てはめると、
「しょうがないやつは、どうしようもないんだ」と、
まるで人を切り捨てるような
響きさえ感じられ、
非常に厳しく、突き放した印象を
受けるかもしれませんね。
しかし、
本当に孔子は
ただ単に「ダメなものはダメだ」と
言いたかったのでしょうか?
" 朽木を通して見えてくるものは何か?"
朽ちた木は、
もはや生命力を失い、
内部から腐食が進んでいます。
どんなに腕の良い職人が、
そのような木にノミを入れ、カンナで削り、
丹念に彫り上げようとしても、
美しい彫刻を生み出すことは難しいでしょう。
土台が脆弱であれば、
努力も無駄に
終わってしまう可能性があります。
孔子のこの言葉は、
「基礎」や「本質」の大切さを
教えてくれているのではないでしょうか。
何かを成し遂げようとする時、
土台となる部分が
しっかりしていなければ、
いくら表面を繕っても、
最終的には脆く崩れてしまう。
それは、
人の成長にも
当てはまるのかもしれません。
" 厳しい言葉の裏にある願いとは?"
もちろん、
「朽木のような人」という表現は、
現代においては
非常にデリケートなものです。
人を安易にレッテル貼りし、
見捨てるような考え方は、
決して推奨されるものではありません。
しかし、
孔子の言葉を別の角度から
捉えるならば、
それは
「自ら変わろうとすることの重要性」を
教えてくれているとも
言えるのではないでしょうか。
自らが
朽ち木から脱却しようと努力すること。
周りの人たちも、
その変化を促すような働きかけをすること。
それが大切なのではないでしょうか。
孔子の
「朽木 ( きゅうぼく ) は雕 ( え ) るべからず」
という言葉は、
一見すると厳しいようですが、
その奥には、
「基礎の大切さ」や
「本質を見抜くことの重要性」、
また「自ら変わろうとする意志の力」といった、
普遍的な教えが
込められているのではないでしょうか。
" 朽木に花は咲かず "
私たちもまた、
何かを成し遂げようとする時、
あるいは誰かの成長を願う時、
この言葉を改めて胸に刻み、
深く考えてみる必要がありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝