" 江戸の記憶をたどる「冬青木坂」編 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
処暑【しょしょ】末候
七十二候
第四十二候 禾乃登(こくものすなわちみのる)
「禾乃登」は9月2日~6日頃。
「処暑」は末候へと移りました。
田んぼの稲が実り、穂を垂らすころですね。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 えど の きおく を たど る「もちのきざか」 へん 』
この夏、
8月1日から17日までの期間、
東京都において
夏季集中稽古および
指導者育成練成稽古を実施いたしました。
稽古期間中、
かねてより計画しておりました
由緒ある江戸の坂道巡りを敢行し、
その一環として
千代田区に位置する
冬青木坂(もちのきざか)を歩きました。
合氣道の稽古は
自分の中心、
いわゆる
臍下の一点 を定めることの
重要性を毎回再確認します。
中心、
つまり「核」ですね。
それは、
技だけでなく、
私たちの生き方にも通じるものです。
" もちの木坂:心に刻む歴史の道 "
東京 千代田区の九段にある「冬青木坂」
このエントリー でご紹介した
「中坂」の北に位置します。
九段北一丁目と
飯田橋一丁目の境、
目白通りから
暁星中学校・高等学校へと上り、
フィリピン大使館と
和洋九段女子中学校・高等学校に挟まれ、
大都会の中の静けさに包まれた
やや勾配のきつい坂道です。
この坂の名前の由来は、
江戸時代にこの場所に
大きな「もちの木」があったからと
言われています。
しかし、
文献をたどると、
諸説あることがわかります。
説1:本当に大きなもちの木があった。
説2:もちの木に似た木があった。
説3:特定の屋敷の裏にもちの木があった。
明治時代には、
すでにその木は失われていたようです。
それでも、
多くの文献や川柳に登場することから、
この坂が江戸の人々に
親しまれていたことがわかります。
姿かたちはなくなっても、
人々の心に残り続ける。
その場所の歴史や物語は、
たとえ目に見えなくても、
確かにそこに存在し、
私たちに何かを語りかけている。
それは、まさに
合氣道の稽古と同じではないでしょうか。
先人の残した技の「核」を学び、
自分自身の「核」を築く。
現代では目に見えない
歴史や精神性を大切にすること。
それが、
今を生きる私たちに
求められていることかもしれません。
そんなことを考えながら、
夕方の「冬青木坂」を歩いたことを
思いだします。
私たちの江戸の坂道巡りは
まだまだ続きます。
過去の坂巡りのエントリーはコチラから
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 熱意と学びの再集結。京都での特別な日 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ねつい と まなび の さいしゅうけつ。きょうと で の とくべつ な ひ 』
8月最後の日曜日、
私は灼熱の京都 四条大宮に降り立ちました。
ともに約3週間、
東京での夏の集中稽古と
指導者育成練成稽古で汗を流した
中島小雪 師範部長、
一ノ瀬尚 師範、
つぶらやひとみ 麻布台教室道場長と再会。
今回は合氣道の稽古ではなく、
全く異なる分野の勉強会に参加するためです。
約5時間にわたる勉強会の内容は、
エネルギー安全保障、
危機管理、
国家安全保障、
国際関係論、
国家戦略立案、
テロ対策など多岐にわたります。
合氣道の技術とは
一見無縁に思えるかもしれませんが、
日本の根幹に関わる
重要な学びであると私たちは捉えています。
考え方は人それぞれ違っても、
日本人としての根幹は
一つでなければなりません。
その共通認識の上で、
それぞれの考えの一致点を見出し、
物事を前に進めていく。
合氣道の技同様に
争うのではなく、ともに一致点を探す。
それは、
正しい歴史認識を持つことから始まります。
残念ながら、
終戦後から現代に至る
学校教育だけでは
十分な歴史認識を得ることは難しいでしょう。
今、私たちに必要なのは、
日本人としての視点から
見た正しい歴史認識です。
合氣道寺崎道場は、
単に技を学ぶ場所ではありません。
日本人としてどう生き、
その精神を後世にどう伝えるか。
この根幹があって
初めて、
技や呼吸法、心身の動かし方が
意味を持つのです。
新幹線代をかけてでも
この勉強会に参加する彼女たちは、
私が最も信頼する愛弟子たちです。
その熱意と向上心に、
いつも感銘を受けています。
勉強会の詳細は機密事項のため
一切お伝えできませんが、
各自が今回の学びを
自分の中で咀嚼し、
その内容を語らずとも道場で、
門下生たちを導いてくれることでしょう。
勉強会後は、
京都駅直結の会場の心地よい空調から一転、
夜だというのに
熱風灼熱の四条烏丸の街へ。
せっかくの京都なので、
おいしいものを食べて帰ろうと、
ラーメン激戦区で
つけ麺をいただきました。
名残惜しい氣持ちはありましたが、
深夜の帰宅を避けるため
早めに解散。
また来月の勉強会で
再会することを誓い、
それぞれの家路につきました。
今回の学びをよく整理し、
明日からの
道場での指導に活かしていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 人間到る処青山あり "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
処暑【しょしょ】次候
七十二候
第四十一候 天地始粛(てんちはじめてさむし)
「天地始粛」は8月28日~9月1日頃
「処暑」は次候へと移りました。
まだまだ暑い日が続いていますが、
暦の上では暑さがようやくおさまってくる頃とされています。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 にんげん いた る ところ せいざん あり 』
" 人生はどこにいても修行の場 "
「人間到る処青山あり」
にんげんいたるところせいざんあり
という " ことわざ " があります。
これは、
大望を成し遂げるために、
どこにでも行って活躍しよう、
という氣概を表す
とても勇ましい言葉ですね。
「志を立てて故郷を出た者は、
骨を埋める場所は故郷には限らない」
という意味で、
「人間」は世間のことで
「じんかん」とも読みます。
「青山」とは墓地のことを指し、
「せいざん」と読みます。
死んで骨を埋める場所はどこにでもある。
狭い故郷にこだわらず
活動の場を世界に求めようということ。
人は故郷を離れても、
どこにでも志を遂げ、活躍できる場所がある。
そして、
その場所で生涯を終える覚悟を持てる
という意味合いで使われます。
これは、
単に「どこでも生きていける」というような
薄っぺらな表層的な意味ではなく、
「どんな場所でも自分にとっての修行の場であり、全力を尽くす覚悟を持つべきだ」
という深い心構えを
示していると私は考えています。
私にとって、
この青山は、合氣道の道場を指します。
私の地元である
神戸で指導を始めた頃、
この神戸の道場で
一生を終える覚悟で稽古に励み、
指導に当たっていました。
そして今、縁あって
東京と神奈川の地で愛弟子たちが道場を開き、
この場所でも神戸と同様に
私は骨を埋める覚悟で日々精進しています。
東京の道場も、
神奈川の道場も、
神戸の道場も、
どちらも私にとっての大切な青山です。
死に場所はどこにでもある、
そうであるなら、
どう生きるかだけを考えればいい。
場所がどこであろうと、
合氣道を通して自分を磨き、
目の前の弟子たちと向き合い、
ともに向上していく。
まず、
私たちが日本人としての
誇りを持ち、
片時もそれを忘れず、
後世に伝えていくこと。
それが私の使命であり、
私たちの生き様です。
どこにいても、
どんな環境でも、
その場所で全身全霊を傾けてこそ、
本物の道が開けると信じて、
歩むほか道はないのでありまする。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 見知らぬ次の誰かのために、トイレ掃除と英霊が教えてくれること "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
処暑【しょしょ】次候
七十二候
第四十一候 天地始粛(てんちはじめてさむし)
「天地始粛」は8月28日~9月1日頃
「処暑」は次候へと移りました。
まだまだ暑い日が続いていますが、
暦の上では暑さがようやくおさまってくる頃とされています。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 みしら ぬ つぎ の だれか の ため に、トイレ そうじ と えいれい が おしえ て くれ る こと 』
私が日々の生活の中で
大切にしている習慣の一つに、
トイレ掃除があります。
ある著書で
「トイレを使い終わったら、入った時よりきれいにして出る。そうすれば良いことがある。お金が入ってくる」
という一節を読みました。
その著者は
私のお気に入りの人なので、
この教えをすぐに
私は実践するようになりました。
正直なところ、
「良いことがある」「お金が入ってくる」
といった言葉を
鵜呑みにしているわけではありません。
なんの根拠があるのか
不明ですし、
科学的な実証性が
あるわけではないですから。
では、
なぜこの習慣を私が続けているのか。
それは、
「次に使う誰かのためになる」、と
心から思うからです。
自宅のトイレはもちろん、
道場のトイレでも、
駅のトイレでも、
商業施設のトイレでも、
入ったときにきれいなトイレは、
誰もが氣持ちよく感じるものです。
便器周りを拭いたり、
床に落ちているゴミや
トイレペーパーを拾ったり、
近くに清掃用のブラシなどがあれば
それで便器の中をゴシゴシ磨きます。
ほんの少しの手間をかけるだけで、
次に使う人が清々しい氣持ちになれる。
その小さな思いやりが、
巡り巡って
自分の心も
清らかにしてくれるのです。
この考え方は、
先の大戦で命を捧げられた
「英霊の姿」と重なります。
まだ見ぬ私たちのために、
日本の未来のために、
欧米列強といわれた、
アジアの国々を植民地支配から解放させ、
アジア諸国の真の独立のために
未来の平和のために、
自らの命を顧みず戦い、
散っていかれた英霊たち。
彼らは自分のために戦ったのでしょうか?
何か見返りを求めたのでしょうか?
そうではなくて、
ただただ、
自分たちの子孫が
平穏に暮らせる未来を願い、
その尊い命を投げ出されました。
私はその英霊たちの思いと
トイレ掃除も同じではないか、と思うのです。
次に使う人の顔も知らない。
どこの誰かも知らない。
けれど、
その人が氣持ちよく過ごせるように、
という純粋な思いで行う。
それは、
見返りを求めない「無私の精神」であり、
英霊が私たちに残してくれた
偉大な心の遺産に
通じるのではないでしょうか。
良いことが起こるからやる。
お金が入ってくるからやる。
そんな理由を超えたところに、
真の道がある。
無私の心で誰かのために行動する。
その姿勢は、
合氣道の稽古にも通じるものです。
相手を活かし、相手と調和すること。
トイレ掃除を通じて、
私たちはその精神を日常の中で
体現しているのかもしれませんね。
皆さんはどうでしょうか?
今日トイレを使う時、
少しだけ意識して行動してみませんか?
あなたのその小さな一歩が、
誰かの、
そしてあなた自身の
心を明るく照らす光となるはずです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 休むことで、心は強くなりますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
処暑【しょしょ】初候
七十二候
第四十候 綿柎開(わたのはなしべひらく)
「綿柎開」は8月23日~8月27日頃。
二十四節氣は「立秋」から「処暑」に移りました。
綿を包むガクが開き始め、白い綿が顔を出す頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 やす む こと で、こころ は つよ く なりますか? 』
今日もこのブログを
午前3時に起きて書きはじめています。
まだまだ猛暑は続きそうですが、
二十四節氣 暦の上では、
もうすでに秋なのですね。
そういえば、
午前5時でも外は暗いです。
季節は確実に進んでいますね。
ふと氣がつけば、5月のGWに
ほんの数日休ませてもらってから
今日まで1日も休まずに仕事を続けています。
6月末には昇級審査があり、
8月の東京出張の間は
神戸の道場は休みになるため、
その分7月も休みはなかった。
情けないかな、
神戸の道場は私が不在の時に
代わりに立てる人が一人もいない。
いや、
人のために立とうとする志のある人が
一人もいない、が正しい表現だ。
今後の若手の台頭に期待するしかない。
そして8月は、東京での指導。
神戸に帰ってきても、
休むことなく稽古は続いている。
特にお盆前の
神戸と東京を往復する日々はきつかった。
一週間、
ほぼ仮眠しか取れない日が続いた。
「起き上がりたくない」
怠けた心に活を入れ、連日新幹線に乗り込んだ。
しかし、
その間も私の指導を
楽しみに待ってくれている
東京、神奈川のお弟子さん
一人ひとりの顔を思い浮かべるたび、
不思議と力が湧いてくる。
己の身体の疲弊など、
指導のクオリティを落とす
言い訳にはならない。
合氣道は、
自分のすべてを注ぎ込んで
初めて伝えられるものだ。
だから、
どんなに疲れていても、
指導の質だけは
絶対に下げてはいけないと心に誓っている。
世間一般のお盆休みや週末以外、
このブログの更新も休まなかった。
たった1分で
読み終えられるような短い文章でも、
書いては推敲を繰り返し、
数時間かけてようやく世に出せる。
毎日午前3時に書き始めて、
完成するのは午前7時過ぎだ。
ここにも全身全霊を注ぎ込んでいる。
こんな人もいる。
「無理はしない」
「疲れたから休もう」
「身体が不調だから休もう」
「リフレッシュしたいから休もう」
「自分の時間が欲しいから休もう」。
本当に、
それで心身ともに健康になれるだろうか?
休むことで、リフレッシュしましたか?
休養することで心は強くなりましたか?
そんな人はそんなことを一生繰り返し、
また何れ、身体に不調が現れる。
あっちが痛い。
ここが痛い。
この繰り返しだ。
私の場合は、
休みがないほうが健康になるのだ。
なぜなら、
常に「氣」を
出し続けているからだ。
「あなたと私、どちらが氣を出しているだろう?」
もし、
私の方が強く氣を出せているなら、
休んでリフレッシュするあなたより
仕事も稽古も一日も休まない私の方が、
よっぽど健康体ということになる。
休みはなくても、
心はいつも晴れやかだ。
身体は疲弊するかもしれないが、
それに打ち勝つ強い心が、
真の健康を築き上げていくと信じている。
この道場に集う皆さんが、
心身ともに健やかでいられるよう、
私はこれからも「休みなし」で、
道を歩み続ける。
これが一流の健康体の生きた見本だ。
賢者はこの後ろ姿をよく見て、精進せよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝