2025-01-10 03:31:00

" 必ず自分に返ってくる "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節気 

小寒 (しょうかん) 次候

 

七十二候 

水泉動 (しみずあたたかをふくむ)

第六十八候。

1月10日から1月14日頃までは小寒の次候にあたり、地中で凍っていた泉が動き出すころです。

 

 

 

今日のお題

 

 

 

『かならず じぶん に かえって くる』

 

 

 

言葉というものは

一度発すると、

遥か宇宙にまで飛んでいく。

 

 

そして、

忘れた頃に

自分のところに返ってくる。

 

 

しかも、

その言葉を発してから

相当な時間が経過した分、

 

とても大きく

成長して返ってくる。

 

さらに、

その仲間まで

連れて返ってくるのだ。

 

 

 

自分の発した言葉が

きれいな言葉、

積極的でプラスの

良い言葉だったら、

 

そういう仲間が

そこに集まって、

 

もっともっと

良い言葉となって帰ってくる。

 

そして

自分を幸せにしてくれる。

 

 

 

一方で、

自分の発した言葉が

悪い、汚い、消極的な

マイナスの言葉だったら、

 

そこにも

そういう仲間が集まってきて、

 

とても大きくなって、

たちの悪い仲間まで

連れて帰ってくる。

 

その結果、

自分が傷付けられる。

 

 

 

そして、

言葉というのは、

 

一度発したら、

遥か大宇宙に刻まれる。

 

 

 

これは

絶対に消すことが

出来ないもので

必ず、事実として

大宇宙に印字される。

 

 

 

自分の口から出た言葉は

言ってしまえば消えない。

 

 

口に出した後、

いくら後悔しようが

反省しようが、

 

決してゼロには

ならないのだ。

 

 

 

その事実は事実として、

永遠に残り続ける。

 

 

 

私達人間には、

どうすることも出来ない

天地大自然の

厳然たる大法則が

そこには実在する。

 

 

 

従って、

もし、たとえ不注意にも

消極的な悪い言葉を

発してしまったら、

 

きれいな言葉や

相手が喜ぶ積極的な言葉を

 

その何百倍も発して、

刻まれてしまった

消極的な言葉を

覆い隠すことくらいしか

できないのだ。

 

 

一度、

発してしまった言葉は、

もう絶対に消えない。

 

どんな言葉も。

 

 

そして、

いずれ自分に

それ以上のことが返ってくる。

 

 

良いことであっても

悪いことであっても。

 

 

私はもう

何千回とそれを経験した。

 

 

だから、

自分が誰かに

傷つけられたとしたら、

 

「あぁ、遥か大宇宙から返ってきたんだな」と

思わなければいけない。

 

 

 

いくら

自分を傷つけた相手が

100%悪いと思えるような

出来事であっても、

 

その相手に

怒りの言葉を

ぶつけてはいけない。

 

 

それをしてしまえば、

また巡り巡って

その何百回のことが返ってくる。

 

 

自分に返ってきた時点で、

それは一つの解決なんだ。

 

 

一つの因縁が

清算されたということだ。

 

 

「これくらいで済んで良かった」と

感謝しなければいけない。

 

 

一つの因縁を

解決してくれた

相手にも

 

「ありがとう」と

感謝しなければいけない。

 

 

また、

自分の言動を

「正しなさい」と

 

教えてくれた

天地大自然にも

大きな感謝をしよう。

 

 

 

それが分かれば、自分は変われる。

 

 

 

幸せになりたければ、

消極的なマイナスの言葉は、

しゃべっちゃいけないのだ。

 

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2025-01-09 03:36:00

" 恥ずかしくないのかい "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節気 

小寒 (しょうかん) 初候

 

七十二候 

芹乃栄(せりすなわちさかう)

第六十七候。

1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。

 

 

 

今日のお題

 

 

『はずかしく ない の かい』

 

 

一つ前の

このエントリーにも

関連することですが、

 

神社でのマナーや

礼儀作法を知らない人が

多いですね。

 

見ていても

「非常にみっともない」ですね。

 

" 初詣 " や " えべっさん " に

家族で参拝する人も多い。

 

 

小さな子どもを連れた

親が情けない。

恥ずかしい。

参拝作法を知らない。

 

 

そんな親の子どももまた、

そんな親になるのだ。

 

 

参拝作法くらい

今の時代は、

ネットでいくらでも

検索できるだろう。

 

子どもを連れて

参拝するなら、

それくらいは

身に付けてから行けば?

 

 

神社の鳥居には、

ここから中は

神様の領域であることを

示しているのです。

 

従って、

一礼してから

鳥居をくぐるのが

参拝作法です。

 

また、

参拝を終えて

神社を出る時も

向き直って一礼するのが

当たり前です。

 

 

その神の領域に入るのに

一礼もしないで入る

おバカさん。

 

そのような人は

他人の家を訪問する時も、

ズカズカと傲慢な態度で

上がりこむのだろうね。

 

 

先日、

生田神社に参拝した。

 

予想通り、

初詣で混んでいた。

 

 

参拝するには

列に並ばなければ

いけない。

 

神社では

真ん中は神様が

通る道とされていますから、

 

境内では端を

歩くのが作法です。

 

 

しかし、

参拝の列は

境内の真ん中にもあるのです。

 

まあ、

百歩譲って

これは致し方ないのかな。

 

でも、

神様に失礼な行為である

ことには違いない。

 

 

従って、

私のような者は

静寂とした場で

参拝したいので、

初詣客でごった返す日は

避けたほうが良いですね。

 

 

" 手水舎 (ちょうずや) " は

参拝者が心身を清めるところです。

 

何回も水を汲んで

じゃぶじゃぶ手を洗う

ところではございませぬ。

 

 

柄杓があれば、

右手で柄杓を取り、

水盤の水を汲み

左手を洗い、

 

柄杓を左手に持ち替え、

右手を洗う。

 

再び、

柄杓を右手に持ち替え、

左の手のひらに水を溜め、

口をすすぎ、

残った水で

左手をもう一度流す。

 

 

 

" お賽銭 " は

投げるものではございませぬ。

 

お金を投げるような人に

お金は寄ってはきませんよ。

 

 

そっと静かにお賽銭箱に

入れるものです。

 

それもその人の

心の表れですよ。

 

お賽銭を

投げる人になど

御利益などございませぬ。

 

 

 

子ども連れなら

せめて、

きちんと出来る人の

見様見真似でも

良いから

親はきちんとやるべきでしょ。

 

 

きちんと出来ている

ご家族を見ると、

ほんと心が和みます。

 

そのような親に

育てられた子どもは

幸せなんだろうな。

 

 

つくづく、そう思った。

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

 

2025-01-08 03:29:00

" 礼ではなく拝 "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節気 

小寒 (しょうかん) 初候

 

七十二候 

芹乃栄(せりすなわちさかう)

第六十七候。

1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。

 

 

 

今日のお題

 

 

『れい では なく はい』

 

 

日本の多くの神社では

基本的な参拝の作法として

行われる、

二礼二拍手一礼。

 

 

神様に敬意を表し、

心を込めて丁寧に行うから、

 

私は

二礼二拍手一礼ではなくて、

「二拝二拍手一拝 」で参拝する。

 

 

" 礼 " とは

約30度~45度の

浅いお辞儀のことだ。

 

一方で、

" 拝 "  とは約90度の

深いお辞儀のことで、

最拝礼を意味する。

 

 

神様に敬意を表し

神を通して、

天地大自然に心から

感謝するから、

 

私の場合は

" 礼 " ではなく、

自然と " 拝 " になる。

 

 

わが家の子ども達が

まだ小さな頃から

近くの神社に

よく一緒に参拝した。

 

小学校に上がる頃には、

「お父さんの礼は、後ろから見たら足しか見えへんで」と言いながら、

 

よく私の「拝」を真似していた。

 

 

 

" 二拍手 " は

両手を胸の高さに合わせて

右指先を少し下にずらして、

二回拍手をしてから

指先を揃える。

 

 

" 二拝二拍手一拝 " は

一連の流れなので、

途中で止めることなく

一氣に行う作法だ。

 

従って、

願い事やお祈りは

" 二拝二拍手一拝 " の後で

心を静めてお祈りするものだ。

 

 

そして、

お祈りをする時は

「厳かな態度」で行うもの。

 

頭を上げたままで

お願いすることは、

神様に対して非常に失礼な行為だ。

 

頭を下げて

お願いをすることが礼儀だ。

 

 

これはとても大切なことだと思う。

 

 

また

お寺では

" 礼拝 (らいはい) "  をする。

 

合掌したまま

上体をゆっくり

約45度の角度で

前へ傾けて礼をし、

静かにはじめの姿勢に

戻してから、

両手をそっとおろす。

 

 

 

中には

作法ばかりに

氣を取られているのだろうか。

 

全くと言っていいほど、

心が通って無い人を

よく見かける。

 

 

その様な人に

御利益などあるはずがない。

 

まさに「本末転倒」だな。

 

 

人間の主体は「心」だ。

 

 

心が身体を動かしているから、

見ればすぐ分かるものだ。

 

 

合氣道の " 礼 " も同じだ。

 

心がこもってない人の礼は

見ればすぐ分かる。

 

何度注意しても

なかなか身に付かない

子どももいる。

 

親は「きちんとしなさい」って

言うんだけどね。

 

こういうことは

口で言うのではなくて、

まず、

親が見本を見せてあげないとね。

 

それも一回や二回じゃ駄目。

 

何百回でも

本当に

子どもが身に付けるまで

してあげないとね。

 

子どもは

親の一挙手一投足を

しっかり見ている。

 

親が礼儀正しい人の

子どもは

必ず、

礼儀正しい

振る舞いが出来る。

 

" 躾 " とは

そういうものだわ。

 

 

 

昔から日本人は

「礼」や「お辞儀」という

文化習慣を大切にしてきた。

 

日本人としての

" 心 "  があるなら、

普通に出来て

当たり前のことでありまする。

 

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2025-01-07 04:09:00

" おみくじは大切に持ち歩く "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節気 

小寒 (しょうかん) 初候

 

七十二候 

芹乃栄(せりすなわちさかう)

第六十七候。

1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。

 

 

 

今日のお題

 

 

『おみくじ は たいせつ に もちあるく』

 

 

初詣のおみくじ。

 

 

神社のおみくじで

吉凶に一喜一憂する

若い人をよく見かける。

 

 

そして木の枝などに結ぶ。

 

木の枝などに結ぶことによって、

" 神様と縁を結ぶ " という

意味もあるそうだが…

 

 

私は必ず持ち帰る。

 

 

木は伸びるものなので、

木が可哀想だ。

 

 

おみくじを結ばれるために

木は生きているのではないだろう。

 

 

枝からは芽が出て蕾をつけ、

次に花を咲かせる

準備をしているのだから。

 

 

引いたおみくじは

必ず持ち帰り、

財布に入れて

常に大切に持ち歩いている。

 

 

そして、事ある毎に

何度も読み返し、

自分を戒めることにしている。

 

 

人間は忘れる生き物だ。

 

吉凶に一喜一憂して

木に結んで、

いくら神様と

ご縁で結ばれたとしても、

本人の努力無しに

願いが叶うはずがないのだ。

 

 

 

「おみくじ」というのは、

神様を通して、

天地大自然からのメッセージだ。

 

 

吉凶などに大騒ぎせず、

もっと大切なことを

しっかりと、心静かに

読まなければ、

 

せっかくの天地からの

お告げも

何の意味も無いのでは

あるまいか。

 

 

 

おみくじの

一番最初に書かれている

言葉が最も大事なのだ。

 

 

 

今年の初詣は

" 一年安鯛 " と書かれた

鯛の容器に入った

おみくじを竿で釣るという、

ちょっとユニークな

おみくじを引いてみた。

 

 

 

そのおみくじに

書かれていた言葉は、

 

 

" 吹く風に沖辺の

波の高けれど

心静けき我港かな "

 

 

この和歌が

おみくじで一番大事な

神を通じた

天地大自然からのお告げだ。

 

 

このお告げは

昨年と同じだった。

 

 

2024年1月5日の

このエントリー

宜しければご覧ください。

 

 

この和歌の後に

要約した内容も記載されている。

 

 

" これ迄の幸福があるのは

神の御恵(みめぐみ)と

祖先の守護によるものなので

安心せず

自分も人を慈(いつく)しみ

世の為めに尽せば

いよいよ運盛(うんさかん)に

他所(よそ)は嵐吹きても

自分の所に何事もなく

幸(さいわい)多し "

 

 

今年もこれを怠ることなく

油断せず、安心せず

昨年以上に

世のため、人のために

氣を出して自分の責務を

全うすることだ。

 

 

静寂に包まれた中で

厳かに

それを天地大自然に誓い、

 

「とても貴重なお告げをありがとうございます」

 

心から神様に感謝し、

一拝して初詣を終えました。

 

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

 

2025-01-06 03:59:00

" 神仏には願いではなく感謝すること "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節気 

小寒 (しょうかん) 初候

 

七十二候 

芹乃栄(せりすなわちさかう)

第六十七候。

1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。

 

 

 

今日のお題

 

 

『しんぶつ には ねがい では なく かんしゃ する こと』

 

 

あけましておめでとうございます。

 

 

今年も初詣に参拝した。

 

今年の参拝は、

より心が静まり、

心の平穏を感じながら

 

神様に

「ありがとうございます」と

感謝の祈りを捧げた。

 

 

自分にとっての

ご利益とか効果であるとか、

 

そういうことを

期待するだけ。

 

また、

願い事をすることだけが

参拝の目的になっている

人も多々あると思う。

 

 

人の思いは

それぞれだから、

 

それを否定はしないが、

 

まずは

神様に感謝の心をお伝えして、

 

その上で

自身の健康や合格祈願、

良縁や幸せなどを

神様にお祈りするべきでは

なかろうか。

 

 

しかし、

自分の願い事や

利益や効果を期待して

参拝している間は、

 

せっかく神社に参拝しても

心の平穏は訪れないのだ。

 

 

なぜなら、

それだけでは

神様と一体になれないからだ。

 

 

 

もっと言うと、

万物の霊長として生まれた

人間として、

たとえ肉が裂けようが、

骨が砕けようが

" 助けて " とか、

" 参った " とか

決して言わないことだ。

 

何か困ったことがあれば

すぐ「神様助けて」と

言う人がある。

 

" 苦しい時の神頼み " 

というものだろうが、

 

万物の霊長たる人間が、

自分の人生を

生きているにも関わらず、

 

神仏にお願いする

神や仏に頼るというような

 

氣持ちを持っている限り、

そのような人は

絶対に救われることなどない。

 

 

神仏は

願ったり、頼ったり

するものではなく、

尊ぶべきものだ。

 

 

年に一回や二回、

お賽銭をあげて

「助けてください」などと、

そんな虫のいい話など

この世にあるわけがない。

 

 

神社や寺は

みな人間が建てたもの。

 

神や仏が建てたものなど、

一つもないのだ。

 

 

そうであるなら、

 

 

神社や寺に参拝する

ということは、

 

その場所に祀られている

神仏を通して、

天地大自然に感謝するという

ことではないだろうか。

 

 

天地大自然は

お賽銭をあげたから

助けてくれる

というものでは決してない。

 

 

神仏に祈るものが

助かるというものではない。

 

 

そんなことも

分からなかった頃の

私もまた、困ったら神頼みしていた。

 

 

高校生の時、

" 野球の試合に出れますように " 

" ヒットが打てますように "

 

商売をしていた頃、

" 商売が上手くいきますように "

" 儲かりますように "

 

身体の具合が悪い時、

" 良くなりますように "

 

 

何一つ、叶わなかった。

 

 

普段、

自分のことしか考えず、

好き勝手に生活して、

神仏に手も合わせない人が、

 

お正月だからといって、

初詣に参拝して

願い事をして、

 

果たして

神様は聞き入れて

くださるでしょうか。

 

 

それが可能なら

神仏に願い事や頼み事をした人は

皆、願った通りの人生を

歩めるはずである。

 

 

自分事に置き換えてみると

よく分かるはずだ。

 

 

そんなことはありえない。

 

 

 

そうではなくて、

 

自分の思いや願いを

叶えようと思えば、

 

ひたすら

努力を継続すること以外に

何もないのだ。

 

 

「今、私は生かされているだけでありがたい」

 

それだけで

何不自由なく生きているんだ。

 

全てのものを与えられているんだ。

 

 

これ以上、

何が欲しいと言うのか。

 

 

私はそれに氣付いてから、

 

世のため人のために

自分にできることを

一所懸命やる。

 

その貴重な命を

今現在いただいている。

 

その感謝の心を

天地大自然に捧げるために

神仏を通して参拝する。

 

そのご縁を大切に尊ぶ。

 

 

それが

できるようになってきたら、

 

神社や寺の静寂に

心がピタッと一致するようになった。

 

そして心の平穏が訪れるのだ。

 

 

初詣に限らず、

神仏に参拝するということは

そういうことであると、

 

私は常日頃から思っています。

 

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝