" 悩みがない人 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
大雪 (たいせつ) 次候
七十二候
熊蟄穴(くまあなにこもる)
熊が越冬のため穴にこもる頃です。
今日のお題。
『なやみ が ない ひと』
もうすいぶん昔になるが、
何かの書に
このようなことが
書いてあったことを
思い出した。
" 人は自分のことばかり
考えていると、
悩みごとが
尽きることはないが、
いつも周りの人のことを
考える人には
悩みというものはない "
今も未熟者だが
当時はもっともっと
未熟者であった私は
" ほんまかいな "
そう思うことしか
できなかった。
しかし、
今になって
" 本当にそのとおりだ "
そう思えるようになってきた。
12月の2週目から
年末までの3週間の間、
行われる
恒例の指導者育成、錬成
集中稽古の真っ最中だ。
昨日も変わらず、
指導者の育成と錬成という
目的のため。
その各々の指導者と
それを目指す志のある
お弟子さん方に
不肖、私が稽古をつけながら
ふと思ったことがある。
それは
自分の稽古をする時がない
ということ。
厳密に言えば、
それが " 自分の稽古 " なのだが。
指導者というものは
弟子に教えることによって
学ぶものだ。
従って、
人前に立って
お弟子さんを
指導することが
自分の稽古になる。
それは
自分に向き合うのではなく、
常に弟子に向き合う
ということになるのだ。
そこに
全身全霊から
氣が出ている。
昨夜の就寝時に
ふと思い出した
この言葉。
" いつも周りの人のことを
考える人には
悩みというものはない "
そうか、
今まさに
この絶妙の瞬間に、
天地大自然が
思い出させてくれた
ことなのかもしれない。
改めて思い起こすと、
もうすいぶん前から
私は悩みなどはない。
毎日、反省はあるが、
悩みというものとは
縁がない。
やはり
そうなんだ、
" 世のため、人のため "とは
悩みごととは無縁なんだ。
そうか、
そうなんだ、
悩みなど一切ないから
心身ともに
健康体でいられるのだ。
毎日、
24時間という時間を
" 世のため、人のため "
ただそれたけに使う
ことができる人は
いつも自分のことは
後回しなんだ。
映画見たいな、
温泉行きたいな、
そう思っても
その前に
人のために
するべきことがある。
いつも
自分のことは後回しだから、
映画も温泉も行く時がない。
「一体、いつになれば行けるのか」
そう思って
行動している間は
心身ともに健康でいられる。
その天地大自然の理を
分からない人が多いように思う。
いつも
自分、自分、自分。
そういう人は
いつも悩みごとだらけ。
そして
自分を守ることに
事欠かない。
自分を大事に大事に、
決して無理しない。
身体にさわるから。
それは正論のように
聞こえるが、
しかし、
そんな自分の思いとは
うらはらに、
心身ともに
非常に弱い、
生命力が乏しい
不健康な人になるのだ。
それが分かる
人間になりたいものだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 鏡は先に笑わない "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気 (にじゅうしせっき)
大雪 (たいせつ) 次候
七十二候 (しちじゅうにこう)
熊蟄穴(くまあなにこもる)
熊が越冬のために
穴にこもる頃です。
今日のお題
『かがみ は さき に わらわ ない』
人間は
絶対に見ることが
出来ないものがある。
それは自分の姿だ。
自分の目で
他人の姿は見えるが、
自分の姿を見ることは
不可能だ。
しかし、
それを可能にするのが鏡だ。
鏡に映る
自分の顔や髪型や
全身は見ることが出来る。
鏡に自分の顔を映して
微笑むと、
鏡に映る自分も微笑む。
眉間にシワを寄せて
怒ると、
鏡に映る自分も怒る。
しかし、
鏡の方から
先に微笑むことは
絶対にない。
鏡の方から
先に怒ることも
決してない。
人間関係も同じだ。
自分が笑えば、
相手も笑ってくれる。
自分が怒るから、
相手も怒る。
挨拶も同様。
まずは自分から、
笑ってみよう。
その場を明るくする
光となろう。
暗いところに
自分の明るい光をあてよう。
わが子の悪い癖を
本氣で直して
あげたいのなら、
まず、親が
自分の悪い癖を正そう。
わが子は親の鏡だ。
わが子の姿は
親の姿である。
「また稽古に遅刻したの?ダメじゃない」
一体、
どの口が言っているのか。
親のあなたに
遅刻癖があるから
子どもも遅刻するのです。
まずは、
あなたが直しなさいよ。
鏡というのは、
姿や形を見るためだけに
あるのではなく、
このように、
大切なことを
私達に教えてくれて
いるのですね。
" 鏡は先に笑わない "
人生の教訓にしたい。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 異なる分野から氣を学べ "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ことなる ぶんや から き を まな べ』
偶数月の第2火曜日は
近くのお寺で
寄席が開催されている。
前売り券を購入すれば、
とても安価で、氣軽に
落語を楽しむことができる。
今週から始まった
12月恒例の
指導者育成、錬成
集中稽古に参加している
お弟子さんを連れて、
昨日の午前稽古が終わり
夜間稽古までの間、
その寄席を聞きに行った。
ただ落語を楽しむだけに
行くのではない。
これも大切な稽古の一環だ。
噺家の一挙手一投足を
よく見聞きして学ぶ。
開口一番より
実力のある真打の
それがどう違うのか。
目線、上半身の向き、
指先の使い方、
顔の表情。
そして、
その噺家の氣を学ぶ。
もう一つ重要なことがある。
それは" マクラ " と呼ばれる
落語の冒頭で、
世間話や本題と関連する
小咄 (こばなし) を話す部分だ。
観客に自然と落語の世界に
入ってもらう役割を
果たす " マクラ " 、
それが本当に絶妙なのだ。
そして、
噺家が羽織を脱ぐことで、
" 本題 " に入っていく。
マクラから本題、オチまで
一連の噺 (はなし) には
一切の切れ目がないのだ。
それが
特に実力のある真打
にもなれば、
聞いていて
惚れ惚れする。
それはもう芸術だ。
かなり前のエントリーでも
書いたことがあると思うが、
合氣道師範と
落語家、噺家といのは
分野は違えど
" 氣 " は同じだ。
その役になりきる氣。
その役を演じきる氣。
道場で人前に立って
お弟子さんに教える氣。
全てを出しきる氣。
捧げきる氣。
合氣道師範、指導者も
何も喋らず、
技だけを教えていては
ダメだと私は思う。
話すこと。
お弟子さんに
目と耳と口から
学んでもらうこと。
でも、
それだけではいけない。
身体を通じて
学んでもらうこと。
そして、
最重要課題が
心のあり方、使い方、
心の置きどころだ。
その全てを
合氣道とは異なる分野、
落語から学ぶことも
非常に大切なことである。
東京、神奈川から参加した
指導者とそれを目指す
お弟子さんにとっては
とても良い
学びになったと思う。
関西言葉や、
独特の言い回しを
理解するのに
少々、苦労したようだが。
" もうほんま、よういわんわ "
" おでんに、よぉ出汁がしゅんどるわ "
" よういわんわ "
「これって言えないってことですか?」
いや違うわ…
" よぉしゅんどるわ "
「これって日本語なんですか?」
昔からある
れっきとした日本語や…
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 身近なところに恩師はいる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『みぢか な ところ に おんし は いる』
昨日、
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館本部道場の
月曜午前稽古に
向かうため
JR兵庫駅に着くと、
快速電車に乗るまで
8分ほどあった。
近くのコンビニに
コーヒーを買いに行った。
コンビニコーヒーは
普段から
よく利用している。
"ホットコーヒーレギュラー"を
注文した。
するとレジの店員さん、
「清掃中です。販売出来ません」
私、「そうですか」
それだけ。
コーヒーマシンが
清掃中だから、
買えない
ということなのだろう。
私はコンビニでは
ほとんどコーヒーしか
買わないので、
さっさと店を出た。
この一連のやり取りを
このブログの読者の皆様は
どう思われますでしょうか。
確かにコーヒーマシンが
清掃中であれば、
コーヒーを買うことは
出来ません。
客としては、
諦めなければ
仕方がないのです。
それを売る店側も
マシンが清掃中の間は
コーヒーを売ることが
出来ないことは
当たり前のことです。
従って、
そのレジの店員さんの
対応もそれは
当然の対応だったでしょう。
然は然り乍ら (さはさりながら) 、
その店で
ホットコーヒーを
買いたかった
私の氣持ちには、
一切向き合っていない
対応ではないでしょうか。
「申し訳ございません、只今コーヒーマシンが清掃中のため、販売が出来ません」と
一言、
「申し訳ございません」
という言葉があれば、
「ああ、ついてなかったな」と
氣持ちよく店を出ることが
できたに違いない。
やはり、
店員としては
当然の対応であっても、
それを受け取る側の
客の氣持ちを
考える位の余裕は
人として、
備えておきたいものだ。
いつもの朝の
何氣ない日常にも
「氣付き」は
このように
いつも身近にある。
" 人としてどう生きるのか "
それを改めて
氣付かせてくれた恩師。
それが
そのJR兵庫駅近くにある
コンビニの
レジの店員さんだ。
自ら、自分への
戒めとして
学ばせて
いただけたことに
感謝するとともに、
その時間に
その場所へ
私を学ばせようと
導いてくださった
天地大自然に
心から
「ありがとうございます」と
言いたい。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 重荷を負うて遠き道を行くが如し "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『おもに を おうて とおき みち を ゆく が ごとし』
昨日、12月8日の
指導者育成、錬成
集中稽古の座学から。
" 人の人生は重荷を負うて遠き道を行くが如し "
徳川家康の遺訓だ。
人の一生というものは、
重い荷を背負って
遠い道を行くようなものだ。
人生は苦しい時もある。
その苦しさが長い時もある。
しかし、
苦しさも不自由さも、
それが当たり前であると
考えれば、
不満は生じない。
辛抱強く努力を重ねながら、
急ぐことなく
着実に前に進むべきである。
心に欲や不満が
起きたときには、
苦しかった時を思い出し、
" 私の人生は重荷を負うて遠き道を行くが如し "
この言葉を
自身の銘にして、
深く心にしるして
忘れないように。
以上が
昨日、12月8日の
指導者育成、錬成
集中稽古の座学で
7名の指導者に
私の魂から
語った内容の一部だ。
指導者は
お弟子さんが
間違った方向に
行かないよう、
常に注意深く正しい方向に
導かねばいけない。
そのためには
まず指導者自ら、
天地大自然の大道を
歩まねばいけない。
" 弟子の成長はいささかなり "
決して焦ることなく
弟子が自ら氣付くまで
ゆっくりと待ってあげる。
合氣道寺崎道場の目的は
" 日本人としてどう生きるのか "
世のため人のためになる
人材を育成することである。
お弟子さん一人ひとりの
" 行く末の人生 "
という重荷を
各指導者は背負っている。
また、
弟子というのは
おおよそ
" 親泣かせ " のようなもの。
" 親孝行 " の弟子など
千人に一人くらいの
ものであると認識せよ。
弟子のほとんどは
自分本位である。
" 世のため人のため "だと
口では言っていても
中々、実行が伴わない。
「まぁ、そんなものだ」
それが当たり前だと
思えば、
大したことではない。
氣付くまで
ゆっくり待ってあげる。
毎日がその連続だ。
毎日が忍耐だ。
指導者自らは
" 世のため人のため "
それを絶対に怠るな。
指導者自らは
それを率先してやる。
それを毎日、
自らの心の鍛錬とする。
天地大自然は
必ず見てくれている。
だからこそ、
指導者は弟子より
心が圧倒的に強くなれるのだ。
比べものにならない程、
" 圧倒的に強い心だ "
弟子は
それに追いつくことは
できない。
ただ、
千人に一人の
崇高な弟子は
それに氣が付き、
指導者に追いつき、
追い越すことができる。
その追い越す弟子を
育成したら、
自分の役目は終了する。
我が人生の
重荷を負うた遠き道は
目的地に到着するのだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝