" 唯一無二 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ゆいいつ むに』
自分という人間は、
世界中にただ一人だけ。
そうであるなら、
世の中の役割も、
社会の中で持つべき分担も、
それぞれ唯一無二の
役割分担があるはずだ。
たとえば、
私の場合は
合氣道師範であり、
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場を
主宰している。
寺崎道場は
私が主宰している限り、
他の誰も
これを主宰することは
できない。
たとえ、それが
内閣総理大臣であっても、
その地位にとどまる限り、
断じて
合氣道寺崎道場の
主宰者にはなれない。
したがって、
日本人口1億2000万人の
同胞(はらから)、
もっと云えば、
世界人口81億1900万人のうち、
私以外に寺崎道場を
主宰できる人はいないのだ。
このように
誰にも侵されず、
また
誰にも委せられないものを、
合氣道寺崎道場の
主宰者として
私が天地大自然から
授けられているのだ。
これは、
商業施設で働く清掃員も、
スーパーで働く店員も、
また、
東京ドームのライブで
一瞬にしてチケットを
完売させるアーティストも
全て皆、同様。
だとしたら、
社会で働く人は全員、
唯一無二、
どこの誰にも
委せられない役割を
全うしている
ということになる。
ただそれに対する
十分な自覚を
持っていない人が
多いのではないだろうか。
社会で働く人は皆、
何かしら世の中の
役に立っているのだという、
自信を持とう。
自信というのは、
誰かにつけてもらう
ものではなくて、
自分自身の中から
生まれるものだ。
私達には各々、
自己の人生に対して、
唯一無二の
責務を果たす
役割があるのだ。
一生涯をかけて、
その道に徹し、
国家と社会の
役に立つよう
貢献しなければなりませぬ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 応援される人になりたいものだ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おうえん される ひと に なりたい ものだ』
合氣道の稽古は
一人では出来ない。
相手がいるから
技が成立して、
投げたり、
投げられたり、
という稽古ができるものだ。
寺崎道場の合氣道は
勝ち負けがなく、
投げて喜び、
投げられて喜ぶ。
それでこそ、
和を尊ぶ武道
ということだ。
より盤石な姿勢を
保持した相手なら、
簡単には
投げることができない。
しかし、
その簡単には
投げることができない
相手を投げることが
できたら、
その人は、相手以上に
盤石な姿勢を
保持している人である。
したがって、
それ相応に
進歩したという
ことになる。
そうして、
投げは受けのために、
受けは投げのために、
お互いを高め合う。
それが尊いのである。
しかし、
頭では理解できても、
うわべだけでは
そう簡単に
何事も上手くはいかない。
相手が機械で、
ロボットを操作するなら
まだしも、
相手は人間だ。
教える側も
教えられる側も
投げる側も
投げられる側も
同じ人間だ。
人間には心がある。
「この人なら応援してあげよう」
別に特別な理由なく、
そう思う人がいる。
一方で、
応援したくなくなる
人もいる。
指導者は
皆、平等に
分け隔てなく
指導しなくてはならない。
それは常に根底にある。
しかし、
心の無意識の領域に、
応援したくなる人、
応援したくなくなる人。
それが存在するのだ。
指導者も心を持った人間だ。
何を教えても、
感謝の心がなく、
顔の表情すら変えず、
無愛想な人には、
当たり前のことだが、
応援したくなくなる。
一方で、
別に大したことを
教えたわけでも無いにも
関わらず、
とびきりの笑顔で、
「ありがとうございます」と
目を見て、
心から感謝できる
ような人には
「応援してあげよう」
という氣にもなるものだ。
そういう人を
素直な人というのだ。
合氣道に限らず、
物事が上手くいく、
また人として成長する、
それは素直な心が
なければ成就しない。
自分一人で
できることなんて、
たかがしれている。
人は皆、
助け合って
生きていくものだ。
応援したくなくなる人には、
人は寄ってこない。
ひねくれ者には
そのうち、
誰も近寄らなくなる。
合氣道の稽古とは
生き方を勉強する
ためにあるのだ、
私はそう確信している。
あなたは、
応援したくなる人、
それとも、
応援したくなくなる人、
あなたは、素直な人、
それとも、ひねくれ者、
さて、
あなたはどっちだ?
道場で
確かめてみるとよい。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 大器晩成 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『たいきばんせい 』
もの覚えが遅い人がいる。
何を隠そう。
私がそれだ。
私は昔から
もの覚えが人より遅かった。
今でもそうだ。
だから、人の10倍やる。
人の10倍やらねば、
人並みにはなれないのだ。
それを自分で
分かっているから、
何事も人の10倍やる。
10代後半の頃、
趣味で始めたサーフィンも
同時期に始めた
仲間に比べて、
上達しなかった。
向いてないとも思った。
でも週末に
仲間と海に行くことが
楽しくて続けた。
20代中頃には、
仲間の殆どが
サーフィンをやめていた。
私はというと、
趣味で始めたサーフィンに
心底のめり込み、
30代になって
海の近くで民宿を経営し
毎日、サーフィンした。
一番上達しなかった私が、
最終的には一番上達したのだ。
それは続けたから。
合氣道寺崎道場に通われる
お弟子さんにも
もの覚えが遅い人もいる。
もの覚えが早い人は
次から次へと技も
覚えていく。
でも、そういう人は
短期間で辞めてしまう人が
多いことも事実なのだ。
なんでも、すぐに
覚えることができるから、
飽きてしまうのだろうか。
反対に、
もの覚えが遅い人は
長く続くのだ。
まぁ、時々、例外で、
もの覚えは悪いは、
数年で辞めてしまうわ…
という
話にならないような
人もいるが…
話を元に戻そう。
もの覚えが遅い。
遅いから、
人の10倍稽古する。
合氣道でも
サーフィンでも同じだ。
稽古量、練習量だ。
それが多ければ多いほど
上達するのは、
当たり前のこと。
人の10倍やれば
人の10倍身に付く。
人の10倍やらねば
人並みにはなれない。
でもやった分だけ、
確実に身に付く。
努力して
身に付けたことは
決して忘れない。
人より少しくらい
遠回りしたほうが、
色んな景色も見れて
楽しいものだ。
「大器晩成」
大きな器は
早くは完成しない。
大人物となる人間は、
普通より遅く大成する。
簡単に出来ないことを
するのが努力だ。
倦まず弛まず、
その努力をすることだ。
決して諦めず。
プラスもマイナスも
表裏一体だ。
相反する二つのことから
世の中は成り立っているのだ。
もの覚えが遅い。
しかし、
その裏には、
努力すれば必ず身に付く
ということが
保証されて
いるようなものだ。
もの覚えが遅い。
それほど強力な
武器はない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 生涯書生 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『しょうがい しょせい』
1日は24時間だ。
誰にでも平等に与えられる時間だ。
この時間をどう使うかによって
将来、差が出てくる。
1日の仕事が8時間だとする。
その8時間は仕事に没頭する。
残りの16時間をどう使うか。
睡眠時間に6〜8時間
使ったとすると、
残りは8〜10時間だ。
買い物、家事、食事、
子育て、家族の団欒 等、
人それぞれでしょう。
そのそれぞれの中に、
「学び」があれば、
その時間がとても有意義なものになる。
「学ぼうとする心」が必要だ。
例えば、
近くのスーパーに
買い物に行って、
レジに並んでいる。
そのレジの店員さんから
たくさんのことを
学ぶことができる。
できれば、
ある一定期間は
毎日、同じ店員さんの
レジに並ぶことだ。
時間帯や、天候により、
買い物客の数も
変わってくる。
今日は、この店員さん
忙しそうだな。
少し暇そうだな。
その違いにより、
振る舞いも変わる
場合が多いのだ。
比較的客数が少なく、
余裕がある時には
買い物客の一人ひとりに
丁寧に接するが、
レジが長蛇の列の時、
いつもの丁寧さが
欠けることが
往々にしてあるのだ。
一度に二人は対応できない。
いつでも一人にしか
対応できない。
一人の客のレジが
終わらなければ、
次の客には対応できない。
それなら、
いくらレジが
大行列になろうが、
一人ひとりに丁寧に
対応できるはずである。
それができないのは、
一人の客の対応をしながら、
心は次の客に向いている
からなのだ。
常に一人の客に
心を100%向ける。
そして、機敏に
レジ対応する。
常に一人、
そしてまた一人と
その連続である。
このように、
世の中のことというのは、
簡単なことがほとんどだ。
それを難しく、
困難にしているのは
他の誰でもなく、
自分自身なのだ。
これで分かるように、
人は心の状態が
身体に表れる。
心が主体で身体を動かす。
「心が身体を動かす」のだ。
日常における、
ほんの一例を挙げてみたが、
このように、
何事も学ぼうとする
心さえあれば、
いつでも、どこでも
大切なことを学ぶことが
できるのだ。
しかも、無料なのだ。
私はこれを12年間続けている。
その毎日の積み重ねが、
やがて将来において、
大きな差が生まれるのだ。
賢となるか、
愚となるか、
あなた次第でありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 努力 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『どりょく』
「努力が実る」とか
「あの人は努力家だ」
よく見聞きする言葉だ。
ネット辞書によると
努力とは
「力を尽くして励むこと」とある。
少し付け加えるなら、
努力とは
「 できないことを一所懸命すること 」
である。
簡単にすぐできるような事を
したからといって、
それを努力とは言わない。
何度、失敗しようが、
打ちのめされようが、
人になんと言われようが、
やると決めたら、
淡々とやる。
まだまだ、できたのではないか?
決して慢心、満足せず、
日々、寝る前に反省する。
困難な事であっても
それを努力と思わないこと。
それこそが、
本当の努力なのではなかろうか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝