" 稽古でわかる、あなたの「わがまま心」"
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 けいこ で わか る、あなた の「わがまま ごころ」 』
生きていく上で、私たちは
「心地良い暮らし」 や 「便利な世の中」 、
そして「快適さ」を求めます。
それは誰もが望むものだと思います。
さはさりながら、
その「快適さ」への「こだわり」が過ぎると、
私たちは、
知らず知らずのうちに
自分自身に蓋をしてしまうことがあります。
たとえば、
" 聞きたくないものは聞かない " 。
" 自分と合わない人とは会わない " 。
" 見たくないものは見ない " … 。
もし、
世の中がそんなに都合良く回るなら、
それはそれで良いと思いますが、
世の中、
決してそんな都合の良いものでは
ございませぬ。
無人島にでも行って、誰にも会わず、
たった一人で暮らすというなら話は別ですが…。
しかし、
人間は一人では生きていけません。
私たちは、
互いに「助け」、「助け合い」ながら
生きています。
自分の思い通りにならないことの方が
圧倒的に多いのが現実です。
それが、世の中です。
それなのに、
自分の「心の弱さ」から目を背け、
他人や環境のせいにして、
挙句の果てには
「聞かなくていい」「見なくていい」と、
自分を正当化してしまう。
もし、
そんな人ばかりになってしまったら、
この世はどうなってしまうのでしょうか。
心の弱さを露呈した
「わがまま」、「氣まま」、「傲慢」な
人間ばかりになってしまうことは
想像に難くありません。
"「貪欲」という心の迷い "
お釈迦様は、
「貪欲」を人間の迷いの一つと説かれました。
私たちは、
他人と自分を比較し、
より良い暮らしを「貪欲」に
求めすぎてはいないでしょうか?
「便利」なもの、
「快適」なものに慣れすぎた結果、
少しでも
「不快」なものを排除しようとする
不寛容さが「怒り」へと繋がってはいないでしょうか?
自分の好きなもの、
興味のあるもの以外には、
知ろうとせず、関わろうとしない。
そんな自分の「無知な愚かさ」に、
目をつぶってはいませんか?
心の「平穏」は、
外界の都合の良い状況によって
もたらされるものではありません。
お釈迦様は、
自分の外側に目を向けるのではなく、
「内側」に眠っている「宝」に氣づくことで、
これらの「迷い」に打ち勝てると説いています。
" 合氣道の稽古は心の鏡、自分と向き合う時間 "
合氣道の稽古もまた、
この「心の鍛錬」に通じます。
私たちは道場で、
自分の思い通りにならないこと、
時には不快に感じることも経験します。
特に、
わがまま、氣まま、傲慢な心を持つ人は、
稽古の中で
その傾向が顕著に出ることがあります。
「相手に持たせた手が痛い」
「投げるときに重い」
「関節技は痛くて嫌だ」…
などといった言葉は、その典型です。
時に女性に多く見られる傾向ですが、
これは自分の
「鍛錬不足」や「稽古不足」、「経験不足」、
そして全く「成長していない自分」に
氣づいていない証拠に他なりません。
考えてみてください。
手が痛いと感じるなら、
それは自分が「力んでいる」からです。
自分が「力んでいる」から、相手も「力む」のです。
自分が力を抜けば痛みは軽減します。
それは、
相手にしてみれば、
一切、力みのない人の手を持つ時、
力いっぱい持つ必要がなくなるからです。
投げるときに「重い」と感じるのは、
自分の「中心がぶれている」からであり、
相手の重さに頼りすぎているからです。
関節技は、そもそも痛みを伴うものです。
それを「嫌だ」と拒絶したり、
相手のせいにすることは、
自身の成長の機会を「放棄」しているのと
同じことです。
そもそも、
自分の成長の機会を放棄するなら、
道場に来ることも必要ないことなのです。
一体、
このような人たちは、
何が目的で、何がしたくて合氣道の稽古をするのか?
私には理解不能でございます。
合氣道はあなた一人でできるものではありません。
相手がいて初めて成り立つものです。
相手のせいにするのではなく、
自身の内面に目を向け、
なぜそう感じるのか、
どうすれば改善できるのかを考えること。
これこそが、
合氣道の稽古を通じて得られる
「心の鍛錬」なのです。
" 快適さの先にある「心の豊かさ」"
私たちは快適さを追求するあまり、
時に大切なものを見失いがちです。
「不便さ」の中に、
「不快な」感情の中に、
そして自分にとって
「都合の悪い」状況の中にこそ、
私たちを「成長」させる「ヒント」が
隠されています。
自分の内なる声に耳を傾け、
心の奥底に眠る「宝」に氣づくこと。
それが、真の心の豊かさへの道です。
最後にもう一度、まとめます。
* 快適さは時に心の成長を阻む。
* 「貪欲」は人間関係や心の平穏を乱す。
* 不寛容さや無知は「怒り」や「愚かさ」に繋がる。
* 稽古は自分の心の状態を映し出す鏡である。
* 真の豊かさは、自分の内面と向き合い、成長することで得られる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「タダ」からは何も得られない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】末候
七十二候
第三十候 半夏生【はんげしょうず】
「夏至」は末候へと移りました。「半夏生」は7月1日~6日ころにあたります。
「半夏(はんげ)」という薬草が生え始める頃のことで、この頃までに田植えを終える目安とされてきました。
今日の道場長の一日一心
『 「タダ」から は なに も え ら れ ない 』
"「無料」とは負のエネルギー、「タダ」ほど損をすることはない "
私は日々の生活の中で、
「無料」や「タダ」という言葉の裏に
隠された落とし穴について
深く考えさせられることがあります。
「できることなら、お金は一銭も使わずに何かを得たい」
それは、
人間の自然な感情かもしれません。
しかし、
本当に何かを「学び」、
自分自身を
「高めたい」と「願う」のであれば、
この「無料」や「タダ」に対する見方を
一度、
考え直してみることが大切ではないでしょうか。
"「無料」や「タダ」という場が持つ、見えない「負のエネルギー」"
なぜ、
私が「無料」というものに対して、
慎重な視点を持つのか。
それは、
「無料」の場所には往々にして、
「エネルギーが低い」人が集まるからです。
時に、
その場の「空氣」が重く、
「学びの場」としての
「質が低く」なりがち だと感じるからです。
そこには、「学び」に対する
意識がまだ定まっていない人や、
様々な背景を抱えた人、
いわゆる
「マイナスの氣」が
集まることが 往々にしてあります。
「お金を払う」という
コミットメント、責任がない分、
そこに集まる人々の
雰囲氣や意識の質も「低く」なりがちです。
そうした多種多様な
「マイナスの氣」が混在する
空間に身を置くことは、
知らず知らずのうちに、
悪い影響しかない
「負のエネルギー」を
受け取ってしまう可能性は否定できない。
"「対価」を支払うことで生まれる「真剣さ」と「質の高い学び」"
私たちが何かを得る時、
そこには「対価」という概念が深く関わっています。
当たり前のことですが、
「お金」は、 提供者の「知識」や「技術」、
そして、
その提供者がその場に注ぎ込む
「労力」や「情熱」に対する
「感謝の氣持ちの表れ」であり、
正当な「対価」として支払われるものです。
私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場の道場運営においても、
月会費を納めていただき、
指導を提供する以上、
その金額に見合うだけの「価値」を
お弟子さんに「提供する責任」があるのです。
そして、
どのような分野においても、
参加費用が高くなればなるほど、
提供する側も人間ですので、
「より質の高いものを届けたい」という
強い想いが生まれるものなのです。
道場という場は、
いわば師範の「技術」や「知識」、
そして何よりその「心」が、
稽古を通じて
お弟子さんへと伝わる場所です。
支払われる金額が、
その受け取れる
「学びの深さ」や「質の高さ」と
" 比例する " と言っても良いでしょう。
であるならば、
学ぶ側も、
きちんと「対価」を支払うことによって、
より「質の高い指導」と「充実した稽古」を 得られる可能性が高まると、
当然ながら考えられます。
"「自己投資」としての意識が、あなたの成長を加速させる "
そして、
お金を支払って参加することには、
もう一つ、
非常に大きな意味があります。
それは、
「この場から最大限のものを得よう」という
強い意識が生まれることです。
「せっかく費用を払ったのだから、無駄にはできない。しっかりと学び取ろう!」
誰もがそう思うはずです。
この「学び取ろう」という
意識こそが、
学びの「質」を
飛躍的に「高める」のです。
積極的に質問したり、
指導を深く吸収しようとし、自ら工夫する。
こうした周囲をも
「プラスの氣」に変える能動的な姿勢は、
無料の場では
芽生えることは決してありませぬ。
実際、私の道場でも、
月会費をきちんと納め、
休まず稽古に臨んでいる門人ほど、
どんなに小さなことでも
自分の糧にしようと努力し、
目覚ましい成長を遂げています。
彼らは、
ただ道場の稽古に参加するのではなく、
支払った対価以上のものを得ようと
真剣に取り組んでいるからこそ、
成長していくのです。
"「少し高いな」と感じるものにこそ、「真の学び」がある "
もし、
本当に何かを学び、
自分自身を成長させたいと
願うのであれば、
「有料の場」に目を向けることが肝要だ。
自分の金銭感覚で、
「少しだけ高いな、背伸びが必要だな」と
感じるくらいのものが、
実は一番「良い選択」なのです。
「タダ」だからその場に通ったり
情報を得たいが、
「対価」を支払ってまでして
学ぶ氣がない、
そんな傲慢な人は、
何も学んだり得たりする必要はない。
そもそも、
我が命を削ってまで、
「情熱」や「経験」、「技術」、
また苦労して得た「情報」などを提供する
その場の指導者や先生、師に対して、
失礼極まりないのではないか?
まあ、
「どうせタダなんでしょ?適当にやっててね」という
指導者や先生もいるだろうが…
少々費用がかかっても
「どうしても学びたい」という
強い情熱を持ってその場所へ通うなら、
それは質の高い学びと、
それに伴う大きな成長を得ることに
繋がります。
そのような場所にこそ、
人が真に学び、 成長する意味と証が
そこにはあるのだと思います。
自分の学びへの「投資」は、
きっと「自己成長」という形で、
未来の自分に
素晴らしいリターンをもたらしてくれるでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「氣」を抜くな! 昇級審査後が本番だ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】次候
七十二候
第二十九候 菖蒲華【あやめはなさく】
「夏至」は次候へと移りました。「菖蒲華」は6月26日~30日ころにあたります。
あやめの花が咲き始める時期を指します。
初夏に紫や白の花を咲かせ、初夏の訪れを告げる象徴ですね。
今日の道場長の一日一心
『 「き」を ぬく な! しょうきゅう しんさ ご が ほんばん だ 』
"「過程」の大切さ "
昨日、六月二十九日、
合氣道琴心館寺崎道場では
令和七年 前期 昇級審査が執り行われました。
子どもクラスから大人クラスまで、
全ての受験者が
日頃の稽古の成果を存分に発揮し、
審査基準の技を懸命にこなす姿は、
まさに、各々の普段の稽古の
" そのもの " と言えるものでした。
" そのもの " とは
言い換えると、" 集大成 " ということです。
" 合氣道琴心館寺崎道場の「黄金世代」が牽引する新たな成長 "
特にこの二、三年、
中学生から高校生にかけての門人の
著しい 「進歩」には目を見張るものがあります。
彼らは今回の昇級審査でも
その成長ぶりを遺憾なく発揮し、
まさに道場の「黄金世代」と呼ぶに
ふさわしい存在感を放っていました。
彼らのひたむきな努力と確かな成長は、
きっと小学生の門人にとって
大きな目標となり、
次世代の成長を牽引してくれるものと確信しています。
" 審査の合否を決める基準、そして最も大切にすること "
私が主宰する合氣道琴心館寺崎道場では、
年に二回の昇級審査と
年に一回の昇段審査を実施しています。
審査は目視とビデオの両方で
厳正に合否を判断しますが、
もちろん、審査における
立ち居振る舞い、礼、技、
間合い、氣、姿勢といった要素が
合否を左右する
重要なポイントであることは言うまでもありません。
しかし、
私がこれらの基準以上に最も重要視しているのは、
その審査に至るまでの「過程」です。
受験を決意してから数ヶ月間、
受験者各々が
どのような思いで稽古に励んだのか。
この一点こそが、
昇級、昇段、また技術の習得以上に
価値のあるものだと私は考えています。
" 合格の先にある「本当の差」"
休まず稽古に通い、審査基準となる技を
一度でも多く稽古した者と、
そうでない者とでは、
たとえ同じ
「合格」という結果を得たとしても、
その先に必ず「大きな差」が生まれます。
それは、
単なる技の習熟度だけでなく、
合氣道を通じて培われる
「精神力」や「忍耐力」、
そして目標に向かって
「努力」する姿勢といった、
目には見えないけれど
確かな「成長」となって表れるからです。
" 昇級審査後こそ問われる「心の姿勢」"
そして、
昇級審査が終わった「今日から」の
心の姿勢こそが非常に重要です。
審査日までは高い「氣」を持って
稽古に打ち込んでいたにもかかわらず、
昇級審査が終わった途端に
「氣」が抜けて稽古を休みがちになったり、
集中力が欠けたりする
門人も残念ながら " 必ず " 存在します。
これでは、
これまで積み重ねてきた努力が
" 水泡に帰して " しまうことにもなりかねません。
合氣道は、
一時的な成果を追い求めるものではなく、
日々の稽古を通して自分自身と向き合い、
心身を鍛錬し続ける「道」です。
審査はあくまで通過点であり、
真の成長は、
その後の「弛まぬ努力」と
「研鑽 (けんさん) 」によってこそ
築かれるものです。
今後も
合氣道琴心館寺崎道場は、
門人一人ひとりが「過程」を大切にし、
常に前向きな「心の姿勢」で稽古に励めるよう、
全力で指導してまいりまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「稽古照今」で本質を見極める "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】次候
七十二候
第二十九候 菖蒲華【あやめはなさく】
「夏至」は次候へと移りました。「菖蒲華」は6月26日~30日ころにあたります。
あやめの花が咲き始める時期を指します。
初夏に紫や白の花を咲かせ、初夏の訪れを告げる象徴ですね。
今日の道場長の一日一心
『 「けいこしょうこん」で ほんしつ を みきわめ る 』
稽古照今 けいこしょうこん。
稽古の「稽」という字は、
「考える」という意味を持ちます。
稽古の「古 (いにしえ) 」は、昔を考える。
つまり、
「古 いにしえ (昔) 」を考え、今を学ぶということです。
"「古」から学ぶということ "
「古を考える」とは、
単に昔を懐かしむことではありません。
「稽古照今」を
合氣道に照らし合わせて考えると、
それは、
合氣道の「基本」を改めて
深く見つめ直すということなのです。
私たちは、ついつい、
新しい技を学ぶことに焦点を当てがちですが、
本当に大切なのは、
その技を構成する
「重心の移動」といった基本動作です。
これらは、
合氣道の黎明期 (れいめいき) から
受け継がれてきた、
まさに「古き」先人の
知恵と技術の結晶と言えるのではないでしょうか。
"「稽古」の語源と合氣道 "
「稽古」という言葉の語源には
諸説ありますが、
芸事において
基本を徹底的に習得することから
生まれたという考え方があります。
どのような分野においても、
表面的な技術だけでなく、
その根底にある「基本」を
丹念に反復することで、
真の習得へとつながるのです。
" 合氣道における「稽古照今」の実践 "
合氣道においても、
この「稽古照今」の精神は不可欠です。
僭越ではありますが、
流派が違えば、
その技の考え方も変わりますが、
私たちは、
日々の稽古の中で、
開祖・植芝盛平翁が築き上げられた
基本の技、体捌き、呼吸に立ち返る
ことも大切なことなのではないでしょうか。
* 体捌き一つをとっても、なぜその角度で、なぜその足運びをするのか。
* 呼吸一つをとっても、なぜそのタイミングで息を吸い、吐くのか。
これらを深く考え、
「今」の自分の動きと照らし合わせることで、
新たな氣づきが
生まれることも大いにあります。
基本に忠実であればあるほど、
応用技も自然と身につくようになるのです。
" 稽古は「今」を照らす羅針盤 "
合氣道琴心館寺崎道場に通う皆さんは、
この「稽古照今」の精神に沿って
稽古しているでしょうか?
もしかすると、
ただ何となく道場に来て、
師範や先輩の動きをただ真似している
だけになってはいませんか?
もちろん、
道場に来て心身を動かすこと自体は
素晴らしいことですし、
最初は誰でも、
どのような分野でも
師や先輩の真似から始めます。
しかし、
せっかくの時間と労力を費やすなら、
さらに深い学びを得てほしいと
私は願っています。
「稽古照今」とは、
単なる反復練習ではなく、
一つひとつの動きに意識を向け、
その意味を問い続けることです。
基本を疎かにせず、
常に「なぜ?」という
問いを持ちながら稽古に取り組むことで、
合氣道の奥深さをより深く理解し、
自己の成長へと繋げることができると思います。
日々の稽古の中で
「稽古照今」の精神を
今一度、意識してみてください。
きっと新たな発見があるはずですよ。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただきありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 「頑張る」を手放せば、道は拓ける "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
夏至【げし】次候
七十二候
第二十九候 菖蒲華【あやめはなさく】
「夏至」は次候へと移りました。
「菖蒲華」は6月26日~30日ころにあたります。
あやめの花が咲き始める時期を指します。
初夏に紫や白の花を咲かせ、初夏の訪れを告げる象徴ですね。
今日の道場長の一日一心
『 " がんば る " を てばな せ ば、みち は ひら け る 』
私は、決して
人に「がんばれ」とは言いません。
また、人にも「がんばって」とは
言われたくありません。
なぜなら、
「がんばらない」からです。
私たちは日常生活の中で、
無意識のうちに
「頑張る」「頑張れ」「頑張ります」
といった言葉を口にし、また耳にしています。
しかし、私自身は
この「頑張る」という言葉には、違和感があり、
" 良くない言葉 " として認識しています。
"「頑張る」とは何か? "
「頑張る」という言葉の語源には
諸説ありますが、
その一つに「我を張る」という
意味があります。
文字通り、
自分の主張を押し通す、
あるいは無理に力を込めて耐え忍ぶ、
といったニュアンスが
含まれているように感じます。
" あなたは一生、「頑張り続ける」ことができますか? "
何かの目標に向かって努力すること、
困難に立ち向かうことは非常に大切です。
しかし、
「頑張る」という言葉が伴う時、
私たちの心身には
知らず知らずのうちに力み ( りきみ )が
生じていないでしょうか。
この力みこそが、
時に私たちを疲れさせ、
心身のバランスを崩す原因になることが
あるのです。
人間は24時間、あるいは一生、
「頑張り続ける」ことは不可能です。
私自身、
合氣道琴心館寺崎道場での
指導を通じて、
また稽古を通じて、
このことを痛感しています。
"「頑張る」が自分を弱くする "
合氣道の技の中で「頑張る」ことは、
いかに自分自身を " 疲れ " させ、
" 弱い状態 " であるかを
相手によって明確に教えられます。
相手の力に逆らって
「頑張ろう」とすればするほど、
心身は硬直し、
動きはぎこちなくなり、
結果として技はかからず、
自分自身が崩されてしまうのです。
これは、
合氣道の稽古の中だけでなく、
私たちの日常にも
当てはまるのではないでしょうか。
仕事や人間関係で
「頑張らなければ」と思いすぎると、
肩に力が入り、
柔軟性を失い、
かえって良い結果を
生み出しにくくなることが多々あります。
"「頑張る」のではなく、「励む」ことの大切さ "
私が「頑張る」という言葉よりも
大切にしているのは、
「励む (はげむ)」という言葉です。
「励む」には、
ある目標に向かって、
意欲的に、
そして自発的に取り組む、
という意味合いが強いと感じています。
そこには、
無理に力を込める「頑張る」ような
心身の力みはありません。
真に力を発揮するためには、
力みではなく、
むしろ
「正しくリラックスすること」が不可欠です。
"「正しくリラックスする」とは? "
ここで言う
「正しくリラックスする」とは、
決して寝転んでテレビを見るような、
ただ「心身が虚脱」した状態を指すのではありません。
合氣道の稽古では、
常に「重力に逆らわず、重みは下にある」という感覚を養います。
つまり、
不必要な力みを抜き、
「臍下の一点」へその少し下にある、
身体の中心に心を静めます。
自身の上半身の重みを
「臍下の一点」に預けることで、
心と身体、全体が柔軟になり、
安定した状態を保つことができるのです。
この状態こそが、
技のキレや相手との調和を生み出す
源となります。
「臍下の一点」は唯一、
心と身体が一体となる場所です。
そればかりか、
「臍下の一点」は
遥か大宇宙を含めた
天地大自然と一体となる重要な場所なのです。
それは、すなわち
「心と身体と天地が一体となる」ことを意味します。
最後に、
だからこそ、
私は決して「頑張ります」とは言いませんし、
人に「頑張れ」と言うこともありません。
私は、
道場に集まる皆さんが
それぞれに「励み」、
そして「正しくリラックス」することで、
真の力を引き出し、
心身ともに健やかな日々を送れることを
心から願っています。
このことが、
皆さんの日々の生活において、
少しでもお役に立てれば幸いです。
合氣道琴心館寺崎道場では、
この「正しくリラックスする」
という感覚を、
常に稽古の中で探求し続けています。
興味を持たれた方は、
ぜひ一度、道場へ足をお運びください。
心身の調和を共に探求していきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝