" 刻石流水 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 末候
七十二候
雉始雊 (きじはじめてなく)
第六十九候
1月15日~19日頃までは小寒の末候にあたり、雉(きじ)のオスがメスを求めて、甲高い声で鳴くころです。
今日のお題
『こくせきりゅうすい』
受けた恩義は
どんな小さくても
心の石に刻み、
忘れないようにしよう。
人に施したことは
水に流し、
忘れてしまおう。
人からいただいた愛は
決して
忘れないようにしよう。
人に与えた愛は
忘れてしまおう。
なぜなら、
それはその人への
自分からの贈り物だ。
その贈り物は
もう、
その人のものであって、
自分のものではない。
人からもらった
形あるもの、形ないもの
全てに感謝して、
自分が与えてあげたものは
何もかも
きれいさっぱり手放そう。
人間は
人から受けた恩には鈍感で
してもらったことを
忘れてしまいがちだ。
一方で、
誰かにしてあげたことは
ほんの小さなことでも
いつまでも
覚えているものだ。
「誰かのためにしてあげた」とか、
「あの人のためにやってあげた」と
よく言いますが、
本当のところは
「自分が勝手にしてあげた」
だけのことではないだろうか。
自分が勝手にしたことなら、
その相手に
見返りを求めることは
おかしなことである。
人から受けた恩は
心の石に刻み、
人にかけた情は水に流す。
それなら、
「させていただいてありがとう」と
感謝の言葉しか、
出てこなくなるのではないだろうか。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 心を無視してはいけない "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 次候
七十二候
水泉動 (しみずあたたかをふくむ)
第六十八候。
1月10日から1月14日頃までは小寒の次候にあたり、地中で凍っていた泉が動き出すころです。
今日のお題
『こころ を むし して は いけない』
人間の
「心と身体」の関係とは、
切ることができず、
離すこともできない。
「心と身体」を
川に例えると、
水が上流から
下流に流れるように
上流すなわち川上は
" 心 " にあたる。
一方で、
下流である川下は
" 肉体 " にあたるのだ。
そういうことに
氣付かないから、
川下である " 身体 " ばかり
氣にして、
鍛えたり、労ったりする。
どんな名トレーナーに
鍛えられようが、
どんなに素晴らしい
名医にかかろうが、
どんなに良いストレッチを
毎日しようが、
身体は
決して強くもなれない、
柔らかくもなれない。
心が弱い間は
身体も弱いのだ。
心が硬い間は
身体も硬いのだ。
それを
分かろうとしない
考えようともしない人は、
身体に病が出てくれば
一目散に病院に行く。
それ注射だ、やれ薬だ。
それでもって入院だ。
仕事も休むは
氣を出すことも忘れるは、
それ温泉療養だ、
あれこれ手を尽くして
何も効かなくなると、
お札だ、お守りだ、
お坊さんだ、
神社だ、寺だ。
慌てふためき、
やがて本当の
「病氣」のなるのだ。
なんとも、
お氣の毒な
哀れな人になる。
こういう人、
ほんと多いですよ。
これまで
たくさん見てきた。
本当に身体が丈夫に
なりたかったら、
まず、
心を鍛錬することです。
川上を毎日、
綺麗に掃除するから
川下は自然に綺麗になるのだ。
手を付けるところが
間違っているんだよ。
それが分かれば、
心というものは
どんな状況下にあろうと、
いつも積極的で
なければならないことに
氣が付くだろう。
消極的な心は肉体にも影響する。
あなたが
賢者であるなら、
一日でも早く
これに氣付き、
あらゆる事において
心を主体に考え、
行動するべきでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 必ず自分に返ってくる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 次候
七十二候
水泉動 (しみずあたたかをふくむ)
第六十八候。
1月10日から1月14日頃までは小寒の次候にあたり、地中で凍っていた泉が動き出すころです。
今日のお題
『かならず じぶん に かえって くる』
言葉というものは
一度発すると、
遥か宇宙にまで飛んでいく。
そして、
忘れた頃に
自分のところに返ってくる。
しかも、
その言葉を発してから
相当な時間が経過した分、
とても大きく
成長して返ってくる。
さらに、
その仲間まで
連れて返ってくるのだ。
自分の発した言葉が
きれいな言葉、
積極的でプラスの
良い言葉だったら、
そういう仲間が
そこに集まって、
もっともっと
良い言葉となって帰ってくる。
そして
自分を幸せにしてくれる。
一方で、
自分の発した言葉が
悪い、汚い、消極的な
マイナスの言葉だったら、
そこにも
そういう仲間が集まってきて、
とても大きくなって、
たちの悪い仲間まで
連れて帰ってくる。
その結果、
自分が傷付けられる。
そして、
言葉というのは、
一度発したら、
遥か大宇宙に刻まれる。
これは
絶対に消すことが
出来ないもので
必ず、事実として
大宇宙に印字される。
自分の口から出た言葉は
言ってしまえば消えない。
口に出した後、
いくら後悔しようが
反省しようが、
決してゼロには
ならないのだ。
その事実は事実として、
永遠に残り続ける。
私達人間には、
どうすることも出来ない
天地大自然の
厳然たる大法則が
そこには実在する。
従って、
もし、たとえ不注意にも
消極的な悪い言葉を
発してしまったら、
きれいな言葉や
相手が喜ぶ積極的な言葉を
その何百倍も発して、
刻まれてしまった
消極的な言葉を
覆い隠すことくらいしか
できないのだ。
一度、
発してしまった言葉は、
もう絶対に消えない。
どんな言葉も。
そして、
いずれ自分に
それ以上のことが返ってくる。
良いことであっても
悪いことであっても。
私はもう
何千回とそれを経験した。
だから、
自分が誰かに
傷つけられたとしたら、
「あぁ、遥か大宇宙から返ってきたんだな」と
思わなければいけない。
いくら
自分を傷つけた相手が
100%悪いと思えるような
出来事であっても、
その相手に
怒りの言葉を
ぶつけてはいけない。
それをしてしまえば、
また巡り巡って
その何百回のことが返ってくる。
自分に返ってきた時点で、
それは一つの解決なんだ。
一つの因縁が
清算されたということだ。
「これくらいで済んで良かった」と
感謝しなければいけない。
一つの因縁を
解決してくれた
相手にも
「ありがとう」と
感謝しなければいけない。
また、
自分の言動を
「正しなさい」と
教えてくれた
天地大自然にも
大きな感謝をしよう。
それが分かれば、自分は変われる。
幸せになりたければ、
消極的なマイナスの言葉は、
しゃべっちゃいけないのだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 恥ずかしくないのかい "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 初候
七十二候
芹乃栄(せりすなわちさかう)
第六十七候。
1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。
今日のお題
『はずかしく ない の かい』
一つ前の
このエントリーにも
関連することですが、
神社でのマナーや
礼儀作法を知らない人が
多いですね。
見ていても
「非常にみっともない」ですね。
" 初詣 " や " えべっさん " に
家族で参拝する人も多い。
小さな子どもを連れた
親が情けない。
恥ずかしい。
参拝作法を知らない。
そんな親の子どももまた、
そんな親になるのだ。
参拝作法くらい
今の時代は、
ネットでいくらでも
検索できるだろう。
子どもを連れて
参拝するなら、
それくらいは
身に付けてから行けば?
神社の鳥居には、
ここから中は
神様の領域であることを
示しているのです。
従って、
一礼してから
鳥居をくぐるのが
参拝作法です。
また、
参拝を終えて
神社を出る時も
向き直って一礼するのが
当たり前です。
その神の領域に入るのに
一礼もしないで入る
おバカさん。
そのような人は
他人の家を訪問する時も、
ズカズカと傲慢な態度で
上がりこむのだろうね。
先日、
生田神社に参拝した。
予想通り、
初詣で混んでいた。
参拝するには
列に並ばなければ
いけない。
神社では
真ん中は神様が
通る道とされていますから、
境内では端を
歩くのが作法です。
しかし、
参拝の列は
境内の真ん中にもあるのです。
まあ、
百歩譲って
これは致し方ないのかな。
でも、
神様に失礼な行為である
ことには違いない。
従って、
私のような者は
静寂とした場で
参拝したいので、
初詣客でごった返す日は
避けたほうが良いですね。
" 手水舎 (ちょうずや) " は
参拝者が心身を清めるところです。
何回も水を汲んで
じゃぶじゃぶ手を洗う
ところではございませぬ。
柄杓があれば、
右手で柄杓を取り、
水盤の水を汲み
左手を洗い、
柄杓を左手に持ち替え、
右手を洗う。
再び、
柄杓を右手に持ち替え、
左の手のひらに水を溜め、
口をすすぎ、
残った水で
左手をもう一度流す。
" お賽銭 " は
投げるものではございませぬ。
お金を投げるような人に
お金は寄ってはきませんよ。
そっと静かにお賽銭箱に
入れるものです。
それもその人の
心の表れですよ。
お賽銭を
投げる人になど
御利益などございませぬ。
子ども連れなら
せめて、
きちんと出来る人の
見様見真似でも
良いから
親はきちんとやるべきでしょ。
きちんと出来ている
ご家族を見ると、
ほんと心が和みます。
そのような親に
育てられた子どもは
幸せなんだろうな。
つくづく、そう思った。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 礼ではなく拝 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 初候
七十二候
芹乃栄(せりすなわちさかう)
第六十七候。
1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。
今日のお題
『れい では なく はい』
日本の多くの神社では
基本的な参拝の作法として
行われる、
二礼二拍手一礼。
神様に敬意を表し、
心を込めて丁寧に行うから、
私は
二礼二拍手一礼ではなくて、
「二拝二拍手一拝 」で参拝する。
" 礼 " とは
約30度~45度の
浅いお辞儀のことだ。
一方で、
" 拝 " とは約90度の
深いお辞儀のことで、
最拝礼を意味する。
神様に敬意を表し
神を通して、
天地大自然に心から
感謝するから、
私の場合は
" 礼 " ではなく、
自然と " 拝 " になる。
わが家の子ども達が
まだ小さな頃から
近くの神社に
よく一緒に参拝した。
小学校に上がる頃には、
「お父さんの礼は、後ろから見たら足しか見えへんで」と言いながら、
よく私の「拝」を真似していた。
" 二拍手 " は
両手を胸の高さに合わせて
右指先を少し下にずらして、
二回拍手をしてから
指先を揃える。
" 二拝二拍手一拝 " は
一連の流れなので、
途中で止めることなく
一氣に行う作法だ。
従って、
願い事やお祈りは
" 二拝二拍手一拝 " の後で
心を静めてお祈りするものだ。
そして、
お祈りをする時は
「厳かな態度」で行うもの。
頭を上げたままで
お願いすることは、
神様に対して非常に失礼な行為だ。
頭を下げて
お願いをすることが礼儀だ。
これはとても大切なことだと思う。
また
お寺では
" 礼拝 (らいはい) " をする。
合掌したまま
上体をゆっくり
約45度の角度で
前へ傾けて礼をし、
静かにはじめの姿勢に
戻してから、
両手をそっとおろす。
中には
作法ばかりに
氣を取られているのだろうか。
全くと言っていいほど、
心が通って無い人を
よく見かける。
その様な人に
御利益などあるはずがない。
まさに「本末転倒」だな。
人間の主体は「心」だ。
心が身体を動かしているから、
見ればすぐ分かるものだ。
合氣道の " 礼 " も同じだ。
心がこもってない人の礼は
見ればすぐ分かる。
何度注意しても
なかなか身に付かない
子どももいる。
親は「きちんとしなさい」って
言うんだけどね。
こういうことは
口で言うのではなくて、
まず、
親が見本を見せてあげないとね。
それも一回や二回じゃ駄目。
何百回でも
本当に
子どもが身に付けるまで
してあげないとね。
子どもは
親の一挙手一投足を
しっかり見ている。
親が礼儀正しい人の
子どもは
必ず、
礼儀正しい
振る舞いが出来る。
" 躾 " とは
そういうものだわ。
昔から日本人は
「礼」や「お辞儀」という
文化習慣を大切にしてきた。
日本人としての
" 心 " があるなら、
普通に出来て
当たり前のことでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝