" 成長の糧となる三つの宝物 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・初候
七十二候
玄鳥至 つばめきたる
第十三候
「春分」から「清明」へと移りました。
「玄鳥至」は清明の初候にあたり、4月4日~8日ごろに相当します。
つばめが南からやってくるころです。
今日のお題
『せちいょう の かて と なる みっつ の たからもの』
より良い人生を送る秘訣。
それは、
「良き書」、
「良き友」、
「良き師匠」との出会いにあります。
良いものに触れ続けることで、
人生は自然と
良い方向へ向かうもの。
大切なのは、
本に書かれていることや
師匠の言葉を
頭ごなしに否定しないことです。
「この人はこう言っているけれど、私は違う」
などと考えていては、
せっかくの学びも
自分のものにはなりません。
書かれていること、
語られている体験が、
たとえ今の自分には理解できなくても、
「この人はこういう姿勢で生きてきたんだ」
まずは、そう信じて受け止める。
そして、
その生き方に近づこうと
意識して読み解くことが大切です。
人格とは、
どれだけ多くの経験をし、
深く考え、
真理に近づけたかによって
形作られるものではないでしょうか。
本を読み、
友人や師匠の言葉一つひとつを
「自分の成長のための宝物」として捉え、
自分自身のことに置き換えて考える。
そうすることで、
より良い人生を
歩むことができるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 人生の最後は至福のとき "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・初候
七十二候
玄鳥至 つばめきたる
第十三候
「春分」から「清明」へと移りました。
「玄鳥至」は清明の初候にあたり、4月4日~8日ごろに相当します。
つばめが南からやってくるころです。
今日のお題
『じんせい の さいご は しふく の とき』
「生きとし生けるもの」は、
いつか必ず「命の終わり」を迎えます。
私たち人間も当然、そこに含まれます。
この世に生を受けた以上、
「死」は避けて通れない自然の摂理です。
少し前のこのエントリーでも
少しふれていますので、
こちらもよろしければご覧ください。
さて、
私は最近、自分の「死」について
考えることが増えました。
それは、
恐怖や悲しみといった感情ではなく、
むしろ「楽しみ」に近い感覚なのです。
なぜなら、
「死」はすべてのものを手放す時だからです。
今、私が持っているもの、
背負っているもの、
そのすべてを手放す時が来ます。
それは目に見えるものも、
見えないものも、何もかも。
自分と関わってくれたすべての人、
ほんの僅かなお金も、物も、人も、
家族でさえも…
死後の世界は誰にもわかりません。
私の家系は先祖代々、
浄土真宗本願寺派ですので、
死後は極楽浄土で
仏様になると教えられています。
そこがどんな場所なのか、
お坊さんの話を何度聞いても、
実際に体験するまでわかりません。
それが、
私にとっては楽しみの一つなのです。
" 極楽浄土とは一体、どんなところなのだろう "
何もかも手放した
その先に、一体何があるのか?
極楽浄土でも修行があるのか?
今と同じように、
人との繋がりや、
果たすべき責務があるのか?
何もかもが未知の世界です。
ただ、
今こうして生きている、
この瞬間に思うのは、
死ぬ時には
一切合切を手放せるということです。
そこには、
未練も、わだかまりも、
寂しさも、後悔も何もありません。
今持っているもの、
背負っているものを
すべて捨て去り、身軽になる。
これまでの人生で、
一度も経験したことがないことだから
想像しただけでワクワクするのです。
どんな心地良い開放感なのでしょう?
合氣道は流派により多少異なると思いますが、
私たちの合氣道の修行の目的は、
「天地大自然と一体になる」ことです。
合氣道の稽古というものは、
自分の持っているもの、抱えているもの、
身につけているもの、
その全ての余計なものを剥いでいく。
一回の稽古で、
その薄皮を剥いでいくようなものです。
そして、どんどん身軽になっていくもの。
それが稽古を通して、
身につくものであるのなら、
何もかも捨て去った時、
本当の意味で
「天地大自然と一体になる」ことができ、
修行を完遂できるのではないか。
まさに、
手放すことが
「理に適う」ということではないでしょうか。
もともと、
合氣道をする、しないに関わらず、
私たち人間も、動物も、植物も、虫も、魚も、
「生きとし生けるもの」はすべて、
この「天地大自然の一部」です。
したがって、
この地球上に存在するもの、
この大宇宙に存在するものは
もともと、「天地大自然と一体」なのです。
そう思うと、人間は
" 死ぬ時が人生で最も幸せな時 "
なのかもしれません。
誰でも経験のあること、
たとえば、
子どもの頃の遠足や、
好きなアーティストのライブ、
楽しみにしている旅行などは
その日に至るまでが楽しいですよね。
そのように、
私にとって「死」というものは
悔やんだり、悲しいことではないのです。
死ぬまでの過程、それが人生だと思います。
その人生を精一杯生きて、
その終末に
「ありがとう!おかげさまで良い人生でした」と、
喜んで最高の至福のときを迎える。
私はそうなります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 決意と集中力が時間を短縮する "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 春分・末候
七十二候
雷乃発声 かみなりすなわちこえをはっす
第十二候
「春分」は、次候から末候へと移りました。「雷乃発声」は春分末候にあたり、3月30日~4月3日ごろに相当します。
意味は、春の雷が鳴り始める頃とされています。
今日のお題
『けつい と しゅうちゅうりょく が じかん を たんしゅく する』
時間は誰に対しても平等に、
一定の速度で流れます。
しかし、
その密度は、
私たちの心の持ちようで
大きく変わるのではないでしょうか。
たとえば、
何かをするとき、
仕事や作業あるいは家事をするにしても
時間に余裕があるときには
ダラダラとしてしまい、
氣づけば一日がかりになっていた…
なんて経験は誰にでもあるはずです。
でも、
「絶対にこの時間までに終わらせる!」と
強い決意を持って集中すれば、
驚くほど短時間で物事を成し遂げられます。
目標時間を設定し、
そこに意識を集中させることで、
時間の密度は飛躍的に高まります。
つまり、
時間の速度と密度は、
私たちの " 決意と集中力 " によって
自在に操ることができるということですね。
私たち人間には、
自分でも驚くほど
想像以上の力が秘められているのです。
その力をさらに鍛えて、
それを " 使う " か " 使わない " か、
ただそれだけの違いではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 願い事よりも大切なこと "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 春分・末候
七十二候
雷乃発声 かみなりすなわちこえをはっす
第十二候
「春分」は、次候から末候へと移りました。
「雷乃発声」は春分末候にあたり、3月30日~4月3日ごろに相当します。
意味は、春の雷が鳴り始める頃とされています。
今日のお題
『ねがい ごと より も たいせつ な こと』
神仏を拝む行為を信仰だと
捉える人は多いかもしれません。
神社仏閣に参拝するのは、
何かお願い事をしたいから。
叶えたいことがあるから、
神さまや仏さまに
「どうか、この願いが叶えられますように」
と手を合わせる。
しかし、
本当に大切なのは、
" お願いする " という行為よりも、
「自然と拝まずにはいられない」という心を育むことではないでしょうか。
日々の生活の中で、
天地の恵みを深く味わい、
その恩恵を強く感じること。
その感謝の氣持ちが
自然と「合掌」という形になり、
拝まずにはいられない心へと
繋がっていくと思うのです。
「この病が良くなりますように」だとか、
「商売が繁盛しますように」
「受験が合格しますように」
「子どもの病が治りますように」と拝む。
" 困ったときの神頼み " という言葉がある。
苦しいときに神仏に助けを求める。
順調なときは
神仏に手も合わせないような人が
自分の都合の良い時だけ神仏にすがる。
だいたい、
病も商売繁盛も合格も
日頃の自分の行いでしかないのです。
私は神社仏閣へ参拝するとき、
今もこうして生かされていることに感謝して、
「本日はお導きくださり、ありがとうございます」と手を合わせる。
「本日はありがとうございます」
「感謝いたします」
私はそれ以外、心に思わない。
ただ感謝の念を神仏に捧げるだけ。
大願成就 ( たいがんじょうじゅ ) を
望む合掌よりも、
感謝の氣持ちを育むこと。
私は、それこそが
「信仰の本質」ではないかと思うのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 逆境は誰にでもあるもの "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 春分・末候
七十二候
雷乃発声 かみなりすなわちこえをはっす
第十二候
「春分」は、次候から末候へと移りました。
「雷乃発声」は春分末候にあたり、3月30日~4月3日ごろに相当します。
意味は、春の雷が鳴り始める頃とされています。
今日のお題
『ぎゃっきょう は だれ に でも ある もの』
人生は思い通りにはならない。
「世の中はな、自分の思い通りにならないことの方が圧倒的に多いんやで。生きるってそういうことなんやで。」
わが家の長女が保育所で
自分の思い通りにならないことがあり、
家に帰ってきてワーワー泣いていた時に、
家内が長女に言った言葉を思い出します…
幼心にも「ああ、そういうものなんだ」と
理解したのでしょうか、
それ以来、
長女はそういうことで愚痴を言ったり、
泣いたりしなくなりました。
また、
私たちは、上手くいく人を見ると、
うらやましいと思うかもしれません。
でも、
その人たちも、
実は色々大変なことも多いようです。
たとえば、
有名な人は、
ちょっと何かするとすぐ批判されます。
良いことをしても、叩かれ、
誹謗中傷の的になることも多々あります。
どうやら、人生っていうものは、
そういうものなのでしょうね。
それが嫌になったら、
人里離れた田舎に引っ込む、
または、
一人で無人島にでも行って、
自給自足の生活を
するほかないのかもしれませんね。
何かやりたいと思っても、必ず邪魔が入る。
八方塞がりになる。
これが、よく言う
「逆境」ってやつじゃないでしょうか。
人生は良いことばかりじゃない。
たとえ順調であっても苦痛はあるもの。
つまり、
人間は誰でも、
思い通りにならないことがあって当然。
「逆境」というものは誰にでもあること。
生きていくうえで、
「逆境」からは
誰も逃げることはできない。
そうであるなら、
私たちは、
それをありのままに受け入れて
" 逆境の時にこそ氣を出して "
生きていくしかないと思うのです。
「生きる」って、そういうことなんやで!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝