2024-09-20 04:53:00

" 持ったままでは掴めない "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『もった まま では つかめ ない』

 

 

人間の手は

左右に二つある、

これを両手という。

 

 

両手にものを持ったら

もう何も持てない。

 

何か違うものを

持とうとすれば、

どちらか一方の

持っているものを

放さなくてはならない。

 

身体に病みがある。

 

そして、

心まで病んでしまうことを

病氣という。

 

身体に故障があっても、

心まで病んではいけない。

 

それでも人は病氣になる。

 

その病氣の人が

行くところには

必ず病氣は一緒に

ついて動く。

 

病院にかかる。

担当した医師は

その病氣を治療する。

 

しかし、

医療と薬だけでは

なおらない場合がある。

 

その場合、

病氣よりも

病人をなおす、

その人間そのものを

なおすことが大切だ。

 

人間修業を

しなければならない。

 

 

別に偉そうに

大層なことを

言うつもりは全くない。

 

私などは、

まだまだ未熟者であり

修行中の身だ。

 

未だ二流、三流である。

 

しかし、

常に人として向上し、

世のため、人のために

役立つ人間でありたい、

その志で、

日々行動している。

 

人として一流を目指す。

 

「我、天地大自然とともにあり」である。

 

 

話を元に戻そう。

 

冒頭で触れた通り、

 

両手にものを持てば、

もう何も持てない。

 

それでも、

持とうと思えば、

どちらかの手を

放さねばならないのだ。

 

不要なものを

両手いっぱいに

持っていては、

それ以上何も持てないのだ。

 

不要なものは

さっさと手放して

しまえば良いだけなのだが、

 

愚かなことに、

その不要なものを

不要とは思っていないから、

手放すことが

できないで

苦しむ人がある。

 

なんとも

お氣の毒なことなのだが、

 

 

まず、自分自身が

不要なものを

持っていることに

氣が付かねばいけない。

 

 それに氣付いたら、

 

「何故、その不要なものを持たされているのか」

 

それを考えねばいけない。

 

 

私たちが住む

この世界は、

全て天地大自然により

差配されている。

 

生きとし生けるものは、

これに絶対に

逆らうことも

拒否することも

できないのだ。

 

 

必要なものは

与えられるが、

不要なものは

取り上げられる。

 

その時、

私たちの意見など

聞いてもらえない。

 

全く容赦などない。

 

ここに寝たきりの

人がいるとする。

 

寝たきりの理由は

例えば、足の怪我だとしよう。

 

決して、グウタラして

寝ているわけではないのだ。

 

しかし、

一歩も歩かなかったら、

足腰はみるみる弱ってくる。

 

使わぬなら要らぬ。

取り上げよう、という

ことになってくるのだ。

 

私たちには、

元々、

目も、耳も、鼻も、口も、

手も、足も、備わっている。

 

誰に頼んだ

わけでもないのに、

母の胎内で

すでに備わっている。

 

 

人間には

それらが必要だから、

 

天地大自然が

備えてくださったものだ。

 

必要なものは

全て、天地大自然が

与えてくださる。

 

そうであるなら、

両手に持った、

不要なものでも、

 

天地大自然からすれば

必要だから

与えてくださっている、

ということに

なるのではあるまいか。

 

大切なことは、

 

必要がある間は、

それを決して

お断りできない、

ということなのだ。

 

 

そうであるなら、

与えられる

必要のない姿に

早くなることだ。

 

それしかないのだ。

 

 

病氣にはなりたくない、

不要なものなら、

早く手放したい。

 

いくらそう願っても

私たちの勝手にはならない。

 

必要のある間は、

与えられるから、

 

まず、それを受け入れて

自分の姿を

よく見てみることだ。

 

自分の考え方や、

心のあり方を

反省することであると思う。

 

 

病氣や怪我という、

一つの患部をなおすことも

大切なことであるが、

 

その病人の

心のあり方をなおすこと、

 

その生き方、人生観を

正しく、明るく

変化させること。

 

それが大切であると

教えられているような

氣がしてならない。

 

己から出たものは

必ず、己に返るのだ。

 

 

力強く走った者には

力強い足腰が与えられる。

 

人のために

声をよく出す者には

良い声がのこる。

 

出すものが与えられる、

これが真理であると思う。

 

明るい心、

感謝の喜び、

プラスの氣、

それを出すことが

大切なのだ。

 

しかし、

それを今は自分自身で

持ち合わせてない者は、

 

良い芸術や文化に触れ、

明るさや、感謝や、尊ぶ心を

引き出してもらわねばならない。

 

また、そのような人に

指導してもらわねば

氣付けないことも

あるのではないだろうか。

 

合氣道における

稽古というのも、

その役割を果たすこと。

 

それが道場にあるのだ。

 

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-09-19 04:15:00

" お互いにの愚かさ"

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『おたがいに の おろかさ』

 

 

お互いに

力を合わせて

がんばりましょう。

 

私は

" がんばる " という

言葉は使わないが、

 

まぁ、

世間では

よく使われる言葉だ。

 

今朝は

「お互いに」という

言葉について、

少し考えてみたいと思います。

 

 

お互いに

しっかりやりましょう。

 

「お互いに」

よくお互いにという。

 

お互いに

両者、両方から

歩み寄り

お互いに助け合う。

 

とても

きれいで、

社会の理想のような

姿ではあるが、

 

そこに矛盾は

ないだろうか。

 

 

お互いに歩み寄る、

 

その両者、両方が

お互いに歩み寄ることを

待つという、

愚かさを考えたことが

あるだろうか。

 

歩み寄りを待つより、

自ら歩み寄るほうが

正しいのではないだろうか。

 

 

私は毎朝、

豆乳かコーヒーを飲む。

 

今朝もこの執筆作業を

しながら、

コーヒーを飲んでいる。

 

もう何十年も使っている、

とても愛着のある

青いマグカップで

コーヒーを飲んでいる。

 

 

しかし、

今朝も、

これまでの何十年間も

そのマグカップの方から

歩み寄ってくれた

ことは一度もない。

 

いつも

私の方から

マグカップに手を近づける。

 

そして、握る、持つ。

 

そこでようやく、

美味しいコーヒーを

いただけるのである。

 

 

いつも

私の方から

手を伸ばす一方だ。

 

その後に

マグカップを

自由に使うことが

できるのだ。

 

自分とマグカップ、

この両者の間では

いまだかつて、

1ミリの歩み寄りも

一度もない。

 

 

待っていても

相手は寄っては

来てくれないのだ。

 

 

18回行った

インドネシア、バリ島も

私の方から

近づいたから、

 

サーフィンも

ウブドの景色も、

ケチャダンスも見れ、

ナシゴレンも食べ、

ビンタンも飲めたのである。

 

いつも

私の方から

歩み寄ったからだ。

 

待っていては、

自ら歩み寄らなければ、

いくら行きたくても、

あこがれても、

バリ島のほうから

近寄ってはくれない。

 

たとえ、

1キロでも距離が

近づくことは

絶対にないのだ。

 

これを教訓に、

しなければ

いけないのでは

ないだろうか。

 

 

私達に起こる

不幸も、

災難も、

困難も、

怪我も、

病も、

 

すべて、

先方から

やってくるのではない。

 

全部、

自分から

近寄っていくのだ。

 

必ず、

近寄るのは

自分自身である。

 

その両者、

両方を

結ぶのが、

縁である。

 

いつも

肝に銘じて

おかねばいけない。

 

天地大自然の

絶対的法則である。

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

 

 

 

 

2024-09-18 04:04:00

" 丸い心と四角い心 "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『まるい こころ と しかくい こころ』

 

 

中秋の名月

というだけあって、

ほんとに見事な

お月さまだ。

 

このブログを執筆中も

私の寝室から西の空に

まん丸と大きな

オレンジ色をした

お月さまが、

あと1時間ほどで

西の山の向こうに

沈んでゆく。

 

 

合氣道寺崎道場の

お弟子さんも各々、

眺める場所は違えど、

皆、同じ月を見たことだろう。

 

 

近い将来に

合氣道師範として、

道を歩むべく

日々の稽古に励む、

 

東北出身の

日本女子である

お弟子さんから

見事な中秋の名月の

写真がLINEで届いていた。

 

何やら、

最新のi-phoneに

機種変更したらしい。

 

早速、

高性能のスマホで

高画質の中秋の名月を

届けてくれた。

 

そのトークには

" 万物流転 "と

送信されてきた。

 

 

昨年の

指導者育成稽古の

座学の時間に

私が話した内容である。

 

確か、

その内容は

" 縁と万物流転 "

であったと記憶している。

 

縁とは円のことでもある。

 

丸い円は決して

どこともぶつからない。

 

そして、天地大自然の

万物は流転して止まない。

 

森羅万象、全てのものも、

生きとし生けるもの、

その全ての生命が、

天地大自然によって

生かされている。

 

そうであるなら、

私達人間も

この天地大自然に

則った生き方を

しなければならない。

 

それを自然というのだ。

 

 

この東北出身の日本女子、

東京都内にある大学に

通いながら、

 

縁あって、

合氣道を学ぶことになり、

 

この先、就職してもなお、

合氣道師範として

後進を指導する道を

歩むというのだ。

 

この日本女子の名は

「つぶらや ひとみ」という。

 

これは私が名付けた

別称である。

 

つぶらやは本名で

つぶらな目をしているから、

そう名付けた。

 

本人もえらく

氣に入っているとのことだ。

 

彼女が何故、

合氣道師範としての道を

歩むことになったのか。

 

昨年入門した彼女は

現在、無級だ。

 

昨年の春の集中稽古に

参加するため、

神戸にやってきた。

 

その時参加した

お弟子さんの中で、

特に目の輝きと、

座った後ろ姿が

印象的であった。

 

とても希望に満ち溢れた、

明るい心の表れが、

身体全体から見て取れ、

顔の表情にも表れていた。

 

「あなたは指導者に向いてるから、指導者になったらどう」

 

私は直感でそう思った。

そして彼女にそう話した。

 

すると、彼女は

間髪入れずに、

「はい」と一言だけ

しっかりと返事したのだ。

 

後に聞いたことだが、

せっかく、師範が

そう言ってくださるなら、

そうしよう。

 

とにかく、やってみよう。

 

やらなければ、

何も分からないから、

 

これも天地大自然から

与えてくださったことであり、

何かしら、

自分にとって

やらなければ

ならないことが、

きっとあるのだろう。

 

とても大切なご縁を

いただいたことに

深く感謝しているというのだ。

 

なんと立派な18歳だ。

 

私のほうこそ、

良きご縁に恵まれた

ことに感謝、感激している。

 

 

何事も

やってみなけりゃ

分からないのだ。

 

 

一方で、

やる前から、

 

まだ、何も始めてないのに、

ドウタラ コウタラと

 

心を真四角に

ギュッと固めて、

自己主張する人もいる。

 

やりもしないで、

やらない、

やれない理由ばかり

一所懸命に探す。

 

このような生き方を

時間の無駄使いという。

 

それでは、いつまでたっても

やれない。

 

要は、

やりたくないのである。

 

この両者の違いは、

 

心が丸いか、四角かである。

 

やわらかな丸い心は

何でもすぐに吸収できる

柔軟な心だ。

 

一方で、

固い四角な心は

すぐに人とぶつかる。

四辺が角であるから、

せっかく

人から聞いた良い話も、

その角にぶつけて

先に進めないのだ。

 

天地大自然の

万物流転のように、

心が常に動いて、流れて

一瞬たりとも

留まることをしない。

柔軟な生き方が良いのか。

 

心を停止させ、

頑なに拒むように

汚れた泥沼の中で

佇んでいるほうが

良いのか。

 

その違いである。

 

そのどちらが

健康体であるだろうか。

 

 

どちらが

心を積極的に

使っているだろうか。

 

 

万物流転、

それは留まることは

決してないのだ。

 

そして地球は丸い。

 

円は決してぶつからない。

 

あなたなら、

どっちを選びますか。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

 

 

 

 

 

 

2024-09-17 04:06:00

" 人生の旅は身軽に "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『じんせい の たび は みがる に』

 

 

旅行中の移動では

荷物が重いほど大変だ。

 

荷物は重いより軽い方が

楽に決まっている。

 

荷物を詰める時、

できるだけ

不要なものは省き、

最小限の荷物で

旅行に出かける。

 

旅は身軽なほど楽しい。

 

 

合氣道の稽古とは、

まさにこのことだ。

 

 

私達は

生きていく上で、

 

無駄なものを

持ちすぎていないか。

 

つまらないことに

心が囚われては

いないか。

 

合氣道の稽古とは、

一日一日、

自分の薄皮を

剥いでいくようなものだ。

 

不必要で余計なものが

邪魔となり、

自分の心身の自由が

きかなくなる。

 

自分の心身の自由が

きかなければ、

相手に技が

かかるわけがない。

 

自分の心身を

自由に使えない人に

相手を投げることは

できないのだ。

 

道場の稽古で、

それを知り、

反省してみる。

 

それが旅の荷物の

整理と同じなのだ。

 

無駄を省く。

 

不要なものは

捨て去る。

 

自身のこれまでの人生で

身に付けてきた

不要なものは、

 

少しづつでも

削っていく。

 

余計なものを

捨て去れば、

心身もスッキリしてくる。

 

身に付ける

必要のないものは

さっさと

捨ててしまいましょう。

 

 

天地大自然が

与えてくださるものだけ、

しっかりと握りしめて、

 

この先の人生を

楽しく、おおらかに、

歩んでまいりましょう。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-09-13 04:13:00

" 三人虎を成す "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『さんにん とら を なす』

 

 

三人言いて虎を成す。

(さんにん いいて とら を なす)ともいう。

 

 

事実でなくても、

全くのデマであっても、

 

多くの人が

そうだと言ったり、

 

SNSを駆使し、

粘り強く繰り返し

投稿し続ければ、

 

それが

フォロワーの関心を

惹くこともある。

 

さらに何人もの

著名人、有識者が

 

同じことを

声をそろえて語れば、

 

人はやがて

事実だと思われる

ようになっていく。

 

「三人虎を成す」とは

そういうたとえだ。 

 

 

現代人は

テレビ、スマホで、

昼夜流れる

映像、投稿、報道の中で

無意識にその影響下にある。

 

 

ある人が王にたずねた。

 

①「町に虎が出たと一人が言ったら信じますか」とたずねて、

王が「信じない」と答えた。

 

②「二人の人が言ったら信じますか」という問いには、

「もしかしたらと疑うかもしれない」と答えた。

 

③「三人ではどうか」という問いには、

「信ずるようになるだろう」と答えたという。

 

 

町に虎など

いるはずもない、

 

しかし、

多くの人が

虎がいると言えば

信じる人もいるという。

 

「三人虎を成す」とは

そういう話だ。

 

 

 

大東亜戦争、第二次世界大戦、

昔から戦争は

情報戦でもあったのだ。

ロシアによるウクライナ侵攻なども

同様に情報戦だ。

 

 

1923年9月に起きた

関東大震災の

もう一つの悲劇である

福田村事件。

 

悪意のある

流言飛語により

9人が虐殺された。

 

広く拡散された

全くのデマを信じ、

彼らは村を守るという

正義で9人もの

何の罪も犯してない人々を

虐殺してしまった。

 

それは昔も今も何ら変らない。

 

それどころか、

情報が現実を

常に先走りする現代だ。

 

情報の大事さを熟知し、

すすんで

たくさんの情報を

得ようとする

知的な賢者ほど、

 

多数者の声には

敏感になるのだ。

 

そういう賢者が

正義感を持って

 

いつしか、四人目の

虎が出たと言う人に

なりかねないのだ。

 

 

「正義だ」と

人に伝える前に、

しなければならない

ことがあるだろ。

 

自分で現場を踏め。

 

 

現代人の誰もが

未曾有の感染症を経験した。

 

マスク、黙食、

ソーシャルディスタンス、

テレワーク、

ワクチン、

そしてレプリコンワクチン。

 

 

人のことなど

お構いなしに、

 

四方八方上下から

映される大スクリーンと

 

迫りくる大音響の

情報という

映像とサウンドに

 

心身をさらされていると、

 

相当に養われた

胆力をもってしても

 

生理的に衰弱していく

可能性がある。

 

 

真実なのか、

真実ではない

フェイクニュースなのか、

 

それは

あらゆる五感を刺激する、

 

フィクション、

ノンフィクションの世界が、

 

私たちの周囲に

拡散するのだ。

 

 

感受性豊かな

若者世代ほど、

 

そのような

情報の影響を

受けやすいかといえば、

 

そうでもないらしいのだ。

 

高年齢も同じように、

また、それ以上に

意図的な情報に

敏感であるという

傾向もあると聞く。

 

 

情報リテラシ―とは

 

たくさんの情報の中には、

うその情報や、

正確ではない情報も

まぎれているからこそ、

 

正しい情報や

必要な情報を

選びとることが大切で、

 

情報を取捨選択する

能力のことをいう。

 

 

要するに

フェイクニュースに

だまされるな、

 

ということだが、

 

テレビやネットで流れる

日々のニュースに

無関心であれば、

惑わされずに済むのか、

 

いや、

情報に耳を

遮断してしまっては、

 

高齢者なら

痴呆症、認知症を

引きおこす

きっかけとなる

恐れもあるだろう。

 

 

見る、聞く、

読む、考える、

 

その四つが

脳を活性化するから、

 

生きていく上で

必要であり、

自ら遮断して

しまってはいけない。

 

 

今も昔も

報道機関は変わらない。

 

既得権益に繋がる

報道はするが、

 

今までの利益構造を

壊されかねない事実は

捻じ曲げるか、

全く報道されない。

 

 

では、

ネットなら信用できるのか、

 

SNSは

誰でも思っていることを

自由に主張できる。

 

中には

真実もあるだろう。

 

しかし、

営利目的だけで

再生数稼ぎの動画も

数多くある。

 

全く信用などできない。

 

一体、何を信じる?

 

 

このような、

良くも悪くも

情報で覆い尽くされる

世の中で、

真実など

分かりようもない。

 

 

この生きにくい、

人々を分断させるような

世論において私は、

 

" 見ザル 言わザル 聞かザル "

 

圧倒的多数者の

大音量と

巨大スクリーンのような、

 

その映画に

興味がある人しか

集まらないように

聞こえる主張や情報には、

 

耳をふさぐように

しているのだ。

 

猿真似は必ずしも、

遮断ばかりではない。

 

「聴かない」

ということも、

 

また一つの

生きていく上で、

護身的な姿勢

かもしれないのだから。

 

 

私のような

猿真似をしている側から

見れば、

 

「これこそが真実であり正義なのだ」と

 

言わんばかりの言動は、

その正義感ですら

病みに近いようにも見える。

 

 

大声を発するなら、

拡散するなら、

発信するなら、

人に注意を促すなら、

 

まずは己で現場を踏め!

 

そうだろ!

 

自分自ら、

現場を踏み、

それに触り、舐め、

 

味を確かめて、

 

自分の身体に、

それを取り込んでから

発信しろ!

 

それがモラルだ。

 

 

私は、

この世で起こる

全てのことは

天地大自然がなさる

ことだと思っている。

 

それが

たとえ人為的であろうが、

なかろうが、

 

そんなこと

一切関係ございませぬ。

 

どうでもええねん。

 

どうでもよろしゅうございます。

 

 

天地大自然の営みに

逆らわず、

 

右往左往など

いたしませぬ。

 

そのような

無駄な時間は

一利もございません。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝