2024-07-11 04:16:00

" 太陽さん、ありがとう "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

『たいよう さん ありがとう』

 

 

 

毎朝、仕事に出かけるとき

 

太陽に向かって

 

「太陽さん、ありがとう」と

 

太陽に感謝することを

 

私は日課にしている。

 

 

 

 

 

今朝は

 

ザーザー降りの雨だったが、

 

毎朝のことなので、

 

太陽の位置は

 

おおよそ見当がつく。

 

 

 

曇って

 

太陽が見えない時でも、

 

その方向に向かって

 

太陽さんに感謝する。

 

 

 

それは

 

地球が無事に

 

自転をした証でもあるのだ。

 

 

 

それらは

 

けっして当たり前のこと

 

などではないのだ。

 

 

 

 

 

もし

 

太陽がなくなれば

 

私達は生きてはいけない。

 

 

 

全ての動植物は

 

全滅するのだ。

 

 

 

ありとあらゆる

 

生命は消滅してしまうのだ。

 

 

 

 

 

太陽による

 

光合成が植物を育み、

 

私達人間だけでなく、

 

それ以外の

 

あらゆる動物の食料となり、

 

植物が作り出す

 

酸素によって

 

全ての動植物は

 

生かされている。

 

 

 

空気、水、雨、雪など、

 

生命を維持できるのは、

 

太陽の熱の力なのだ。

 

 

 

毎日、

 

感謝せずには

 

いられない。

 

 

 

当たり前のことだ。

 

 

 

すべてのものには

 

始まりがあれば

 

終わりがある。

 

 

 

 

いつか

 

この地球も太陽も

 

なくなるのかもしれない。

 

 

 

そうなれば

 

私達は生きることすらできない。

 

 

 

 

 

生きているから

 

楽しいこともあり、

 

嬉しいこともあり、

 

ワクワクすることもあり、

 

 

勉強もでき、

 

仕事もできる。

 

 

 

そして

 

人として

 

成長することもできる。

 

 

 

 

その根源が

 

太陽、地球を含む

 

天地大自然なのだから、

 

 

 

今日も感謝せずには

 

いられない。

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝

2024-07-10 04:36:00

" プロとアマチュア "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『プロとアマチュア』

 

 

 

 

 

プロ、専門家というのは

 

寝ても覚めても

 

仕事や、その特定の分野や

 

事柄のことを考えている。

 

 

 

 

 

生活すべてが

 

それなのだ。

 

 

 

 

 

日常生活における

 

様々な出来事も、

 

それに置き換え

 

考えることができる。

 

 

 

それは

 

何も特別なことではなく、

 

無意識にそうなる。

 

 

 

氣がつけば

 

そうなっている。

 

 

 

 

 

身体の一部を切れば、

 

血液の変わりに、

 

その思いが

 

物凄い勢いで

 

溢れ出てくる。

 

 

 

 

 

そこが

 

アマチュアとの

 

絶対的な違いである。

 

 

 

 

 

脇目もふらず、

 

一心不乱に

 

それだけを深堀りする。

 

 

 

 

 

プロや専門家には

 

納得とか

 

満足という

 

言葉などないのだ。

 

 

 

そこまでやらないと

 

「分かった」とは

 

言えないからだ。

 

 

 

 

 

それこそが

 

尊いことであり、

 

誇りでもあるのだ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-07-09 04:51:00

" できる、使いこなす、極める "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『できる、つかいこなす、きわめる』

 

 

 

 

 

できることと、

 

使いこなすこと、

 

極めることは

 

それぞれ違います。

 

 

 

 

 

合氣道でいうなら

 

技、心身統一、心を静める、

 

臍下の一点、体幹、呼吸、

 

立ち居振る舞い、

 

氣を出すことなど。

 

 

 

また

 

料理人なら

 

フライパンや包丁の

 

扱い方というように、

 

 

 

 

 

あらゆる仕事や、

 

その分野において、

 

 

 

 

 

「できる」とは、

 

繰り返し稽古、練習して

 

決まった型や動作が

 

「できる」ようになることです。

 

 

 

 

 

そして、

 

「使いこなす」とは、

 

それをどんな体勢や状況、

 

どのような

 

環境下においてでも、

 

適材適所で

 

出せるようになるのが

 

「使いこなす」ことです。 

 

 

 

 

 

さらに

 

その使いこなしている

 

技や動作を、

 

他の誰よりも速く強く、

 

常に最大限の力で

 

出せるよう

 

練り上げることが

 

「極める」ことです。

 

 

 

 

 

従って、

 

「できる」や「使いこなす」

 

程度の修得で

 

満足しているようでは、

 

 

 

現実を知らない、

 

現実を見ない、

 

オメデタイ人なのだ。

 

 

 

 

 

例えば、

 

技において、

 

使いこなせるから、

 

「日常、何かあったら対応できる」

 

などと

 

妄想を抱いていては

 

いけない。

 

 

 

 

 

「極める」まで

 

技を練り上げず、

 

どうして対応できようか。

 

 

 

その程度では

 

何の役にも立たない

 

ということを

 

思い知ったほうが

 

身のためだ。

 

 

 

 

 

まだまだ、

 

まだまだ、

 

私達は

 

修行中の身であり、

 

 

 

未熟者である

 

ということを

 

決して忘れては

 

いけないのだ。

 

 

 

弛まぬ努力を

 

怠ってはいけない。

 

 

 

まだまだ

 

これからだ。

 

 

 

道は永遠なり。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-07-08 04:04:00

" 自分がどう生きるか "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『じぶん が どう いきる か』

 

 

 

 

 

他人を

 

どのようにして

 

自分の思い通りにするか

 

ということが、

 

 

 

「病む」

 

原因の一つであります。

 

 

 

 

 

自分以外の人を

 

思い通りにしたい、

 

 

 

もっとこうなれば

 

良くなるのに、

 

 

 

あなたのためなのに、

 

 

 

そういうことは

 

もう止めよう。

 

 

 

 

 

自分が期待するほど、

 

人はそう簡単には

 

変わりません。

 

 

 

 

 

それはそうですよ。

 

 

 

人間は

 

自分自身が

 

変わろうとしなければ、

 

変われないんだから。

 

 

 

他人が

 

いくら言っても

 

無理ですよ。

 

 

 

 

 

これは

 

家族に対しても、

 

全く同様だと思いますよ。

 

 

 

子どもに対して、

 

妻や夫に対して、

 

こうあってほしいと

 

いくら言っても

 

なかなか変わりません。

 

 

 

自分が

 

無駄なエネルギーを

 

使うだけです。

 

 

 

心が病むだけです。

 

 

 

 

 

そんなことより、

 

自分が変われば

 

良いのです。

 

 

 

 

 

そのほうが、

 

よほど簡単で

 

無駄なエネルギーも使わず、

 

無駄な時間も使わず、

 

 

 

私自身の過去の経験から

 

申しますと、

 

最善最短で解決します。

 

 

 

 

 

相手が変わらなくても、

 

自分が変われたのだから

 

解決したのです。

 

 

 

 

 

なんてバカなことを

 

していたのだろう、

 

過去を顧みて、

 

そう思います。

 

 

 

 

 

不思議と

 

自分が変われば、

 

相手も変わるのです。

 

 

 

家族も同じです。

 

 

 

 

 

合氣道の技で

 

習っているはずですよ。

 

 

 

 

 

相手を投げる前に

 

自分の姿勢を

 

正さないと

 

相手を投げることは

 

不可能です。

 

 

 

 

 

それを

 

事あるごとに

 

思い出して、

 

 

 

自分が実践すれば

 

良いだけです。

 

 

 

 

 

人はあっという間に

 

死ぬものだ。

 

 

 

無駄に生きる時間など

 

ないはずです。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-07-05 04:49:00

" やってみなければ分からないだろ "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『やって みなければ わから ない だろ』

 

 

 

 

 

何事においても、

 

まずはやってみる。

 

 

 

そして、

 

とことん徹底的に

 

やってみた結果、

 

 

 

できたとか、

 

できなかった

 

ということになるはずだ。

 

 

 

 

 

できるか、

 

できないか、

 

やれるか、

 

やれないかは、

 

 

 

生涯を賭けて

 

やってみなければ

 

分かるものではないのだ。

 

 

 

 

 

従って、

 

 

 

できるか、

 

できないか、

 

やれるか、

 

やれないかは、

 

 

 

一生の最後に至って、

 

初めて分かることなのだ。

 

 

 

 

 

それがどうだ。

 

 

 

 

 

未だ一歩も

 

踏み出さないうちから、

 

 

 

「自分にはとても無理だ、できない」

 

などと言って、

 

 

 

仕事がどうのこうの、

 

時間がどうのこうの、

 

体調がどうのこうの、

 

 

 

口から出る言葉は

 

言い訳ばかりで、

 

 

 

投げ出すに至っては、

 

 

 

 

 

実に意気地のない

 

限りではないのか。

 

 

 

 

 

他の誰でもなく、

 

自分の口から出た

 

言葉に対して、

 

 

 

 

 

恥ずかしくないか。

 

 

 

 

 

また、

 

このような態度は、

 

天地大自然から

 

与えられた、

 

 

 

この生命の尊さに

 

氣付かない

 

愚か者の言葉であるのだ。

 

 

 

 

 

それはある意味、

 

世話になった人に

 

感謝することもなく、

 

 

 

その恩を

 

踏みにじるような人を

 

意味する表現である

 

「忘恩の徒」とさえ

 

言えるのだ。

 

 

 

師にも

 

天地大自然にも

 

感謝出来ない人だ。

 

 

 

 

 

いや、

 

"身体は生きているが心は死んでいる、成長出来ない人"

 

 

 

このようにも表現できる。

 

 

 

 

 

このことから、

 

このような人は

 

人であり、

 

人間ではないのだ。

 

 

 

心がないのだから。

 

 

 

 

 

でも

 

人間は

 

それとは違う、

 

 

 

心があるから、

 

無限大に成長出来るのだ。

 

 

 

 

 

合氣道という

 

同じ道を

 

共に歩む者なら、

 

 

 

成長出来る人間と

 

生涯、歩み続けたいものだ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝