" 「下がる」から「飛べる」成長の法則 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】次候
七十二候
第五十三候 霎時施(こさめときどきふる)
10月28日~11月1日頃。ときどき小雨が降る頃。
小雨はすぐに止んでしまうような降っては止み、すぐに晴れるといった時雨(しぐれ)のことを指します。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 「さが る」から「とべ る」せいちょう の ほうそく 』
" 良くなる前に「悪くなる」のは当たり前 "
この世の真理、
「天地大自然の法則」を
理解していない人が
いかに多いか、と感じる日々です。
私たちが
何か新しいことに挑戦する時、
あるいは
人生でこれまでと全く違った、
大きな道に進もうとする時。
必ず一度は
「反対の出来事」が起こります。
良くなるためには、
その直前に一度、
その反対に
「悪くなる」現象を
経験せざるを得ません。
" 飛躍の直前には「ため」が必要 "
これは
人生の中で、
自分が成長する過程において、
揺るぎない原理原則です。
大きく飛躍し、
高く上がろうと思ったら、
一度、
深く膝を曲げ、
下に「下がらねば」、
その反動で
大きく飛ぶことはできません。
この「下がる」局面を、
停滞や後退、
あるいは
失敗だと捉えてしまい、
手を止めてしまう人が
あまりにも多いように思うのです。
" 心と身体に起こる「好転反応」"
特に、
「良くなる前には、一時的に悪くなる」
という現象は、
私たちの心身の営みの中で、
具体的なサインとしても表れます。
たとえば、
整体の施術などを
受けた後のことを考えてみてください。
長年の体の歪みを正し、
滞っていたエネルギーを
流し始めた直後、
一時的に体がだるくなったり、
痛みが増したりすることがあります。
これを、
「好転反応(こうてんはんのう)」と
呼びます。
身体は、
真に良い状態、「良くなる」ために、
一度、古い毒素や
悪い習慣によって
硬直した部分を
排出しようと
激しく活動を始めるのです。
この激しい
排出作用や調整期間を、
私たちは
表面的な感覚で
「悪くなった」と
錯覚してしまいがちです。
人生や精神的な成長も全く同じです。
悪い習慣を断とうとする時の
強い葛藤や苦痛。
新しい価値観を
受け入れた直後の、
一時的な人間関係の摩擦。
これらは、
自分の心や人生が、
根本的に
「良くなろう」と必死で戦い、
身体をリセットしている証拠なのです。
合氣道を学ぶにも
入門時において、
入会金を納め
道着を購入するといった、
初期投資が必要になりますね。
" 大飛躍を阻む「良くなりたい、悪くはなりたくない」という傲慢 "
誰もが良くなりたいと強く願う。
しかし、
悪くはなりたくない、
わがまま、傲慢、怠慢な人は
辛い「好転反応」は受け入れたくない。
これは、
「天地大自然の法則」に
真っ向から反する姿勢です。
このブログを毎日読んでくださる
賢者の皆さんなら、
「そんなこと、当たり前のことじゃないですか。」
そう思ってくださることでしょうね。
しかし、
そうではない人も多くいるのです。
実際に
私が合氣道を通じて、
その方の素質を評価して、
更なる成長、向上を願い、
ある提案を
させていただいた事があります。
そこで、その方に
「但し、軌道に乗るには少し時間もかかるし、少しの出費も必要になります」
そうお話したところ、
「そんな時間もお金もかかるなら、私はできません」
そう即答されました。
「痛みなくして成長なし」
痛みとは、
身体や心が新しいステージへ
移行する際の
摩擦熱のようなものです。
その摩擦から
逃げようとすれば、
熱は生まれず、
永久に現状維持のままです。
" 天地大自然の法則と合氣道の「受け身」の精神 "
物理学的に見ても、
これは疑いようのない事実です。
上から物を下に落とせば、
地面に落ちて必ずはね返る。
下がれば、必ず上がる。
合氣道の稽古とは、
この法則を
「心と身体」で知ることでもあります。
相手の「氣」が向かってきたとき、
力で押し返すのではなく、
あえて一度その「氣」に
「沿って下がり(受け入れ)」、
その「下がる」という
運動の中に相手の力を飲み込み、
「臍下の一点」で
増幅させてから、
その反動を利用して
「上げる(投げ返す)」のです。
"「反対の出来事」を歓迎する心 "
もし今、
あなたの人生に、
あるいは
合氣道の稽古の中で、
望まない
「反対の出来事」や、
成長のための
「好転反応」が起こっているならば、
それは大きな飛躍の前の
「ため」だと捉えるべきです。
不調や失敗は、
これまでのやり方を見直す
一時的な「沈み込み」の機会です。
辛い「好転反応」は、
心と身体が根本から改善に向かっている
確かなサインなのです。
この原理原則を深く心に刻み、
「下がること」を恐れず、
「反対の出来事」を歓迎できる
心境こそ、
真の成長への道です。
道場に来て、
失敗を恐れず、
何度でも転んで(下がり)ください。
転んだ分だけ、
必ず立ち上がり(上がり)、
大きく飛躍できるエネルギーが
必ず、蓄積されるのです。
上から物を落とせば
下に落ちる。
地面に落ちれば、
その反動ではね返って上がる。
この天地大自然の
絶対的大法則に
「ノー」と言える人は、
世界中で誰一人として、いないのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 幕末の風情と合氣道、港区赤坂で感じる歴史の重み。「本氷川坂」編 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】次候
七十二候
第五十三候 霎時施(こさめときどきふる)
10月28日~11月1日頃。ときどき小雨が降る頃。
小雨はすぐに止んでしまうような降っては止み、すぐに晴れるといった時雨(しぐれ)のことを指します。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 ばくまつ の ふぜい と あいきどう、みなとく あかさか で かんじ る れきし の おも み。「もとひかわざか」へん 』
今夏の東京での
夏期集中稽古及び、
指導者育成練成稽古は、
港区赤坂にある
氷川武道場で締めくくりました。
この武道場は、
幕末の偉人である
勝海舟の邸宅跡という
歴史的な場所に建つ、
東京都港区立の施設です。
稽古に先立ち、
隣接する由緒ある
赤坂氷川神社を参拝しました。
ここは
かねてより参拝したかったお社です。
赤坂氷川神社は、
天暦5年(951年)の創建から
1000年以上の歴史を誇る古社です。
御祭神は、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)と
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の
ご夫婦神、
そして
縁結びの神として知られる
大己貴命(おおなむぢのみこと)の三柱。
境内には
徳川八代将軍吉宗公によって
建立された社殿が、
幾多の震災や戦災を免れ、
江戸時代の姿を
そのままに今に伝えています。
都心とは思えないほどの
豊かな緑に囲まれた
静寂な空間は、
身も心も
清めてくれるかのようでした。
参拝後は、
勝海舟が暮らした時代の面影を残す
「本氷川坂」(もとひかわざか)を
歩きました。
「本氷川坂」は、
氷川神社の南西側を
アメリカ大使館宿舎に向かって上る、
ゆるやかにカーブを描く坂です。
かつて坂の途中の東側にあった
「本氷川明神」に由来し、
明治16年(1883年)に
この明神が赤坂氷川神社に
合祀された後も、
坂の名として
その歴史が刻まれ続けています。
勝海舟も
きっと何度もこの坂を
行き来したことでしょう。
その足跡を辿るように、
私たちを
古 (いにしえ) へといざなってくれました。
道場内に入ると、
勝海舟の旧邸宅跡という
歴史的背景に加えて、
複数の合氣道団体が
定期的に稽古に励む道場として、
武道の精神が
息づく空間となっていました。
この日の稽古は、
単に技を磨く場にとどまらず、
過去と現在が交錯する
特別な体験となりました。
そして、
稽古の締めくくりには、
皆で静かに呼吸法を行いました。
技の鍛錬に加えて、
心身を整えるこのひと時は、
まさに
この場所が持つ
歴史の重みに身を委ねる時間となりました。
" 歴史に触れる "
本氷川坂を下ったところに、
勝海舟邸跡を示す標識がありました。
海舟が最も華々しく活躍した
幕末から明治にかけて、
この地に
邸宅を構えていたのです。
幕末に作成された
古い住宅地図には、
氷川神社の隣地に
勝海舟の本名である「勝麟太郎」の
名前が記されているそうです。
また、
境内にある「四合稲荷」は、
勝海舟が四つの稲荷社を合祀し、
「しあわせ」と
名付けたものだと言われています。
歴史上の偉人が実際に住み、
行き来した場所に立つと、
まるで時空を超えたかのような
不思議な感覚に包まれます。
この日の稽古では、
歴史の重みに触れ、
心・技・体・氣を
さらに磨くことができたように感じます。
氷川武道場は、
ただ技を練磨するだけの
場所ではなく、
古に触れて、
先人が築いた歴史の上に
今、私たちが立っていることを
改めて感じました。
今後も、
稽古を通じて様々な学びを得て、
お弟子さんの皆さんと
分かち合っていきたいと思います。
令和7年の
夏期集中稽古及び、
指導者育成練成稽古の締めくくりに、
かねてより
私が巡りたかった「本氷川坂」、
ずっと参拝したいと思っていた
「赤坂氷川神社」
そして、
「氷川武道場」という場を
以心伝心、
私の想いを汲み取ってくれた
東京、神奈川の指導者たちに
心から感謝しています。
私などには
もったいない
こんな素晴らしい
お弟子さんたちと
また、
来年も稽古ができると思うと、
私は本当に幸せ者です。
そして、
私たちの
江戸時代から続く由緒ある坂道巡りは
まだまだ続きます。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 【道場長の警鐘】 親は見逃すな! 子どもの目にも宿る「心の無氣力」。合氣道で魂の輝きを取り戻す "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】次候
七十二候
第五十三候 霎時施(こさめときどきふる)
10月28日~11月1日頃。ときどき小雨が降る頃。
小雨はすぐに止んでしまうような降っては止み、すぐに晴れるといった時雨(しぐれ)のことを指します。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 【どうじょうちょう の けいしょう】おや は みのが す な!こども の め に も やど る " こころ の むきりょく " 。あいきどう で たましい の かがやき を と り もど す 』
" 目に力がない(氣の流れの停滞)"
大切な場面でも、
視線が虚空をさまよい、
まるで魂が
そこにないかのような
無氣力な目。
目力は、
その人の「生命力=氣」の表れです。
人生や仕事に対する情熱が欠け、
他人への興味も無くなる。
といった「氣」が滞っている状態は、
共に何かを成し遂げようとする
力にはなりません。
その無氣力は、
周囲にも伝播し、
全体の活力を奪うことすらあります。
"「目に力がない」とは何か "
ここで言う
「目に力がない」というのは、
単に内氣であったり、
疲労が溜まっているという
レベルの話ではありません。
それは、
その人の「生命の情熱」や
「他人への純粋な興味」といった、
心の内側にある
火が小さくなっている状態を指します。
こういった目を持つ人は、
人生に対する情熱が薄れ、
共に何かを
成し遂げようとする力が弱いものです。
重要な話をしている
にも関わらず、
その視線は虚空をさまよい、
まるで魂がそこにないかのように
感じられる。
その無氣力な態度は、
氣が停滞した状態であり、
周囲の活力を
吸い取ってしまうかのように
伝播してしまう危険性を持つのです。
"【稽古の現場から】指導者が感じ取る子どもたちの「氣の停滞」"
そして驚くことに、
この「目に力がない」サインは、
私が指導する
子どもクラスの稽古でも
時々、見られることがあります。
大人の場合は
「仕事や人間関係による疲労」や
「家庭や人生への不満」が
原因であることが多いように思います。
しかし、
どのような状況下においても
氣が滞って
問題が解決するようなことは
一切ないのです。
人生、生きていたら色々あります。
不満や心配事も
それはそれとして、
そんな時こそ、
無理矢理でも、楽しく愉快に
「氣を出す」ことを心がけましょう。
すると、
「あらっ、不思議」
心配事や不満の方が
勝手に何処かへ去ってしまいます。
ただ、
子どもの場合はより根深く、
「自発性の欠如」や
「挑戦意欲の喪失」が
原因である場合が少なくありません。
「しっかり目を合わせなさい」と
指導しても、
彼らの視線は
床や窓の外を彷徨います。
技の細かな注意や、
私が全身全霊で
伝えようとしている「心」が、
目のフィルターを通して
入っていかない。
それは、
私にとっても最も空しい瞬間です。
一人の子どもの目が
輝きを失っていると、
その周辺にいる
子どもの集中力も
同時に落ちることも少なくありません。
道場全体の活氣、
「氣」の満ちた空間が、
その子の無氣力によって
乱されてしまうのです。
この状態を放置することは、
道場に集まる
子どもたちの将来の情熱や、
挑戦する力を
奪うことにつながりかねません。
" 師範としての心得:目力を取り戻す指導 "
私たち指導者の役割は、
ただ技を教えるだけでなく、
彼らの心に再び火を灯すことです。
まずは、
座学ではなく
身体を思い切り動かす
稽古を通じて、
停滞した「氣」を巡らせます。
大きな声を出し、
ぶつかり、
汗を流すことで、
身体から心に働きかけ、
無理やりにでも
生命の躍動を取り戻させます。
"「合わせる」ことの徹底 "
技の稽古だけでなく、
「相手の目を見る」
「指導者の目を見る」という
「合わせる」行為を徹底します。
目は心の窓です。
目を合わせることは、
他者への興味と敬意、
そして
自分自身の存在を
再認識させる重要な手段です。
目に力が宿るとき、
その子の生き方は、
再び情熱と好奇心に
満ちたものになるはずです。
私たち大人が、
まず目を輝かせ、
子どもたちの「氣」を
呼び覚ます役割を担うことが
重要ではないでしょうか。
そして、
子どもたちの
「無氣力」や
「うつろな目」には
少なくとも
家庭環境が
影響している
ことを
親は
認識することです。
子どもはいつの時も
何らかのサインを発信しているのです。
それを見逃すな!
わが子が道場で
どのような表情で稽古しているのか?
「稽古に行っておいで」と言って、
親は子を放ってないで、
他人任せにして呆けてないで、
わが子の稽古を
しっかり見ることです。
心の状態を見るには
合氣道の技は
顕著にそれが表れます。
そこに " ごまかし " は一切ありません。
心の状態がそのまま
形や表情になって表れます。
私は合氣道指導者になって、
13年間、これを言い続けてきました。
しかし、
残念なことに
ありのままに申して、
それを
実践する親は
現在も皆無に等しいのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 稽古は人生にあり、心を乱す相手との「間合い」の取り方、その一 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
今週もよろしくお願いします。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】初候
七十二候
第五十二候 霜始降花(しもはじめてふる)
10月23日~10月27日頃。
だんだんと北国や山間部で霜が降り始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 けいこ は じんせい に あり、こころ を みだ す あいて と の「まあい」の とり かた、その いち 』
" 合氣道で培った智慧を人生最大の稽古場(人間関係)で活かす "
合氣道師範である
私の信念は、
「道場での稽古」と
「人生での立ち居振る舞い」は
不可分であるということです。
合氣道の技を磨くことは、
すなわち人生を
より良く生きるための
「心のあり方」を練ること。
そして、
その核心にあるのが
「間合い(まあい)」の取り方です。
道場を一歩出た
「人間関係」という
人生最大の稽古場においても、
この「間合い」の取り方を
間違えれば、
私たちの心は
疲弊し、
最悪の場合は、
心身を痛めるトラブルに
巻き込まれてしまうことがあります。
そして、私は
心が乱れている人が発する
「不吉な無言のサイン」を
感じ取るようになり、
その後の展開は、
ほぼ私の予感通りとなります。
" 心が乱れた人が発する「不吉な無言のサイン」"
長年、
多くのお弟子さんや
人々と接する中で、
私は無意識のうちに
自然と「人間観察」という智慧を
養ってきました。
心に何か
強い「わだかまり」を持った人には、
たとえ道場以外、
道端で会ったとしても、
また、
実際に会わなくても
LINEやメールの文面からも
私は非常に強い違和感を感じます。
それは、
心が澄んでいる人とは
明らかに違う
ありのままに申して、
とても氣持ち悪い
「不吉な無言のサイン」なのです。
私は、
「心の乱れは、必ず身体や表情、特に視線に表れる」
と確信しています。
私が感じ取る
数あるサインのうち、
今日は二つを取り上げ、
私なりのその
「間合いの心得」をお話します。
一つ、
心の和合を拒む「否定から入る人」
このタイプは、
対話を「協力」ではなく
「勝ち負けの戦い」と捉えています。
彼らにとって、
相手の言葉は
受け入れるべき情報ではなく、
打ち負かすべき「敵」の攻撃なのです。
その動作や顔の表れには
「怒りに満ちた目」を感じます。
自分の意見が通らない時や、
相手を言い負かした瞬間に、
目が猛禽類のように
鋭く光るのが特徴です。
その目の奥には、
常に戦いを求める苛立ちが
宿っているのです。
相手の言葉を
理解しようとする前に、
「いや、それは違う」
「でも、現実は」と
否定から入るのが常です。
常に相手の提案の「粗探し」をし、
マウントを取ることで
自己を保とうとします。
常に戦いを求め、
和合を拒む相手と深く関わることは、
自分自身の平穏を
奪われることに他なりません。
彼らと戦う必要はありません。
自分の「中心」を崩さぬよう、
静かに距離を置くのが
賢明であると私は思います。
こういう心の持ち主に
育てられた子どもは
一体、
どんな大人に
育っていくのでしょうか?
つい最近も、
そのような人は
ご自分のご意思で
退会なされました。
そのご意思を尊重して、
私はお天道さまの良き計らいに
感謝しています。
二つ、
不誠実さを隠す「核心で泳ぐ視線の人」
視線は言葉よりも雄弁に、
その人の本質、心の度合いを語ります。
動作・顔の表れには
核心での「視線回避」があります。
真実や重要な約束事、
あるいは自身にとって
不利な事実など、
「核心」に触れる瞬間に、
視線が定まらずに泳ぐ、
あるいは
露骨に目を逸らします。
視線が定まらないのは、
心に「後ろめたさ」や
「隠し事」がある動かぬ証拠です。
口では流暢な言葉を並べても、
また、張り子の虎のように
「うんうん」と頷いていても、
視線は言葉の裏にある
「不誠実さ」や「嘘」を物語っています。
相手を
欺(あざむ)こうとする心は、
自身の「氣」を停滞させ、
それが視線の動きとして現れます。
誠実な「氣」を
持たない相手とは、
深い信頼関係を築くことは不可能です。
どれほど良い条件や
口上があっても、
この「視線」という
非言語サインを私は唯一信用します。
言葉の表面に惑わされず、
自分の心のセンサーを最優先することです。
" 究極の自己防衛と危機管理 "
私は、
自分の心が「違和感」を覚えたら、
それは天地から与えられた
「最高の智慧」という
心のセンサーであると信じています。
相手の「乱れ」に引きずられ、
その氣の渦に巻き込まれてはなりません。
常に、
自分の中心「臍下の一点」を
崩さぬよう、
心身統一を保つことが大切です。
そして、
違和感を感じたら、
適切な「間合い」を取ること。
これが、
人間関係のトラブルを
未然に防ぐ
「究極の自己防衛術」であり
「危機管理能力」です。
" 普段の何氣ない会話にこそ、その人の心の闇が顕著に表れる "
道場での何氣ない会話や、
街でたまたま出会った際の
「こんにちは」の挨拶にも、
私は、
その智慧という
センサーは弛まず働かせます。
そして、
度重なるように
とても氣持ち悪い
「不吉な無言のサイン」
を感じ取った人とは、
「今はその人とは接するべきではない」と判断し、
その相手と間合いをとった後の
「人間関係」、
「お付き合い」は、
ことさら意図的な行動は起こしません。
全てを
天地大自然の
良き計らいにお任せするのみです。
ご縁が「繋がる」も「切れる」も
私はお天道さま任せです。
最後までお読みいただき、ありがとうございますございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 今日できることは今日やる。明日もできる保証はない。 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
霜降【そうこう】初候
七十二候
第五十二候 霜始降花(しもはじめてふる)
10月23日~10月27日頃。
だんだんと北国や山間部で霜が降り始める頃。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 きょう でき る こと は きょう や る。あす も でき る ほしょう は な い。 』
野球界の偉人、
長嶋茂雄氏は生前、
現役時代に
ヘルメットが飛ぶほどの
フルスイングで三振した理由を問われ、
こうお答えになったそうです。
「 球場に何万人もの
お客さんが観戦する中で、
一生に一回しか
見に来ない人もいる。
その人の前で、
元氣のない長嶋を見せたくない。
人間、
好調の時ばかりじゃなくて、
不調の時だってあるでしょう。
ダメならダメなりに、
長嶋は打てなかったけど、
一所懸命やっていたと
思って帰ってもらいたいから、
たとえ当たらなくても
思いっ切り振る。
そうすると、
偶然当たったりするんだよ 」
私は
この言葉に深く感銘しました。
プロとしての
あり方の教訓ではないでしょうか。
僭越にならぬよう
申し上げなければなりません。
それを承知の上で、
私もプロの合氣道師範として、
これまで
数えきれないほどの稽古を重ね、
お弟子さんの指導にあたるため
道場に立ち続けてきましたが、
その中で
「今日できることは今日しかできない。明日もできる保証はない。」
という思いで、
私は常に道場に立っています。
特に年齢を重ねてからは、
体力の衰えも感じますし、
身体が昔のように
思うように動かないこともあります。
また、
身近な人が天へ旅立つ経験もしています。
だからこそ、
「この稽古が、また、この指導が私にとって最後の稽古かもしれない」
という覚悟で、
恥ずかしくないよう、
出し惜しみせず、
全身全霊で
合氣道の道を歩んでまいりました。
これからも、
この姿勢を貫いていきます。
この長嶋氏の言葉は、
私たち合氣道指導者、
また、
学ぶ者にとっても、
非常に重要な教えを含んでいます。
合氣道の稽古は、
まさに「一期一会」です。
その日、その日の稽古に、
全身全霊を込めて臨むこと。
たとえ体調が優れなくても、
悲しいことがあったとしても、
技が思うようにいかなくても、
その瞬間にできる
精一杯を出し切ること。
それが、
自身の成長に繋がり、
そして、
ともに汗を流す
道友への範ともなります。
長嶋氏の言葉にある
「元氣のない長嶋を見せたくない」
というプロ意識は、
道場に立つ師範として、
また稽古に励むお弟子さんにも
通じるのではないでしょうか。
合氣道琴心館寺崎道場に
来てくださる全てのお弟子さん方、
そして、
ともに合氣道を追求する
先輩、後輩、道友たちに、
常に最高に氣が出た自分で接したい。
僭越ながら、
不肖私、その一心で、
日々精進を重ねてまいります。
「惜しまず、出し切る、絞りきる」
それは、
合氣道の「残心」の
精神にも深く繋がります。
技が終わった後も、
心と身体の集中を保ち、
「臍下の一点」を失うことなく
その相手に氣を送り、
次の動きに備える。
それは、
その瞬間、瞬間に
全力を尽くし、
一切の出し惜しみを
しないことの表れです。
人生においても、
仕事においても、
そして
合氣道の稽古においても、
私たちは
「今日」という
一度きりの時間を生きています。
明日、何が起こるか
分からないからこそ、
今この瞬間に全力を尽くす。
後悔のないよう、
出し惜しみせず、
一所懸命に生きる。
長嶋氏の言葉が教えてくれる
「惜しむな、出し切れ」の
精神を胸に、
私もまた、
道場長として、
そして一人の人間として、
「一日を精いっぱいやり切る」の
精神で
日々、
歩んでいきたいと思います。
今日という日を大切に、
精一杯生きていきましょう。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長;拝