2024-11-08 03:41:00

" 古の雅 "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

『いにしえ の みやび』

 

 

このエントリーでも

触れましたが、

 

先日、

私が14歳 (中学3年生)の時に

極楽浄土へ行った

父の永代経法要で

京都・西本願寺に参拝した後、

京都御所を参観してきました。

 

 

御所( ごしょ )とは、

" おんところ "

" THE PLACE "

 

天皇陛下のお住まいであった

皇居であり、

古来、内裏(だいり)と

称された場所です。

 

平安時代から江戸時代まで

1000年以上、

天皇陛下が住まわれていた。

 

京都御所へは入場門である

清所門 (せいしょもん) から

入るのだが、

 

ここで驚いたことは、

 

お堀がなく、

高い石垣もなく、

外から中は丸見えで

 

" 一切、守りがない "

ということだ。

 

 

例えば、

姫路城でも皇居でも

高い石垣とか、

巨大なお堀で守られている。

 

 

現在、

天皇陛下・皇后陛下が

お住まいになる皇居は

昔、江戸城であったため

上記の通りだ。

 

 

しかし、

京都御所には守りがない。

 

 

その理由は

 

仁徳天皇の

「民のかまどの話」にある。

 

 

民のかまどから

煙が立ち上がらないのは、

炊くものがない。

 

それは夕飯の支度が

できないほど、

民は貧しいのか。

 

それなら、

税を取るのをやめよう。

 

 

税が課せられなくなった

民のかまどからは

夕飯の煙が上がりだした。

 

 

その後も、

仁徳天皇は

民の生活が豊かになるまで、

税を課さなかった。

 

御自らお食事も倹約され

衣類もボロボロになり、

さらに、

宮殿の屋根からは

雨漏りがする。

 

だが、

民の幸せを優先なさいました。

 

 

さすがに皇后陛下が

そろそろ税を課されては

いかがでしょうか。

 

「いや違う、民の幸せこそが朕の幸せである」

 

朕 (ちん) とは

天皇陛下の自称、第一人称。

 

 

やがて裕福になった民が

自らの意思ですすんで

宮殿の屋根の改修工事をした。

 

 

つまり、

京都御所は

守る必要がないのだ。

 

それに対し、

西洋の王や中国の皇帝は

私利私欲で民を支配する。

 

だから、

民から自らを

守らねばならない。

 

 

しかし、

日本の天皇陛下は

守られるのではなくて、

国民を見護ってくださる。

 

だから

誰からも襲われる

心配がない

唯一の方なのだ。

 

 

これが京都御所に

守りがない理由だ。

 

 

つまり、

いにしえの時代から

 

" 人のために生きる "

という

日本人の精神があったのだ。

 

 

京都御所を参観中に、

隣で参観していた人から

こんな会話が聞こえてきた。

 

「朕は寒かっただろうね」

 

「そうだね」

 

「今みたいに床暖房なんてない時代だものね」

 

 

今も昔も天皇陛下は

決して、

私利私欲のための

贅沢はなさらない。

 

 

ご自身のことも

ご家族のことも

祈られない。

 

ただただ

国民の幸せだけを

祈ってくださる。

 

それは

「人のために生きる」

という生き方である

日本の理念を

祈りを通じて、

全ての国民にお示しになる

ご存在なのだ。

 

 

神武天皇から2600年以上、

126代続いている

日本の国体。

 

それは世界で唯一、

日本だけなのだ。

 

 

" 世のため、人ために生きる "

 

それは

我々、日本人には

古来より受け継がれてきた

 

その日本固有の理念は

日本人の精神であり文化でも

あるのではなかろうか。

 

 

前のエントリーにも

記した通り、

 

世界中、何でもありの世の中だ。

 

自分と家族のためだけに生きる。

 

それは人として

必要最低限の生き方ではある。

 

しかし、

皆がそうであるとしたら、

それは醜い争いを生む

自分勝手な

社会になるのではないか。

 

自分と家族のためだけに

一所懸命働く。

 

それは一見、ごく普通で

当たり前のことと

捉えられるかもしれない。

 

しかし、

本来、仕事というものは

職種に限らず、

全て世のため、人のために

あるものだ。

 

この給料では

家族を養えないから、

人を蹴落としてでも

人を落としいれてでも、

人に迷惑をかけてでも、

人を裏切ってでも

 

金のためならやる。

 

自分の生活と

家族を養うためだ。

 

 " そのためなら仕方ないじゃないか "

 

 

人のため、地域のため、

社会のため、世の中のため、

 

そのようなことに生きる

志など毛頭ないという人が

あまりにも多すぎるように思う。

 

そんな人ほど

深刻な悩みを抱えているものだ。

 

この先、自分と家族に

良き人生、良い生活が

訪れるとでも思っているのか?

 

 

人が世界が

どれほど汚れ、壊れても

 

私達はそこに棲まねばならない。

 

その地で誰かが

人のため、社会のために

生きていかねば、

日本はいずれ滅びゆく。

 

今の子どもたち、

さらにまだ見ぬ子どもたちが

棲むこの世界が、

 

これ以上、

壊れないように

汚れないように

 

日本が滅んでいく前に

ちょっとは

真剣に考えなくては

なりませぬ!

 

古代より連綿と続く

" 人のために生きる " という

精神文化を持ち続け、

 

それが潜在意識の奥深く、

無意識の領域にまで

浸透している

人でなければ務まらない。

 

 

他人がどうであれ、

もうそんなことは

どうでも良い。

 

 

少なくとも、

私は合氣道という武道で

" 世のため "

" 地域のため "

" 人のため "

 

その精神を持ち続け、

天地大自然と共に生きる。

 

 

" 万有愛護 " 

それは天地大自然に存在する

森羅万象全てのもの。

そのものの特性をよく見、

よく理解すること。

 

" 万物育成 " とは、

あらゆるものには

長所と短所がある。

その長所をプラスになるよう

自ら率先して導くこと。

 

それが天地大自然の心である。

その天地の心こそが

我心であるのだ。

 

 

天地大自然に

恥ずかしくない

生き方をすること、

 

それが今を生かされている

自分の責務であるのだ。

 

 

それを淡々とやり続けよう。

 

たとえ、ほふく前進でも

前に進めよう。

 

 

誰もやらなくても

自分だけは

氣を出してやり続けよう。

 

 " 私は日本男子だ "

 

草木が色づきはじめた

京都御所で深く自覚した。

 

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-11-07 04:23:00

" 何でもありの世の中で "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

『なんでも あり の よのなか で』

 

 

" 世の中 " とは

人々が生活するこの世。

世間。社会。

世間の人々の間。

社会の人間関係のこと。

 

 

その世の中が

何でもありなのだ。

 

私達が暮らす

日本だけでなく、

 

世界中の国々もまた、

何でもありの世の中だ。

 

 

" 世のため 人のため " と

いくらきれい事を並べても、

 

所詮、

自分のため、家族のため。

他人のことなど知らぬ。

 

その結果、

何でもありの世の中になる。

 

それが現実だ。

 

 

良い悪いではなく

それが日常の現状であり、

世の常なのだ。

 

それが当たり前の世界なんだ。

 

 

人は簡単に

利権、地位、既得権益に

流されるもの。

 

それにしがみつかねば

生活できない。

生きていけないから、

自分が危ない。

家族が危ない。

 

だから、

簡単に恩人でさえ裏切る。

 

昨日言っていたことを

平氣で今日は

真逆のことを言う。

 

「だって仕方ないじゃないか」

 

今年の自由民主党の

総裁選では

毎日、そういうことが

私達の知らないところで

繰り返されていた。

 

 

それが人間という

ものなのだ。

 

 

その政治家達が

立法府で

私達の暮らしに直結する

法律を作るのである。

 

 

その様な

自分が大事、家族が大事

という人達が

 

ほんとに我々国民の

ためになる

法律を作れるのだろうか。

 

 

ただ、政治家の中にも

その様な私利私欲ではなく、

 

自分の立場が

驚かされようが、

国益と国民を護る

ためだけに尽力する

立派な政治家も

少数でもいることが、

救いである。

 

 

しかし、

何も政治家だけの

ことではない。

 

 

年齢、性別、収入、

学歴、職業など

関係なしに人間は

皆、そうだ。

 

 

そんな世の中で

どう生きるのか。

 

このエントリー

一つ前のエントリーにも

関連することであるので、

 

感心がある人は

どうぞご覧になって下さい。

 

 

私が主宰する

合氣道のお弟子さん方の

技を見ていても、

それは同様だ。

 

自分が大事。

相手の氣など知らぬ。

 

 

相手が力一杯に

自分の手首を握る。

 

" 痛いからやめて "

痛ければ痛くないよう

自分が動けばよい。

痛ければそれ以上、

痛くならないよう

さっさと投げてしまえばよい。

痛いのは相手の責任ではない。

自分の責任です。

 

" この方向から取りに来て "

相手が取りに来る方向が

氣に入らなければ、

自分が好む方向に

動けばよいだけ。

 

 

" そんなに力一杯握らないで "

相手が力で来るなら、

自分が力を抜いたら

力む相手ほど

簡単に投げ飛ばす

ことができる。

力一杯握られるのも

自分の責任です。

 

そんなもの、

しっかり投げてあげて

" 力は抜きましょうね "

というふうに

教えてあげたらよいのだ。

 

 

 " その技を体得したいな "

見た目は簡単そうでも

やってみれば難しく

奥深い技を体得したければ

日常生活で鍛錬しろ。

 

普段何もしないで

体得できるわけがない。

 

体得できない。

相手を直さないと

相手を投げることができない。

 

それはただ

自分が未熟者なだけ。

 

練習不足なだけのこと。

 

 

それは日常生活においても

そうだから、

技もそうなるのである。

 

 

日常を直さないと

技も直らないのだ。

 

 

それも全部含めて

この世は何でもありの世界だ。

 

 

肝心なことは

その何でもありの

相手であっても、

 

自分はブレてはいけない。

 

 

その " 何でもあり " を

すべて許し

すべて飲み込んで、

 

スッキリ笑って、

自分の行きたい方向に

導かねばいけない。

 

 

 " 人はそんなものだ "

 

そう思っていれば

腹も立たない。

 

 

その人のために

尽力を尽くしてあげた人でも

裏切られることは

当たり前にある。

 

 

そのような嵐に

巻き込まれない

強い心を持つことだけを

 

生涯、鍛錬し続けることしか、

 

この

" 何でもありの世の中で "

 

生きていく術は

ないのでありまする。

 

 

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-11-06 04:32:00

" 上達の定義 "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

『じょうたつ の ていぎ』

 

 

" 先生、私って上達してますか? "

 

現在、東海大学

湘南キャンパスに通い、

将来、声優を目指す

Hという日本女子からの

LINEメッセージだ。

 

 

藤沢市 辻堂教室所属で

N先生のお弟子さんだ。

 

N先生も私の弟子だ。

 

従って、

私から見れば、

Hさんは孫弟子

ということになる。

 

 

早速、

zoomでHさんの技を

見ることにした。

 

zoomというアプリは

便利なものだ。

 

神奈川の教室と

神戸の私の自宅を

オンラインで結び

リアルタイムに映し出され、

会話もできる。

 

便利な世の中になったものだ。

 

 

方手取り、

横面打ち、

正面打ちの

行書〜草書の技だ。

 

特に草書の技では

相手のSというお弟子さんの

受けが上手いので、

 

Hさんの

投げ技も関節技も映える。

 

やっぱり、

合氣道は受けが上手だと

投げが上手く見えるものだ。

 

 

おっと、受けを見て

感心している

場合ではなかった。

 

本筋から逸れてはいけない。

 

 

Hさんは確実に上達している。

 

入門して三年足らずで

これだけできたら、

大したものである。

 

 

一通りの技を最後まで見て、

Hさんに話したことは、

 

「技ではなく心の上達が肝要です」

ということである。

 

 

合氣道には色々な流派があり、

指導する師範によって

目指すところは違う。

 

まして

私などの未熟者が僭越にも

「合氣道はこうであるべき」

などと言えるはずもない。

 

 

従って、

一言で上達といっても

 

その定義は

道場、指導者によって

様々ではないかと思う。

 

 

その上で、

合氣道寺崎道場の

上達の定義とは

 

 

人としての生き方であり、

考え方であり、

心のあり方が

入門時より

進歩、成長すること。

 

 

それが上達であると

私は確信している。

 

 

合氣道は日常生活に

活かせなかったら意味がない。

 

 

「先生、私って上達してますか?」

 

 

それはHさんに限らず、

何人ものお弟子さんから

よく聞く言葉だ。

 

 

技が上手になることも

上達には違いないが、

 

人として心の上達こそが

重要ではないのか。

 

 

それを磨くために

 

合氣道寺崎道場は

存在している。

 

 

今一度、

大人一般、子ども親子の

全てのお弟子さんに

おかれては

再認識していただきたい

ことであります。

 

 

さあ、

一緒にみんなで磨いていこう。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝

2024-11-05 04:34:00

" 天ちゃん教えてよ "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

『てんちゃん おしえて よ』

 

 

11月3日 ( 日曜日 ) 文化の日に

亡父の永代経法要で

京都・西本願寺へ

お参りしました。

 

 

ご先祖様の

供養以外にも

諸事情により

年に数回、少なくとも

二ヶ月に一回は

必ず京都を訪れています。

 

私にとって、

京都という地は

何かしら

深い縁があるように

思えてなりません。

 

この地に

合氣道寺崎道場の

新たな拠点が

できるのではないか。

 

最近そう考えてます。

 

まだ漠然としていますが、

可能性は0%ではありません。

十分にありえます。

 

 

私と京都は

少なからず、

ご縁で結ばれていると

はっきり感じています。

 

 

閑話休題 ( かんわきゅうだい )

 

今日のお題です。

 

11月3日の朝、

阪急電車で

大阪梅田行き特急の

同じ車両に

 

三宮辺りだったか、

 

長い弓袋を二本に矢筒と

背中にリュックを背負った

袴姿の大学生らしき

日本女子が乗車してきた。

 

 

十三駅から京都線の

ホームに向かうが、

その弓道女子も

 

京都河原町行き 特急に

乗り換えるべく

同じホームで電車を待った。

 

乗車した車両は

違ったので、

その先は不明だ。

 

 

私は阪急大宮駅で下車し、

足腰の鍛錬のため、

徒歩で約25分かけて

西本願寺へと向かった。

 

亡父の永代経法要を終え、

 

その後、

地下鉄烏丸線

丸太町駅で下車し、

京都御苑へと向かった。

 

そこには

超広大な敷地の中に

京都御所がある。

 

 

古の時代の

天皇陛下のお住まいを

参観した後、

 

市バスに乗り

四条河原町へと向かった。

 

三連休中日で

好天に恵まれた

こともあってか、

 

河原町周辺は

車の大渋滞と

歩くことも

ままならないほどの

人と車で混雑していた。

 

 

その後、

河原町から阪急電車で

大阪梅田へと向かった。

 

 

まあ、

河原町はいつも

人でごった返しているが…

 

京都は年中、観光客だらけ。

 

空いている電車を

見たこともない。

 

毎回、

歩き疲れたあげく、

座れないのだ。

 

しかし、

大阪梅田に向かう

下りは河原町駅が起点なので

確実に座れる。

 

 

その後、

大阪梅田周辺で用を済まし

神戸に帰るため、

 

大阪梅田駅の

神戸線ホームで

電車を待った。

 

ここも

終点の新開地行き

下りは起点のため、

確実に座れる。

 

 

ありがたい。

 

 

座席に座り、

発車を待っていると

 

なんと、また

朝の弓道女子が

弓袋と矢筒を持って

友達と乗ってきたのだ。

 

しかも、

また同じ車両である。

 

「こんなこともあるんだな」

 

一人感心していた。

 

 

" 袖振り合うも多生の縁 " とは

 

まさにこのことだな。

 

 

少しの時間のズレが

あったら、

再び会うこともなかった。

 

 

今思えば、

京都御所での参観時間や、

河原町の大渋滞、

大阪梅田での用事などが

全て影響している。

 

 

もっと言えば、

人混みの河原町駅の

ホームでは

確実に座りたかったので、

一本、電車を遅らせた。

 

また、

大阪梅田駅でも

同様の理由で

一本、電車を遅らせた。

 

その結果、

再びあの弓道女子と

同じ電車で同じ車両だ。

 

 

これも何かしらの縁だろう。

 

 

私と弓道女子の

ほんの僅かな時間のズレが

あれば、

絶対にありえないことだ。

 

 

「天ちゃん、教えて」

 

 

何故、この日

二回も会わなければ

ならなかったのか。

 

 

ほんとに聞きたい。

 

 

この世に偶然は

ないんでしょう?

 

全て必然なのでしょう?

 

だったら、何故?

 

それとも

天地大自然が

楽しんでいるだけ?

 

 「理由を教えて、天ちゃん」

 

 

天地大自然はいたずら好きだ。

 

 

生きている間に、

それとも

鬼籍に入ると、

 

教えてもらえるのであろうか。

 

 

分からない。

 

 

私に分かることは

縁があるということだけ。

 

それだけは確実に

そうなのだろうと思う。

 

 

 

話もしてない

どこのどなたか存じませんが、

 

このご縁がある

弓道の日本女子の

行く末に

 

何はともあれ、

幸せあれ、栄光あれ。

 

早天の空に、そう思う。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございます。

 

道場長 拝

2024-11-01 04:44:00

" 相手が先で自分が後 "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

『あいて が さき で じぶん が あと』

 

 

我が家では以前、

ベランダでたくさんの

改良メダカを飼っていた。

 

 

春から夏の

産卵シーズンは

世話するのに忙しい。

 

 

たくさんの

針子と呼ばれる

稚魚が生まれる。

 

 

その稚魚を大切に育て、

 

体型、美しさの優れた

成魚を選別して

翌年の種親に育てる。

 

 

そのため、

たくさんの稚魚を

育てることになる。

 

 

その稚魚達の餌は

ゾウリムシだ。

 

それにPSB ( 光合成細菌 )

という赤い水が必需品だ。

 

このゾウリムシとPSBは

簡単に培養できるから、

 

ベランダには

多くのメダカ容器と

培養のペットボトルが並ぶ。

 

 

その培養ペットボトルは

蓋を開けると悪臭が漂う。

 

不注意でこぼしたりすれば、

ご近所迷惑にも

なるほどの悪臭だ。

 

触りたくない。

でも、

触らなければならないから、

手に付着する。

 

少々洗っても臭いは取れない。

 

家族からは

「もうやめて」と

何度も懇願される、

 

しかし、

先方 ( 稚魚 ) が

好きなものであるから、

 

手が臭くなっても

稚魚に与える。

 

稚魚が喜ぶからである。

 

まず、相手方の好きに合わせる。

 

その結果として、

後から飼い主の

喜びや楽しみが生まれる。

 

それが改良メダカ飼育の

条件であり過程であった。

 

そのメダカの世話に

翻弄されつつも、

 

人としての生き方も社会も

これと全く同じであると

氣がついた。

 

 

相手が喜ぶものは何か。

 

あの人が好むものは

どんなものなのか。

 

それを考え工夫する。

 

まず、相手を喜ばす。

 

自分のことは、

横において後まわしだ。

 

その後に自分の喜びや

楽しさが生まれてくる。

 

 

但し、

素直に喜べない人や

傲慢、わがまま、氣がね、

ふてぶてしい態度の人には

あてはまらないかもしれない。

 

そのような人は

元々、相手にする必要もない。

 

 

天地大自然が

メダカの姿に変わって、

 

私に教えてくれた

貴重な学びであった。

 

天地大自然の尊い道理だ。

 

天地の道理は

合氣道にもあてはまる。

 

まずは、

相手の氣を尊ぶ。

相手の立場に立つ。

そして、相手を導く。

 

 

どんな事柄でも

天地大自然の中で

おこることには

天地大自然の道理に

則った生き方をしなければ、

事はうまく運ばないのだ。

 

 

我が家のベランダに

たくさんいたメダカ達、

 

その子たちにも

感謝しなければなるまい。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

道場長 拝