2024-05-02 10:38:00

" 減るものと増えるもの。傷むものと強くなるもの "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『へるものとふえるもの。いたむものとつよくなるもの』

 

 

 

 

 

先日行われた

 

第26回兵庫県合氣道連盟

 

合氣道演武大会は

 

コロナ禍により

 

約4年の不開催を経て、

 

昨年より再び開催された。

 

 

 

コロナ禍以前は

 

毎年この時期、

 

桜が散れば

 

演武大会の開催だった。

 

 

 

先のことは分からないが、

 

また来年もこの時期に

 

開催されることだろう。

 

 

 

その先もその先も。

 

 

 

兵庫県合氣道連盟

 

指導部に所属する

 

師範の先生方は、

 

 

 

この演武大会に備えて

 

色々と準備に慌ただしくなる。

 

 

 

合氣道琴心館寺崎道場を

 

主宰する私も

 

その例外ではない。

 

 

 

 

 

演武大会に出場する

 

お弟子さん方は人それぞれ、

 

稽古回数も年数も

 

熟練度も全て違う。

 

 

 

週に3回、4回道場に通う

 

お弟子さんもいれば、

 

月に2回のお弟子さんもいる。

 

 

 

特に少年部所属の

 

子どもにおいては

 

遅くとも

 

前年の12月には

 

演武大会で行う

 

技の稽古を始めなければ

 

間に合わないのだ。

 

 

 

お弟子さんを持つ

 

指導者にとっては、

 

この頃から既に

 

準備が始まっている。

 

 

 

演武大会が

 

開催され続ける以上、

 

この道は

 

避けて通ることの

 

できない道なのです。

 

 

 

 

 

特に何か分からないが、

 

今年の演武大会は

 

正直疲れた。

 

例年以上に相当疲れた。

 

 

 

長い準備期間を経て、

 

演武大会当日にも

 

色々な出来事があった。

 

 

 

 

 

決して自慢して

 

言えることではないが、

 

私は元々、怠け者である。

 

 

 

放っておいたら、

 

とことん怠ける。

 

 

 

相当な疲れもあって、

 

どこからか

 

悪魔が囁いてくるのだ。

 

 

 

「明日から休めば楽になれるぞ」

 

「休め、休むのだ」

 

 

 

怠け者の私は

 

この悪魔の囁きに

 

同意したかった。

 

 

 

 

 

しかし、休めないのだ。

 

 

 

 

 

演武大会翌日は

 

神戸常盤アリーナ

 

「中高年のための合氣道講座」がある。

 

 

 

ここに集まってくれる

 

お弟子さんの多くが、

 

この演武大会にも

 

出場している。

 

 

 

そればかりか、

 

今年の演武大会出場には

 

間に合わなかった、

 

入門して間もない

 

新人のお弟子さん方も

 

演武大会会場に

 

足を運んでくれている。

 

 

 

嬉しいことだ。

 

 

 

熱心なお弟子さん方である。

 

 

 

その皆さん方が

 

翌日の神戸常盤アリーナで

 

稽古を待ってくれているのだ。

 

 

 

それに加えて、

 

東京、神奈川から

 

指導者とそのお弟子さん方

 

約10名も遠路遥々、

 

私の指導を楽しみに

 

貴重な大型連休を

 

使って集まってくれているのだ。

 

 

 

 

 

「皆に感謝だ」

 

 

 

 

 

氣を振り絞って

 

神戸常盤アリーナでの

 

稽古に臨んだ。

 

 

 

「正面打ち一教」という

 

合氣道の技の中でも

 

非常に難易度の高い

 

技ではあるが、

 

 

 

新人さんも含め皆、

 

額に汗をかきながら

 

一生懸命に稽古する姿に

 

私は心を打たれた。

 

 

 

皆が笑顔で稽古している。

 

 

 

その笑顔に

 

心底、心を打たれた。

 

 

 

「来てよかった」

 

そう思った。

 

 

 

 

 

無理やりにでも

 

絞り出した氣に、

 

お弟子さん方の

 

プラスの氣が加わり、

 

 

 

私を悪魔の囁きから

 

守ってくれた。

 

 

 

そして、

 

この日の午後からも

 

約4時間にわたって

 

関東からのお弟子さん方に

 

良き指導が出来た。

 

 

 

 

 

そう

 

 

 

「氣は出せば新しく入ってくるのだ」

 

 

 

強いプラスの氣を

 

出し尽くせば、

 

もっと強い

 

プラスの氣が入ってくるのだ。

 

 

 

出せば永遠に入ってくるのだ。

 

 

 

 

 

人間の考えや

 

人間が作ったものと

 

 

 

天地大自然の大御心と

 

天地大自然に与えられたもの。

 

 

 

 

 

そこに大きな差があるのだ。

 

 

 

 

 

その一つが

 

私達の手や足。

 

 

 

手を保護するために

 

人間が作った手袋。

 

 

 

例えばゴム手袋は

 

使えば使うほど消耗する。

 

 

 

いわゆる消耗品だ。

 

 

 

例えば靴。

 

同じように

 

使えば使うほど消耗し、

 

傷んだところは

 

リペアする必要がある。

 

 

 

 

 

これに反して、

 

 

 

人間の手というのは、

 

汚れても

 

洗えばきれいになる。

 

 

 

取り替えも必要なし。

 

 

 

 

 

赤ちゃんの足の皮は柔らかい。

 

 

 

でも80歳まで生きれば

 

80年使う。

 

 

 

100歳まで生きれば

 

100年間使うのだ。

 

 

 

柔らかい皮の足でも

 

使えば使うほど強くなる。

 

 

 

 

 

この天地大自然の

 

大御心と

 

天地大自然から

 

与えられたもの。

 

 

 

限りない

 

おめぐみに

 

私達は包まれ

 

守られているという

 

世の中であることを

 

感じざるを得ない。

 

 

 

 

 

使えば使うほど減るもの、

 

傷むのもである

 

物や金。

 

 

 

 

 

一方で

 

使えば使うほど強くなる、

 

そればかりか

 

増えもするもの。

 

 

 

それは

 

体力であったり声であったり、

 

学力や能力、

 

 

 

それに積んだ徳と氣である。

 

 

 

 

 

泡沫(うたかた)なもの、

 

頼りないもの、

 

儚いもの、

 

崩れやすいもの。

 

 

 

それらに頼っていては

 

危険でしかたがない。

 

 

 

 

 

永遠なるもの、

 

無限の天地大自然からの

 

めぐみに感謝して、

 

 

 

これを十分に活かし

 

守られる生き方を

 

したいものだ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-01 08:14:00

" 直ると直らない。氣付くと氣付かない "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『なおるとなおらない。きづくときづかない』

 

 

 

 

 

人は身に付いた癖

 

というものは

 

なかなか直らないものだ。

 

 

 

また

 

それになかなか

 

氣付かないものだ。

 

 

 

 

 

合氣道の技においても

 

例外ではない。

 

 

 

むしろ

 

人それぞれの癖が

 

身体中から表れる。

 

 

 

 

 

4月29日に行われた

 

第26回兵庫県合氣道連盟

 

合氣道演武大会において

 

 

 

不肖私が指導する

 

お弟子さん方も

 

大いに持てる力を

 

発揮しておられた。

 

 

 

全てのお弟子さんに

 

心から拍手を送りたい。

 

 

 

 

 

各教室、道場では

 

子どもから高齢者まで

 

同じ技を繰り返し

 

稽古する中で

 

 

 

演武大会前日まで

 

直すべき点は

 

直すよう指導した。

 

 

 

 

 

そして

 

演武大会本番では

 

今までの癖を改善した人と

 

そうでない人とに分かれた。

 

 

 

 

 

ある子どもは

 

手の上げ方に

 

悪い癖があったので、

 

「もっと大きくのびのびと手を上げよう」と

 

指導したところ本番でも

 

「この手よ天に届け」

 

と言うが如く、

 

素晴らしい

 

手の上げ方をしていた。

 

 

 

 

 

また、ある子どもは

 

投げるときの顔の向きに

 

悪い癖があった。

 

 

 

本番では

 

まず左手を使って

 

相手を投げるが、

 

 

 

その時はこれまで通り

 

顔の向きは直っていなかった。

 

 

 

しかし、

 

右手を使って投げる時には

 

良い方向に

 

向くことが出来ていた。

 

 

 

これは最初は

 

今までの悪い癖が

 

出てしまったが、

 

 

 

次に思い出し

 

改善出来たのだ。

 

 

 

最初から

 

それが出来ていたら

 

もっと良かったことは

 

言うまでもないが、

 

 

 

それでも

 

直せたことは立派だ。

 

 

 

 

 

演武大会の趣旨は

 

自分の落ち着き度を

 

自分自身で知ることだ。

 

 

 

 

 

落ち着いて

 

いたからこその結果である。

 

 

 

 

 

またある者は

 

前日にはその技の特性と

 

氣の動きをあらためて理解し、

 

技が直った

 

にも関わらず、

 

 

 

本番では完全に

 

元の木阿弥だった。

 

 

 

おそらく、

 

それにすら

 

氣付いていないことであろう。

 

 

 

 

 

合氣道において

 

投げとは

 

技をかける側であり、

 

 

 

受けとは

 

投げの手を取りにいったり、

 

突きにいったりする側である。

 

 

 

技が上手くいくのも、

 

またそうでないのも

 

全て自分の責任である。

 

 

 

 

 

決して

 

受けの責任では

 

到底ありませぬ。

 

 

 

 

 

ほんの僅かな

 

氣の緩みや

 

意識の上ずりが

 

本番あらわになった結果だ。

 

 

 

 

 

私達が稽古する

 

合氣道の技は

 

天地大自然の理に適っている。

 

 

 

 

 

受けの氣を尊重し、

 

その氣を導いて

 

自分が投げたい方向に

 

投げるには

 

どうしたら良いのか。

 

 

 

 

 

それが正しければ

 

受けは喜んで

 

自分についてくるのだ。

 

 

 

 

 

何かが不足し、

 

何かが

 

正しくなかった時には

 

思うように技がかからず、

 

思うような

 

投げもできないものだ。

 

 

 

 

 

それだけのことだ。

 

 

 

 

 

全ては自分の行いの結果だ

 

 

 

 

 

「前日の受けのほうが良かった」

 

 

 

 

 

なとど言っているうちは、

 

その大切なことを見逃している。

 

 

 

 

 

 「昨日のほうが良かった」のは

 

 

 

 

 

相手ではなく自分であり、

 

 

 

正しく受けを

 

導くことが出来た結果だ。

 

 

 

それに氣付いていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

厳しいことを言うようだが、

 

これが正論だ。

 

 

 

 

 

演武大会に出場する

 

ということは

 

 

 

「今の自分」

 

 

 

というものを

 

明らかにしてくれる

 

天地大自然の配剤だ。

 

 

 

 

 

とても尊いことだ。

 

 

 

 

 

感謝すべきことだ。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-30 08:34:00

" 自ら制限を設けてどうするんだよ "

今朝も目覚めることが出来た。

ありがとう。

 

 

『みずからせいげんをもうけてどうするんだよ』

 

 

「もういっぱいいっぱいです」

「これ以上やれません」

 

自分は精一杯やっていると主張する。

 

でもどうだろう。

 

その人の顔から

達成感の欠片も

感じ取れないではないか。

 

 

本当に持てる力を

100%発揮したときには

「やりきった」という、

とても清々しい

達成感でいっぱいになる。

 

その表情からは

笑顔と

大きくて非常に強い

プラスの氣が

身体中から出るものなのだ。

 

 

私自身も過去に経験がある。

 

その一つは

合氣道三段の昇段審査であった。

 

審査基準技である

約八十の組技と

剣技十二の型を二種、

杖技二十二の型を二種

さらに六人掛けの乱取りを

何百回も稽古を繰り返した。

 

もちろん初段までの

基本技を数年間学び、

 

さらに初段から

何年にも渡る

日々の積み重ねが

あるからこそ出来るものだ。

 

 

いよいよ

やってきた三段審査。

 

やるべき技を

連続していく中で、

とても「落ち着いている」

 

という感覚を

自分自身で

はっきりと認識出来た。

 

 

それまでの

私の人生において、

 

こんなにも

「落ち着いている」という

実感というか感覚を

その時初めて味わった。

 

周りがよく見えて、

まるで

スローモーションかのような

自分の動きだった。

 

もちろん実際には

とても速い動きの連続なのだが。

 

 

場の空氣や音、

道場の全てが今、

自分が主体で

流れているような感覚だった。

 

自分で言うのも

痴がましく僭越ではあるが、

 

自分の発する強い氣が

道場全体を包みこんでいた。

 

「やるだけやった」

あとは結果を待つだけだ。

 

むしろ結果など

どうでもよかった。

 

結果より

「やるだけやった」

達成感でいっぱいだ。

 

審査結果も

師匠から三段の

お許しをいただくことができ、

とても氣持ち良い

三段審査であった。

 

 

「もういっぱいいっぱいです」

その言葉を発するなら、

君はそれくらい

出来たのでしょうか。

 

同じ

「いっぱいいっぱい」でも

私の場合は

やりきったという

達成感と自信に

満ち溢れた氣で

「いっぱいいっぱい」だ。

 

 

何が君を

いっぱいいっぱいに

しているのか?

考えたことがあるか?

 

私からみればそんなもの、

その程度で

「まだ始まってない」に等しい。

 

それにもう一つ

付け加えておく。

 

頑張るから

いっぱいいっぱいに

なるのです。

 

心身の力みが、

それ以上、

心と身体を

動けなくしているのです。

 

早くそれに氣付かねばいけない。

 

 

ストレッチや柔軟体操を

するときは力を抜くから

可動域が広がるでしょ。

 

同じように

頑張ること、力むことを

全て完全に放棄すれば、

 

その域に

達することが出来るのだ。

 

 

要は

正しいリラックスを学び、

実践することです。

 

 

「まだまだ」

「まだいける」

 

君の力はその程度ではない。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝

2024-04-26 07:45:00

" 人はあっという間に死ぬ。ではどうする "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『ひとはあっというまにしぬ。ではどうする』

 

 

 

 

 

永い宇宙の歴史の中で

 

私達が生きる時間は、

 

ほんの一瞬です。

 

 

 

天地大自然の営みの中では

 

私達人間など

 

朝に生まれて

 

夕に死んでいくようなもの。

 

 

 

 

 

人として

 

生まれたからには

 

必ず死ぬものです。

 

 

 

 

 

これが真実であります。

 

 

 

 

 

それならば

 

 

 

一日生きれば

 

一日の儲けであり、

 

一年生きれば

 

一年の利益です。

 

 

 

 

 

従って、

 

私達が生きている

 

時間も場所も

 

わずかの間の

 

仮の世であり、

 

わが身も仮の身。

 

 

 

 

 

死後の世界がどうとか、

 

輪廻転生とか、

 

死にもしないで

 

何とも言えない。

 

 

 

あるのかも知れないが、

 

それは自分が死んでから

 

明らかになるものである。

 

 

 

そう私は考えます。

 

 

 

 

 

この世は仮の世であり、

 

この身は仮の身。

 

 

 

もとのあるじは

 

天地大自然です。

 

 

 

 

 

この身に付けた

 

全てのものも、

 

いつか天地大自然に

 

お返ししなければいけない。

 

 

 

 

 

もう充分すぎるほど

 

与えられている。

 

何も不自由なく足りている。

 

 

 

 

 

そう思うと

 

生きることが楽になる。

 

 

 

 

 

永遠に自分のものに

 

なるものなど

 

何一つ無いのなら、

 

 

 

やるべきことは

 

自然と分かってくる。

 

 

 

 

 

この身を

 

天地大自然に

 

お返しするまでの、

 

 

 

ほんの僅かな間を

 

一生懸命に

 

世のため人のため、

 

 

 

仮の世である日本と

 

もとのあるじである

 

天地大自然のために

 

益になることだけに勤める。

 

 

 

 

 

自分の得意分野で

 

心身の病んでいる人を

 

一人でも元氣になれるよう

 

導けたら、

 

 

 

 

 

びくびくしている臆病者を

 

一人でも活き活きとした

 

日常を送れるように

 

導けたら、

 

 

 

 

 

たとえ微力であっても

 

それだけを

 

日々の勤めとして

 

願い怠らない。

 

 

 

 

 

これが私流の

 

一番楽な生き方で

 

天地の大道でありまする。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-25 08:18:00

" 尊ぶ先に平和がある "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『たっとぶさきにへいわがある』

 

 

 

 

 

平和とは、

 

世界の国々がお互いに

 

相手の国を大切にすることだ。

 

 

 

 

 

自国の歴史と

 

文化風習に誇りを持つ。

 

 

 

それを愛国心というのだ。

 

 

 

 

 

自国に誇りを持てば

 

他国も同じだ。

 

 

 

他国の歴史、

 

文化風習も尊重する。

 

 

 

 

 

自国のことは何も知らない。

 

 

 

外国人に

 

「日本とはどんな国ですか」と

 

質問されて

 

何も答えることが出来ない。

 

 

 

日本人が

 

即答出来なくてどうする。

 

 

 

 

 

「日本は神話から地続きで実に2000年以上の悠久の歴史がある国です」

 

 

 

紀元前660年に

 

初代神武天皇が

 

即位された年から

 

日本という国が始まった。

 

 

 

西暦2024年、現時点で

 

2684年の歴史がある。

 

 

 

これが「皇紀」という

 

日本のオリジナルカレンダーです。

 

 

 

 

 

それに加えて

 

 

 

「初代神武天皇から父系一系で今上陛下まで126代続いている皇位継承。これが世界に誇れる日本という国です」

 

 

 

私ならそう即答する。

 

 

 

 

 

自国のことも誇れず、

 

どうして他国を

 

尊重出来ようか。

 

 

 

 

 

もっと分かりやすく例えると、

 

 

 

自分のことは、

 

大切にしないで、

 

相手だけを大切にする。

 

 

 

そんなこと

 

出来るのでしょうか。

 

 

 

それは身のまわりの

 

生活を考えれば分かる。

 

 

 

 

 

友達と悲しくつまらない

 

喧嘩をしないためには、

 

 

 

相手に何でも合わせたり、

 

相手の言いなりに

 

なったりするのではなくて、

 

 

 

むしろ自分というものを

 

しっかり持って

 

氣を出して

 

人と接していたら、

 

 

 

周りも

 

あなたを認めて、

 

おかしな喧嘩は起きない。

 

 

 

これを抑止力というのです。

 

 

 

 

 

個人間でも

 

国家間でも

 

同じことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝