" 清々しい夜明け "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『すがすがしい よあけ』
10月の満月は
「ハンターズムーン」と
呼ばれるらしい。
2024年 10月17日の満月が
一年で最も大きい満月である
スーパームーンだ。
昨日10月16日
兵庫キャナルタウン
合氣道教室での稽古を終え、
空を見上げると、
ほぼ真ん丸の綺麗な
お月さまを見ることができた。
道行く人々が
スマホで写真を撮っている。
私も「撮ろうかな」とも
思ったが、
スマホだと限界があるよね。
それよりも
数秒立ち止まって、
空を眺めることにした。
綺麗なお月さまを
しっかりとこの目に
焼き付けた。
そして
今日も午前4時前に起床した。
カーテンを開けると
オレンジ色をした
真ん丸の大きな満月が
西の空に沈みかけていた。
ベランダに出て
僅か3分ほどで
西の山の向こうに
完全に沈んでいった。
沈みゆく満月を見ながら、
今もこうして
生かされていることに
感謝した。
今現在もこうして
天地大自然は流転し、
太陽を中心とした
地球の自転と公転、
月の自転と公転。
瞬時も止まらず、
正確に厳然と行われる
天地大自然の営み。
これにより
私達は生かされている。
起床してすぐ
こんな綺麗なお月さまを
眺めることができて、
今日もこうして
生きることができている。
それに感謝だ。
とても清々しい夜明けだ。
私達はこのように
生きているだけで
幸せなんだ。
何もかも天地大自然から
護られているのだ。
人生を良くするのも
悪くするのも、
自分の心のあり方次第だ。
このオレンジ色をした
ハンターズムーンは
写真に残そう。
一眼レフカメラで
撮りたかったが、
まだ家族は爆睡中だ。
一眼レフは家族の寝室にある。
眠りの邪魔は出来ないから、
スマホで撮ってみた。
でもやっぱり、
違うんだよな。
目で見たオレンジ色は
スマホでは表現出来ないわ。
今日10月17日
午後8時26分に
満月を迎える。
2024年で
いちばん大きく見える
満月「ハンターズムーン」に、
願いを込めてみるのも
良きかな。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" できるは賢ではない、つづけるが賢である "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『できる は けん では ない、つづける が けん で ある』
何事も続けてやる。
飽きることなくやり続ける。
倦まず弛まず、
一つのことを
やり続けることができる人。
それは素晴らしい
才能であると思う。
そういう人からは
たくさんの学びがある。
そういう人こそ、
一生涯付き合う
価値のある人だと思う。
「以前に習ってました」
これはすぐ辞める人、
一つのことを継続する
根氣のない人である。
一方で、
「今も続けてます」
という人は伸びる人。
人を選ぶときの
一つの基準にもしたい。
後者こそ
大切にしたい人である。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 真理を悟れば、弱者は強者になる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『しんり を さとれば、じゃくしゃ は つわもの に なる』
" 氣が強い " の反対は
" 氣が弱い " である。
「あの人は氣が強い」とか、
「あいつは氣が弱い」とか、
あたかもそれが、
その人の性格で
あるかのように
言われることがある。
私も合氣道を学ぶ前までは、
同じ様に思っていた。
子どもの頃、
周りからも
「お前は氣が弱い」と
よく言われたものだ。
私は " ここ一番 "という
大事な場面で
力を発揮できない人だった。
周りの言う通り、
「氣が弱い人」だった。
氣が強い人が羨ましかった。
どうしたら
氣が強い人に
なれるのだろうか?
昔は
そんな事をよく考えたものだ。
それが一転したのは、
合氣道に出会ってからだ。
藤平光一翁のご著書には、
" 氣に強いも弱いも無い "
" 氣は氣である "
それは性格のような
ものではなく、
氣を強く出せる人のことを
「氣が強い」と言い、
氣を弱くしか
出せない人のことを
「氣が弱い」と言う。
と記されていた。
また、その上で
元々、氣が弱い人が
一度、氣を強く出すことを
覚えたら、
元々、氣が強い人より
さらに氣が強い人になる。
そのように記されていたのだ。
この教えは、
当時の私にとって、
まさに「青天の霹靂」であった。
そうか、
誰でも氣は強く出せるのか。
誰でも氣は出そうと思えば、
いくらでも強く出せるんだ。
この簡単な
天地大自然の真理を
悟ってからは、
日々、氣を強く出すことを
実践した。
「自分は氣が出ている」と
強く思えば、
実際に出ているのだ。
「これを活用すれば、道行く人とぶつからない」
藤平光一翁のご著書には
そうも記されていた。
そうと分かれば、
早速実践あるのみ。
最初の実践には
もってこいの
クリスマスの日だった。
12月25日の
神戸三宮から元町までの
神戸三宮センター街の通りは
クリスマスで凄い人混みだ。
なんという幸運だ。
これも天地大自然が
用意してくださった、
尊いご縁である。
氣の出し方は
師匠である
琴地 茂先生から
直接教わっている。
人混みの
神戸三宮センター街に
氣を引くことなく、
この商店街のど真ん中が
天地の大道なんだ、
そう強く思って、
そのど真ん中の道に
まるでレッドカーペットが
敷かれてあるかのように、
終点を元町と定め、
終点の元町まで
臍下の一点から
氣を出して歩いた。
一切、氣を引っ込めず
出しっぱなし、
放りっぱなしで
悠々と、
三宮センター街の
ど真ん中の
レッドカーペットの上を歩いた。
それは始めての不思議な体験だった。
本当に道行く人が
自ら道を開けてくれるのだ。
すれ違う誰とも
全くぶつからないのだ。
藤平光一翁のご著書に
書かれていたことは本当だった。
実践して初めて分かった。
元町までたどり着いた時には
冬にも関わらず、
全身汗だくで、
元町の大丸前のベンチに
座り込むほど、
氣を消耗したのだ。
それは無理もない、
今にして思えば
氣を出そうと
身体中を力ませていたのだ。
決して、
正しい氣の出し方ではなかった。
正しい氣の出し方は
正しいリラックスなのだから。
然は然り乍ら、
「自分は氣が出ている」と
強く思った、
その身体中から出た
強い思いが、
強い氣となり、
道行く人は
それを感じ取り、
自ら道を開けてくれたのである。
その時、私はそう確信した。
それから12年、
今も道を歩く時は続けている。
これまでの間、
続けて実践して
天地大自然から学んだことは、
すれ違う目の前の人だけを
見て歩くと、
その目の前の人と
ぶつかることがあるから、
要注意であるということだ。
また、「絶対に道を譲らないぞ」
では決してありませんので、
誤解なきよう。
少なくとも
10〜20メートル位、
先を見て歩くのです。
すると10〜20メートル先まで
氣は出ています。
その結果、
10〜20メートルの範囲内で
すれ違う人は
必ず、道を開けてくれます。
もし、
ぶつかりそうになった時は
自分の氣が弱いのです。
また、
ぶつかりそうになった時は
氣を引くのでなく、
前方に氣をより強く
出しながら、
少し、横に寄るなどして
すれ違う相手を
かわしましょう。
これを通学、通勤に
活用すれば、
どんどん氣は強くなります。
元々、氣が弱かった
私が、
一旦、強く氣を出すことを
覚えれば、
そこらの人より
数段、
氣が強い人に
なったことは事実でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 持つと持たされる "
今朝も目覚めることができた
ありがとう。
『もつ と もたされ る』
両手に物を持てば、
もう何も持てません。
朝食で
左手にコーヒーのマグカップ、
右手にトーストを持てば
テーブルに置いてある
バナナは持つことが出来ない。
コーヒーかトーストの
どちらかを
テーブルに置かねば、
バナナは食べることが出来ない。
両手に食べのもを
持っている間は
両手の自由が失われ、
その他のものとは
一切、縁が切れる。
一切のものとの
つながりが絶たれる。
持っているものを
放さない限り、
新たなご縁は結べない。
自由自在の手の働き、
いろいろなものと
自由自在に
ご縁を結ぶには、
執着しないことと
天地大自然のお許しがいる。
自らの意思でものを持つ、
それは掴んで持ったのである。
そこに執着が生まれる。
一方で
天地大自然のお許しで
持ったものには
何の執着もないのだ。
天地大自然のお許しで
持つものとは、
例えば、
手や足や口や目や耳などを
持ったまま、
飛行機に乗って
地球の裏側まで
何十時間の間、
座席で放りっぱなしで眠っても、
取り替える必要はない、
誰から盗まれるわけでもない。
持っていること自体、
忘れているから、
そこに執着など
あるはずもない。
それは天地大自然の
お許しがあって
持っているから、
持つ必要があって
備えられているからなのですね。
つまり、
持たされて持っていることと、
掴んで持つこととは
大きな違いがあるのです。
人と争い、
人を蹴落としてでも
掴んで持つ。
たとえそれが、
生きていくためであっても、
家族のためであっても、
子どもを養うためであっても、
社員の生活のためなどで
あったとしても、
それは、
災難や不幸と
縁を結ぶ持ち方です。
それとは逆に、
日々の行いにより
それと釣り合うだけの
徳があるのなら、
地位も名誉も富も、
いくらでも持つことができる。
天地大自然から
持つことを許される。
世のため、人のために
自分にできることを
人知れず、精一杯に
ひたすら徳を積む。
天地大自然に許されて
釣り合いのある持ち方をする。
これこそが、
正しい物の持ち方であり、
正しい生き方ではあるまいか。
近年、連続強盗事件が
各地で起きている。
同一犯罪グループが
闇バイトを募り、
起こした事件と
連日報じられている。
この場合、
目先の金欲しさに
SNSを通じて、
闇バイトに応募する。
それは将来の
不幸と災難との
縁を結ぶこととなる。
これは一目瞭然である。
然は然り乍ら、
狙われ被害に遭った
貴金属店や個人の家宅にも
不徳があったのではなかろうか。
釣り合わない物や金を
掴んで持ったために
不幸や災難との
縁を結んだのではあるまいか。
天地大自然に
許されて持った
富や財であるなら、
そのような
凶悪な災難とは
不縁であるはずである。
いつも
天地大自然は
誰に限らず
公平、平等だ。
今日も
持たされたものだけ
持つようにしよう。
自分と釣り合うものだけ
持っていよう。
今日も一日、
世のため、人のために
徳を積もう。
天地大自然と結ぶべき縁。
それは
幸せになるご縁、
嬉しくなるご縁、
楽しくなるご縁、
家族が喜ぶご縁、
子ども、孫も喜ぶご縁、
周りのみんなが喜ぶご縁、
何より尊いご縁を
結ぶことが大切でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 再びすれば斯に可なり "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ふたたび すれ ば ここ に か なり』
論語に
" 再びすれば斯に可なり "
という言葉がある。
一度きりではなくて、
もう一度検討すれば良い、
という意味である。
この毎日のプログの
書き込みも同様に、
一度、書き込んだ後で
少し時間をおいてから、
もう一度、読み直して
訂正したり、
更に加筆すると
全体が良くなる。
文章を十分に考え、
練りなおす。
この作業を
推敲 (すいこう) という。
何事も
やりっ放しにしない。
合氣道も同じだ。
習った技も
その場限りに
していてはいけない。
稽古が終わって、
自宅に帰れば
まだ覚えているうちに、
相手がいなくても
一人で反復練習してみる。
これが上達の
初歩的な秘訣だ。
一度で終わらず、
再びやってみる。
再び考えてみる。
「 再び 」というのは
何事においても
伸びる、
上達する、
その大切な要素でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝