" 行くに径に由らず "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『いく に こみち に よらず』
指導者育成稽古を終え、
8月の東京出張
全ての稽古を終了した。
東京駅まで
お弟子さんが車で
送ってくれることになった。
都心での移動は
電車が便利でスムーズだが、
4人のお弟子さん方が
見送ってくれるというので、
ありがたく
車に乗せてもらった。
けっこう道が渋滞している。
それでも
空いている方だと、
お弟子さんは言う。
乗車する新幹線の
時刻までには、
まだまだ余裕があるので、
安心して都心の街並みを
眺めていた。
助手席のお弟子さんが
「けっこう混んでるね、抜け道ないの」
運転しているお弟子さんが
「うん、結局ね、このまま走ったほうが良いんだよ」
そういう会話を
聞きながら、
「なるほどな」と思った。
抜け道はあるにはあるが、
結局、到着時間に
それほどの差はない。
ましてや、
抜け道は細く、
走りにくく、危険も多い。
動かないほどの
大渋滞なら
話は別だが、
この5車線の大通りを
走行するのが、
正解ということだ。
多少、
混んでいるように
見えても、
実は大した
渋滞ではないのだ。
『 行くに径に由らず (いくにこみちによらず) 』
という論語がある。
道を行くときは
少しばかり、
遠回りをしても
大きな道を
行きなさい、
という戒めの言葉だ。
『大道を行け』ということだ。
人生、生き方、
何事においても、
これと同様に、
人に隠れて
陰でコソコソと
裏道など行くのは
良くない。
一時的に
利益を手にして、
成功したかのように
思うことも
あるかもしれないが、
所詮は、
裏道、抜け道でしかない。
何事も、
堂々と大道を
歩きたいものだ。
天地の大道の
ど真ん中を
大手を振って、
この先も
歩まねばなりませぬ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 人が教えてくれる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ひと が おしえて くれる』
8月の終わり、
久しぶりに
ラーメン屋に入った。
そのお店は
細麺の博多ラーメン屋さんだ。
自宅からは
少し離れた場所にあるが、
近くに用事があったので、
帰りに寄ってみた。
「いらっしゃい」
「あっ、久しぶりやん」
そのお店の店長とは
顔見知りだ。
うん、
やっぱり、
細麺の博多ラーメンは
美味い。
スープに高菜漬けを
混ぜたら、
これがまた旨い。
帰りのレジで
お金を払う。
「美味しかったわ」
「ありがとう。また寄ってな」
「あ〜あ、白いTシャツに」と
店長の女性の視線が、
私の胸の辺りにあったので、
見てみると、
やらかしてしまった。
スープが白いTシャツに
飛んでいた…
やはり、
汁物を食べる時は
白い服はやめたほうが
いいですね。
これ教訓ですね。
人間は自分のことは
なかなか氣付かない。
でも、他人のことなら
すぐに氣付くものだ。
合氣道の組み技もそうだ。
いつも相手が教えてくれる。
力が入ってますよ。
方向が違いますよ。
自分の姿は見えない。
でも人は自分の姿は
よく見える。
見えるからこそ、
忠告してくれるのだ。
その忠告には
感謝しなければ
いけないのでは
なかろうか。
いつも
人が教えてくれる。
そして
天地大自然が
「己の姿をよく見ろ」
そう教えてくださって
いるのではないだろうか。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 結ぶ縁と結ばれない縁 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『むすぶ えん と むすばれ ない えん』
太陽は天空遥かにある。
地上には
草も木も川も海も
そこで育つ
生きとし生けるもの
全ての生命がある。
太陽と
全ての生命の
間にあるもの、
それを
つなぐ役割りを
果たすもの、
それが太陽の光だ。
つまりパイプ役になるのだ。
その太陽の光が
あるから
全ての生命が生かされる。
私達、人間の身体で
例えるなら、
足に肉離れを起こし、
筋肉が断裂したり、
神経が断裂すると
たちまち、
足はブラブラになり
歩くことすら
できなくなる。
何の役にも立たなくなる。
筋肉が再生するまで、
神経がつながるまで、
一時的に
その患部とは
縁が遮断されるのだ。
海に行けば
寄せては返す
波の音を聞け、
癒やされるが、
山に行けば
波の音は聞こえない。
サーフィン旅で
奄美大島に行った時、
1月というのに
セミが鳴いていた。
とても驚いた。
宿泊先のペンションの
オーナーに尋ねる、
「まさか…これってセミの鳴き声ですか」
「そうだよ。内地では鳴かないの」と返答された。
1月でも奄美大島では
セミの鳴き声が聞けるが、
本土にいては聞こえない。
波の音と
それを聞く人、
セミの鳴き声と
それを聞く人、
音声、音響、
響き、サウンド、
その両者の間には
音波が縁を結んでいる。
当然、
距離が離れていては
その音波は届かないのだ。
合氣道の組み技も
全く同様だ。
相手との
適切な距離がある。
離れすぎては
相手を投げることが
できなくなるのだ。
相手と自分の
間に存在する縁。
「 結びの縁 」
この世は全て
この結びの縁で
つながっているのでは
ないだろうか。
生命にしても
雄、雌、
男性と女性。
この両者があるから、
過去も、現代も
未来もある。
そのつなぎ役である
縁を大切にする。
そのためには
自分から相手に
寄っていかねばならない。
相手から寄ってくるのを
待っていたのでは、
永遠に
縁は結ばれない。
その結ばれない
縁の原因が、
頑固であり、
私利私欲であり、
わがままであり、
傲慢であり、
四角い心の持ち主だ。
素直な
丸い心の持ち主は、
いつも縁に恵まれて
幸運も寄ってくるが、
これらと
縁を切ったものには
幸運は逃げていく。
これが幸せとも
縁を切ることに
なるのではないかな…
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 持ったままでは掴めない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『もった まま では つかめ ない』
人間の手は
左右に二つある、
これを両手という。
両手にものを持ったら
もう何も持てない。
何か違うものを
持とうとすれば、
どちらか一方の
持っているものを
放さなくてはならない。
身体に病みがある。
そして、
心まで病んでしまうことを
病氣という。
身体に故障があっても、
心まで病んではいけない。
それでも人は病氣になる。
その病氣の人が
行くところには
必ず病氣は一緒に
ついて動く。
病院にかかる。
担当した医師は
その病氣を治療する。
しかし、
医療と薬だけでは
なおらない場合がある。
その場合、
病氣よりも
病人をなおす、
その人間そのものを
なおすことが大切だ。
人間修業を
しなければならない。
別に偉そうに
大層なことを
言うつもりは全くない。
私などは、
まだまだ未熟者であり
修行中の身だ。
未だ二流、三流である。
しかし、
常に人として向上し、
世のため、人のために
役立つ人間でありたい、
その志で、
日々行動している。
人として一流を目指す。
「我、天地大自然とともにあり」である。
話を元に戻そう。
冒頭で触れた通り、
両手にものを持てば、
もう何も持てない。
それでも、
持とうと思えば、
どちらかの手を
放さねばならないのだ。
不要なものを
両手いっぱいに
持っていては、
それ以上何も持てないのだ。
不要なものは
さっさと手放して
しまえば良いだけなのだが、
愚かなことに、
その不要なものを
不要とは思っていないから、
手放すことが
できないで
苦しむ人がある。
なんとも
お氣の毒なことなのだが、
まず、自分自身が
不要なものを
持っていることに
氣が付かねばいけない。
それに氣付いたら、
「何故、その不要なものを持たされているのか」
それを考えねばいけない。
私たちが住む
この世界は、
全て天地大自然により
差配されている。
生きとし生けるものは、
これに絶対に
逆らうことも
拒否することも
できないのだ。
必要なものは
与えられるが、
不要なものは
取り上げられる。
その時、
私たちの意見など
聞いてもらえない。
全く容赦などない。
ここに寝たきりの
人がいるとする。
寝たきりの理由は
例えば、足の怪我だとしよう。
決して、グウタラして
寝ているわけではないのだ。
しかし、
一歩も歩かなかったら、
足腰はみるみる弱ってくる。
使わぬなら要らぬ。
取り上げよう、という
ことになってくるのだ。
私たちには、
元々、
目も、耳も、鼻も、口も、
手も、足も、備わっている。
誰に頼んだ
わけでもないのに、
母の胎内で
すでに備わっている。
人間には
それらが必要だから、
天地大自然が
備えてくださったものだ。
必要なものは
全て、天地大自然が
与えてくださる。
そうであるなら、
両手に持った、
不要なものでも、
天地大自然からすれば
必要だから
与えてくださっている、
ということに
なるのではあるまいか。
大切なことは、
必要がある間は、
それを決して
お断りできない、
ということなのだ。
そうであるなら、
与えられる
必要のない姿に
早くなることだ。
それしかないのだ。
病氣にはなりたくない、
不要なものなら、
早く手放したい。
いくらそう願っても
私たちの勝手にはならない。
必要のある間は、
与えられるから、
まず、それを受け入れて
自分の姿を
よく見てみることだ。
自分の考え方や、
心のあり方を
反省することであると思う。
病氣や怪我という、
一つの患部をなおすことも
大切なことであるが、
その病人の
心のあり方をなおすこと、
その生き方、人生観を
正しく、明るく
変化させること。
それが大切であると
教えられているような
氣がしてならない。
己から出たものは
必ず、己に返るのだ。
力強く走った者には
力強い足腰が与えられる。
人のために
声をよく出す者には
良い声がのこる。
出すものが与えられる、
これが真理であると思う。
明るい心、
感謝の喜び、
プラスの氣、
それを出すことが
大切なのだ。
しかし、
それを今は自分自身で
持ち合わせてない者は、
良い芸術や文化に触れ、
明るさや、感謝や、尊ぶ心を
引き出してもらわねばならない。
また、そのような人に
指導してもらわねば
氣付けないことも
あるのではないだろうか。
合氣道における
稽古というのも、
その役割を果たすこと。
それが道場にあるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" お互いにの愚かさ"
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おたがいに の おろかさ』
お互いに
力を合わせて
がんばりましょう。
私は
" がんばる " という
言葉は使わないが、
まぁ、
世間では
よく使われる言葉だ。
今朝は
「お互いに」という
言葉について、
少し考えてみたいと思います。
お互いに
しっかりやりましょう。
「お互いに」
よくお互いにという。
お互いに
両者、両方から
歩み寄り
お互いに助け合う。
とても
きれいで、
社会の理想のような
姿ではあるが、
そこに矛盾は
ないだろうか。
お互いに歩み寄る、
その両者、両方が
お互いに歩み寄ることを
待つという、
愚かさを考えたことが
あるだろうか。
歩み寄りを待つより、
自ら歩み寄るほうが
正しいのではないだろうか。
私は毎朝、
豆乳かコーヒーを飲む。
今朝もこの執筆作業を
しながら、
コーヒーを飲んでいる。
もう何十年も使っている、
とても愛着のある
青いマグカップで
コーヒーを飲んでいる。
しかし、
今朝も、
これまでの何十年間も
そのマグカップの方から
歩み寄ってくれた
ことは一度もない。
いつも
私の方から
マグカップに手を近づける。
そして、握る、持つ。
そこでようやく、
美味しいコーヒーを
いただけるのである。
いつも
私の方から
手を伸ばす一方だ。
その後に
マグカップを
自由に使うことが
できるのだ。
自分とマグカップ、
この両者の間では
いまだかつて、
1ミリの歩み寄りも
一度もない。
待っていても
相手は寄っては
来てくれないのだ。
18回行った
インドネシア、バリ島も
私の方から
近づいたから、
サーフィンも
ウブドの景色も、
ケチャダンスも見れ、
ナシゴレンも食べ、
ビンタンも飲めたのである。
いつも
私の方から
歩み寄ったからだ。
待っていては、
自ら歩み寄らなければ、
いくら行きたくても、
あこがれても、
バリ島のほうから
近寄ってはくれない。
たとえ、
1キロでも距離が
近づくことは
絶対にないのだ。
これを教訓に、
しなければ
いけないのでは
ないだろうか。
私達に起こる
不幸も、
災難も、
困難も、
怪我も、
病も、
すべて、
先方から
やってくるのではない。
全部、
自分から
近寄っていくのだ。
必ず、
近寄るのは
自分自身である。
その両者、
両方を
結ぶのが、
縁である。
いつも
肝に銘じて
おかねばいけない。
天地大自然の
絶対的法則である。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝