" 語彙力を高める "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 末候
七十二候
雉始雊 (きじはじめてなく)
第六十九候
1月15日~19日頃までは小寒の末候にあたり、雉(きじ)のオスがメスを求めて、甲高い声で鳴くころです。
今日のお題
『ごいりょく を たかめる』
" 語彙 " とは、
その人が知っていて
使える言葉のことです。
" 語彙力 " は簡単に言うと、
知っている言葉の数と、
それらの言葉を
使いこなす能力のことです。
具体的には、
たくさんの
言葉を知っていて
言葉の意味を正しく
理解している。
状況に合わせて
適切な言葉を選び、
言葉を使って
自分の考えを
相手に伝えられる
といった能力です。
" 語彙力 " が高いと、
表現が豊かになり、
自分の考えをより的確に
相手に伝えられます。
また、
難しい文章も
理解しやすくなり、
コミュニケーション能力や
思考力や創造力も
高まります。
特に氣になるのが、
若い人達が話す言葉です。
「やばい」や「うざい」、
「キモい」とか「だるい」、「エグい」
そのような
限られた言葉しか
使ってないように感じます。
いつでも簡単に使えるから、
その言葉で
相手に通じるから
といって、
日々、決まった言葉だけで
過ごしていると、
自分の思いや
考え、感情も
決まった言葉でしか
表現できなくなってしまいます。
語彙力を高めるには、
とにかく
小さな子どものうちから
たくさんの本を読むことです。
小学生の間に
たくさんの本を読み、
" 読書をする " という
習慣がない人は
語彙力が高まらない、
ということを
聞いたことがあります。
私は子どものころ
読書が嫌いで、
全く本を読みませんでした。
たくさんの本を読むように
なったのは、
40代になってからなのです。
従って、
私の場合は
" 語彙力 " を高めることは
もう手遅れなのです。
このブログも
月曜から金曜まで
毎朝、執筆していますが、
表現する言葉が
出てこないのです。
自分の" 語彙力 " の無さを
痛感する毎日です。
「こんなことなら、子どものころに本を読んでいれば良かった」
過ぎ去った日々を
取り戻すことはできません。
しかし、
嘆いても仕方ありません。
今からでも
少しでも" 語彙力 " を
身につける努力をする
しかないのですね。
" 語彙力 " を高めるには
語源を学び、 辞書を引き、
色々な言葉を
言い換えてみることです。
言い換えることで、
色々な表現の仕方が
身についてきます。
毎日、
少しずつでも
積極的に色々な言葉に
触れるように
心がけることですね。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 刻石流水 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 末候
七十二候
雉始雊 (きじはじめてなく)
第六十九候
1月15日~19日頃までは小寒の末候にあたり、雉(きじ)のオスがメスを求めて、甲高い声で鳴くころです。
今日のお題
『こくせきりゅうすい』
受けた恩義は
どんな小さくても
心の石に刻み、
忘れないようにしよう。
人に施したことは
水に流し、
忘れてしまおう。
人からいただいた愛は
決して
忘れないようにしよう。
人に与えた愛は
忘れてしまおう。
なぜなら、
それはその人への
自分からの贈り物だ。
その贈り物は
もう、
その人のものであって、
自分のものではない。
人からもらった
形あるもの、形ないもの
全てに感謝して、
自分が与えてあげたものは
何もかも
きれいさっぱり手放そう。
人間は
人から受けた恩には鈍感で
してもらったことを
忘れてしまいがちだ。
一方で、
誰かにしてあげたことは
ほんの小さなことでも
いつまでも
覚えているものだ。
「誰かのためにしてあげた」とか、
「あの人のためにやってあげた」と
よく言いますが、
本当のところは
「自分が勝手にしてあげた」
だけのことではないだろうか。
自分が勝手にしたことなら、
その相手に
見返りを求めることは
おかしなことである。
人から受けた恩は
心の石に刻み、
人にかけた情は水に流す。
それなら、
「させていただいてありがとう」と
感謝の言葉しか、
出てこなくなるのではないだろうか。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 心を無視してはいけない "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 次候
七十二候
水泉動 (しみずあたたかをふくむ)
第六十八候。
1月10日から1月14日頃までは小寒の次候にあたり、地中で凍っていた泉が動き出すころです。
今日のお題
『こころ を むし して は いけない』
人間の
「心と身体」の関係とは、
切ることができず、
離すこともできない。
「心と身体」を
川に例えると、
水が上流から
下流に流れるように
上流すなわち川上は
" 心 " にあたる。
一方で、
下流である川下は
" 肉体 " にあたるのだ。
そういうことに
氣付かないから、
川下である " 身体 " ばかり
氣にして、
鍛えたり、労ったりする。
どんな名トレーナーに
鍛えられようが、
どんなに素晴らしい
名医にかかろうが、
どんなに良いストレッチを
毎日しようが、
身体は
決して強くもなれない、
柔らかくもなれない。
心が弱い間は
身体も弱いのだ。
心が硬い間は
身体も硬いのだ。
それを
分かろうとしない
考えようともしない人は、
身体に病が出てくれば
一目散に病院に行く。
それ注射だ、やれ薬だ。
それでもって入院だ。
仕事も休むは
氣を出すことも忘れるは、
それ温泉療養だ、
あれこれ手を尽くして
何も効かなくなると、
お札だ、お守りだ、
お坊さんだ、
神社だ、寺だ。
慌てふためき、
やがて本当の
「病氣」のなるのだ。
なんとも、
お氣の毒な
哀れな人になる。
こういう人、
ほんと多いですよ。
これまで
たくさん見てきた。
本当に身体が丈夫に
なりたかったら、
まず、
心を鍛錬することです。
川上を毎日、
綺麗に掃除するから
川下は自然に綺麗になるのだ。
手を付けるところが
間違っているんだよ。
それが分かれば、
心というものは
どんな状況下にあろうと、
いつも積極的で
なければならないことに
氣が付くだろう。
消極的な心は肉体にも影響する。
あなたが
賢者であるなら、
一日でも早く
これに氣付き、
あらゆる事において
心を主体に考え、
行動するべきでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 必ず自分に返ってくる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 次候
七十二候
水泉動 (しみずあたたかをふくむ)
第六十八候。
1月10日から1月14日頃までは小寒の次候にあたり、地中で凍っていた泉が動き出すころです。
今日のお題
『かならず じぶん に かえって くる』
言葉というものは
一度発すると、
遥か宇宙にまで飛んでいく。
そして、
忘れた頃に
自分のところに返ってくる。
しかも、
その言葉を発してから
相当な時間が経過した分、
とても大きく
成長して返ってくる。
さらに、
その仲間まで
連れて返ってくるのだ。
自分の発した言葉が
きれいな言葉、
積極的でプラスの
良い言葉だったら、
そういう仲間が
そこに集まって、
もっともっと
良い言葉となって帰ってくる。
そして
自分を幸せにしてくれる。
一方で、
自分の発した言葉が
悪い、汚い、消極的な
マイナスの言葉だったら、
そこにも
そういう仲間が集まってきて、
とても大きくなって、
たちの悪い仲間まで
連れて帰ってくる。
その結果、
自分が傷付けられる。
そして、
言葉というのは、
一度発したら、
遥か大宇宙に刻まれる。
これは
絶対に消すことが
出来ないもので
必ず、事実として
大宇宙に印字される。
自分の口から出た言葉は
言ってしまえば消えない。
口に出した後、
いくら後悔しようが
反省しようが、
決してゼロには
ならないのだ。
その事実は事実として、
永遠に残り続ける。
私達人間には、
どうすることも出来ない
天地大自然の
厳然たる大法則が
そこには実在する。
従って、
もし、たとえ不注意にも
消極的な悪い言葉を
発してしまったら、
きれいな言葉や
相手が喜ぶ積極的な言葉を
その何百倍も発して、
刻まれてしまった
消極的な言葉を
覆い隠すことくらいしか
できないのだ。
一度、
発してしまった言葉は、
もう絶対に消えない。
どんな言葉も。
そして、
いずれ自分に
それ以上のことが返ってくる。
良いことであっても
悪いことであっても。
私はもう
何千回とそれを経験した。
だから、
自分が誰かに
傷つけられたとしたら、
「あぁ、遥か大宇宙から返ってきたんだな」と
思わなければいけない。
いくら
自分を傷つけた相手が
100%悪いと思えるような
出来事であっても、
その相手に
怒りの言葉を
ぶつけてはいけない。
それをしてしまえば、
また巡り巡って
その何百回のことが返ってくる。
自分に返ってきた時点で、
それは一つの解決なんだ。
一つの因縁が
清算されたということだ。
「これくらいで済んで良かった」と
感謝しなければいけない。
一つの因縁を
解決してくれた
相手にも
「ありがとう」と
感謝しなければいけない。
また、
自分の言動を
「正しなさい」と
教えてくれた
天地大自然にも
大きな感謝をしよう。
それが分かれば、自分は変われる。
幸せになりたければ、
消極的なマイナスの言葉は、
しゃべっちゃいけないのだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 恥ずかしくないのかい "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 初候
七十二候
芹乃栄(せりすなわちさかう)
第六十七候。
1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。
今日のお題
『はずかしく ない の かい』
一つ前の
このエントリーにも
関連することですが、
神社でのマナーや
礼儀作法を知らない人が
多いですね。
見ていても
「非常にみっともない」ですね。
" 初詣 " や " えべっさん " に
家族で参拝する人も多い。
小さな子どもを連れた
親が情けない。
恥ずかしい。
参拝作法を知らない。
そんな親の子どももまた、
そんな親になるのだ。
参拝作法くらい
今の時代は、
ネットでいくらでも
検索できるだろう。
子どもを連れて
参拝するなら、
それくらいは
身に付けてから行けば?
神社の鳥居には、
ここから中は
神様の領域であることを
示しているのです。
従って、
一礼してから
鳥居をくぐるのが
参拝作法です。
また、
参拝を終えて
神社を出る時も
向き直って一礼するのが
当たり前です。
その神の領域に入るのに
一礼もしないで入る
おバカさん。
そのような人は
他人の家を訪問する時も、
ズカズカと傲慢な態度で
上がりこむのだろうね。
先日、
生田神社に参拝した。
予想通り、
初詣で混んでいた。
参拝するには
列に並ばなければ
いけない。
神社では
真ん中は神様が
通る道とされていますから、
境内では端を
歩くのが作法です。
しかし、
参拝の列は
境内の真ん中にもあるのです。
まあ、
百歩譲って
これは致し方ないのかな。
でも、
神様に失礼な行為である
ことには違いない。
従って、
私のような者は
静寂とした場で
参拝したいので、
初詣客でごった返す日は
避けたほうが良いですね。
" 手水舎 (ちょうずや) " は
参拝者が心身を清めるところです。
何回も水を汲んで
じゃぶじゃぶ手を洗う
ところではございませぬ。
柄杓があれば、
右手で柄杓を取り、
水盤の水を汲み
左手を洗い、
柄杓を左手に持ち替え、
右手を洗う。
再び、
柄杓を右手に持ち替え、
左の手のひらに水を溜め、
口をすすぎ、
残った水で
左手をもう一度流す。
" お賽銭 " は
投げるものではございませぬ。
お金を投げるような人に
お金は寄ってはきませんよ。
そっと静かにお賽銭箱に
入れるものです。
それもその人の
心の表れですよ。
お賽銭を
投げる人になど
御利益などございませぬ。
子ども連れなら
せめて、
きちんと出来る人の
見様見真似でも
良いから
親はきちんとやるべきでしょ。
きちんと出来ている
ご家族を見ると、
ほんと心が和みます。
そのような親に
育てられた子どもは
幸せなんだろうな。
つくづく、そう思った。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝