" 教えてくれないと出来ないなどと言っている人には、教えても出来ない "
いわゆる
主体性のない
指示待ち人間である。
「明日は何時から稽古しますので、ご都合良ければ参加してくださいね」などと
メールで送ってあげないと、
やろうとしないのは、
要は
「やる氣がないから」
以外の何ものでもない。
一方で自ら学ぼうと、
「いついつの稽古に参加いたします」と
予定をきちんと立て
実行、実践する人は
必ずものになる。
前者との相違点は
言うまでもなく、
「やる氣がある」
ということでありまする。
道場長 拝
" 人間は大自然の一部。自然のあり様に逆らわないことだ "
私達の身体は
朝日が昇ると
活発に行動するようになり、
日が沈むと
次第に眠る態勢になるように
自律神経により調整されている。
また
私達の身体は
常に重力の影響を
受け続けている。
「手に持っている鉛筆を離せば、どうなりますか」と
小学生に尋ねると
「下に落ちる」と
直ぐに答えが返ってくる。
誰でも分かっていることだ。
しかし、
これと正反対の身体の使い方を
している人が何と多いことか。
身体の重みは
常に下にあるのが
「落ち着くべきところに落ち着く」
それを落ち着きという。
首や肩、
上半身に力を入れていては、
そら、身体も故障しますよ。
道場長 拝
" 心棒の無いものは回転しないから、前に進めない "
コマがまわる時、
中心の心棒は
止まっているかのように見えるが、
実は凄い速さで回転している。
この心棒があるから
円形のコマがまわる。
車のタイヤも
自転車のタイヤも
線路の上を走る電車も
新幹線の車輪も
この軸、心棒があるから
振れずに進むことができる。
人間も同様です。
私達、日本人は
日本の文化、
伝統や芸術、
日本とはどういう国なのか、
日本人とは何なのか、
そういうことが
私達、
日本国民の心棒なのです。
人間も心棒の無い人は
前に真っ直ぐに
振れずに進めないのです。
従って、
心棒の無い人は
国家観、
歴史観、
人間観、
社会観を持っていない。
「日本ってどんな国ですか」と
人に尋ねられて
「日本は四季がある」とか、
この様なことしか
答えることの出来ない人は
社会に振り回され、
世界では通用しない人間だ。
道場長 拝
" お彼岸 "
春分の日は
昼と夜が
ほぼ同じ長さになる日。
春分の日をはさんで
前後3日間がお彼岸です。
日本には春と秋のお彼岸は
ご先祖の供養をする習慣があり、
お墓参りをしたり、
仏壇にお供えをします。
春、秋のお彼岸である
春分の日、秋分の日は
真東から太陽がのぼり、
真西に沈むのですね。
仏教では西の向こうに
極楽浄土があると聞きます。
そのため
お彼岸は
お墓参りするだけでなく、
「ご先祖様が極楽浄土で幸せにくらしていけますように」
「自分も極楽浄土にいけますように」
との願いを込めて
西に沈む太陽に
手を合わせることも
良いのではないでしょうか。
現在私達が住む世界は、
もめ事や心配事が絶えませんが、
極楽浄土である「彼岸」では、
みんなニコニコ
幸せいっぱいの世界だそうです。
しかし、
彼岸へ行くには
修行をするための
川を渡らねばならないそうです。
執着や迷い、
わがままなどの煩悩を
一切なくすことによって
彼岸に渡れるそうです。
実際、
自分が亡くなってみないと
分からないことではありますが、
今こうして
生きている間でも
修行は可能ではないでしょうか。
自分が自分が
という考えを改め、
周囲の人達が
皆、心からくつろぎ
平和な氣持ちで暮らせるよう
自分自身が
どのような生き方をすべきなのか。
自ら鑑みて、
いつかは彼岸に渡ろう。
道場長 拝
" 物に使われるは三流、物を使うは一流 "
合氣道には
剣や杖の稽古がある。
今の時代に
何の役にも立たない
剣や杖を学ぶ意味は、
日常生活において
物を使いこなすための稽古だ。
行列が出来るほどの
中華料理店の料理人は
中華鍋やお玉を
身体の一部として使いこなす。
また一流の重機オペレーターは
重機を自分の身体のように扱う。
物は使うものであり、
物に使われてはいけない。
合氣道では
剣や杖を用いて、
その特性を活かし
剣や杖が
身体の一部として
使えるように稽古する。
物を持てば
その物の隅々にまで
氣が通うよう鍛錬する。
それを日々の日常に
活かすことを
目的としている。
道場長 拝