" 大自然に身を委ねる "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『だいしぜんにみをゆだねる』
春の指導者講習と集中稽古は
5月1日から2週間行った。
総稽古時間92時間。
1日平均6時間半にもなる。
関東、東北から
指導者とそのお弟子さん
17名が参加した。
前半のGW期間中には
全員揃ってお稽古出来た。
稽古期間中に
3回も東京と神戸を往復する
熱心な指導者もいたほどだ。
最終日には
近くのビーチで
呼吸法と砂浴をして
令和6年春の集中稽古を
締めくくった。
通常の私達がしている
無意識の呼吸は
生きていく上で
必要不可欠ではありますが、
健康の増進にはなりません。
それが「呼吸法」となると
「吐いて吸う」ことを
意識して行います。
これが健康増進、
養生になるのです。
海の近くとか砂浜でする
呼吸法は格別です。
海のリズム、
寄せては返す
波のリズムに
呼吸を合わせます。
この天地大自然のリズムに
自分の呼吸を
重ねることにより、
天地大自然との
一体感が実感できます。
私達の遠い祖先から
受け継がれた
「命の大切さ」を
感じながら
心が無限小に
静まっていきます。
呼吸法は
身体と天地大自然との
氣の交流であり、
はるか宇宙からの
新鮮な生命エネルギーを
体内に取り入れ、
古くなった
生命エネルギーを
宇宙に返します。
静かにゆっくり
口から吐いて、
静かにゆっくり
鼻から吸うことを
繰り返すことで、
いつも体内に
新鮮な生命エネルギー、
天地大自然の氣が充満します。
心身が
病んでいる人の
呼吸は粗く、浅く、短い
呼吸になっています。
そのような呼吸では
天地大自然との
氣の交流、
宇宙からの新鮮な
生命エネルギーを
取り入れることは出来なく、
決して心身ともに
健康体にはなれません。
健康体になるには、
まず深くて静かな呼吸を
身に付けなければならないのです。
この日は
それに加えて
最高のデトックスである、
砂浴も行いました。
この日も天氣がよく
日中は汗ばむほどの
陽氣でしたが、
泳ぐにはまだ早い。
ですので
私も含めて参加者は
水着を持参していません。
砂浴は
水着、
できれば木綿の素材が
良いようです。
本当は
裸で入るのが良いらしいです。
無人島でもない限り、
現実には少し無理かもしれませんが…
砂浴は
足だけでも
相当な効果が期待できるので、
参加者の殆どは
両足首、
ふくらはぎの中間くらいの
深さまで砂を掘り
足を入れます。
1名に関しては
全身埋まりました。
前述の通り、
水着は持参していないので、
Tシャツにジーンズです。
「平氣だよ。砂なんて払えばいいじゃん」
と一言で済ませ、
黙々と自分が入れるだけの
砂を掘り、
顔だけ出して
3時間熟睡してしまった。
これが彼女の真骨頂である。
何事にも執着しない、
流れに逆らわない。
ある意味「技」である。
癌を宣告され
余命数ヶ月から
生き方そのものを変えたのだ。
医師も驚いたことに
癌が消えてなくなってしまった。
砂浴は
ただ入っているだけで
砂の中の微生物が
身体の毒素を出してくれる。
ただ入っているだけで、
猛烈な毒素が出て
すばらしい効果を
もたらすのが
砂療法であるとのことだ。
足だけでも
埋まっている
あちらこちらが痒くなってくる。
砂が毒素を
吸い出そうとして
新陳代謝が
猛然とよくなるためだ。
ただ
日焼け対策と熱中症には
要注意なので、
対策は怠ってはいけない。
都会の中にいながら
雑踏を忘れ、
天地大自然、
遥か大宇宙との
繋がりを感じながらの
呼吸法と砂浴は
これ以上ない贅沢であり、
恵みであります。
太陽も砂も
全て自然のものです。
無料なのです。
なんて
ありがたいことなのでしょう。
これだけ
与えていただいて
何も不足はございませぬ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 人の命はなぜ尊いのか "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『ひとのいのちはなぜとうといのか』
「人の命は尊いものです」
この言葉を
私達は折りにふれ見聞きします。
なぜ
「人の命は尊い」のでしょうか。
それは死ぬからです。
未来永劫(みらいえいごう)、
尽未来際(じんみらいさい)、
何億年も何千億年も
生きることが出来るなら、
命は尊くはない。
天地大自然
何百億年の
連綿と続く流れの中で、
人間は
七十、八十年、
長くて百年
生きたとしても必ず死ぬ。
それは
天地大自然からみれば、
人はほんの僅かな間しか
生きることが出来ない。
そして
人間はたった
一度だけ
生まれて、
二度と
生まれてくることはない。
だから人の命は尊い。
その人の人生は尊いのだ。
他人の命も尊い。
「他者を尊重する」という
根っこが、
そこにあるのではないだろうか。
そして、
その儚くも短い人生を
「さあ、お前はどう生きるんだ」
これが
天地大自然からの
問いかけでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 自然にしていて身につかないことを学ぶ。これを学習という "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『しぜんにしていてみにつかないことをまなぶ。これをがくしゅうという』
天地大自然は
いつの時代も不変だ。
地球温暖化、
異常氣象といわれる。
確かに
私が子どもの頃から比べて
夏は酷暑だ。
しかし、昔から
夏は暑くて冬は寒いことに
変わりはないが、
我々の生活様式は大きく変わった。
それはそれは
とても便利な世の中になった。
だが、
この便利さの一方で
失われたものが、
たくさんあるのだ。
身体に中心軸を保った
立ち方、座り方や
歩き方が
出来なくなっている人が多い。
呼吸も
まともに出来なくなっている。
これ全て
生きていく上での基本だ。
身体の
中心軸と呼吸は
密接な関係にあり一体だ。
この片方が崩れると
両方とも崩れるのだ。
昔の人の移動は歩くことだった。
幕末の志士、
吉田松陰さんは
長州(山口県)から江戸(東京)まで
普通に歩いていた、
坂本龍馬さんも
険しい四国の山道を
普通に歩いて、
いろんなところへ行っていた。
学校へ遠い道のりを
毎日、歩いて通っていた
時代の子ども達は
足腰が強くなるばかりか、
自然と呼吸が強くなっていたのだ。
息を長く吐き続けることが
出来ていた。
だからこそ肚もできるのだ。
しかし、
今の時代に生きる私達は
同じことをするのは容易ではない。
でも
その時代の生活様式に
適応したやり方はある。
私が今も実践していることは
「歩きながらの呼吸法」だ。
座ったり、立って行うという、
その場に留まってする
呼吸法は誰でも出来る。
しかし、
「歩きながらの呼吸法」は
そう簡単には出来ない。
やったことがある人は
分かると思うが、
苦しくて、
すぐ息がもたなくなる。
それでも
毎日、諦めずに
最初は短い呼吸からはじめて、
今では
その場に留まってする呼吸と
何ら変わらない、
とても楽で快適な
長い呼吸が出来る。
それを習得するのに
5年以上かかったが、
やり続ければ
誰だってやれるのだ。
出来ないのは
やらないからだろ。
普通に生活していても
身につかないことなら、
日々の日常において
何かやり方を工夫したり
努力して継続しなければならない。
それを学習というのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 衣服で身体は変わる "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『いふくでからだはかわる』
日本在来の衣服。
着物のことを和服といいます。
履物も含めた和装。
夏祭りの時期になると
浴衣姿の人を
よく見かけます。
和服は腰腹に帯を結びます。
これにより
腰腹が決まる
最適な衣服です。
帯と紐を締めることのみで
形を調えます。
従って洋服に比べて
動きにくく、
多くの動作に
不自由さがあります。
しかし、
古来より日本人は、
その制約のある
動作の中で養われた
日常においての
一挙手一投足、
歩き方であるとか、
座り方や立ち姿などの
美しい
立ち居振る舞いを
日本固有の
習慣、文化として
大切に培われてきました。
その美しさは
下腹を充実させた
動きや姿勢にあります。
合氣道では
流派により異なりますが、
合氣道寺崎道場では
男性は有段者から
女性は五級から
袴の着用を許されます。
腰に袴の腰板を
当てることにより
腰を支えます。
前紐と後ろ紐も
身体に巻き付け
下腹
いわゆる
臍下の一点(せいかのいってん)の
位置で結びます。
これにより
腰が安定し、
仙骨が起き
臍下の一点を中心とする
姿勢が決まるのです。
道衣の
帯を締めることも同様です。
普段の生活では
姿勢が乱れている人でも
稽古では
帯を締め、
袴を着用することで
腰腹が備わってきます。
初段になった人が
上達するのも、
五級や四級の女性が
急に上達するのも
袴を着用しているうちに
様になってくるからなのです。
洋服のスーツは
首元にネクタイを締めます。
肩幅や肩甲骨が広く
どっしりとして、
上半身に中心を置きます。
文化、習慣の違いから
生まれた
衣服の違いなのでしょう。
日本人には
日本人に合ったものを
多く取り入れていくことが、
これからの時代は
特に大切ではないでしょうか。
その意味合いにおいて、
週に一、二度でも
合氣道の道場で
お稽古する価値が
あるように思えます。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 何のために生きるのか "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『なんのためにいきるのか』
日々の生活の中で、
仕事があまりにも忙しく
休みも思うように
とれなかったりした時など、
つい自分を
見失いそうになったりします。
また困難に直面して
逃げ出したくなったりします。
そのような時、
人は楽な道を
選びたくなります。
それは、
快適さを求める
人間の本能とも
言えるのではないでしょうか。
人は簡単で楽な方向に
流れやすいものです。
自分一人だけが、
この世界から
取り残されているような、
何のために
自分は生きているのか
分からなくなったりする。
そのような時は
自分のために
少し時間を作りましょう。
10分でも20分でも
黙って座りましょう。
そして
瞑想や呼吸法をして
心を静めます。
地位や名誉、
快楽や金に
溺れてしまってはいけない。
地位やお金も
生きていくための
活力なのかもしれません。
しかし、
そうしたものは
この世限りであり、
あの世に
持ち込むことはできません。
私達は
天地大自然の一員なのです。
従って
私達はいずれ死にます。
この世は
仮の世であり、
私達の身は
仮の身。
いつかは
天地大自然に
返さねばなりません。
私達が
この世で身に付けた
全てのものを
返さねばなりません。
だとしたら、
生きている間、
どう生きるのか。
私達は
右も左も分からず、
なぜ生まれてきたのか
さえも教えてもらえず、
裸で生まれてきた。
初めて
この世に
生まれてきた時よりも
少しでも成長し、
美しく、
崇高な魂を持って
死んでゆくために、
世のため
人のために
生ききることが出来たなら、
自分というものが
この世から
完全に消えて無くなっても、
その魂は
残り続けるのでは
ないでしょうか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝