" 氣を配る "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『き を くばる』
指導者育成稽古中に
皆の携帯から
一斉に緊急地震速報が
鳴り響いた。
その夜、
Xのタイムラインから
「また緊急地震速報、地球さん、少しは休んでよ」
という投稿が
リアルタイムで流れてきた。
でも
地球は1秒も
休まないし、
天地大自然の営みは
これからも
連綿と続いていく。
もし、
1秒でも止まれば、
地球もろとも、
そこに存在する
全てのものは
なくなるのだろう。
太陽を中心として
1秒も止まらないから、
私達は
生きていけるのだ。
話を本題に戻そう。
東京出張に出かける
準備の際に、
荷物をできるだけ
少なくしたいので、
着替えも最小限にした。
今年は昨年より
酷暑というから、
たくさん着替えを
持っていきたかったのだが、
その結果
いつも大荷物になるのだ。
しかし現実は
洗濯が追いつかなかった。
仕方なく
人混みの銀座に
行くことにした。
前回の東京出張で
銀座は懲りた。
あの人混みに
わざわざ入っていくのは、
相当疲れる。
しかし
懲りもせずに
世界最大の
ユニクロ銀座店に
足を運んだ。
客の殆どが外国人だった。
それにしても
凄い人混みだ。
ごった返すとは
正にこのことだ。
8階だったか
メンズの階で
Tシャツを2枚選び
レジへ向かうも
レジが無い。
仕方なく
9階だったと思うが
1つ階を上がると、
そこのレジは
長蛇の列だった。
そして、
その列に並んでいた。
おそらく
日本人は
私一人のようだった。
店全体が
外国人の客で
賑わっているので、
この光景も
違和感はなかったのだが…
自分の番まで
あと10人位になった時、
「お客様」という
レジで対応する
店員の声が聞こえた。
「お客様、お客様」
列の客は
外国人ばかりなので
皆、
自分のことでは
ないという顔をしている。
えっ、まさか、
「えっ!私」と
その声をかけてくる店員に
自分で自分を指さしたら、
「お客様、宜しければ、1つ上の階のレジをご利用くださいませ」
その長蛇の列は
"TAX FREE" と
書かれたレジだったのだ。
「穴があれば入りたい」とは
このことだ。
娘にLINEすると
"老害" と
返ってきた(笑)。
それにしても、
あの声掛けしてくれた
女性の店員は
大したものだ、
これこそ
プロの対応というのだろう。
おそらく、
私のように
TAX FREEの
レジに並ぶ人も
少なくないのだろう。
だから
普段通りの
対応なのかもしれない。
それにしても、
次から次にレジへ来る
客の対応をしながら、
常に
並んでいる他の客にも
氣を配っているからこそ、
このような
行き届いた
神対応ができるのだ。
間違って
レジに並ぶのは
客の不注意であって、
その客が
自分の番に来た時に、
「このレジはTAX FREEのお客様専用でございますので、他のレジをご利用ください」
でも良いのだ。
しかし、
いち早く
その事態に素早く
対応できる
優れたスキルは
素晴らしいと、
一人感心した。
まさしく
この優れた
丁寧な女性の店員を
「一流」と呼ぶのだろう。
その女性の店員から
学ばせていただいた。
ありがたいことだ。
そして
この世には
偶然はないのだ。
全て必然。
もう二度と
行かないだろうと
思っていた、
人混みの銀座へ、
また再び
行かなくては
ならなくなり、
世界最大の
ユニクロ銀座店で
学ぶよう、
天地大自然に
導かれたのだろう。
「氣を配る」
それは
私に足らないことの
一つなのだ。
教えてくださって
ありがとう!
一流の
ユニクロ店員さん。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 天地大自然に身を委ねる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『てんちだいしぜん に み を ゆだねる』
朝から照りつけた
太陽に熱せられた
アスファルトからの熱と、
蒸し暑い都心の夜に
すれ違った4人家族から
こんな会話が聞こえた。
中学生とおぼしき男子
「ねぇお母さん、うちに帰ってもう一回買い出しに行くの」
「そうだね、ついに来たよね、まだまだ足りない物あるんだから、あんた男の子でしょ、しっかり持ちなさい」
それぞれの手には
トイレットペーパーやら
紙おむつなど
両手いっぱいに
持っていた。
昨日夕方に発生した
日向灘を震源とする
マグニチュード7.1の
地震を受け、
気象庁は午後7時15分、
次の巨大地震に
注意を呼びかける
「南海トラフ地震臨時情報」を
発表した。
おそらく、
巨大地震に備えての
買い出しではないだろうか。
このお母さんの
「ついに来たね」の
言葉からそう推測した。
2日前の
今日の一言に
「危機管理」と題した
書き込みを
したところだ。
できる時に
できる事を
しておかねばいけない。
巨大地震が
起きてからでは
遅いのだ。
今のうちに
色々な事態を想定して、
シュミレーション
しておくことも
大切なことだ。
家族間での
打ち合わせや、
決め事も
しっかりしておくべきだ。
ただ
想定通りには
いかないと思う。
たぶん
これまで
経験したことのない
巨大地震なのだろう。
これも
天地大自然の営み
であるから
仕方のないことだ。
私達には
どうにも
することができない。
天地大自然から見れば、
地球も
生きているから
単なる
地球の
深い深呼吸
程度のこと
なのかも知れない。
それ自体に
良いも悪いもなく、
ただの
天地大自然の
営みなのだ。
あまりにも
その営みが
巨大で
想像すら
できないほどの
力を持っているため、
私達人間には
脅威なのだと思う。
この天地大自然の中で
生きているからには、
それも
受け入れなければ
ならない。
いついかなる
状況においても、
人間は
落ち着いているのが
当たり前なのだ。
重力の影響を
常に受けて、
私達は
生きているのだから、
物体の重みは下にある。
それが
天地大自然の中で
生きる
大法則なのであり、
落ち着きなのだ。
合氣道の稽古では、
いつも
その落ち着きを
稽古している。
合氣道寺崎道場の
門人においては、
子どもも
大人も、
それが
試されるときなのだ。
従って、
本日の
夜間稽古も、
お盆休み明けからの
稽古も、
今までと同様に
落ち着きの稽古を
しなければならない。
門人においては、
これまで以上に熱心に
稽古しなければならない。
巨大地震が
いつどこで
起こったとしても、
もし、
自分がこの世で
まだすべき重要なことが
あるのなら、
天地大自然は
自分を守ってくださる。
私はそう確信している。
常日頃から
自分のすべきことは
世のため、
人のためにあり。
それを
実践するならば、
安心して
天地大自然に
身を委ねよう。
それしかないのでは
あるまいか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 自分だけは見ることができない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『じぶん だけは みる ことが できない』
東京スカイツリーの
天望デッキと天望回廊に
登ってみた。
天望デッキは350mだ。
天望回廊は450mと非常に高い。
登ってみた感想は
あまりに高すぎて
今ひとつ感動がなかった。
東京タワーは
何度も登っているが、
私は東京タワーからの
絶景のほうが好きだ。
しかし
「なるほどな」と思った。
今回の東京出張
前半では
隅田川沿いに
宿泊していたので、
毎日陸から
スカイツリーを眺めていた。
あまりの高さに、
宿泊先周辺では
自然と目に入ってくるのだ。
毎朝の
隅田川テラス沿いを
ウォーキングしながら
呼吸法をしても、
移動のために
最寄り駅に
向かう途中も、
浅草まで
ディナーを
食べに行くときも、
宿泊先の大浴場では
露天風呂から
毎日
スカイツリーを
眺めることも出来たのだ。
大浴場には
スマホは
持って入れないため、
写真は撮れなかったが、
それはそれは絶景だった。
温泉に浸かりながら
スカイツリーを
眺める事が出来るという、
とても贅沢な時間を
過ごさせてもらった。
私はどうやら、
いつ頃からか
タワー好きに
なっているようなのだ。
スカイツリーも、
東京タワーも、
京都タワーも、
神戸のポートタワーも
何時間でも
眺めていられる。
昼や夜や
場所が変われば、
また違った見え方になる。
話を元に戻そう。
スカイツリーに登ってみて
「なるほどな」と
思ったことというのは、
空からは
こういうふうに
見えるんだな、
ということだ。
宿泊先のホテルも
はっきり見えたし、
呼吸法をしながら
歩いていた
隅田川テラスも、
屋形船も、
両国国技館も、
六本木ヒルズも、
空から見たら
こういうふうに
見えるんだ。
私達人間も
同じなんだ。
人間の目というのは、
なんだって
見ることができる。
だけど
一つだけ
見えないものがある。
それは
自分自身の姿なんだ。
どれぼど
優秀な人でも
自分だけは
見たことがない。
見るために
鏡がいるのだ。
鏡に映った
姿によって
自身の顔も体型も
分かるのだ。
また
自分の足らないところを
教えてくれるのだ。
スカイツリーに登って
絶景を見る
ということは
合氣道の稽古と
同様なんだ。
自分より
盤石な姿勢をした人は、
なかなか
投げることが
出来ないように。
相手が自分の姿を
教えてくれている。
誰でも
長所があれば
短所もある。
自分の
足らないところを
人に指摘されるほど
耳が痛いことはない。
しかし、
これも自分では
氣付きにくいものだ。
そういう時こそ
「ありがとう」と
その人に感謝すべき
なのではないかな。
東京スカイツリー
天望回廊450mの地上で、
ふとそう思った。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 危機管理 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ききかんり』
今回の東京出張は
台東区蔵前に
宿泊しているので
都営浅草線と
都営大江戸線が
最寄り駅だ。
大江戸線に乗り
麻布十番に向かった。
麻布十番駅から
地上に出るまで
何度も
エスカレーターを
乗り継いで
上がることになる。
一年ほど前の
安全保障、危機管理の
勉強会で学んだことを
思い出した。
東京都は
ミサイルの飛来などによって
甚大な被害が
発生するような
万が一の事態に備えて、
麻布十番駅に
併設された
防災備蓄倉庫を
地下シェルターとして
整備することが
決まっている。
ミサイル等から
身を守る時の
深度は
約四十メートル以上は
必要らしい。
唯一、
日本で
都営大江戸線だけが
その条件を
満たしているとのことだ。
昨年の
東京出張の際に
永田町に向かうため、
千代田線の
国会議事堂前で
下車した時も
地上に出るのに、
相当かかった。
調べてみたら
六本木(大江戸線)が
42.3mで
深度一位。
二位に
千代田線の
国会議事堂前(溜池山王)
37.9mとあった。
円安や夏休みもあって
連日どこへ行っても
電車内は
人でごった返している。
外国人も非常に多く、
日本人の私が
まるで外国へ行ったような
錯覚に陥るほどだ。
平日の朝夕は
通勤ラッシュの
人々が加わる。
もし、今
災害が起こったり、
ミサイル着弾などの
不測の事態に陥れば、
どうなるのだろか。
とてもじゃないが、
その外国人も含む
全ての人々が
大江戸線に
避難することなど
不可能だ。
私の地元である神戸に
ミサイル着弾などあれば
逃げるところなど
皆無に等しい。
神戸の市営地下鉄も
かなり深度があるが、
大江戸線の
それには到底敵わない。
それでも
平時からの備えは
しておくべきだ。
やれる事は少なくとも、
いざという時、
有事の際に
家族で集まる場所等、
決めておかねばいけない。
毎日の通勤、通学や
買い物の時に、
有事の際に
生き延びるためには
どうすれば良いのか。
避難する場所を
知っておくべきだと思う。
ミサイルや核には地下。
より深くて
曲がりくねっている
地下が良いのだそうだ。
地震の際の津波は
川から離れた、
より高い所。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 腹が減っては戦はできぬ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『はら が へって は いくさ は できぬ』
昨日、
靖國神社に参拝した。
わが国の平和と繁栄は
246万6千余柱の
英霊の尊い
いしずえのうえに
築かれていることを、
われわれ日本国民は
決して忘れてはなりません。
靖國神社内苑にある
遊就館には
幕末以来、
国のために尊い命を捧げ、
靖國神社に祀られた
御祭神の貴重な遺品、
さまざまな戦争に関する
史資料、武具甲冑、
宝物などを保存、
展示されている。
ここに来れば、
近代日本の歩みを
知ることができる。
その遊就館の
今年の特別展は、
軍隊と「食」がテーマでした。
遊就館収蔵の
御遺品の中から、
「食」にまつわる
品々を展示、
エピソードをそえて
紹介されていました。
また
例大祭をはじめ
様々な祭典にかかせない
「神饌」(神様へお供えする食事)や
全国から奉納される
まごころこもる品々が
紹介され
英霊奉慰のために
「食」を捧げる
重要性について考え、
陸海軍の
「兵食」の
歴史をひも解き、
当時のレシピを
再現されていました。
ご本人のものであることが
推測される
名前の書いた
凹みや錆のある水筒や、
硫黄島(いおうとう)で
発見された
焼け焦げた乾パンなど。
その中で
当時の写真と共に
こんな言葉が
書かれてありました。
それは
「戦場で兵士が最後まで持っていたのは武器弾薬ではなく食事に必要な飯ごうの中ぶたとスプーンだった」
それを見た時、
私はその場から
少しの時間動けなかった。
食料も水もない硫黄島で
どうやって
戦ったのだろうか。
食べることも
飲むこともできない、
いつ死ぬかもしれない
極限状態で、
戦うことなど
できるものなのか。
硫黄島には
川がないから、
飲水は雨水を貯めた
ドラム缶の中の熱湯なのだ。
それも
自分や家族のためでもなく、
後世の我々のためだけに
命を捧げられた。
その事実の上に
今こうして
私達は何不自由なく
生きているのだ。
「食べる」
ということは
生きていく上で
基本中の基本だ。
思えば、
私の母も
「コーヒーをがぶ飲みしたい」、
「スイカを食べたい」など
亡くなる数年前には
食べることしか
言わなかった。
心臓の手術から
誤嚥性肺炎を引き起こし、
亡くなる前の5年間は
食べたいものも
飲みたいものも
誤嚥するから許されず、
寝たきりだった。
小学校からの友人も
ガンで亡くなる前の
数年間は
食べ物の話しかしなかった。
日常生活のなかで
普通に
腹が減り、
腹が減ったら、
いつでも
好きなものを
食べることができる
ということが、
どんなに
幸せなことなのだろう。
ついつい、
仕事や家事、子育てに
追われる日々のなかで、
私たちは
大切なことを忘れている。
腹が減ったら
食べるということは
決して
当たり前ではないのだ。
「腹が減っては戦はできぬ」
人や国や
相手と戦うことだけではなく、
腹が減っては
生きるという
基本の生活すら、
ままならない
状態になるのだ。
それを思えば、
私たちの
苦労や悲しみなど、
苦労ではなく、
悲しみなどではない。
だって
腹が減ったら
食べれるのだから。
それだけで幸せですよ。
あらためて、
食べる、飲める
ということに
感謝して、
私達は
生きてゆかねば
なりませぬ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝