" 医者いらず "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『いしゃ いらず』
日常の生活の中で、
爪先立ちを
数回して、
上半身の
余分な力みを
取り除き、
いつも
仙骨だけは起こして
姿勢を正します。
時々、
口から
静かに息を吐き、
鼻から
静かに吸う。
そして
心を積極的に使い、
心のありようにも
注意すれば、
学校で、職場で、
家庭で、家事で、
いつも一日中、
合氣道の稽古を
しているのと
同じです。
一つの立ち居振る舞い、
一挙手一投足が、
すべて合氣道だと
思って生きていると、
心身ともに
氣が出る
健康体になりますよ。
そこに
「臍下の一点(せいかのいってん)」が
深まってくれば、
医者いらずに
なりますよ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 自由自在とは合わせること "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『じゆう じざい とは あわせる こと』
野球で
自分が打者だとする。
相手チームの投手は
打ちやすい球を
投げてはくれない。
困るような球や
打ちにくい球を
投げてくる。
これを打つには、
その球に
バットを合わせるしかない。
見事に
球とタイミングを合わせ、
バットの芯で
とらえてこそ、
ヒットになり
ホ ームランも生れる。
それが勝利への道となる。
まるで
球にタイミングが合わない。
これが空振りである。
三振で
敗退への道にもつながる。
バレーボールの場合でも、
なるべく
相手の嫌がるところに
ボールを打ち込む。
それが嫌であっても、
そのボールに合わせる。
自分の方から飛んで行く。
そのボールに
合わせた
見事なレシーブが、
やがて勝利に結びつく。
合わせることが
出来なかったら
負けである。
人生も同じだ。
何が表れ、
出て来るか分らない。
その出来事を
天命の球として
受けて
楽しく迎える。
自分の方を変える。
相手に合わせる。
力んで
身構えていたのでは、
全く動けない。
合わせやすいように
自分の心身を
軽くしておく。
いつでも
丁度よいタイミングで
合わせることができる。
逆らわず
何もかも
天地大自然に
合わせるのだ。
それが
上手になる程、
人生の達人に
なれるのだ。
お茶を飲む時も、
箸をとって
ご飯を食べる時も、
まず
自分の手と指を
相手である
湯呑みや箸に合わせる。
それができたら
思うように
飲めて食べられる。
まず、
「その相手に合わせよ」と
天地大自然は
教えてくれているのだ。
自分の手を
ペンに合わせたら
ペンを自由に使え
字が書ける。
何でも
合わせた後にこそ、
自由自在に
動かせるようになるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 奥深くまでやり抜くこと "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おくふかく まで やりぬく こと』
広く浅く
知ることは、
浅薄(せんぱく)な知識を
隠すことができず、
短慮な
振る舞いにも表れる。
結局は
何も知らない、
何も学んでいない
ことと同じなのだ。
ひとつのことを
徹底的に
奥深くまで
実践躬行(じっせんきゅうこう)し、
探求することによって、
決して
表面に表れてこない
物事の真理を
つかむことができるのだ。
そして、
その真理が
やがて全てのことに
通じていくように
思います。
それが
その人の
誇りにもなり、
仕事にも
生き方にも
「矜持を持つ」ことが
できるのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" プラトーという名の平地があるよ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『プラトーという名の平地があるよ』
合氣道の上達というのは
決して正比例グラフの
ようにはいかない。
それは
どのような競技や
スポーツも同様だ。
少し坂を登ったら、
長い平地を歩く、
そして
また少し坂を登って、
また長い平地を歩く。
こんな感じで
上達するということだ。
長い平地が
努力を重ねる
時間であり、
登り坂が
上達と思ってもらえば
いいだろう。
この長い平地である
水平の状態のところを
「プラトー」と呼ぶのだ。
プラトーとは
技能の学習過程で、
一時的に
進歩が足踏みする状態。
学習曲線が
この時期に高原状となる。
高原現象。
従って、
ここでは、
いくら努力をしても、
見た目には
上達しない
ということであり、
その実感すらないのだ。
それは
努力をしている人に
「誰にでも」
起こることなのだ。
どれほど
身体能力に優れ
素質のある人でも、
どんなに
一生懸命に
正しい練習を重ねても、
ここでは
上達しない
ということなのだ。
それに氣が付かない、
又は、
そういうことを
知らない人が、
そこで
挫折してしまうのだ。
それは
非常にもったいない
ことである。
変わらず
弛まぬ努力を
重ねていけば、
また次の
上達のラインに入れる。
しかし、
プラトーの間に、
「稽古しても上達しないから無駄だ」
とか
「いくらやってもだめだ」と、
稽古をやめてしまったら、
絶対に
次の上達ラインまで
いけない
ということなのだ。
でも、
あきらめずに続ければ、
また必ず上達する。
それは表現を変えると
「プラトーの間にも目には見えない実感しないところで、実は進歩が進んでいる」
「上達というグラスに実力という水が貯まっている」
ということだ。
水を貯めていた
グラスから
水が溢れ出すときが
上達なのだ。
グラスに水を注いでも、
すぐには溢れない。
溢れ出てくるまで
注ぎ込まねばならない。
登り坂を
登ったからこそ、
プラトーに辿り着いた。
従って、
プラトーに辿り着いた
ということは、
進歩したから
辿り着いたのだ。
一度、
それを経験すれば、
後は
同じことの繰り返しだ。
次のプラトーが
出現したら、
「おっ!上達したな」と
思えば
良いのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 守りたくても守れない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『まもり たくても まもれ ない』
私達の身体は
生まれる前から
出来上がっている。
まだ生まれる前、
まだ人間になる前から、
お母さんの胎内で10ヶ月
すでに身体は
組み立てられている。
見るために眼と、
聞くために耳と、
食べるために口と舌と、
呼吸するために鼻と、
働くために手と足と、
内蔵も出来上がっていた。
こちらから
「お願いいたします」
などと
頼んでもないのに。
願ってもないのに、
祈ってもないのに、
考えもしないのに、
生まれてから
必要なものは
全て揃っていた。
生きてる間中、
心臓は動き続け、
血液は循環する。
一瞬たりとも止まらない。
今更
そのような当たり前の
話をしてどうするんだ。
そう思われるかも知れない。
しかし、
そのことを考えてみる。
その当たり前のことに
真理があるからだ。
私達人間の
生みの親は
天地大自然である
ということだ。
「この子は私達の子」であると
両親が言っても、
その両親が
手も足も口も耳も眼も
内蔵も作ってあげたのではない。
勝手に備わったのだ。
そうであるなら、
私達人間は皆、
天地大自然に
生命を守られて産まれ、
今も生きていることが
自覚できる。
従って、
「我が身は守る必要はない」のだ。
自分で自分のことを
守りたくても
守れないのだ。
なせなら、
その必要がないからだ。
その真理を
分かろうともせず、
自分のことを
守ろうとするから、
心身が弱くなるのだ。
守れば守るほどに
弱くなるのだ。
それを「無理」というのだ。
理に適っていない
ということである。
従って、
天地大自然の
大恩に感謝して、
これに報いる道は
自分にできることを
精一杯やる。
命の限りやり尽くす。
他者のために
持てる知恵と力を
しぼりきる。
出し惜しみするな。
あっという間の人生だ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝