" 【衝撃の逆転劇】 遅咲きは宝の宝庫 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 穀雨 (こくう) ・次候
七十二候
霜止出苗 しもやみてなえいずる
第十七候
「穀雨」は次候へと移りました。
「霜止出苗」は4月25日~29日頃に相当します。
霜が降りなくなり、稲の苗がすくすくと育ち始める頃です。
今日のお題
『【しょうげき の ぎゃくてんげき】 おそざき は たから の ほうこ』
" 長所が短所になり、短所は長所にもなる "
この言葉は、
まるで人生のパズルのようです。
表と裏、長所と短所、プラスとマイナス。
それは、
私たち人間が持つ性質、
そして、
合氣道の奥深い世界にも通じる真理なのです。
秀でた才能の落とし穴:早すぎる成功が奪う成長の機会
合氣道の稽古を見ていると、
驚くほどの速さで技を習得し、
ある程度すぐに形にできる人がいます。
それは、
疑いようのない素晴らしい才能です。
しかし、
皮肉なことに、
その才能が更なる自身の成長を
妨げてしまうことがあるのです。
なぜなら、
比較的容易に初期段階の目標を
達成してしまうため、
満足感が早く訪れ、
探求心を失ってしまう傾向があるからです。
「もうこれで十分だろう」と感じてしまい、
本当に奥深い学びが始まる前に、
他の興味へと移ってしまう。
これは、
大人より子どもに
多い傾向にあるように思います。
また、
それは合氣道に限った話ではありません。
最初の段階で楽に成果を出せる人は、
その成功体験に安住してしまい、
深く掘り下げることを敬遠しがちです。
結果として、
" その才能は表面的なものに留まり、
真の力となる前に終わってしまう。"
まさに、
長所が短所へと転じる瞬間と言えるでしょう。
もちろん、
初期の段階で
素晴らしい才能を発揮しながらも、
飽くなき向上心、探究心を持ち続け、
高みを目指す人も確かに存在します。
しかし、
それはほんの一握り。
多くの人は、
早い段階での成功に甘んじてしまうのです。
遅咲きの底力:努力が刻む、誰にも負けない確信たる自信
一方で、
技の習得に時間がかかり、
周りの人よりも
遅れを感じてしまう人もいます。
これは、
紛れもない短所であり、
もどかしさや焦りを
感じることもあるでしょう。
しかし、
そこで諦めずに稽古を重ねることで、
少しずつ、しかし着実に、
身体は覚えていくものです。
その積み重ねられた努力は
決して裏切らず、
一度身についた技術は
確固たる自信へと繋がるのです。
そして、
困難を乗り越えて
習得した技術だからこそ、
「なぜできなかったのか」
「どうすればできるようになったのか」
という深い反省と理解が生まれます。
試行錯誤の過程で、
表面的な動きだけでなく、
技の本質、身体の使い方、
相手との呼吸といった、
より深いレベルでの
学びを得ることができるのです。
一つの目標に向かって
粘り強く努力し続ける力。
それは、
生まれ持った才能にも劣らない、
いや、
場合によっては
それ以上の価値を持つ才能と
言えるでしょう。
短所だと感じていたことが、
たゆまぬ努力によって磨き上げられ、
誰にも負けない強みへと変わるのです。
短所を才能に変える読書の智慧
では、
私たちはどのようにして
自分の短所を才能へと
転換していけば良いのでしょうか?
そのための重要なヒントの一つが
「読書」です。
書物には、
古今東西の賢人たちの知恵や、
様々な分野で成功を収めた
人々の経験が詰まっています。
読書を通して、
私たちは新たな視点や考え方を獲得し、
自分自身を
客観的に見つめ直すことができるのです。
飽きやすい人は、
多様なジャンルの本を読むことで、
知的好奇心を刺激し、
新たな興味の種を蒔くことにつながります。
物語に没頭したり、
偉人の生き様を知ることで、
一つのことを深く追求する面白さや、
継続することの意義を再認識できるはずです。
一方、
なかなか覚えられない人は、
じっくりと時間をかけて
知識を吸収していく読書の習慣が、
自身のペースで
理解を深める訓練となります。
図解や解説が丁寧な書籍を選べば、
視覚的な理解を助け、
記憶の定着を
促してくれるのではないでしょうか。
読書は、
まるで暗闇の中で灯りを見つけるように、
私たちが短所を克服し、
秘められた才能を開花させるための
道しるべとなってくれるのです。
短所という名の原石を磨き上げよう
「短所が長所になり、長所は短所にもなる」
この普遍的な真理を心に刻み、
自身の弱点だと感じている部分に
意識を向けてみる。
それは、
" まだ磨かれていない、
無限の可能性を秘めた才能の原石
なのかもしれません。"
焦らず、
諦めず、
地道な努力を続けること。
そして、
読書を通して
新たな知識や視点を取り入れ、
自己の向上に努めること。
そうすることで、
自分の短所は、
かけがえのない個性となり、
やがて誰にも真似できない、
あなただけの輝かしい才能へと
昇華していくのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 身のこなし、静かに美しく。合氣道から学ぶ所作の極意 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 穀雨 (こくう) ・初候
七十二候
葭始生 あしはじめてしょうず
第十六候
二十四節氣は「清明」から「穀雨」へと移りました。
「葭始生」は4月19日~24日ごろに相当します。
水辺の葦(あし)が芽を吹き始める頃です。
葭は、「葦 」とも書き、軽く丈夫で葦簀 (よしず) などに利用されます。
今日のお題
『 み の こなし、しずか に うつしく。あいきどう から まなぶ しょさ の ごくい 』
たとえば、
ドアを開け閉めしたり、
椅子を動かしたり、
食事中にナイフやフォークを使ったり。
そんな普段の動きの中で、
できるだけ音を立てないようにしてみる。
そうすると、
自然と動きが美しく雅やかで、
不思議と丁寧にも見えてくるんです。
私が合氣道を始めた頃、
袴を履いた有段者の日本女子が取る
前受身と後ろ受身の、
まるで布が落ちるような
「パサッ」という音しかしない静けさに、
強い感動と衝撃を受けました。
激しい動きのはずなのに、
それを感じさせず、無駄な音は一切しない。
その洗練された動きは、
まさに日本の武道の奥ゆかしさを
体現しているようでした。
合氣道の技から
学ぶことはたくさんあります。
物を扱うときは、
できるだけ自分の身体の近くで動かすと、
その物と一体化になる。
そして、
物を置くときは、
そっと、
別れを惜しむかのような氣持ちで。
それが合氣道では技の直後に表れます。
それを「 残心 」といいます。
「 残心 」とは
心をあとに残すと書きますから、
心残りや未練という意味もありますが、
武道的にはそうではありません。
合氣道では一つの動作を終えた後でも
氣を緩めず、
次の動作に心身の備えを怠らない
という教えとして使われます。
また、
軽い物でも油断せずに、
重い物を持つ時は
身体が傾いてはみっともないです。
腕力に頼って腕で持つのではなく、
身体の正中線、
つまり、「 臍下の一点 」で持ちます。
そうすれば、
身体全体で物を持てるようになります。
重い物ほど
軽く持っているように見せるのです。
音を立てない動きを日常生活に取り入れ、
それを実践すると、
見た目も自然と優雅になります。
合氣道の受身のように、
静けさの中に宿る力強さと美しさを、
是非、日々の所作に取り入れてみましょう。
毎日のちょっとした心がけで、
あなたの動きはもっと素敵になりますよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 美しき刹那に生きる。桜の道、人生の道 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 穀雨 (こくう) ・初候
七十二候
葭始生 あしはじめてしょうず
第十六候
二十四節氣は「清明」から「穀雨」へと移りました。
「葭始生」は4月19日~24日ごろに相当します。
水辺の葦(あし)が芽を吹き始める頃です。
葭は、「葦 」とも書き、軽く丈夫で葦簀 (よしず) などに利用されます。
今日のお題
『 うつくしき せつな に いきる。さくら の みち、じんせい の みち 』
桜前線は、
南からゆっくりと北上し、
日本列島を
淡いピンク色に染め上げていきます。
咲き誇るその姿は、
まさに春の喜びそのもの。
しかし、
満開の時期は長くは続きません。
やがて
花びらは風に舞い、
いさぎよく散っていきます。
この爛漫と咲き、
いさぎよく散る桜の姿に、
特別な感情を抱く人も
多いのではないでしょうか。
それは、
美しいものへの感謝、
そして、
過ぎゆくものへの
少しの寂しさかもしれません。
短いからこそ美しく尊い。
散るからこそ、
その一瞬の輝きが強く心に残る。
私たちは、
桜の姿に「一期一会」という言葉や、
物事の「儚さ」の中に「美」を見出す
" 日本の美学 " を感じるのではないでしょうか。
人生もまた、同じように
限りある時間の中で輝きを放ちます。
喜びも悲しみも、すべての瞬間が
「唯一無二」の二度とない " 宝物 " 。
桜前線を追いかけながら、
私たちは日々の生活の中で、
「今この刹那を大切に生きる」
ことの尊さを改めて感じます。
遠く離れた東の都で
日々合氣道の鍛錬に励む、
北の地を故郷とする愛しい弟子たち。
年に数えるほどしか会えないけれど、
きっと故郷の野山を淡紅色に染め上げる
桜を胸に、
今年もまた希望に満ちた春を
迎えていることでしょう。
今朝の神戸は
雨に煙る深い藍色に包まれ、
" かわたれ " にぼんやりと
浮かぶ街の灯りが、
まるで濡れた星の瞬きのよう。
そんなしっとりとした静寂の中、
ふと愛弟子たちを想った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 逃れられない繋がり "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 穀雨 (こくう) ・初候
七十二候
葭始生 あしはじめてしょうず
第十六候
二十四節氣は「清明」から「穀雨」へと移りました。
「葭始生」は4月19日~24日ごろに相当します。
水辺の葦(あし)が芽を吹き始める頃です。
葭は、「葦 」とも書き、軽く丈夫で葦簀 (よしず) などに利用されます。
今日のお題
『 のがれ られ ない つなが り 』
何か問題が起きたとき、
すぐに「あれは誰かのせいだ」と
考えるのは、
ある意味とても容易いことです。
全ての責任を他者に押し付け、
「自分は関与しない」という立場を取る。
それはとても氣楽なことでしょう。
しかし、
もし誰もがそのような態度を取り、
責任のなすりつけ合いばかりを
" 知らぬ " 、" 存ぜぬ " などと
するようになったら、
この社会はどうなってしまうでしょうか?
責任を逃れるための言い訳や理屈は、
探せばいくらでも見つかるものです。
法的な観点からも
" 無関係 " 、
" 自分には関係がない " 、
" 責任はない " 、
という場合もあるかもしれません。
しかし、
私たちは理屈や法律だけで
生きているわけではありませんね。
人と人が協力し、
支え合って生きる社会において、
「自分は一切関係ない」
「自分には何の責任もない」などと
いうことは " 一切あり得ない " のです。
一見すると
無関係に思える出来事でも、
様々な繋がりを通して、
いつか自分自身に
影響が及ぶ場合がほとんどです。
その繋がりがある限り、
私たちはそれぞれが深く自己反省し、
強い責任感を持つ必要が
あるのではないでしょうか。
全てを「他人のせいにしてしまいたい」
という氣持ちは、
人間の中にはあることかもしれません。
しかし、それは
" 勇氣がない " 、 " 心が弱い姿 " とも言えます。
そのような人ばかりの社会では、
自分自身の成長も、
日本の真の繁栄や平和も生まれませぬ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝
" 楽しさは自分の心がつくるもの "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 穀雨 (こくう) ・初候
七十二候
葭始生 あしはじめてしょうず
第十六候
二十四節氣は「清明」から「穀雨」へと移りました。
「葭始生」は4月19日~24日ごろに相当します。
水辺の葦(あし)が芽を吹き始める頃です。
葭は、「葦 」とも書き、軽く丈夫で葦簀 (よしず) などに利用されます。
今日のお題
『 たのしさ は じぶん の こころ が つくる もの 』
私たちは日々の生活の中で
「楽しい」と感じる瞬間が
どれくらいあるでしょうか?
そして、その「楽しい」は、
どこからやってくるものなのでしょうか?
美味しいものを食べたとき、
欲しかったものを手に入れたとき、
誰かに褒められたとき…。
もちろん、これらも楽しい瞬間です。
しかし、
江戸時代に「寛政の改革」を
行った人物として知られる
松平定信(楽翁)は、
このような言葉を残しています。
「楽しいと思っていると、楽しくなるものだ。楽しさを心の外に求めてはならない。」
約200年前のこの言葉には、
現代を生きる私たちにも通じる、
大切な人生のヒントが
隠されているように思います。
「楽しいと思っていると楽しくなるものだ」
という部分に注目してみると、
これは、私たちの心のあり方、
つまり「思考」や「認識」が、
現実の受け止め方や感じ方に
大きな影響を与えることを示しています。
たとえ客観的に見て特別な出来事が
何も起きていないとしても、
自分が「これは楽しいな」「面白いな」と
思って物事に取り組んだり、
日常の一コマを捉えたりすることで、
実際に心が弾み、楽しくなってくる。
心の持ち方ひとつで、
目の前の景色は全く違って見えるのですね。
次に、
「楽しさを心の外に求めてはならない」
という言葉です。
これは非常に深く、
現代社会において
特に考えさせられる部分ではないでしょうか。
私たちはついつい、
幸せや楽しみを
自分の外側にあるものに求めがちです。
物質的な豊かさ、
他者からの評価、
SNSでの「いいね」の数、
流行りのエンタメ…。
これらを得ることで、
一時的な喜びや満足感を得られることも
あるとは思いますが、
それらは常に変化し、
時には失われてしまう可能性もあります。
外にあるものに依存した楽しみは、
脆く、不安定なものではないでしょうか。
松平定信は、そうではなく、
楽しみは自分の「心」の内側に
見出すべきだと説いています。
自分の興味や関心に従って
何かを探求する喜び、
目標に向かって
努力する過程そのものの充実感や、
身近な人との温かい繋がりから生まれる
安心感や幸福感。
これらは、外部の状況に左右されにくく、
自分自身の中から湧き上がってくる、
より根源的な楽しみと言えます。
情報過多の現代だからこそ、
松平定信のこの言葉には
重みがあるように思います。
周囲との比較や、
流行に流されるのではなく、
自分の心と向き合い、
" 自分の感性を磨く " ための時間を
持つことが、
とても重要であると私は思うのです。
自分はどんなことに
時間を使っているときが一番心地よいか?
どんなことについて
考えているとワクワクするか?
季節の移ろい、
美味しい一杯のコーヒー、
思わぬ人との会話など、
見過ごしがちな日常の中にも
楽しみの種はたくさんあります。
「楽しいと思っていると楽しくなる」
という言葉は、単なる氣休めではなく、
私たちの心の状態は、
行動を促し、人間関係を形成し、
やがて
現実を創り上げていく力を持っています。
幸せや楽しみの源泉は、
他でもない自分自身の心の中にあります。
外側にばかり目を向けるのではなく、
自分の内なる声に耳を澄ませ、
心のあり方を整えることで、
私たちはより豊かで満たされた
「楽しい」人生を
自らの手で創り上げていくことが
できるのではないでしょうか。
自分の心の声が求める「楽しみ」を見つけ、大切に育てていきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝