" 天地万物すべてわが師匠だ "
コンビニやスーパーのレジで
氣持ち良く対応してくれた
店員さんには
誰でも感謝する。
反対に
無愛想で横柄な
対応であったらどうだろうか。
誰も良い氣はしないに違いない。
でも「何故その人は
そのような態度をとるのだろうか」と
疑問を持ち、
周囲を見渡してみれば
自分の後にレジを待つ人が
大勢並んでいたりする。
「ああ、この店員さんは
次々とやって来る客に
対応しきれないでいるのか」
また
自分以外に
誰もレジ待ちしていない
にも関わらず、
そのような態度であったら
「何か心配事でもあるのかな」とか
常に疑問を持って、
"求める心"を持った人は
己がどのような
状態であっても
お客様に氣持ち良く接して、
次の来店に繋がるよう
努力することが
自分の仕事であると、
その店員さんから
学ぶことができ、
自身の氣付きとなる。
この店員さんから
教わったことであるから、
その店員さんが
先生である。
求める心が
強ければ強いほど、
日常至るところに
学びがあり、
「天地万物すべてが、わが師匠となる」
何も考えず、
呆けていては
何を見ても
何も感じない。
道場長 拝
"人の後ろ姿が本心だ"
あらゆる場所でも、
あらゆる時であっても
人は
入ってくる時は、
好印象を相手に与えようとする、
いわゆる別の自分を作り上げる、
よそ行きである。
反対に、
出ていく後ろ姿に、
本心
いわゆる
本当の自分が表れる。
私の主宰する道場において、
入会時は誰でも
「一生懸命やります」と
決まって
よそ行き顔だ。
しかし、
訳あって
退会するような時には、
捨てセリフを吐いたりして
本音を出す。
自身が指導する
教室を持っているにも
関わらず、
後始末さえ出来ずに
辞めていく者など、
様々だ。
口では
一人前の事を言っても、
それが
その人の本心であり、
なんとも
情けなく
弱い心の持ち主だ。
人は出ていく後ろ姿に、
その人の本当の本心と
人格が表れる。
その後ろ姿こそが
その人の普段の様子なのだ。
道場長 拝
"ことばはスズメではない。行ってしまったら、もう二度とつかまえられない"
「ことばはスズメではない。行ってしまったら、もう二度とつかまえられない」
ロシアのことわざである。
ひとたび
口から
出てしまった言葉は、
どんなことをしても
取り消すことは
出来ない。
相手を傷つける
内容であれば、
円滑な
人間関係を
損なう
きっかけになる
危険性は充分にある。
でも、
相手を喜ばせる
内容であったら
どうだろうか。
誰でも
自分にとって
都合のよい、
嬉しい話は
無条件で
信じてしまうだろう。
嬉しい話を聞いて、
それがいつ
実現されるのかと、
わくわく
期待している人を、
故意ではなくとも、
結果的に
裏切るような
言動があったら
どうだろうか。
裏切られた者は、
傷つき、
不信感が
心に芽生え
育ってゆく。
それを何度も
繰り返されると
その人は
そのような
人なんだ
という
想いが
深く
潜在意識に
刻み込まれる。
やがて
その人の
信用は
地に落ちる
こととなる。
道場長 拝
"吹く風に 沖辺の波の高けれど 心静けき 我港かな"
" ふくかぜに おきべの なみの
たかけれど こころ しずけき
わが みなと かな "
これ迄の
幸福があるのは
神の御恵(みめぐみ)と
祖先の守護に
よるものなので
安心せず
自分も
人を慈(いつく)しみ
世の為めに
尽せば
いよいよ
運盛(うんさかん)に
他所(よそ)は
嵐吹きても
自分の所に
何事もなく
幸(さいわい)多し
忘れなきよう
今を生きよう
道場長 拝
"一人でも多くの命が救われますようお祈りしています"
令和6年能登半島地震、
そして
日航機と
海上保安庁の航空機の
羽田空港火災と
元旦、二日に
立て続けに
起こった
天災と事故で
被災された方々、
お亡くなりになられた方々と
そのご家族のことを
思うと
「あけましておめでとうございます」
という氣になれません。
令和6年
能登半島地震に伴う
災害に被災された
方々とそのご家族、
また
被災地救済
という
尊い任務のなかで
犠牲になられた
海上保安官の
御霊に
哀悼の意を表し、
日航機、
海保機で
事故に遭われた
方々と
ご関係者に、
心より
お見舞い申し上げます。
被災地救済においては、
一人でも
多くの命が
救われますよう
お祈りしています。
崩れた家屋の
瓦礫を剥がすのは
自衛隊以外に
出来ません。
自衛隊員の皆様、
レスキュー隊員の皆様
ありがとうございます🎌