2024-04-23 07:57:00

" 教えるは学ぶの半ばなり "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『おしえるはまなぶのなかばなり』

 

 

 

 

 

教えることの半分は

 

自分が学ぶということである。

 

 

 

教えるとは

 

学ぶということであります。

 

 

 

 

 

 

 

合氣道の師範をしていると、

 

本当にそうだと実感する。

 

 

 

 

 

同じ稽古をしていても、 

 

 

 

 

 

お弟子さんを持っているか、

 

持っていないか、

 

 

 

人前に立つ人と

 

立たない人では

 

全く違うのである。

 

 

 

 

 

お弟子さんを

 

投げることができなかったら、

 

師範とは言えない。

 

 

 

姿勢が乱れていては

 

師範とは言えない。

 

 

 

おどおどしているようでは

 

師範とは言えない。

 

 

 

お弟子さんを

 

上達させなければ

 

師範とは言えない。

 

 

 

 

 

 

 

だから、

 

本氣でなければ

 

師範にはなれない。

 

 

 

 

 

 

 

人を教えようと思えば、

 

自分で得心がいくまで

 

学ばなくてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

従って、

 

人を指導する立場の人は

 

著しく進歩するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

その意味で

 

人に教えることは

 

とても良いことである。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

 

 

 

この理を

 

分からない者も大勢いる。

 

 

 

 

 

 

 

誰でも

 

一年習えば一年分の、

 

五年習えば五年分の

 

先生でもある。

 

 

 

 

 

 

 

「私はまだまだ未熟者です」

 

 

 

「人前になど立てません」

 

 

 

「教室を持つ時間などありません」

 

 

 

 

 

このような言葉を聴いたり、

 

 

 

そうは言わなくても

 

心ではそう思っている

 

人も大勢いる。

 

 

 

 

 

そういう人は

 

いつまでも

 

 

 

小人の域から

 

抜け出すことは

 

出来ないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

謙虚と言えば

 

謙虚ではあるが、

 

 

 

 

 

 

 

「本当の謙虚」とは

 

 

 

 

 

師範にそのように

 

言われた時は、

 

 

 

 

 

「はい。分かりました」

 

「やってみます」と

 

 

 

 

 

返事することを

 

謙虚というのだ。

 

 

 

 

 

 

 

自分さえ学ぶことが

 

出来たら良い。

 

 

 

 

 

自分より先輩がしていないのに、

 

自分などおこがましい。

 

 

 

 

 

こういうのを

 

慢心と言い、

 

傲慢という。

 

 

 

 

 

自分の成長と上達を

 

自ら止めている

 

ことにすら氣付いていない。

 

 

 

 

 

大変愚かなことでありまする。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-04-22 07:30:00

" 魔に再びすれば斯に可なり "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

『まにふたたびすればここにかなり』

 

 

 

一度だけではなくて、

 

もう一度検討してみる。

 

 

 

あらゆる角度から見てみる。

 

 

 

 

 

たとえば文章も

 

推敲を重ねると良くなる。

 

 

 

書きっぱなしではなく

 

文章を十分に

 

考え練りなおすことが重要です。

 

 

 

何度も何度も

 

読み直して

 

手を入れるから

 

良くなるのです。

 

 

 

 

 

何事もやりっぱなしに

 

しないということです。

 

 

 

 

 

思いつきだけで

 

終わらせず、

 

再び考えてみる。

 

 

 

 

 

何事も

 

「再び」というのが

 

上達する上で

 

とても重要な

 

ファクターなのでは

 

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-04-19 07:18:00

" 今が私の『一大事』 "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

いまがわたしの『いちだいじ』

 

 

 

これは「一大事だ」

 

火災や地震など

 

容易ならぬ出来事や、

 

 

 

重大な事態や事件等に

 

使われる言葉ですね。

 

 

 

 

 

また

 

「これは人生における一大事だ」

 

 

 

大怪我や大病、大事故、

 

結婚や出産、

 

受験や就職など。

 

 

 

 

 

一大事は人それぞれ

 

個人差があるでしょうから、

 

一概には言えませんが、

 

 

 

人生において

 

そのような緊急事態は

 

そう何度も経験するものでは

 

ないのかなと思います。

 

 

 

 

 

今この瞬間より

 

一秒前に起こったことは

 

すでに過去の出来事であり、

 

 

 

一秒後の未来は

 

今この瞬間には

 

まだ訪れていません。

 

 

 

 

 

そう考えると

 

「今この瞬間こそが人生の一大事」

 

 

 

今この瞬間を

 

一生懸命

 

生きることが

 

人生で最も大切なことであり、

 

 

 

今この瞬間を

 

生きることしか、

 

 

 

私達人間には

 

出来ないことでありますね。

 

 

 

 

 

「この瞬間、瞬間」

 

 

 

それが人生の一大事であり、

 

生きることは

 

一大事の連続です。

 

 

 

 

 

この瞬間を大切に、

 

天地大自然が

 

見せてくださる

 

季節の移ろいや、

 

 

 

日々の出来事を

 

よく味わい

 

噛み締めながら、

 

 

 

それぞれの

 

人生の一大事を

 

心穏やかに

 

生きていきたいものですね。

 

 

 

 

 

最後まで読んでいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-18 07:57:00

" 人知らずして慍らず "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『ひとしらずしていきどおらず』

 

 

 

 

 

自分が能力のある

 

人間であることを

 

人が知らなくても、

 

決して憤慨しない。

 

 

 

 

 

そういう人はまた一流である。

 

 

 

 

 

自分は自らの

 

求めるものに対して

 

淡々と行動する。

 

 

 

「やるべきことをやる」

 

のみであって、

 

 

 

 

 

それを他人が

 

認めようが認めまいが

 

一喜一憂する必要はない。

 

 

 

 

 

 

 

たとえ誹謗中傷されたとしても、

 

怒ったり恨んだりしない。

 

 

 

 

 

 

 

道の向こう側で

 

大勢の人々が

 

騒ぎ立てようが関係ない。

 

 

 

 

 

「それがどうした」

 

 

 

 

 

自分が志した

 

信じた道を

 

一人で悠々と歩くのだ。

 

 

 

 

 

人の上に立つ者であれば、

 

そういう人になりたいものである。

 

 

 

 

 

 

最後まで読んでいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-04-17 07:00:00

" 師厳にして然る後に道尊し "

今朝も目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

『しげんにしてしかるのちにみちたっとし』

 

 

先生は厳しくあるべきである。

 

先生が厳かでなければ

その教えは尊いものにはならない。

 

ふにゃふにゃ、

なよなよしている

先生の教えなんて

誰もありがたがらないのである。

 

責任感が希薄で、

かえって迷惑だ。

 

 

人前に立って

何かを指導する

立場にある者は、

 

与えられた時と場を

完全に取り仕切らねばいけない。

 

 

先生が

全身から強い

プラスの氣を出していれば、

 

その場の生徒も

その氣を察知する。

 

教室全体を

自ら発する強いプラスの氣で

覆い尽くしておかねばならない。

 

 

学校で生徒が授業を聴かず、

妨害して私語をしたり

スマホをいじったりすることを

嘆く先生がいると聞く。

 

なんと情けないことだろう。

 

そのような人間は

学校の先生になど

ならない方が良い。

 

 

どうして

そういう生徒に

「授業を受ける氣がないのなら受けなくて良い」

と教室を出てもらわないのか。

 

 

有名アーティストの

ライブ会場なら、

うるさい人はつまみ出され、

今後出入り禁止という

厳しい処置がとられる。

 

 

教室がライブ会場以下では

いけないのではないだろうか。

 

 

今一度、

人前に立って何かを指導する

立場にある人は

 

氣を学び、

全身から氣を出すことから

始めなければならない。

 

 

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝