" プラトーという名の平地があるよ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『プラトーという名の平地があるよ』
合氣道の上達というのは
決して正比例グラフの
ようにはいかない。
それは
どのような競技や
スポーツも同様だ。
少し坂を登ったら、
長い平地を歩く、
そして
また少し坂を登って、
また長い平地を歩く。
こんな感じで
上達するということだ。
長い平地が
努力を重ねる
時間であり、
登り坂が
上達と思ってもらえば
いいだろう。
この長い平地である
水平の状態のところを
「プラトー」と呼ぶのだ。
プラトーとは
技能の学習過程で、
一時的に
進歩が足踏みする状態。
学習曲線が
この時期に高原状となる。
高原現象。
従って、
ここでは、
いくら努力をしても、
見た目には
上達しない
ということであり、
その実感すらないのだ。
それは
努力をしている人に
「誰にでも」
起こることなのだ。
どれほど
身体能力に優れ
素質のある人でも、
どんなに
一生懸命に
正しい練習を重ねても、
ここでは
上達しない
ということなのだ。
それに氣が付かない、
又は、
そういうことを
知らない人が、
そこで
挫折してしまうのだ。
それは
非常にもったいない
ことである。
変わらず
弛まぬ努力を
重ねていけば、
また次の
上達のラインに入れる。
しかし、
プラトーの間に、
「稽古しても上達しないから無駄だ」
とか
「いくらやってもだめだ」と、
稽古をやめてしまったら、
絶対に
次の上達ラインまで
いけない
ということなのだ。
でも、
あきらめずに続ければ、
また必ず上達する。
それは表現を変えると
「プラトーの間にも目には見えない実感しないところで、実は進歩が進んでいる」
「上達というグラスに実力という水が貯まっている」
ということだ。
水を貯めていた
グラスから
水が溢れ出すときが
上達なのだ。
グラスに水を注いでも、
すぐには溢れない。
溢れ出てくるまで
注ぎ込まねばならない。
登り坂を
登ったからこそ、
プラトーに辿り着いた。
従って、
プラトーに辿り着いた
ということは、
進歩したから
辿り着いたのだ。
一度、
それを経験すれば、
後は
同じことの繰り返しだ。
次のプラトーが
出現したら、
「おっ!上達したな」と
思えば
良いのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 守りたくても守れない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『まもり たくても まもれ ない』
私達の身体は
生まれる前から
出来上がっている。
まだ生まれる前、
まだ人間になる前から、
お母さんの胎内で10ヶ月
すでに身体は
組み立てられている。
見るために眼と、
聞くために耳と、
食べるために口と舌と、
呼吸するために鼻と、
働くために手と足と、
内蔵も出来上がっていた。
こちらから
「お願いいたします」
などと
頼んでもないのに。
願ってもないのに、
祈ってもないのに、
考えもしないのに、
生まれてから
必要なものは
全て揃っていた。
生きてる間中、
心臓は動き続け、
血液は循環する。
一瞬たりとも止まらない。
今更
そのような当たり前の
話をしてどうするんだ。
そう思われるかも知れない。
しかし、
そのことを考えてみる。
その当たり前のことに
真理があるからだ。
私達人間の
生みの親は
天地大自然である
ということだ。
「この子は私達の子」であると
両親が言っても、
その両親が
手も足も口も耳も眼も
内蔵も作ってあげたのではない。
勝手に備わったのだ。
そうであるなら、
私達人間は皆、
天地大自然に
生命を守られて産まれ、
今も生きていることが
自覚できる。
従って、
「我が身は守る必要はない」のだ。
自分で自分のことを
守りたくても
守れないのだ。
なせなら、
その必要がないからだ。
その真理を
分かろうともせず、
自分のことを
守ろうとするから、
心身が弱くなるのだ。
守れば守るほどに
弱くなるのだ。
それを「無理」というのだ。
理に適っていない
ということである。
従って、
天地大自然の
大恩に感謝して、
これに報いる道は
自分にできることを
精一杯やる。
命の限りやり尽くす。
他者のために
持てる知恵と力を
しぼりきる。
出し惜しみするな。
あっという間の人生だ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 塵も積もれば "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ちり も つも れ ば』
"塵も積もれば山となる"
という諺がある。
ごくわずかのものでも、
積もりに積もり
重なれば
大きな結果に
つながることの
例えだ。
小さな違いが
やがて
ものすごく
大きな違いになる。
これは
歳を重ねるに
したがって
実感としてわかる。
中学生や
高校生の時は
みな誰しも
似たようなものだが、
五十代や
六十代、
七十代の頃に
同窓会に出席してみれば
愕然とするものだ。
"塵も積もれば山となる"
これは
学ぶことにおいても、
日常の行いにおいても、
当てはまる
教訓でありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 切れば血の代わりに、思いが溢れ出てくる "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『きれ ば ち の かわり に おもい が あふれ でて くる』
願いや思いを
成し遂げるためには、
ただなんとなく
思ったのでは無理だ。
生半可なレベルではなく、
寝ても覚めても
四六時中、
強烈な願望として、
物事を思い続け、
考え抜く
心の姿勢がなければ
成し遂げることはできない。
例えば
「姿勢が良くなりたい」と
思えば、
朝起きた瞬間から
意識せず自然に、
それが頭に浮かんでくる。
そして
そうなるために、
一日中
それを実践実行する。
ほんの僅かな
心の緩みもない。
一日中
そのことばかりを
考え抜く。
それを
最低二年間、
寝食を忘れ没頭する。
それが
スタートラインだ。
頭の先から
つま先まで
全身
その思いを
充満させて、
腕を切れば
血液の代わりに
「その強烈な思い」だけが
流れ出てくる。
それほどまでに、
ただひたむきに、
ひたすら強く
一心に
思い続けること。
それが
物事を成就させる
起爆剤となるのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" あんた、なんのために生きてんのや。よう考えや "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『あんた、なん の ため に いきて ん のや。よう かんがえ や』
地球上に存在する以上、
地球を構成するために
必要なものだ。
もっと言えば、
今ここに存在する以上、
宇宙を構成するために
必要なものだ。
存在する
全てのものは
必然として
存在しているのです。
太陽も水も空氣も
砂も石も草も木も
虫も動物も。
そして
私達人間も。
従って、
存在するからには
何かしら、
役割があるはずだ。
役割。
存在する意味。
存在する
値打ちがなくなれば、
もういらなくなる。
命あるものは
死ぬということだ。
存在するからには
責務があるはずだ。
せっかく
人間として
生まれてきたのに、
それを考えようともしない。
バカもいる。
自分のことしか
考えることができない
大バカものだ。
自分のことは
可愛くて可愛くて
しかたがない。
でも
自分で自分を守れない。
強くなりたくて
仕方がない。
でも
強くなれない。
あんたな、よう考えや。
この世に
存在する値打ちを。
責務をよう考えや。
それは
世のためになることや。
人のためになることや。
それが
できるようになったら、
あんたの願いは
叶えられるわ。
まあ、
せいぜい
生きてるうちに
やることやな。
自分のことには
人は力を
あまり出せないのや。
でもな、
人のためやったら、
ゴジラ並みのパワーが
出せるのや。
それが人間なんや。
ついでにな、
私も遠い昔は
大バカものやったんや。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝