" 人の氣持ちを酌める人間でありたい "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『ひと の きもち を くめる にんげん で ありたい』
合氣道の稽古では
必ず相手がいます。
投げる人と
投げられる人。
この関係がなければ、
合氣道の技としては
成立しません。
なぜなら
合氣道には
試合がないからです。
勝ち負けがないのです。
一部、試合が存在する
流派もありますが、
少なくとも
合氣道琴心館寺崎道場では
勝ち負け、
優劣、
強弱はありません。
「投げて喜び、投げられて喜ぶ」
という武道なのです。
昇級や昇段には
審査があり、
その審査基準の
技を習得し、
どれだけ落ち着いて
できるかが試されます。
また、
年に一度の
演武大会も同様に
緊張する場面で、
どれだけ
普段通りの自分を
出せるか、
ここでもやはり、
落ち着きが
試されるのです。
技を覚える段階では
落ち着くことなど
できません。
「左手はこう出て、右足を後ろに引いて」など、
このように
形を覚えている間は、
そちらの方に
氣をとられて、
投げる側も
投げられる側も
落ち着いて
稽古できません。
これは仕方のないことです。
頭で考えなくても
身体が勝手に
反応し、動く状態にまで
ならないと、
真の落ち着きを
体感することはありません。
例えば、
私達は食事の際に
「お箸はどちらの手で持つのかな」
などと考えませんね。
いつでも、
さっとお箸を持って
食べ物を口まで
運ぶことができます。
これは
「潜在意識の深い部分」まで
入っているからです。
従って、
合氣道においても
潜在意識にまで
深く浸透するまで
技を稽古しないと、
本当に
落ち着くことは
できないのです。
その稽古において、
もういつぱいいっぱいだ、
しんどい、辛い、苦しい、
痛い、などと
口にしているようでは、
真の落ち着きを
習得することなど
到底できない。
そういう人は
合氣道を学ぶ意味を
分かっていない。
正に本末転倒である。
また、
そういう人の言葉は
全部自分のことだけだ。
「あんなに苦しかった、こんなに大変だった、もういっぱいいっぱいで、しんどいんだよ。」
いつも
自分のことだけを
口にする。
「うんうん、そうだよね。
大変だったんだよね。
でもね、
そのとき、
まわりのみんなは
どうしてくれた?
あなたに
投げられもしたし、
技も教えてくれたよね。」
師範の私が
お弟子さんに
技の技術を教えるのは
当たり前のことだ。
しかし、
私以外の
お弟子さん達は、
あなたに投げられて、
「もうしんどいんだよ」
とは言わなかった。
あなたに技を教えて、
受け身をとってあげて、
恩着せがましく言う
お弟子さんなど
いないのだ。
そういう氣持ちを
しっかりと
酌むことが
できないなら、
まだまだだね。
それが
できるようになったら、
合氣道を学ぶ意味が
分かるのだろうね。
やっと
スタートラインに
立てるのだろうね。
自分に都合の
よいことばかりでは
人は成長しない。
社会というのは
自分の思い通りに
ならないことのほうが、
圧倒的に多いのだ。
人間というのは
「人の間にあるから人間なのだ」
合氣道の稽古を通じて、
相手の心を酌み、
自己を磨き、
相手を認めて感謝し、
投げて喜び、
投げられて喜ぶのだ。
それを学ばないといけない。
そして、
「真の落ち着き」という
合氣道の本来の
意味を良く理解し、
それを習得して、
各々の生活に
役立ていただきたい
ものでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 鉄のような、水のような、心でありたい "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『てつ の よう な 、みず の よう な 、こころ で ありたい』
刀剣を作る際に
金属を打ち
鍛えて錬る。
鉄は堅いが、
鍛錬され形を変える。
私達人間も
同じように、
日頃の鍛錬により
心身ともに
強くなるのだ。
考え方や生き方も
鍛錬により、
いかようにも
変えることができる。
「頑固一徹(がんこいってつ)」とは、
かたくなに
考え方を変えず、
最後まで
押し通すさまのことである。
一見、
何事にもぶれない
一本筋の通っているさまで
あるかのようだが、
そういう人間は、
日々鍛錬していないだけの
人のことである。
心が弱い者ほど
変わらないのだ。
怖くて怖くて
変われない
弱虫だ。
真の心の強い者は、
自分の悪い行いは、
直ぐ改善しようとする
心身の鍛錬を怠らない。
その結果、
いかようにも
自分を変えることが
できるのだ。
水のように。
丸い器に入った水は、
そこに収まる。
四角い容器に入った水は
丸くはならずに、
その容器に収まる。
まさしく
柔軟そのものだ。
心も
柔軟でなければ
強くはならない。
打ち鍛えられた
鉄のように、
いかようにも
周りへ調和する
水のように、
私達も
少しずつでも
自己を向上させ、
前進していきたいもので
ありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 分かる技でなく、楽しむ技でありたい "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『わかる わざ でなく、たのしむ わざで ありたい』
技を深く研究し、
稽古することは
とても大切なことだ。
しかし、
難しいことだらけの
うんちくに
なってしまっては
つまらない。
深く追求し
習得した技なら、
それを楽しみながら、
味わいながら、
決してなぞらず、
極めていきたいものだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 利他と利己 "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『りた と りこ』
他者を思いやり、
尊重し、尽くして
人のために生きる
利他の心。
一方で
自分さえ
良ければ良い、
他者の足を
ひっぱってでも、
引きずり落としてでも、
自分が得して
幸せになれれば良い
利己の心。
その相反する
二つの心が
私たち人間には
必ずある。
利己、
それは人間の
生まれ持つ
煩悩であり、
欲望であり、
本能なのかもしれない。
私達が
生きていく上で、
ある意味
仕方のない、
ある意味
必要な心なのでは
ないだろうか。
なぜなら
私達は、
あらゆる
動植物の命を
いただかなければ、
生きてはいけないからだ。
私たち
人間は
そういうふうに
天地大自然により
作られている。
そうであるなら、
この相反する
二つの心を
どう使えば
良いのだろうか。
真っ当な
人間として、
私たちが
できることは
なんだろうか。
考えてみる。
それは
利他の心が
有する割合を
最大限に多くして
最優先し、
利己の心を
できる限り少なくする
ことではないだろうか。
少しでも
利他の心を磨いて
世のため、
人のために、
人間として
向上、成長していきたいものだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 真人の息は踵を以ってし、 衆人の息は喉を以ってす "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『しんじん の いき は かかと を もって し、 しゅうじん の いき は のど を もって す』
中国の思想家である
荘子によると、
どんなときも
冷静で公平な、
道理を悟った人のことを
「真人(しんじん)」と
呼ぶそうです。
今日のお題である、
" 真人の息は踵を以ってし、 衆人の息は喉を以ってす "とは
人々は常に呼吸しており、
その呼吸によって
「真人」を表現しています。
私たちは、
誰もが絶えず
息をしています。
一般人は
浅い呼吸を
喉元で行うため、
緊張したり
感情的になる
傾向がありますが、
真人は
かかとから
深く息を吸い、
頭まで氣をめぐらせ、
かかとから
静かに息を吐く。
このように
真人の呼吸は
極めて深い境地を
示すものとされています。
消極的な感情に
囚われた際には、
まず真人のように
深い呼吸をして
心を落ち着かせる
ことが重要ですが、
真人が
ここで説いていることは、
それだけではありません。
あなたは
そこに氣付いていますか?
「かかとから静かに吐く」
とは、
意識を身体の最下部に
置くということなのです。
意識を身体の最下部に
置くから、
心が静まるのです。
それを
「真のリラックス」
というのですね。
そこで
合氣道寺崎道場で行う
呼吸法が役に立つのです。
やり方は
とてもシンプルであり、
通常の呼吸の延長です。
まずはゆったりと
仙骨を起こして
座りましょう。
必ず吐くことから
始めます。
アイウエオの
「ア」の形に口を開け、
頭の先から
足の指先まで、
ゆっくりと少しずつ
吐いていきましょう。
吐ききったら、
口は開けたまま
少し上体が前傾します。
2~3秒の間、
口は開けたままです。
少し上体を
前傾させたまま、
口を閉じ
鼻から静かにゆっくりと
吸っていきます。
足先から少しずつ
上半身に上がっていき
肺に達しても、
そこで止めずに
首を通って
頭部の先まで
吸い込みましょう。
2~3秒の間、
静かに心を静めて、
また口から吐き出します。
初心者は
吸氣の際に上半身が
力みがちになるので、
短めの呼吸から
始めてみましょう。
身体の
全ての部分の重みを、
その最下部に置き、
正しく続ければ、
誰でも真人の説く、
究極の境地に
至ることが
できるのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝