" 腹が減っては戦はできぬ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『はら が へって は いくさ は できぬ』
昨日、
靖國神社に参拝した。
わが国の平和と繁栄は
246万6千余柱の
英霊の尊い
いしずえのうえに
築かれていることを、
われわれ日本国民は
決して忘れてはなりません。
靖國神社内苑にある
遊就館には
幕末以来、
国のために尊い命を捧げ、
靖國神社に祀られた
御祭神の貴重な遺品、
さまざまな戦争に関する
史資料、武具甲冑、
宝物などを保存、
展示されている。
ここに来れば、
近代日本の歩みを
知ることができる。
その遊就館の
今年の特別展は、
軍隊と「食」がテーマでした。
遊就館収蔵の
御遺品の中から、
「食」にまつわる
品々を展示、
エピソードをそえて
紹介されていました。
また
例大祭をはじめ
様々な祭典にかかせない
「神饌」(神様へお供えする食事)や
全国から奉納される
まごころこもる品々が
紹介され
英霊奉慰のために
「食」を捧げる
重要性について考え、
陸海軍の
「兵食」の
歴史をひも解き、
当時のレシピを
再現されていました。
ご本人のものであることが
推測される
名前の書いた
凹みや錆のある水筒や、
硫黄島(いおうとう)で
発見された
焼け焦げた乾パンなど。
その中で
当時の写真と共に
こんな言葉が
書かれてありました。
それは
「戦場で兵士が最後まで持っていたのは武器弾薬ではなく食事に必要な飯ごうの中ぶたとスプーンだった」
それを見た時、
私はその場から
少しの時間動けなかった。
食料も水もない硫黄島で
どうやって
戦ったのだろうか。
食べることも
飲むこともできない、
いつ死ぬかもしれない
極限状態で、
戦うことなど
できるものなのか。
硫黄島には
川がないから、
飲水は雨水を貯めた
ドラム缶の中の熱湯なのだ。
それも
自分や家族のためでもなく、
後世の我々のためだけに
命を捧げられた。
その事実の上に
今こうして
私達は何不自由なく
生きているのだ。
「食べる」
ということは
生きていく上で
基本中の基本だ。
思えば、
私の母も
「コーヒーをがぶ飲みしたい」、
「スイカを食べたい」など
亡くなる数年前には
食べることしか
言わなかった。
心臓の手術から
誤嚥性肺炎を引き起こし、
亡くなる前の5年間は
食べたいものも
飲みたいものも
誤嚥するから許されず、
寝たきりだった。
小学校からの友人も
ガンで亡くなる前の
数年間は
食べ物の話しかしなかった。
日常生活のなかで
普通に
腹が減り、
腹が減ったら、
いつでも
好きなものを
食べることができる
ということが、
どんなに
幸せなことなのだろう。
ついつい、
仕事や家事、子育てに
追われる日々のなかで、
私たちは
大切なことを忘れている。
腹が減ったら
食べるということは
決して
当たり前ではないのだ。
「腹が減っては戦はできぬ」
人や国や
相手と戦うことだけではなく、
腹が減っては
生きるという
基本の生活すら、
ままならない
状態になるのだ。
それを思えば、
私たちの
苦労や悲しみなど、
苦労ではなく、
悲しみなどではない。
だって
腹が減ったら
食べれるのだから。
それだけで幸せですよ。
あらためて、
食べる、飲める
ということに
感謝して、
私達は
生きてゆかねば
なりませぬ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝