" 応援される人になりたいものだ "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おうえん される ひと に なりたい ものだ』
合氣道の稽古は
一人では出来ない。
相手がいるから
技が成立して、
投げたり、
投げられたり、
という稽古ができるものだ。
寺崎道場の合氣道は
勝ち負けがなく、
投げて喜び、
投げられて喜ぶ。
それでこそ、
和を尊ぶ武道
ということだ。
より盤石な姿勢を
保持した相手なら、
簡単には
投げることができない。
しかし、
その簡単には
投げることができない
相手を投げることが
できたら、
その人は、相手以上に
盤石な姿勢を
保持している人である。
したがって、
それ相応に
進歩したという
ことになる。
そうして、
投げは受けのために、
受けは投げのために、
お互いを高め合う。
それが尊いのである。
しかし、
頭では理解できても、
うわべだけでは
そう簡単に
何事も上手くはいかない。
相手が機械で、
ロボットを操作するなら
まだしも、
相手は人間だ。
教える側も
教えられる側も
投げる側も
投げられる側も
同じ人間だ。
人間には心がある。
「この人なら応援してあげよう」
別に特別な理由なく、
そう思う人がいる。
一方で、
応援したくなくなる
人もいる。
指導者は
皆、平等に
分け隔てなく
指導しなくてはならない。
それは常に根底にある。
しかし、
心の無意識の領域に、
応援したくなる人、
応援したくなくなる人。
それが存在するのだ。
指導者も心を持った人間だ。
何を教えても、
感謝の心がなく、
顔の表情すら変えず、
無愛想な人には、
当たり前のことだが、
応援したくなくなる。
一方で、
別に大したことを
教えたわけでも無いにも
関わらず、
とびきりの笑顔で、
「ありがとうございます」と
目を見て、
心から感謝できる
ような人には
「応援してあげよう」
という氣にもなるものだ。
そういう人を
素直な人というのだ。
合氣道に限らず、
物事が上手くいく、
また人として成長する、
それは素直な心が
なければ成就しない。
自分一人で
できることなんて、
たかがしれている。
人は皆、
助け合って
生きていくものだ。
応援したくなくなる人には、
人は寄ってこない。
ひねくれ者には
そのうち、
誰も近寄らなくなる。
合氣道の稽古とは
生き方を勉強する
ためにあるのだ、
私はそう確信している。
あなたは、
応援したくなる人、
それとも、
応援したくなくなる人、
あなたは、素直な人、
それとも、ひねくれ者、
さて、
あなたはどっちだ?
道場で
確かめてみるとよい。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝