" いき る "
生きるとは
呼吸そのものです。
呼吸している間は
生きているということですね。
『いき る』
「いき」は息であり、
私達が自然にしている呼吸です。
「る」とは
物事が継続して
おこなわれるときに
つける接尾辞であり、
ずーと続いているという
意味になります。
ということは
「いきる」とは
呼吸が続いている
ことであります。
「いき」が
「る」しなくなったときが
死ぬときですね。
従って、
生きている間の
呼吸が大切です。
呼吸にも「質」があります。
健康な人の呼吸は
深くて長く、
不健康な人は
粗くて短い呼吸をしています。
静かに
息を吐きはじめます。
そして吐き終わりの息が
無限小に静まります。
吐くだけ吐いたら、
後は身体が自然に
鼻から吸ってくれます。
「いき」が
「る」している間は
一瞬たりとも
途切れることのない呼吸ですから、
質が大事です。
道場長 拝
" 傲慢は倒れる 耳は二つに口は一つ "
物体は重心が高くなれば
倒れやすく脆くなる。
これは
人でも会社や組織でも
同じことだ。
トップに立つ人間が傲慢なら、
その会社が滅びるのは
時間の問題だ。
傲慢は学ぶことを
忘れ止めてしまう。
いつも謙虚な心で
聴く耳を持つことが
傲慢にならない
一つの方法ではないだろうか。
人間は
耳は二つあるのに
対して
口は一つである。
これは何を意味するのだろうか。
何故、耳は二つあるのか。
人の話をよく聴くため
ではないだろうか。
自分にとって
耳が痛いであろう
苦言、諫言など
自分の非を改めるよう
注意してくれる存在に
感謝と歓迎の
心を持つことが
肝要ではあるまいか。
愚者は大体傲慢であるから、
その存在を
遠ざけてしまい
学ぶ場を失って
成長を自ら止めてしまう。
やがて病にさいなまれ、
身も心も崩壊するだろう。
このような愚者に
将来待っているものは
難聴である。
何故なら
人の話を聴くことが
できないなら、
耳は必要なくなる。
自分がまいてきた種は
自分が刈り取ることになる。
怖ろしい天地の配剤なのだ。
道場長 拝
" 沖に出る 岸に帰る "
サーフィンで
パドリングしながら沖に出る。
波に乗るためだ。
来る波来る波が
沖に出るのを邪魔する。
なかなか沖に出ることができない。
相当の時間と体力を使い
何とか沖に出る。
沖から来る波に乗る。
あっという間に岸にたどり着く。
波に乗っている間は
その場に踏みとどまる
ことすら出来ない。
あれほど沖に出るための
苦労をしたのに、
岸にたどり着く
あまりの早さに驚く。
これは人の下降の速さを
教えているように思える。
何かを学び会得するために、
また職場での地位も
弛まぬ努力と長い年月を要した。
しかし、
ほんの僅かな判断のミス、
短氣、怠け癖、氣の緩みが
一瞬にして破壊に通じる。
寝る前の僅かな時間でも
今日一日の自分の言動、
振る舞いを思い起こして、
反省すべきは反省し、
過ちを改善せねばなりませぬ。
道場長 拝
" 今朝も目が覚めた、有り難い "
今朝も目が覚めた。
今日も生きることが
出来たことに感謝だ。
今日も生きるからには、
今日やるべきことを
一生懸命やろう。
今日は
目覚めることができたが、
明日も
目が覚めるかは分からない。
人はいつかは死ぬんだ。
この誰でも分かることが
分かってない人が非常に多い。
今日が
人生最後の日
かもしれない。
だから
出し惜しみはしない。
明日やろうという
考えは浮かばない。
なまけて死にたくない。
だから、なまけない。
稽古を休もうとは思わない。
今日もすべてを出しきる。
しぼりきる。
これを毎日続けるから
心はいつも
晴れ晴れとしている。
これを健康というのだ。
これを強い心というのだ。
小学生でも分かることだよ。
道場長 拝
" 賢者と愚者 "
技を通じて
相手との適切な
距離感や間合い、
動きの中での
自分の姿勢、
相手の姿勢、
手足の動きの
一挙手一投足まで、
自分事として
落とし込むことができれば、
生き方も
人生も
変わってくるのだけどね。
賢者ならそうするが、
愚者は技を生き方として
捉える思考回路がない。
同じ学びでも
自分の生き方として
捉える賢者と
技は道場でのみ
実践することしか
考えられない愚者とでは
人生において
天と地ほどの
差が出ることは
言うまでもございませぬ。
道場長 拝