2024-05-15 08:43:00

" 人の命はなぜ尊いのか "

今朝も目覚めることが出来た。

ありがとう。

 

 

『ひとのいのちはなぜとうといのか』

 

 

「人の命は尊いものです」

この言葉を

私達は折りにふれ見聞きします。

 

 

なぜ

「人の命は尊い」のでしょうか。

 

それは死ぬからです。

 

 

未来永劫(みらいえいごう)、

尽未来際(じんみらいさい)、

 

何億年も何千億年も

生きることが出来るなら、

命は尊くはない。

 

 

天地大自然

何百億年の

連綿と続く流れの中で、

 

人間は

七十、八十年、

長くて百年

生きたとしても必ず死ぬ。

 

 

それは

天地大自然からみれば、

人はほんの僅かな間しか

生きることが出来ない。

 

 

そして

人間はたった

一度だけ

生まれて、

二度と

生まれてくることはない。

 

 

だから人の命は尊い。

 

その人の人生は尊いのだ。

 

 

他人の命も尊い。

 

「他者を尊重する」という

根っこが、

そこにあるのではないだろうか。

 

 

そして、

その儚くも短い人生を

 

「さあ、お前はどう生きるんだ」

 

これが

天地大自然からの

問いかけでありまする。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝

2024-05-14 08:18:00

" 自然にしていて身につかないことを学ぶ。これを学習という "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『しぜんにしていてみにつかないことをまなぶ。これをがくしゅうという』

 

 

 

 

 

天地大自然は

 

いつの時代も不変だ。

 

 

 

地球温暖化、

 

異常氣象といわれる。

 

 

 

確かに

 

私が子どもの頃から比べて

 

夏は酷暑だ。

 

 

 

しかし、昔から

 

夏は暑くて冬は寒いことに

 

変わりはないが、

 

 

 

我々の生活様式は大きく変わった。

 

 

 

 

 

それはそれは

 

とても便利な世の中になった。

 

 

 

だが、

 

この便利さの一方で

 

失われたものが、

 

たくさんあるのだ。

 

 

 

 

 

身体に中心軸を保った

 

立ち方、座り方や

 

歩き方が

 

出来なくなっている人が多い。

 

 

 

呼吸も

 

まともに出来なくなっている。

 

 

 

 

 

これ全て

 

生きていく上での基本だ。

 

 

 

 

 

身体の

 

中心軸と呼吸は

 

密接な関係にあり一体だ。

 

 

 

 

 

この片方が崩れると

 

両方とも崩れるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

昔の人の移動は歩くことだった。

 

 

 

幕末の志士、

 

吉田松陰さんは

 

長州(山口県)から江戸(東京)まで

 

普通に歩いていた、

 

 

 

坂本龍馬さんも

 

険しい四国の山道を

 

普通に歩いて、

 

いろんなところへ行っていた。

 

 

 

学校へ遠い道のりを

 

毎日、歩いて通っていた

 

時代の子ども達は

 

足腰が強くなるばかりか、

 

自然と呼吸が強くなっていたのだ。

 

 

 

息を長く吐き続けることが

 

出来ていた。

 

 

 

だからこそ肚もできるのだ。

 

 

 

 

 

しかし、

 

今の時代に生きる私達は

 

同じことをするのは容易ではない。

 

 

 

 

 

でも

 

その時代の生活様式に

 

適応したやり方はある。

 

 

 

 

 

私が今も実践していることは

 

「歩きながらの呼吸法」だ。

 

 

 

 

 

座ったり、立って行うという、

 

その場に留まってする

 

呼吸法は誰でも出来る。

 

 

 

しかし、

 

「歩きながらの呼吸法」は

 

そう簡単には出来ない。

 

 

 

やったことがある人は

 

分かると思うが、

 

 

 

苦しくて、

 

すぐ息がもたなくなる。

 

 

 

それでも

 

毎日、諦めずに

 

最初は短い呼吸からはじめて、

 

 

 

今では

 

その場に留まってする呼吸と

 

何ら変わらない、

 

 

 

とても楽で快適な

 

長い呼吸が出来る。

 

 

 

それを習得するのに

 

5年以上かかったが、

 

 

 

やり続ければ

 

誰だってやれるのだ。

 

 

 

 

 

出来ないのは

 

やらないからだろ。

 

 

 

 

 

普通に生活していても

 

身につかないことなら、

 

 

 

日々の日常において

 

何かやり方を工夫したり

 

努力して継続しなければならない。

 

 

 

それを学習というのだ。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-13 07:47:00

" 衣服で身体は変わる "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『いふくでからだはかわる』

 

 

 

 

 

日本在来の衣服。

 

着物のことを和服といいます。

 

履物も含めた和装。

 

 

 

夏祭りの時期になると

 

浴衣姿の人を

 

よく見かけます。

 

 

 

 

 

和服は腰腹に帯を結びます。

 

これにより

 

腰腹が決まる

 

最適な衣服です。

 

 

 

帯と紐を締めることのみで

 

形を調えます。

 

 

 

従って洋服に比べて

 

動きにくく、

 

多くの動作に

 

不自由さがあります。

 

 

 

 

 

しかし、

 

古来より日本人は、

 

その制約のある

 

動作の中で養われた

 

 

 

日常においての

 

一挙手一投足、

 

歩き方であるとか、

 

座り方や立ち姿などの

 

美しい

 

立ち居振る舞いを

 

 

 

日本固有の

 

習慣、文化として

 

大切に培われてきました。

 

 

 

 

 

その美しさは

 

下腹を充実させた

 

動きや姿勢にあります。

 

 

 

 

 

合氣道では

 

流派により異なりますが、

 

 

 

合氣道寺崎道場では

 

男性は有段者から

 

女性は五級から

 

袴の着用を許されます。

 

 

 

 

 

腰に袴の腰板を

 

当てることにより

 

腰を支えます。

 

 

 

前紐と後ろ紐も

 

身体に巻き付け

 

下腹

 

いわゆる

 

臍下の一点(せいかのいってん)の

 

位置で結びます。

 

 

 

 

 

これにより

 

腰が安定し、

 

仙骨が起き

 

臍下の一点を中心とする

 

姿勢が決まるのです。

 

 

 

道衣の

 

帯を締めることも同様です。

 

 

 

 

 

普段の生活では

 

姿勢が乱れている人でも

 

稽古では

 

帯を締め、

 

袴を着用することで

 

腰腹が備わってきます。

 

 

 

 

 

初段になった人が

 

上達するのも、

 

五級や四級の女性が

 

急に上達するのも

 

 

 

袴を着用しているうちに

 

様になってくるからなのです。

 

 

 

 

 

洋服のスーツは

 

首元にネクタイを締めます。

 

 

 

肩幅や肩甲骨が広く

 

どっしりとして、

 

上半身に中心を置きます。

 

 

 

 

 

文化、習慣の違いから

 

生まれた

 

衣服の違いなのでしょう。

 

 

 

 

 

日本人には

 

日本人に合ったものを

 

多く取り入れていくことが、

 

これからの時代は

 

特に大切ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

その意味合いにおいて、

 

週に一、二度でも

 

合氣道の道場で

 

お稽古する価値が

 

あるように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-10 07:37:00

" 何のために生きるのか "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。 

 

 

 

 

 

『なんのためにいきるのか』

 

 

 

 

 

日々の生活の中で、

 

仕事があまりにも忙しく

 

休みも思うように

 

とれなかったりした時など、

 

 

 

つい自分を

 

見失いそうになったりします。

 

 

 

また困難に直面して

 

逃げ出したくなったりします。

 

 

 

 

 

そのような時、

 

人は楽な道を

 

選びたくなります。

 

 

 

 

 

それは、

 

快適さを求める

 

人間の本能とも

 

言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

人は簡単で楽な方向に

 

流れやすいものです。

 

 

 

 

 

自分一人だけが、

 

この世界から

 

取り残されているような、

 

 

 

何のために

 

自分は生きているのか

 

分からなくなったりする。

 

 

 

 

 

そのような時は

 

自分のために

 

少し時間を作りましょう。

 

 

 

10分でも20分でも

 

黙って座りましょう。

 

 

 

そして

 

瞑想や呼吸法をして

 

心を静めます。

 

 

 

 

 

地位や名誉、

 

快楽や金に

 

溺れてしまってはいけない。

 

 

 

 

 

地位やお金も

 

生きていくための

 

活力なのかもしれません。

 

 

 

 

 

しかし、

 

そうしたものは

 

この世限りであり、

 

あの世に

 

持ち込むことはできません。

 

 

 

 

 

私達は

 

天地大自然の一員なのです。

 

 

 

従って

 

私達はいずれ死にます。

 

 

 

 

 

この世は

 

仮の世であり、

 

私達の身は

 

仮の身。

 

 

 

 

 

いつかは

 

天地大自然に

 

返さねばなりません。

 

 

 

 

 

私達が

 

この世で身に付けた

 

全てのものを

 

返さねばなりません。

 

 

 

 

 

だとしたら、

 

生きている間、

 

どう生きるのか。

 

 

 

 

 

私達は

 

右も左も分からず、

 

なぜ生まれてきたのか

 

さえも教えてもらえず、

 

裸で生まれてきた。

 

 

 

 

 

初めて

 

この世に

 

生まれてきた時よりも

 

少しでも成長し、

 

美しく、

 

崇高な魂を持って

 

死んでゆくために、

 

 

 

世のため

 

人のために

 

生ききることが出来たなら、

 

 

 

 

 

自分というものが

 

この世から

 

完全に消えて無くなっても、

 

 

 

その魂は

 

残り続けるのでは

 

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-09 08:49:00

" 習慣として「型」になるまでやってみよう "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『しゅうかんとして「かた」になるまでやってみよう』

 

 

 

 

 

静座とは

 

「心をおちつけてしずかにすわること。すわって心身をしずかにおちつけること」

 

と辞書にあります。

 

 

 

一方、「正座」とは、

 

「姿勢を正しくすわること」とされています。

 

 

 

 

 

日々の合氣道の稽古では、

 

師範とお弟子さんは

 

向かい合って座ります。

 

 

 

 

 

道場では、座る際には

 

静座か胡座(あぐら)をします。

 

 

 

私が指導者として

 

学んだことの一つに、

 

 

 

「姿勢が心を表す」

 

ということがあります。

 

 

 

 

 

大切なのは

 

仙骨を起こすことと、

 

上半身の余分な力を

 

抜くことです。

 

 

 

 

 

お弟子さんと向かい合って

 

座ることが多いため、

 

姿勢は正面からしか

 

見えませんが、

 

 

 

仙骨が曲がっているのは

 

すぐにわかります。

 

 

 

 

 

合氣道を始めて

 

一年未満の

 

子どもたちに多いのが、

 

 

 

仙骨が曲がっていることです。

 

 

 

 

 

このため、

 

道場では

 

「仙骨を起こしましょう」と

 

頻繁に指導されます。

 

 

 

 

 

日本人は子どもの頃から

 

居ずまいを正す時の

 

姿勢として

 

 

 

姿勢を正すことが

 

躾の一環として

 

昔から教えられてきましたが、

 

 

 

最近では

 

静座する習慣が

 

薄れているように感じます。

 

 

 

 

 

このような文化や習慣が

 

失われつつあるのは

 

残念ですね。

 

 

 

 

 

話を元に戻しましょう。

 

 

 

 

 

「姿勢が心を表す」

 

ことについて、

 

 

 

お弟子さんと向かい合って

 

重要な話をしている際、

 

仙骨を丸めて座っている

 

お弟子さん(子どもでも大人でも)

 

に質問してみると、

 

ほとんど答えられません。

 

 

 

話しの内容や

 

質問の意味すら

 

理解してないのです。

 

 

 

 

 

静座の姿勢は、

 

仙骨が起きやすい姿勢であり、

 

この姿勢で

 

心が集中している人は

 

無意識に仙骨が起きています。

 

 

 

 

 

私は年に数回、

 

京都の西本願寺に参拝し、

 

ご先祖様への供養をします。

 

 

 

殆どの人が

 

だら〜とした姿勢で

 

読経をしています。

 

 

 

読経といっても、

 

せいぜい

 

三十分ほどのことです。

 

 

 

 

 

それなのに

 

仙骨が起きている人は

 

ほとんどいません。

 

 

 

 

 

「姿勢が心を表します」

 

 

 

 

 

こういった姿勢で

 

ご先祖様に感謝し、

 

供養を果たすことが

 

できるのでしょうか。

 

 

 

膝や腰に問題がある場合は、

 

椅子に座ることもできるのです。

 

 

 

 

 

静座も

 

慣れれば

 

何の問題もありません。

 

 

 

 

 

私は家でも静座します。

 

 

 

食事の時も、

 

ビールを飲む時も、

 

読書の時も、

 

家で過ごす時間の

 

ほとんどを静座しています。

 

 

 

そのほうが楽だからです。

 

 

 

 

 

一度、身体に染み込むと

 

それが「自然」になるのですね。

 

 

 

 

 

一度、「型」を習得すると

 

身体は疲れにくく、

 

 

 

長時間でも苦にならず

 

一定の姿勢を

 

維持することができる。

 

 

 

また

 

高い集中力も持続できる。

 

 

 

習慣になるまで

 

日々継続して

 

行うと

 

 

 

それが

 

「型」になり「技」

 

にもなるのです。

 

 

 

日本には、

 

ある身体作法や

 

運用の仕方を身体に

 

「型」また「技」として

 

 

 

定着させる文化が

 

古くからあったのです。

 

 

 

 

 

さあ今日から

 

「型」になるまで始めてみよう。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝