" 丸い心と四角い心 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『まるい こころ と しかくい こころ』
中秋の名月
というだけあって、
ほんとに見事な
お月さまだ。
このブログを執筆中も
私の寝室から西の空に
まん丸と大きな
オレンジ色をした
お月さまが、
あと1時間ほどで
西の山の向こうに
沈んでゆく。
合氣道寺崎道場の
お弟子さんも各々、
眺める場所は違えど、
皆、同じ月を見たことだろう。
近い将来に
合氣道師範として、
道を歩むべく
日々の稽古に励む、
東北出身の
日本女子である
お弟子さんから
見事な中秋の名月の
写真がLINEで届いていた。
何やら、
最新のi-phoneに
機種変更したらしい。
早速、
高性能のスマホで
高画質の中秋の名月を
届けてくれた。
そのトークには
" 万物流転 "と
送信されてきた。
昨年の
指導者育成稽古の
座学の時間に
私が話した内容である。
確か、
その内容は
" 縁と万物流転 "
であったと記憶している。
縁とは円のことでもある。
丸い円は決して
どこともぶつからない。
そして、天地大自然の
万物は流転して止まない。
森羅万象、全てのものも、
生きとし生けるもの、
その全ての生命が、
天地大自然によって
生かされている。
そうであるなら、
私達人間も
この天地大自然に
則った生き方を
しなければならない。
それを自然というのだ。
この東北出身の日本女子、
東京都内にある大学に
通いながら、
縁あって、
合氣道を学ぶことになり、
この先、就職してもなお、
合氣道師範として
後進を指導する道を
歩むというのだ。
この日本女子の名は
「つぶらや ひとみ」という。
これは私が名付けた
別称である。
つぶらやは本名で
つぶらな目をしているから、
そう名付けた。
本人もえらく
氣に入っているとのことだ。
彼女が何故、
合氣道師範としての道を
歩むことになったのか。
昨年入門した彼女は
現在、無級だ。
昨年の春の集中稽古に
参加するため、
神戸にやってきた。
その時参加した
お弟子さんの中で、
特に目の輝きと、
座った後ろ姿が
印象的であった。
とても希望に満ち溢れた、
明るい心の表れが、
身体全体から見て取れ、
顔の表情にも表れていた。
「あなたは指導者に向いてるから、指導者になったらどう」
私は直感でそう思った。
そして彼女にそう話した。
すると、彼女は
間髪入れずに、
「はい」と一言だけ
しっかりと返事したのだ。
後に聞いたことだが、
せっかく、師範が
そう言ってくださるなら、
そうしよう。
とにかく、やってみよう。
やらなければ、
何も分からないから、
これも天地大自然から
与えてくださったことであり、
何かしら、
自分にとって
やらなければ
ならないことが、
きっとあるのだろう。
とても大切なご縁を
いただいたことに
深く感謝しているというのだ。
なんと立派な18歳だ。
私のほうこそ、
良きご縁に恵まれた
ことに感謝、感激している。
何事も
やってみなけりゃ
分からないのだ。
一方で、
やる前から、
まだ、何も始めてないのに、
ドウタラ コウタラと
心を真四角に
ギュッと固めて、
自己主張する人もいる。
やりもしないで、
やらない、
やれない理由ばかり
一所懸命に探す。
このような生き方を
時間の無駄使いという。
それでは、いつまでたっても
やれない。
要は、
やりたくないのである。
この両者の違いは、
心が丸いか、四角かである。
やわらかな丸い心は
何でもすぐに吸収できる
柔軟な心だ。
一方で、
固い四角な心は
すぐに人とぶつかる。
四辺が角であるから、
せっかく
人から聞いた良い話も、
その角にぶつけて
先に進めないのだ。
天地大自然の
万物流転のように、
心が常に動いて、流れて
一瞬たりとも
留まることをしない。
柔軟な生き方が良いのか。
心を停止させ、
頑なに拒むように
汚れた泥沼の中で
佇んでいるほうが
良いのか。
その違いである。
そのどちらが
健康体であるだろうか。
どちらが
心を積極的に
使っているだろうか。
万物流転、
それは留まることは
決してないのだ。
そして地球は丸い。
円は決してぶつからない。
あなたなら、
どっちを選びますか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 人生の旅は身軽に "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『じんせい の たび は みがる に』
旅行中の移動では
荷物が重いほど大変だ。
荷物は重いより軽い方が
楽に決まっている。
荷物を詰める時、
できるだけ
不要なものは省き、
最小限の荷物で
旅行に出かける。
旅は身軽なほど楽しい。
合氣道の稽古とは、
まさにこのことだ。
私達は
生きていく上で、
無駄なものを
持ちすぎていないか。
つまらないことに
心が囚われては
いないか。
合氣道の稽古とは、
一日一日、
自分の薄皮を
剥いでいくようなものだ。
不必要で余計なものが
邪魔となり、
自分の心身の自由が
きかなくなる。
自分の心身の自由が
きかなければ、
相手に技が
かかるわけがない。
自分の心身を
自由に使えない人に
相手を投げることは
できないのだ。
道場の稽古で、
それを知り、
反省してみる。
それが旅の荷物の
整理と同じなのだ。
無駄を省く。
不要なものは
捨て去る。
自身のこれまでの人生で
身に付けてきた
不要なものは、
少しづつでも
削っていく。
余計なものを
捨て去れば、
心身もスッキリしてくる。
身に付ける
必要のないものは
さっさと
捨ててしまいましょう。
天地大自然が
与えてくださるものだけ、
しっかりと握りしめて、
この先の人生を
楽しく、おおらかに、
歩んでまいりましょう。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 三人虎を成す "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『さんにん とら を なす』
三人言いて虎を成す。
(さんにん いいて とら を なす)ともいう。
事実でなくても、
全くのデマであっても、
多くの人が
そうだと言ったり、
SNSを駆使し、
粘り強く繰り返し
投稿し続ければ、
それが
フォロワーの関心を
惹くこともある。
さらに何人もの
著名人、有識者が
同じことを
声をそろえて語れば、
人はやがて
事実だと思われる
ようになっていく。
「三人虎を成す」とは
そういうたとえだ。
現代人は
テレビ、スマホで、
昼夜流れる
映像、投稿、報道の中で
無意識にその影響下にある。
ある人が王にたずねた。
①「町に虎が出たと一人が言ったら信じますか」とたずねて、
王が「信じない」と答えた。
②「二人の人が言ったら信じますか」という問いには、
「もしかしたらと疑うかもしれない」と答えた。
③「三人ではどうか」という問いには、
「信ずるようになるだろう」と答えたという。
町に虎など
いるはずもない、
しかし、
多くの人が
虎がいると言えば
信じる人もいるという。
「三人虎を成す」とは
そういう話だ。
大東亜戦争、第二次世界大戦、
昔から戦争は
情報戦でもあったのだ。
ロシアによるウクライナ侵攻なども
同様に情報戦だ。
1923年9月に起きた
関東大震災の
もう一つの悲劇である
福田村事件。
悪意のある
流言飛語により
9人が虐殺された。
広く拡散された
全くのデマを信じ、
彼らは村を守るという
正義で9人もの
何の罪も犯してない人々を
虐殺してしまった。
それは昔も今も何ら変らない。
それどころか、
情報が現実を
常に先走りする現代だ。
情報の大事さを熟知し、
すすんで
たくさんの情報を
得ようとする
知的な賢者ほど、
多数者の声には
敏感になるのだ。
そういう賢者が
正義感を持って
いつしか、四人目の
虎が出たと言う人に
なりかねないのだ。
「正義だ」と
人に伝える前に、
しなければならない
ことがあるだろ。
自分で現場を踏め。
現代人の誰もが
未曾有の感染症を経験した。
マスク、黙食、
ソーシャルディスタンス、
テレワーク、
ワクチン、
そしてレプリコンワクチン。
人のことなど
お構いなしに、
四方八方上下から
映される大スクリーンと
迫りくる大音響の
情報という
映像とサウンドに
心身をさらされていると、
相当に養われた
胆力をもってしても
生理的に衰弱していく
可能性がある。
真実なのか、
真実ではない
フェイクニュースなのか、
それは
あらゆる五感を刺激する、
フィクション、
ノンフィクションの世界が、
私たちの周囲に
拡散するのだ。
感受性豊かな
若者世代ほど、
そのような
情報の影響を
受けやすいかといえば、
そうでもないらしいのだ。
高年齢も同じように、
また、それ以上に
意図的な情報に
敏感であるという
傾向もあると聞く。
情報リテラシ―とは
たくさんの情報の中には、
うその情報や、
正確ではない情報も
まぎれているからこそ、
正しい情報や
必要な情報を
選びとることが大切で、
情報を取捨選択する
能力のことをいう。
要するに
フェイクニュースに
だまされるな、
ということだが、
テレビやネットで流れる
日々のニュースに
無関心であれば、
惑わされずに済むのか、
いや、
情報に耳を
遮断してしまっては、
高齢者なら
痴呆症、認知症を
引きおこす
きっかけとなる
恐れもあるだろう。
見る、聞く、
読む、考える、
その四つが
脳を活性化するから、
生きていく上で
必要であり、
自ら遮断して
しまってはいけない。
今も昔も
報道機関は変わらない。
既得権益に繋がる
報道はするが、
今までの利益構造を
壊されかねない事実は
捻じ曲げるか、
全く報道されない。
では、
ネットなら信用できるのか、
SNSは
誰でも思っていることを
自由に主張できる。
中には
真実もあるだろう。
しかし、
営利目的だけで
再生数稼ぎの動画も
数多くある。
全く信用などできない。
一体、何を信じる?
このような、
良くも悪くも
情報で覆い尽くされる
世の中で、
真実など
分かりようもない。
この生きにくい、
人々を分断させるような
世論において私は、
" 見ザル 言わザル 聞かザル "
圧倒的多数者の
大音量と
巨大スクリーンのような、
その映画に
興味がある人しか
集まらないように
聞こえる主張や情報には、
耳をふさぐように
しているのだ。
猿真似は必ずしも、
遮断ばかりではない。
「聴かない」
ということも、
また一つの
生きていく上で、
護身的な姿勢
かもしれないのだから。
私のような
猿真似をしている側から
見れば、
「これこそが真実であり正義なのだ」と
言わんばかりの言動は、
その正義感ですら
病みに近いようにも見える。
大声を発するなら、
拡散するなら、
発信するなら、
人に注意を促すなら、
まずは己で現場を踏め!
そうだろ!
自分自ら、
現場を踏み、
それに触り、舐め、
味を確かめて、
自分の身体に、
それを取り込んでから
発信しろ!
それがモラルだ。
私は、
この世で起こる
全てのことは
天地大自然がなさる
ことだと思っている。
それが
たとえ人為的であろうが、
なかろうが、
そんなこと
一切関係ございませぬ。
どうでもええねん。
どうでもよろしゅうございます。
天地大自然の営みに
逆らわず、
右往左往など
いたしませぬ。
そのような
無駄な時間は
一利もございません。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 見返りを求めたら続かない "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『みかえり を もとめ たら つづか ない』
世のため、人のために
なることを実践する。
その志を持って、
行動することは、
必ず、何かしら
社会の役に立っている。
だが、
そこに私利私欲があるなら、
その志も、
その行動も、
そう永くは続かない。
何故なら、
良いことをすれば、
いつか巡り巡って
自分に返ってくるという、
見返りを求める
心があるからだ。
結局は、
自分が得をしたい。
それこそが、
私利私欲というのだ。
大切なことは、
「何のためにやるのか」である。
私は毎朝、
道端に落ちている
タバコの吸い殻を拾う
ことを日課としている。
もう何年続けているだろうか、
少なくとも40年以上は
続けている。
何のためにやっているのか、
それは、ただただ、
地球のため。
ほんとにそれだけ。
自分の決めた範囲の
路上に落ちているタバコを
拾うだけだから、
地球規模で考えると、
殆ど何の役にも
立っていないと思う。
しかし、確実に
ポイ捨てされたタバコは
その路上からは
なくなっているのだ。
それは事実である。
では、何故、
タバコの吸い殻を拾うのか。
それは
タバコの吸い殻の
特にフィルター部分は
土に還らない、
決して、
自然には還らないからだ。
放っておけば、
たとえ一本のタバコの
フィルターでも
永遠に地球上に
存在することになる。
サーフィンが
生活の一部だった頃、
生まれ育った神戸から
遠く離れた地に移住し、
海から徒歩30秒の場所で
民宿を営みながら、
仕事の合間に
サーフィンするという
生活をしていた。
海から上がって
砂浜から民宿までの間に
落ちているタバコの吸い殻を
拾うことを毎日続けていた。
その頃から
何も変わってないことがある。
それは、感謝の心だ。
「今日もタバコの吸い殻を拾う事ができた」
「拾った分だけ地球がきれいになった」
「ありがとう」
それをされてくださった
天地大自然に感謝する。
今もその思いは
何ら変わっていない。
捨てるやつがいるから、
俺が拾わなければ
ならない。
拾ってやってんだから
その分何かちょーだいよ。
そんな事を思っていたら
続かないだけでなく、
せっかくのその行為も
無駄になるよ。
毎日拾ったら、
時々、一本も
落ちていない時もある。
でも、必死で探す。
するとアスファルトに
こびり付いたフィルターが
必ずあるのだ。
それを見逃さない。
見返りなど要求しない。
巡り巡って
自分に返ってこなくても
全く構わない。
ただだだ、
地球のためにだけ
やっているのだから。
40年以上、
続けているが、
路上にこびり付いた
フィルターも入れると、
一本も拾えなかった日は
いまだかつて、
一度もないのだ。
今日も地球さんが
少しでもきれいになった。
それだけでよかった。
自分にできる小さなこと。
それだけでよいのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 唯一無二 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『ゆいいつ むに』
自分という人間は、
世界中にただ一人だけ。
そうであるなら、
世の中の役割も、
社会の中で持つべき分担も、
それぞれ唯一無二の
役割分担があるはずだ。
たとえば、
私の場合は
合氣道師範であり、
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場を
主宰している。
寺崎道場は
私が主宰している限り、
他の誰も
これを主宰することは
できない。
たとえ、それが
内閣総理大臣であっても、
その地位にとどまる限り、
断じて
合氣道寺崎道場の
主宰者にはなれない。
したがって、
日本人口1億2000万人の
同胞(はらから)、
もっと云えば、
世界人口81億1900万人のうち、
私以外に寺崎道場を
主宰できる人はいないのだ。
このように
誰にも侵されず、
また
誰にも委せられないものを、
合氣道寺崎道場の
主宰者として
私が天地大自然から
授けられているのだ。
これは、
商業施設で働く清掃員も、
スーパーで働く店員も、
また、
東京ドームのライブで
一瞬にしてチケットを
完売させるアーティストも
全て皆、同様。
だとしたら、
社会で働く人は全員、
唯一無二、
どこの誰にも
委せられない役割を
全うしている
ということになる。
ただそれに対する
十分な自覚を
持っていない人が
多いのではないだろうか。
社会で働く人は皆、
何かしら世の中の
役に立っているのだという、
自信を持とう。
自信というのは、
誰かにつけてもらう
ものではなくて、
自分自身の中から
生まれるものだ。
私達には各々、
自己の人生に対して、
唯一無二の
責務を果たす
役割があるのだ。
一生涯をかけて、
その道に徹し、
国家と社会の
役に立つよう
貢献しなければなりませぬ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝