" 僅か一歩の差。これを軽んじてはならない "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『わずかいっぽのさ。これをかろんじてはならない』
一日は二十四時間と決まっている。
誰にも平等に与えられる時間だ。
仕事の合間や仕事終わり、
食事の前後、
一日の生活の中で
ほんの少しの空き時間がある。
これをどう過ごすか?
暇ができれば怠ける。
遊ぶ。
食うことを考える。
酒を飲む。
教養のない動画を見る。
ゲームやパチンコなどで時間を潰す。
時間をどう使おうが、
その人の自由だ。
好きにすれば良いのだ。
一方で
僅かな時間でも無駄に使わず、
弛まぬ努力を積み重ねる。
私はその空き時間に
その日の出来事や思ったこと、
感じたことを書きとめる。
その書いた内容に加筆し
推敲を重ねた文章が
ここに記す「道場長の今日の一言」
であり、
合氣道寺崎道場の会報誌
「ぼくらの合氣道」である。
また
偉人といわれる人の著書を読む。
また
瞑想や呼吸法をする。
しぃ~んと心が静まれば
新たな氣が入ってくる。
そればかりか脳にまで
新鮮な酸素が行き渡る。
心身ともに
リセット&リラックスできる。
一日の差は大してない。
三日の差も大した差ではない。
しかし、
日々積み重ねた差は
大差が生ずるのだ。
赤ちゃんは皆、
外見など大差はない。
小学校入学の頃には
差が出てくる。
これが中学、高校、大学
さらに社会人になれば、
大差が生じる。
500mlの水なら
簡単に持てるが、
それが100本になれば、
たやすく持てない。
一枚の紙なら
ハサミですぐ切れるが、
十枚や二十枚になれば
簡単には切れない。
積み重ねた尊さだ。
何事も
最初は小さな一歩から
始まるのだ。
その一歩を軽んじてはならない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 真の勝者を目指せ "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『しんのしょうしゃをめざせ』
GW期間〜約二週間にわたり
春の集中稽古ではあるが、
二十四節氣では「立夏」。
初夏の集中稽古ですかね。
そんな中、
神奈川県在住の
お弟子さんから
とても興味深い話を聴いた。
「最近ね。〇〇さんが亡くなられたの。私の周りの人でね、ある条件が重なる人はみんな短命なんだ…
〇〇さんも〇〇さんも、先生とご縁があった〇〇君も最近亡くなったでしょ。
これって何かきっと理由がある氣がしてならないんだよね…」
彼女は元プロサーファーだ。
今も現役サーファーで
毎日海に入る。
ただし、
昔のように競技ではなくて、
好きなサーフィンも
心身統一体の
実践の場として捉え、
陸でも海でも
天地大自然に適う
身体の使い方と心のあり様を
極め続けるという、
競技者ではない
プロフェッショナルだ。
確かに言われてみれば
皆、四十代、五十代で
亡くなっている。
三十代で亡くなった人もいる。
彼女の言う
「ある条件」とは何なのか?
それは
「何十年も競技を続ける人」だった。
実際にスポンサー企業に
支援してもらい
お給料をいただく
プロ選手は
試合に勝たなくては話にならない。
勝ち続けなければならないという、
非常に厳しい世界だ。
サーフィンだけでなく、
野球、サッカー、相撲と
挙げればきりが無い、
いわゆる競技としての
スポーツも同様だ。
「ある条件」には
もう少し深い部分が含まれていて、
「現役は退いたが、心が未だ競技から抜け出せないでいる人」であり、
心のあり様が
関係しているというのだ。
「深いな~」と思った瞬間、
これと似たようなことを、
ずいぶん前に
絶版の名書で
読んだことがある氣がした。
「心が競技から抜け出せていない」
現役時代の
「相手に勝たなければならない」
そういう心が
日常のあらゆるところに
未だ居座っている。
「勝負というのは時の運。勝つこともあれば負けることもある」
誰でも分かってはいることであるが、
心の片隅にある
「人間関係においても相手に負けることができない」
このような心持ちを
積み重ねることは、
緊張の連続であり、
精神状態も内蔵にも
悪影響を及ぼし良くない。
また、派手な人付き合いや
食事も酒の飲み過ぎも
内蔵に負担をかける。
内蔵は全て自律神経が
働かせている。
自律神経が弱ったり、
過度な刺激は
内蔵を弱らせて、
やがて内蔵の病となる。
いつも相手をするのは
自分以外の他人であるから、
自分の思い通りにならないのが、
当たり前だ。
その上で
日常においても
相手に勝たなくてはならない。
いつも
ドキドキ、ハラハラ、
イライラして負けて落ち込む。
それを忘れようと
自我を抑えきれなく
暴飲暴食する。
とても
長生き出来るとは思えない。
人間の一生は長さではなく
「どう生きたか」
であるから
一概に
「短命がどうのこうの」
とは言えない。
しかし、
「そういう生活、生き方を私は望まないし、健康体とは言えない」
そう話す
彼女は今でも
地元の現役プロサーファーや
これからプロを目指す後輩達に
「天地大自然に適う心のあり方と身体の使い方」を
伝授して
後進を導くことに努めている。
それは素晴らしいことだ。
「我が人生の責務」として
是非続けていってもらいたい。
心身は鍛えれば強くなるが、
内蔵はいたわらなければ
強くはならない。
二十四時間休みなく、
一生自分のためだけに
働き続けてくれる内臓だ。
いたわり可愛がって
あげなければならない。
相手をするのは
他人ではなくて自分だ。
私利私欲、
自我を抑えることが
出来ないというのは、
自分に負けるということだ。
相手に勝っても
自分に負けているようでは
所詮「弱い者」だ。
自分に打ち克つことが
「内臓をいたわる」
ことであり、
「真の勝者」ではあるまいか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 減るものと増えるもの。傷むものと強くなるもの "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『へるものとふえるもの。いたむものとつよくなるもの』
先日行われた
第26回兵庫県合氣道連盟
合氣道演武大会は
コロナ禍により
約4年の不開催を経て、
昨年より再び開催された。
コロナ禍以前は
毎年この時期、
桜が散れば
演武大会の開催だった。
先のことは分からないが、
また来年もこの時期に
開催されることだろう。
その先もその先も。
兵庫県合氣道連盟
指導部に所属する
師範の先生方は、
この演武大会に備えて
色々と準備に慌ただしくなる。
合氣道琴心館寺崎道場を
主宰する私も
その例外ではない。
演武大会に出場する
お弟子さん方は人それぞれ、
稽古回数も年数も
熟練度も全て違う。
週に3回、4回道場に通う
お弟子さんもいれば、
月に2回のお弟子さんもいる。
特に少年部所属の
子どもにおいては
遅くとも
前年の12月には
演武大会で行う
技の稽古を始めなければ
間に合わないのだ。
お弟子さんを持つ
指導者にとっては、
この頃から既に
準備が始まっている。
演武大会が
開催され続ける以上、
この道は
避けて通ることの
できない道なのです。
特に何か分からないが、
今年の演武大会は
正直疲れた。
例年以上に相当疲れた。
長い準備期間を経て、
演武大会当日にも
色々な出来事があった。
決して自慢して
言えることではないが、
私は元々、怠け者である。
放っておいたら、
とことん怠ける。
相当な疲れもあって、
どこからか
悪魔が囁いてくるのだ。
「明日から休めば楽になれるぞ」
「休め、休むのだ」
怠け者の私は
この悪魔の囁きに
同意したかった。
しかし、休めないのだ。
演武大会翌日は
神戸常盤アリーナ
「中高年のための合氣道講座」がある。
ここに集まってくれる
お弟子さんの多くが、
この演武大会にも
出場している。
そればかりか、
今年の演武大会出場には
間に合わなかった、
入門して間もない
新人のお弟子さん方も
演武大会会場に
足を運んでくれている。
嬉しいことだ。
熱心なお弟子さん方である。
その皆さん方が
翌日の神戸常盤アリーナで
稽古を待ってくれているのだ。
それに加えて、
東京、神奈川から
指導者とそのお弟子さん方
約10名も遠路遥々、
私の指導を楽しみに
貴重な大型連休を
使って集まってくれているのだ。
「皆に感謝だ」
氣を振り絞って
神戸常盤アリーナでの
稽古に臨んだ。
「正面打ち一教」という
合氣道の技の中でも
非常に難易度の高い
技ではあるが、
新人さんも含め皆、
額に汗をかきながら
一生懸命に稽古する姿に
私は心を打たれた。
皆が笑顔で稽古している。
その笑顔に
心底、心を打たれた。
「来てよかった」
そう思った。
無理やりにでも
絞り出した氣に、
お弟子さん方の
プラスの氣が加わり、
私を悪魔の囁きから
守ってくれた。
そして、
この日の午後からも
約4時間にわたって
関東からのお弟子さん方に
良き指導が出来た。
そう
「氣は出せば新しく入ってくるのだ」
強いプラスの氣を
出し尽くせば、
もっと強い
プラスの氣が入ってくるのだ。
出せば永遠に入ってくるのだ。
人間の考えや
人間が作ったものと
天地大自然の大御心と
天地大自然に与えられたもの。
そこに大きな差があるのだ。
その一つが
私達の手や足。
手を保護するために
人間が作った手袋。
例えばゴム手袋は
使えば使うほど消耗する。
いわゆる消耗品だ。
例えば靴。
同じように
使えば使うほど消耗し、
傷んだところは
リペアする必要がある。
これに反して、
人間の手というのは、
汚れても
洗えばきれいになる。
取り替えも必要なし。
赤ちゃんの足の皮は柔らかい。
でも80歳まで生きれば
80年使う。
100歳まで生きれば
100年間使うのだ。
柔らかい皮の足でも
使えば使うほど強くなる。
この天地大自然の
大御心と
天地大自然から
与えられたもの。
限りない
おめぐみに
私達は包まれ
守られているという
世の中であることを
感じざるを得ない。
使えば使うほど減るもの、
傷むのもである
物や金。
一方で
使えば使うほど強くなる、
そればかりか
増えもするもの。
それは
体力であったり声であったり、
学力や能力、
それに積んだ徳と氣である。
泡沫(うたかた)なもの、
頼りないもの、
儚いもの、
崩れやすいもの。
それらに頼っていては
危険でしかたがない。
永遠なるもの、
無限の天地大自然からの
めぐみに感謝して、
これを十分に活かし
守られる生き方を
したいものだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 直ると直らない。氣付くと氣付かない "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『なおるとなおらない。きづくときづかない』
人は身に付いた癖
というものは
なかなか直らないものだ。
また
それになかなか
氣付かないものだ。
合氣道の技においても
例外ではない。
むしろ
人それぞれの癖が
身体中から表れる。
4月29日に行われた
第26回兵庫県合氣道連盟
合氣道演武大会において
不肖私が指導する
お弟子さん方も
大いに持てる力を
発揮しておられた。
全てのお弟子さんに
心から拍手を送りたい。
各教室、道場では
子どもから高齢者まで
同じ技を繰り返し
稽古する中で
演武大会前日まで
直すべき点は
直すよう指導した。
そして
演武大会本番では
今までの癖を改善した人と
そうでない人とに分かれた。
ある子どもは
手の上げ方に
悪い癖があったので、
「もっと大きくのびのびと手を上げよう」と
指導したところ本番でも
「この手よ天に届け」
と言うが如く、
素晴らしい
手の上げ方をしていた。
また、ある子どもは
投げるときの顔の向きに
悪い癖があった。
本番では
まず左手を使って
相手を投げるが、
その時はこれまで通り
顔の向きは直っていなかった。
しかし、
右手を使って投げる時には
良い方向に
向くことが出来ていた。
これは最初は
今までの悪い癖が
出てしまったが、
次に思い出し
改善出来たのだ。
最初から
それが出来ていたら
もっと良かったことは
言うまでもないが、
それでも
直せたことは立派だ。
演武大会の趣旨は
自分の落ち着き度を
自分自身で知ることだ。
落ち着いて
いたからこその結果である。
またある者は
前日にはその技の特性と
氣の動きをあらためて理解し、
技が直った
にも関わらず、
本番では完全に
元の木阿弥だった。
おそらく、
それにすら
氣付いていないことであろう。
合氣道において
投げとは
技をかける側であり、
受けとは
投げの手を取りにいったり、
突きにいったりする側である。
技が上手くいくのも、
またそうでないのも
全て自分の責任である。
決して
受けの責任では
到底ありませぬ。
ほんの僅かな
氣の緩みや
意識の上ずりが
本番あらわになった結果だ。
私達が稽古する
合氣道の技は
天地大自然の理に適っている。
受けの氣を尊重し、
その氣を導いて
自分が投げたい方向に
投げるには
どうしたら良いのか。
それが正しければ
受けは喜んで
自分についてくるのだ。
何かが不足し、
何かが
正しくなかった時には
思うように技がかからず、
思うような
投げもできないものだ。
それだけのことだ。
全ては自分の行いの結果だ。
「前日の受けのほうが良かった」
なとど言っているうちは、
その大切なことを見逃している。
「昨日のほうが良かった」のは
相手ではなく自分であり、
正しく受けを
導くことが出来た結果だ。
それに氣付いていないのだ。
厳しいことを言うようだが、
これが正論だ。
演武大会に出場する
ということは
「今の自分」
というものを
明らかにしてくれる
天地大自然の配剤だ。
とても尊いことだ。
感謝すべきことだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 自ら制限を設けてどうするんだよ "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『みずからせいげんをもうけてどうするんだよ』
「もういっぱいいっぱいです」
「これ以上やれません」
自分は精一杯やっていると主張する。
でもどうだろう。
その人の顔から
達成感の欠片も
感じ取れないではないか。
本当に持てる力を
100%発揮したときには
「やりきった」という、
とても清々しい
達成感でいっぱいになる。
その表情からは
笑顔と
大きくて非常に強い
プラスの氣が
身体中から出るものなのだ。
私自身も過去に経験がある。
その一つは
合氣道三段の昇段審査であった。
審査基準技である
約八十の組技と
剣技十二の型を二種、
杖技二十二の型を二種
さらに六人掛けの乱取りを
何百回も稽古を繰り返した。
もちろん初段までの
基本技を数年間学び、
さらに初段から
何年にも渡る
日々の積み重ねが
あるからこそ出来るものだ。
いよいよ
やってきた三段審査。
やるべき技を
連続していく中で、
とても「落ち着いている」
という感覚を
自分自身で
はっきりと認識出来た。
それまでの
私の人生において、
こんなにも
「落ち着いている」という
実感というか感覚を
その時初めて味わった。
周りがよく見えて、
まるで
スローモーションかのような
自分の動きだった。
もちろん実際には
とても速い動きの連続なのだが。
場の空氣や音、
道場の全てが今、
自分が主体で
流れているような感覚だった。
自分で言うのも
痴がましく僭越ではあるが、
自分の発する強い氣が
道場全体を包みこんでいた。
「やるだけやった」
あとは結果を待つだけだ。
むしろ結果など
どうでもよかった。
結果より
「やるだけやった」
達成感でいっぱいだ。
審査結果も
師匠から三段の
お許しをいただくことができ、
とても氣持ち良い
三段審査であった。
「もういっぱいいっぱいです」
その言葉を発するなら、
君はそれくらい
出来たのでしょうか。
同じ
「いっぱいいっぱい」でも
私の場合は
やりきったという
達成感と自信に
満ち溢れた氣で
「いっぱいいっぱい」だ。
何が君を
いっぱいいっぱいに
しているのか?
考えたことがあるか?
私からみればそんなもの、
その程度で
「まだ始まってない」に等しい。
それにもう一つ
付け加えておく。
頑張るから
いっぱいいっぱいに
なるのです。
心身の力みが、
それ以上、
心と身体を
動けなくしているのです。
早くそれに氣付かねばいけない。
ストレッチや柔軟体操を
するときは力を抜くから
可動域が広がるでしょ。
同じように
頑張ること、力むことを
全て完全に放棄すれば、
その域に
達することが出来るのだ。
要は
正しいリラックスを学び、
実践することです。
「まだまだ」
「まだいける」
君の力はその程度ではない。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝