" 道場の意義 "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『どうじょう の いぎ』
私が主宰する
合氣道琴心館寺崎道場は
道場長の思いを
実現するためのものではなく、
何より
弟子を伸ばすこと。
弟子の
向上と成長に務め、
幸福で
活き活きとした
人生をもたらすために
存在していなければならない。
それこそが
道場長の
使命であり、
責務だ。
そこに
道場の意義がある。
自分自身への
戒めとして、
この先も一生涯、
忘れることなきように。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 囚われず、煩わされず、ありのままに生きる "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『とらわれず、わずらわされず、ありのまま に いきる』
災難に逢ふ時節には
災難に逢ふがよく候。
死ぬる時節には
死ぬがよく候。
江戸後期の
禅僧で歌人の
良寛(りょうかん)の言葉です。
「災難には逢いたくない」
「楽しく長生きしたい」
人間なら誰でも
そう思うものです。
しかし、
どれほど強く願っても、
あらゆる手を尽くしても、
それらからは
逃れることはできません。
そのすべてを
受け入れて
命ある限り、
生きてゆく
ほかにないのです。
「なぜ自分がこんな目に逢わなければならないんだ」
それを災難と
受け止めている限り、
その人は一生
その不運、不幸を
嘆いて
生きることになる。
いくら嘆いても
何も変わらない。
どんな大災害に
逢おうとも、
わが子を
亡くしたとしても、
それが現実の姿です。
やるべきことをやり、
生きてゆくしかないのです。
何事にも
囚われず、
煩わされることなく、
現実をありのままに
受け止める。
これが
私達が目指す修業の先。
天地大自然の法則に
則る生き方であり、
本当の
心身のリラックス
ではないでしょうか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『せんにち の けいこ を たん とし、まんにち の けいこ を れん とす』
剣豪 宮本武蔵の
極意書である
『五輪書(ごりんのしょ)』には
「鍛錬」という
重要なキーワードがある。
ここで言う鍛錬とは、
刀剣を作る際に
金属を打ち鍛えて
錬ることを指します。
名刀に仕上げるには、
いったい
どれほどの回数
打ち続けるのか。
武蔵は、
千日間の稽古を
重ねることで
技が身につき、
万日の稽古を
積むことで
更なる高みに
到達すると諭しています。
武道に限らず、
何事も深く習得し、
技術を身につけるためには、
経験を重ねるしか
方法はないと
説いているのです。
人が成長する上においても
「至要たる教え」
ではないでしょうか。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 継続と反復は相違なるもの "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『けいぞく と はんぷく は そうい なるもの』
継続という言葉がある。
「継続は力なり」という。
物事を成就するためには
日々の正しい努力の
積み重ねが重要だ。
こうした一日一日が
幾重にも積み重なっていく。
このように
継続することで、
その人の
技術を伸ばし、
能力を育て、
人として成長していく。
ただ
勘違いしては
ならないことがある。
それは
日々、
何の反省もなく、
その日を顧みることもせずに、
ただ同じことを
繰り返していても
何の意味もない
ということです。
同じことの繰り返し、
いわゆる反復とは
大きく異なるのです。
継続と反復は
相違なるもの。
このままで良いのか?
何を改善しなければ
ならないのか?
今日の過ちを
今後起こさないために
どうすれば良いか。
今日の失敗は
何故そうなったのか。
しっかり考えて
今日より明日。
明日より明後日と、
ほんの数ミリでも
良くなるよう努力する。
僅かでも
改善点を見つけ出し、
創意工夫する。
たとえ
僅かな一歩でも前進する。
慣れたことをなぞらず。
そういうことの
積み重ねを
「継続」
というのでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" ご縁尊し "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『ごえん たっとし』
存在するご縁。
子どもと言うと、
「あの子は私の子どもだ」と
親はよく言うけど、
実際、その子とのつながりを
考えてみると、
あらためて思うことがある。
それは
「その子の宝物は何一つ、親が作ったものではない」
ということだ。
すべての人にとって、
最も大切なことは
生きること。
その生きるために
必要な道具がたくさんある。
目、耳、鼻、口、
手、足、心臓、肺、
神経、血管、胃腸など、
どれを取っても
親が設計して組み立て、
作ったものはない。
身体全体の
素晴らしい設計、
組み立て、
運営。
全てが
親の氣づかない間に
行われていた。
だとしたら、
自分と子どもの関係は
ご縁だけであり、
生まれる際に
果たすべき役割が
親にあっただけ
ではないのかと思う。
全ての設計、
材料集め、
組み立ては、
本当の親である
天地大自然が行ったこと。
その時の
道具の一部として
果たすご縁。
これが
親子の結びつきである。
だから
わが子といえども
親の好き勝手にはできない。
ご縁こそが自分のもの。
子どもは
天地大自然の子で
あることがわかる。
自分自身も
天地大自然の子。
自分の子どもも
天地大自然の子。
同様に、
世界中の全ての人々、
全てのものも、
皆、
天地大自然を
親として
生まれてきた。
人間とこの世に存在する
森羅万象は
一切合切
ご縁だけのもの。
親子、夫婦、
師弟、友人。
全てのご縁だけが
自分のものなのですね。
その全ての
ご縁に
感謝して、
今日も一日ご縁尊し。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝