" 相手が先で自分が後 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『あいて が さき で じぶん が あと』
我が家では以前、
ベランダでたくさんの
改良メダカを飼っていた。
春から夏の
産卵シーズンは
世話するのに忙しい。
たくさんの
針子と呼ばれる
稚魚が生まれる。
その稚魚を大切に育て、
体型、美しさの優れた
成魚を選別して
翌年の種親に育てる。
そのため、
たくさんの稚魚を
育てることになる。
その稚魚達の餌は
ゾウリムシだ。
それにPSB ( 光合成細菌 )
という赤い水が必需品だ。
このゾウリムシとPSBは
簡単に培養できるから、
ベランダには
多くのメダカ容器と
培養のペットボトルが並ぶ。
その培養ペットボトルは
蓋を開けると悪臭が漂う。
不注意でこぼしたりすれば、
ご近所迷惑にも
なるほどの悪臭だ。
触りたくない。
でも、
触らなければならないから、
手に付着する。
少々洗っても臭いは取れない。
家族からは
「もうやめて」と
何度も懇願される、
しかし、
先方 ( 稚魚 ) が
好きなものであるから、
手が臭くなっても
稚魚に与える。
稚魚が喜ぶからである。
まず、相手方の好きに合わせる。
その結果として、
後から飼い主の
喜びや楽しみが生まれる。
それが改良メダカ飼育の
条件であり過程であった。
そのメダカの世話に
翻弄されつつも、
人としての生き方も社会も
これと全く同じであると
氣がついた。
相手が喜ぶものは何か。
あの人が好むものは
どんなものなのか。
それを考え工夫する。
まず、相手を喜ばす。
自分のことは、
横において後まわしだ。
その後に自分の喜びや
楽しさが生まれてくる。
但し、
素直に喜べない人や
傲慢、わがまま、氣がね、
ふてぶてしい態度の人には
あてはまらないかもしれない。
そのような人は
元々、相手にする必要もない。
天地大自然が
メダカの姿に変わって、
私に教えてくれた
貴重な学びであった。
天地大自然の尊い道理だ。
天地の道理は
合氣道にもあてはまる。
まずは、
相手の氣を尊ぶ。
相手の立場に立つ。
そして、相手を導く。
どんな事柄でも
天地大自然の中で
おこることには
天地大自然の道理に
則った生き方をしなければ、
事はうまく運ばないのだ。
我が家のベランダに
たくさんいたメダカ達、
その子たちにも
感謝しなければなるまい。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 今日を生きよう、喜びと感謝で "
今朝も目覚めることができた
ありがとう。
『きょう を いきよう、よろこび と かんしゃ で』
毎朝、
目覚めたら
自然と出てくる言葉。
それが
" 今日を生きよう、喜びと感謝で "
である。
当たり前すぎて、
説明もいらない。
しかし、
生きていることが
当たり前であると
考える人には、
この言葉は
必要ないでしょう。
私の場合は、
天地大自然によって
生かされている、
また、
周りの人々の
支えがあるから、
生きていける。
いつも
そう思っているから、
生きるということは
喜びと感謝なのである。
生きよう、
今日も精一杯、
喜びと感謝で。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 百術は一誠に如かず "
今朝も目覚めることができた
ありがとう。
『ひゃくじゅつ は いっせい に しかず』
百のわざや
たくらみ、はかりごとも、
一つの「誠」には
到底及ばぬ、
という意味である。
「策略」
それは自分の目的を
達成するために
相手をおとしいれる計画だ。
氣の小さい、
器も小さい、
そんな策士の
謀 ( はかりごと ) などは
ほんのひと時は
成功したように見えても
やがて必ず、
滅びゆくものだ。
合氣道の稽古においても、
そういうことをする人が
稀にある。
断っておくが、
合氣道寺崎道場の
優秀なお弟子さんには
そのような者は
一人としてない。
例えば、
「呼吸動作」という
技がある。
投げ ( 投げる側 ) と
受け ( 投げられる側 ) が
向かい合って正座する。
受けは投げの両手首を持つ。
投げは座ったまま、
相手を導き投げる。
この技は
大変、奥の深い技で
相手とぶつからず、
相手の氣を導いて投げる。
それを
相手を倒すことしか
考えてない、
愚か者は力ずくで
相手を倒そうとする。
しかし、
力めば力むほどに
悪循環となり、
相手はなかなか
倒れてくれない。
元々、
相手を倒すことしか
考えてないから、
色々、
あれやこれや、
自分に有利になるような
位置で相手に手を持たせたり、
卑怯な手を使いだす。
しかし、
盤石な体幹を持ち、
心が静まっている者には
全く敵わない。
少年野球とプロ野球
ほどの差がある。
堂々と真正面から来いよ。
氣というものを
理解できず、
人の心を導くこともできず、
日常においても
鍛錬はせず、
そのような者には
わかるはずもない。
哀れな奴らだ。
しかし、
学ぶ者、
進歩しようとする者は
天地の大道の
真正面を一緒に歩もう。
一つの誠を貫くものに
適うものはないのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝
" 人生を拓く "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『じんせい を ひらく』
世のため、人のために
なるような
立派なことを
成し遂げた偉大な人、
いわゆる
偉人と呼ばれる人がいる。
その偉人達の著書を
数多く読了して
感じたことは、
たくさんの
偉人と呼ばれる人には
ある共通点がある。
一つ、
若い頃に命に関わるような
病を体験している。
二つ、
何事にも心が積極的。
三つ、
人としての器が
とてつもなく大きい。
著書にある
様々な実体験は
当然のことながら
各々、違うが、
大体、
この三つは共通している。
また、これまで
多くの人と接した中で、
私自身も含め、
私達凡人は
おおよそ、
三つのパターンに
別れているように思う。
一つめ、
" やる前から無理だ "
ほんの少しの苦しみにも
" もうダメだ " と
諦める人。
二つめ、
" しかたがない "
本当はやりたくない、
嫌だけど、
" しょうがないな " と思って
嫌嫌やる消極的な人。
三つめ、
直面したあらゆる
事柄、出来事に対して、
" これも何かのご縁である "
" この困難もやらねばならぬ "
" 自らを磨く絶好のチャンスだ "
常に、心を積極的に使う人。
絶対に諦めない人。
とどのつまり、
偉人と呼ばれるような
歴史上に名を残す人、
鬼籍に入っても
なお語り継がれる人、
そのような偉人は
この " 三つめ " の
パターンの人からしか
生まれない。
偉人と云えども
私達と同じ人間だ。
この世に
生を享けた以上、
少しでも
そこを目指して、
心は常に明るく
積極的に
日々、生きていく。
それを自分自身への
戒めとしよう。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 許す、そして忍耐 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ゆるす、そして にんたい』
人間は誰でも
完璧、完全ではない。
近い未来には、
AI 人工知能が学習し
完璧、完全なロボットが
できるかもしれない。
しかし、我々
生身の人間は
完全ではない。
完全ではないからこそ、
何事にも学ぶという
ことが大事なのだ。
これまでの
自分を振り返っても
恥ずかしいことは
たくさんある。
自分なら
こうするだろう。
しかし、
人は自分の考えとは
違ったことをするものだ。
人は色々。
人生も色々。
意見や考えも
人それぞれ。
裏切りも世の常。
そんなことくらいで
いちいち
心を曇らせては
なりませぬ。
私達は皆、
天地大自然の一部です。
その中で生きるには
天地大自然の法則に
則った生き方をすれば良い。
それが自然体ということだ。
楽しく、
おおらかに、
強く、
生きようと思えば
自然体で生きることだ。
自然体だから
自然とそういう
生き方になる。
違う生き方をしたければ
そうすれば良いだけ。
こんな簡単な生き方はない。
それはそうだろ。
天地大自然に則った
生き方をするだけ
なのだから。
世の中は簡単なことだらけだ。
それを難しく、
生きにくくするのは
周りでもなければ
他人でもない。
自分の心のあり様だ。
全ては心のあり方。
昨日の神戸での
勉強会ではこの様なことを
師匠の実体験を通して
学ばせていただきました。
人というのは矛盾だらけ。
「因果報応」などと
口では言いながら、
全く真逆のことを
するのだから。
呆れる。
しかし、
その矛盾も裏切りも
にっこりと笑って
許されたら、
相手はうれしい。
感謝がわく。
これは
甘えすぎかもしれない。
決して賢明なことでは
ないだろう。
しかし、
人間として仕方がない。
自分自身も
完璧な人間では
ないのだから。
「許す」
秋風のような
爽やかな心で人に接する。
そして、
自分自身を正すことは
いくら厳しくても良い。
そう教えられました。
東京から神戸の
勉強会にいつも
参加する
熱心な日本女子、
K先生は私のお弟子さんだ。
勉強会を終えた昨夜は
とんかつを食べながら、
色々話しをした。
私の弟子であり、
30人近くの
お弟子さんを持つ。
立場は同じ。
「許す」と「忍耐」だね。
軽く一杯ビールを飲み、
新幹線で東京へと帰る
K先生を新神戸駅で見送った。
その見送る
後ろ姿に「戦友」を感じた。
僭越ではあるが、
彼女の成長が
何より嬉しかった。
30人近くも弟子を
指導していたら、
そりゃ心も強くもなるわな。
ともに同じ道を歩む戦友だ。
心の強さとは
「許す」と「忍耐」なんだね。
そう何度も呟きながら
にっこり笑って
東京へと帰っていった。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝