" 護られている "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『まもられて いる』
私が現役サーファーだった
一昔前でも
ウェットスーツの
改良のお陰で、
真冬でも快適に
サーフィンできた。
当時は
背中の防水ジップから
ほんの僅かに
海水が入る程度であった。
現代では
さらに進化した
ウェットスーツの登場で
サーファーは
より快適になった。
サーフィン用に開かれた
サーフポイントには
温かいシャワーも
完備されているから
なんの問題もないが、
人知れず
波のある場所には
シャワーなどないものだ。
たとえ、
真冬であっても
海から上がれば、
シャワーは浴びたい。
そのために、
20リッターのポリタンクに
あらかじめ、
自宅から水を入れて
車に積んでおく。
寒風身を突き刺す、
真冬の野外で
氣合いを込めて
頭から水をかぶる。
当時の私は
「氣を出す」ことを
知らなかったから、
あたり構わず、
「うぉぉぉ~」
雄叫びをあげながら
かぶる。
あまりの冷たさに
黙ってかぶれないのだ。
一瞬にして、
身体が凍って
しまうのではないかと思う。
しかし、
熱を測っても
36度の平熱なのだ。
凍ってはいないし、
体温も下がってはいない。
それどころか、
タオルで身体を拭いて
洋服に着替えると、
逆にポカポカしてくる。
あまりの心地よさに
うつらうつらと
昼寝までしてしまうほどだ。
本当に
人間の身体の設計には
驚かされる。
天地大自然から
与えられた、
見事な
身体の設計である。
触れば、
大火傷ですまないほどに
赤々と、
いこった炭であっても
20リッターの
水をかければ、
冷えてしまうというのに。
本当にありがたいことです。
ここに
人間の身体は
物ではないことが
立証できる。
天地大自然から
いただいた賜であると思う。
このように、
私達人間は
天地大自然に護られて
生きているということになる。
そうであるなら、
自分で自分を
守ることなど、
本当に必要なことだろうか。
仮に、
必死のパッチで
自分を自分で
守れたとしても、
私達は
この世に生まれた限り、
いつかは死ななくては
ならないのだ。
いくら守っても
死ぬ時は死ぬのだ。
自分で自分を守ることほど
疲れるものはない。
それを必死で
やっている人の多くが
病んだり、怪我をしたり
廃人のような姿になる
場合が多々ある。
今まで、
そういう人を
たくさん見てきました。
その姿を通して、
自分で自分を守るという
ことが、
いかに天地の大道から外れ、
それとは真逆の方向に
歩んでいる。
まさしく
「理に適ってない」
それを学ばせていただいた。
「理に適ってない」ことを
「無理」というのである。
我々のことは
心配しなくても
天地大自然が
ちゃんと護っていて
くださるのだから、
安心して
やるべきをやる。
世のため、人のために
なること、
たとえ、
それが小さな事でも
自分にできる
精一杯のことを
やれば良いだけだ。
なんて簡単なこと
なのだろうと、
毎日、思うのでありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 近くに簡単な道がある "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ちかく に かんたん な みち が ある』
やるべきことは
生活の中にあるのに、
すぐ近くにあるのに、
わざわざ、
遠くのことを
やろうとしている。
簡単で易しいことなのに、
自ら、難しい、
困難なことをやっている。
全くもって、
「ご苦労なことだな」と思う。
そんな難しいことに
エネルギーを費やす
時間があるのなら、
さっさと簡単な道を
歩んだらどうか。
時間的に、
経済的に、
やれない理由ばかりを
探している間は、
自分自身が、
苦しむばかりだ。
それに氣付いていない。
氣付かないから、
何年も前から
同じことを言ってる、
同じことをやってる。
この先、
来年も、再来年も
同じことを言って、
同じことをやるのである。
負の連鎖の繰り返し。
その負の連鎖を
断ち切る勇氣もない、
進歩なき愚か者である。
愚者は
難解なものを
好んで相手にする。
賢者は
素直に簡単な
ことから始める。
その違いだ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 必要なものは与えられる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『ひつよう な もの は あたえられる』
アスファルトの道を
歩くのと、
砂浜を歩くのとでは、
どちらが
歩きやすいだろうか。
砂浜は柔らかいから、
足がのめり込む。
砂はサラサラで
全く抵抗がないから、
踏ん張れず疲れる。
肌触りは良いが、
足に力が湧かないのだ。
一方で
アスファルトの道は
硬く抵抗があるため、
それを蹴って力強く
歩くことができる。
つまり、
抵抗による
力が湧いてくるのだ。
スポーツや競技には
必ず相手がいる。
野球でもサッカーでも
その相手が
重要な抵抗と
なってくれる。
試合ではその相手に
勝たなくてはならない。
その結果、
自身のプレーの
向上につながっていく。
前進の力と勢いを
相手からもらえるのです。
合氣道においても
全く同様である。
寺崎道場の合氣道には
試合はないが、
日々の稽古で
自分の技の未熟さや、
姿勢の悪さを
相手と組むことにより
実感できるのです。
それを人生に
例えるなら、
賢者は抵抗を活かして、
自分のものにする。
愚者は抵抗から逃げ、
負ける、砕ける、
立ち上がれない
全くの意気地なしである。
人生における
苦難も、失敗も、
災難も、病も、苦痛も、
それらは全て、
生きるために、
また人として
向上するためにある
必然な抵抗だ。
生きていくための
前進するための力がいる。
それが必要だから
天地大自然から
与えられるのだ。
必要ないものは
決して与えられない。
病氣や苦難や失敗は
アスファルトの道を
歩くように
それを抵抗として、
踏ん張り、地を蹴って
力強く前進しなさいよ。
また、愚かな自分に
反省を与え、
早くその愚かさを
脱ぎ捨てなさいよ。
もっと賢者になりなさい、
という天地大自然から
自分宛へのお便りなのだ。
それを有り難く受け取り、
熟読して、反省したら、
改善することができる。
" 必要なものは絶対に与えられる "
従って、
いくら嫌でも、
そこから逃げることはできない。
" 必要でないものは絶対に与えられない "
従って、
嫌なものを与えられない
自分になることが、
賢明な生き方でありまする。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" トクも濁ればドクになる "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『とく も にごれ ば どく に なる』
三十代、四十代の頃、
大型連休を利用して
遠くまで、
サーフィンプチ旅行に
よく出かけた。
高知県西部にある
とても海岸線の広いビーチで
サーフィンをしていた時のことだ。
早朝の1ラウンドを終え
海から上がると、
「ビーチクリーンを行いますのでご協力お願いします」
拡声器を持った
地元のサーファーらが
呼びかけていた。
前にこのエントリーでも
記した通り、
私はいつも
海から上がったら、
砂浜を歩く途中のゴミ、
徳にタバコのフィルターを
拾うことを続けていた。
ビーチクリーンの開催等は
関係なく自分自身で
必ずやることだと
思っていたからだ。
拡声器を持った一人の
ローカルサーファーが、
何やら海に向かって
叫んでいる。
「コラ、お前ら、海から上がってゴミ拾えや」
サーファーにとっては
波というのは
天地大自然からの
最高の贈り物だ。
サーファーなら
誰もがそれを尊ぶ。
来る波、来る波に
なんとか乗ろうと、
何もかも忘れて、
ひたすら波を
追いかけていると、
陸からの声は
拡声器を通した
音であっても、
聞こえない時が
大いにあるものだ。
天地大自然の
波のパワーや、
波が砕ける音にも
影響され、
全く氣付かない時もある。
海はローカルサーファー
だけのものではない。
ビジターサーファーのために
あるのでもない。
天地大自然の所有物だ。
その海や砂浜を
きれいにすることは
当たり前のことだ。
それは自身自身が
やれば良い。
" ビーチクリーンは自分がやれ "
人に協力を
お願いすることは
悪いことではない。
一人より大勢で
したほうが
効率も良いし、
砂浜全体がきれいになる。
だからといって、
「コラ、お前ら、やらんかい」
これは間違っていると思う。
" 海をきれいにしよう "と
せっかく、積んだ徳も
これでは台無しになる。
非常にもったいないことだ。
" トクも濁ればドクになる "
積み重ねた" 徳 "も
一つの言動で
" 毒 "にもなるのだ。
この場合、
その拡声器で叫んでいた
ローカルサーファー本人が
本当は
やりたくなかったのでは
あるまいか。
自分達がいつも
サーフィンをさせてくれる
海に感謝して、
行うことであるなら、
腹が立つのは
おかしいことではないのか。
誰がやろうが、
やるまいが、
関係ありません。
自分がやれば
それで良いのですよ。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝
" 見える顔 "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
『みえる かお』
毎日、会う人がいる。
家族はもちろんのこと、
職場や学校で会う人、
趣味の集まりで会う人、
私達は
日々の生活の中で
毎日、たくさんの人と会う。
無人島で一人孤独に
生活しない限り、
毎日、誰かの顔を見る。
自分の顔は見えないが、
相手の顔は見れるのだ。
仕事をするにも、
話をするのも、
物を買うのも、
売るのも、
色々な場面で
必ず、相手の顔を
見ることになる。
どうせ見なければ
ならない、
相手の顔であるのなら、
喜んだ顔を見たいものだ。
暗い、悲しい、
寂しそうな、
顔を見れば、
「可哀相な人だな」
という氣持ちになる。
楽しそうな顔を見れば、
やはり、
こちらも楽しくなる。
そうであるなら、
相手を喜ばせるように
すれば良い。
喜ばすといっても、
お世辞を言ったり、
心にも無いことを言ったり、
特別に何かをする
わけでもない。
私は誰にも
お世辞は言わない。
ただ相手の人と
機嫌良く、
愉快に接することだと思う。
会う人、会う人を
楽しく、愉快に、
喜ばせることが
できたら、
どんなに自分も
楽しいだろう。
それを日々、
心がけて
喜んだ相手の
身体中から出てくる
プラスの氣を
心静かに眺めること。
これは
相手も自分も
幸せになれる
道であると、
今朝、ふと思った。
口で言うのは簡単だ。
そう。
簡単だから
できるんじゃないかな。
よし、
早速、実践だ。
今日からやってみよう。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝