" 稽古は心磨き。顔を見れば心は読める "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
処暑【しょしょ】末候
七十二候
第四十二候 禾乃登(こくものすなわちみのる)
「禾乃登」は9月2日~6日頃。
「処暑」は末候へと移りました。
田んぼの稲が実り、穂を垂らすころですね。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 けいこ は こころ みが き。かお を みれ ば こころ は よ め る 』
" 師範が見抜く、
人の心と顔の相関関係 "
合氣道師範として
道場を主宰し、13年が過ぎました。
様々なお弟子さんと
向き合う中で
技の深みを追求することはもちろん、
それ以上に「人の心を読む」という、
洞察力といいますか、
予期せぬ能力を
身につけることができました。
もちろん、
超能力や霊感といった話ではありません。
毎日、
多くのお弟子さんと向き合う中で、
その人の「心」が、
必ず「顔」に表れる。
というシンプルな
真理にたどり着いたのです。
心が顔の表情や態度に表れることは、
日常で人と接した時に
誰でも感じ取れることです。
しかし、ここで言う、
【人の心が、必ず顔に表れる】
というのは
日常のそれとは少し異なります。
話を聞くときの表情、
うなずき方、
目の奥の輝き。
それらを注意深く観察すれば、
相手が何を考え、
何を感じているのかが
手に取るようにわかります。
それは時に、
とても氣持ちよく感じたり
反対に、
非常に氣持ち悪く感じたり
するのです。
百人を超えるお弟子さんの中には、
実に様々な人がいます。
心と顔が正直につながっている人、
そうでない人。
その違いは、
稽古の成果にも、
道場全体の雰囲氣にも、
はっきりと表れます。
" 心の正直さが顔に出る "
たとえば、
私の話に熱心に
耳を傾けているように見えても、
どこか顔に
不自然な影がある人がいます。
何とも言えない
「氣持ち悪さを感じる影」が
その時々に
額から真っ直ぐ目元にかけて、
またある時は、
額の右側から斜め下方向とか、
その逆とか。
「氣持ち悪さを感じる影」が
その人の顔に浮かんでくるのです。
その顔は笑顔でも「その影」は
はっきりくっきり表れます。
あまり良い表現ではありませんが、
ありのままに申して、
とにかく
不氣味で異様な
氣持ち悪さを感じるのです。
いわゆる
「張り子の虎」のように、
形式的にうなずいてはいるものの、
その目は虚ろで、
話の十分の一も
理解していないのがわかります。
それは
その人が私の話に対して、
心の中でシャッターを下ろし、
「絶対に受け入れない」という
強い遮断をしている状態です。
こういう人は、
往々にして
自分に自信がなく、
心の器も非常に小さい。
話を聞き入れること自体が、
自分の「弱さ」や「未熟さ」を
突きつけられるように
感じてしまうのでしょう。
その結果として、
技も、心も、立ち居振る舞いも、
なかなか向上しません。
一方で、
私の話を頭を空っぽにして、
まっすぐに
受け入れる人もいます。
彼らはロボットのように
「はい、そうです」と従う
イエスマンなどではありません。
ただ、素直に心を開き、
新たな学びを
素直に吸収しようとする姿勢 が、
顔を含めた全身からにじみ出ています。
その顔は
本当に氣持ちがいいほどに明るく、
目がキラキラしています。
" 明るい道場は、
素直で明るい心から "
このような素直で明るい
心の持ち主が多く集まる道場は、
不思議と全体が明るくなります。
人も、場そのものも活氣に満ち、
ポジティブなエネルギーが
循環していくのを感じます。
毎年開催している
指導者育成練成稽古に参加する
門弟たちは、
まさに
そういった人たちばかりです。
彼らは技の習得だけでなく、
自分の信念を堂々と
他の人に語る力をも身につけ、
内面から成長していきます。
今年の春、
神戸での指導者育成集中稽古では、
はじめての試みとして
指導者だけでなく、
私が感じる「氣持ちがいい人」を
特別に招き、
【ノーストレス勇往邁進クラス(仮)】を
開催しました。
いつもの
兵庫キャナルタウン合氣道教室が、
かつてないほど、
「氣」に満ちた場所になったことは
言うまでもありません。
技を磨くことは、
同時に心を磨くこと。
そして、
心が正直で澄んでいれば、
その人の顔は必ず輝きを放ち、
周囲の人々、
そして
その場全体を明るく照らすのです。
同じ修行するなら、
そういう人になりたいものです。
合氣道は、
自己を磨き、「心のあり方」を学ぶ
宇宙史上、
最高の道であると私は改めて感じています。
今週もありがとうございました。
良い週末を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝