2025-04-17 03:40:00

" 嵐の中の瞑想 - 雹と露天風呂と合氣道 "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候

 

七十二候 

虹始見 にじはじめてあらわる

 

第十五候

「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。

春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

『 あらし の なか の めいそう - ひょう と ろてんぶろ と あいきどう 』

 

 

 

 

先日、合氣道の稽古がお休みの日に、

かねてから訪れたかった

スーパー銭湯へ足を運びました。

 

 

平日の午後の早い時間帯だったためか、

露天風呂には私ともうお一人だけ。

 

 

静寂に包まれた空間は、

まさに至福のひとときでした。

 

 

 

その日は風が強く、

大氣の状態は不安定という予報が出ていました。

 

 

 

露天風呂に浸かっていると、

予報通り冷たい風が強まり、

空の色が、だんだんと暗くなってきたその時。

 

 

「バタバタ」という激しい音とともに、

突然、雹 (ひょう) が降り始めたのです。

 

 

 

もう一人の方は

すぐに内風呂へと避難されました。

 

正しい判断です。

 

 

 

もちろん、

危険な状況を推奨するわけではありません。

 

 

 

しかし、

降ってきた雹は勢いはあったものの、

それほど大きな塊ではありませんでした。

 

 

 

私は、あえてそのまま

露天風呂に浸かり続けることにしたのです。

 

 

「これも自分の修行の一環」

 

 

いつでも素早く、避難できるように

「心を静め」、「リラックス」して

天地大自然に身を委ねることにしました。

 

 

 

 

私たちは、

普段の生活の中で

穏やかで順境な日々が続くと、

その存在を忘れがちになります。

 

 

 

 

 

 

私の職業は「合氣道師範」です。

お弟子さんへの日々の指導や稽古は

道場という室内で行われます。

 

 

 

合氣道には様々な流派があり、

それぞれの団体で違いはありますが、

 

 

私が所属する

兵庫県合氣道連盟、

 

私が主宰する

合氣道琴心館寺崎道場、

 

その稽古の大きな目的の一つに

 

「自分の心と身体が天地大自然と一体になること」があります。

 

 

 

 

それは、

単に身体の重みをどこに置くか、とか、

心の置きどころを意識したり

するだけではありません。

 

 

心と身体、

そして私たちを取り巻く

天地大自然が完全に調和し、一体となること。

 

 

 

生きとし生けるもの、

命あるものはすべて、

宇宙の中にあるこの広大な天地大自然の一部なのです。

 

 

 

 

 

私たちは

それを頭では理解していても、

日々の忙しさの中で、

その感覚を忘れてしまうことも

多々、あるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

合氣道が私の生活の一部となる以前、

10代の終わりから50代前半まで、

私はサーフィンに没頭していました。

 

 

 

海の上では、

雨が降っても傘をさすことはできません。

 

 

ウエットスーツは進化しましたが、

冬の海は容赦なく冷たい。

 

 

波の力は、

人間など簡単に吹き飛ばしてしまいます。

 

 

ライディングを誤れば、

まるで人間洗濯機のように波に巻かれ、

水の中では息をすることもできません。

 

 

風や予測不能な潮流に流され翻弄する。

 

 

 

まさに、それは

天地大自然の脅威を

全身で受け止めなければならない場所でした。

 

 

 

だからこそ、

私は天地大自然の力を信じることができたのです。

 

 

 

「天地大自然と一体であること」

私は、それを海から学ばせていただきました。

 

 

 

人間は、

決して " その力に勝つことはできない " と悟りました。

 

 

そして、

畏敬 (いけい) の念を抱くことができるのです。

 

 

 

それは、

頭で理解するのではなく、

実際に身体で受け止めなければ

決して分からない感覚です。

 

 

 

 

昨今、

世界では「この世で人間が一番だ」と

傲慢に考える人々が多いように感じます。

 

 

 

自分の力で

地球をどうにでもできると錯覚し、

 

他国の領土や資源を強奪する行為を

正当化するような国のリーダーも存在します。

 

 

 

もし、そのような人物を

一度、台風で荒れ狂う海に

放り出してみたらどうなるでしょうか。

 

 

誰も助けない状況で、

溺れ死ぬか、

 

もし奇跡的に陸に生還できた時、

初めて自分ではどうすることもできない

天地大自然の営みや脅威を、

身を持って理解するのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

話をスーパー銭湯に戻すと、

 

内風呂から数人の方が、

外の様子を見に出てきました。

 

 

激しく降りつける雹に打たれながら、

露天風呂に悠然と浸かっている

私と目が合います。

 

 

 

もしかしたら、

「こんな雹が降る中、露天風呂に入り続けるバカもいるもんだ」と

 

SNSに投稿されるかもしれません。

 

 

 

 

しかし、私は勝海舟の言葉が大好きです。

 

 

 

「行いはおれのもの、批判は他人のもの、おれの知ったことじゃない」

 

 

 

自分の行動は自分で選択し、

制御することができます。

 

 

しかし、

それに対する他人からの評価や批判は、

自分の力ではコントロールできません。

 

 

ならば、

他人の目を氣にせず、

自分が良いと思うことを思う存分やればいい。

 

 

 

 

約10分間、

雹に打たれ続けた露天風呂での時間は、

まさに、何にも代えがたいものであり、

 

 

「心と身体と天地大自然が一体」となった、

 

 

" 真のリラックス " を体感させていただけた

最高の至福の瞬間でした。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-04-16 03:36:00

" お守りを持たないということ "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候

 

七十二候 

虹始見 にじはじめてあらわる

 

第十五候

「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。

春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

『 おまもり を もたない と いう こと 』

 

 

 

 

昔の知人で多くのお守りを

身につけている人がいました。

 

旅行のお土産には、

必ずと言っていいほど

神社仏閣のお守りをいただくのです。

 

 

それ自体を否定するつもりはありません。

 

 

 

しかし、経験的に、

多くのお守りを持つ人ほど、

病氣や災難に見舞われるように感じるのです。

 

車のダッシュボードに

お守りをいくつもぶら下げている車ほど

よく事故を起こすという話も聞きます。

 

 

 

 

私は、常日頃お守りを持ちません。

 

ただ一つ、

靖國神社のお守りを財布に入れています。

 

それは、

まだ見ぬ私たちのために

命をかけて祖国を守ってくださった

英霊の御霊と共にありたいという、

感謝の思いからです。

 

 

 

 

神社に参拝に行けば、

境内でお守りが売られているのは

当たり前の光景です。

 

お寺にだって、

置いていないお寺を探す方が難しいくらい。

 

 

 

その姿も昔ながらのお札の形から、

おしゃれなキーホルダータイプ、

氣軽に貼れる可愛いシール状のものまで、

実にバリエーション豊かです。

 

 

期待できる効果も様々ですよね。

 

 

受験や恋愛の成就を願うもの、

日々の安全を祈るもの、

厄除けや病からの回復を願うものなど、

 

私たちの様々な願いや不安に寄り添ってくれます。

 

 

 

でも、ふと立ち止まって考えてみる。

 

 

それらのお守りの力を、

私たちは本当に

心の底から信じているのでしょうか?

 

 

 

もし願いが叶わなかったとしても、

「お守りのせいだ!」と

販売元の神社仏閣に

クレームをつける人なんて、

まあ、いないのではないでしょうか。

 

 

 

私たちは心のどこかで、

お守りが一種の心の支え、

氣休めに過ぎないと

感じているのではないでしょうか。

 

 

 

そう理解しながらも、

ついつい手を伸ばしてしまい、

いつの間にかそれが習慣、

 

いや、もしかしたら

依存にすらなっているのかもしれません。

 

 

 

たとえば、

「交通事故に遭ったのは、あの日お守りを持ち忘れたからだ」とか、

 

「商売がうまくいかないのは、開店日の運が悪かったからだ」とか、

 

「最近不幸続きなのは、自分の名前の画数が悪いせいだ」とか。

 

 

 

私たちは、

" 何か問題が起こると、
その原因を自分の外に探しがちです。"

 

 

 

そして、

より効果のあるお守りを求めて彷徨ったり、

占いや根拠のない迷信に

頼ったりしてしまうのです。

 

 

 

 

自分にとって

都合の良いことばかり追い求め、

都合の悪いことを避けようとするのは、

人間の本能なのかもしれません。

 

 

 

しかし、

良いことばかりを追いかける生き方は、

裏を返せば

悪いことを極度に恐れる心を生み出します。

 

 

 

そして、

悪いことが続くと、

最終的には自分の人生そのものを否定し、

呪うようになってしまうのです。

 

 

 

 

どんな状況に置かれたとしても、

私たち自身の人生は、

誰の人生とも交換できません。

 

 

それは同時に、

誰とも交換する必要のない、

唯一無二の、かけがえのない人生なのです。

 

 

 

 

 

私がお守りを持たないという選択は、

単なる「持たない」という行為を超えて、

 

良し悪しといった相対的な二元論を超え、

目の前に広がる現実をありのままに受け止め、

 

その中で精一杯生きていこうとする、

力強い意思表示なのでありまする。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-04-15 03:05:00

" 誰もが皆、師という役割を背負っている "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候

 

七十二候 

虹始見 にじはじめてあらわる

 

第十五候

「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。

春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

 

『 だれ も が みな、し という やくわり を せおって いる 』

 

 

 

 

「故 (ふる) きを温 (たず) ねて新しきを知る、以 (も) って師と為 (な) るべし」

 

これは、

『論語』に出てくる誰もが知る名言ですね。

 

 

 

" 過去の事柄や知識を深く学び、

理解することによって、

新しい事柄や知識を

より深く理解することができる。

そうすることで、人は他の人を

教え導くことができるようになる " 

 

 

過去の学びを土台として、

現在や未来を理解し、

さらにそれを人に伝えることが

できるようになるという、

学びの深化と発展の重要性を

説いた言葉と言えます。

 

 

 

 

江戸時代中期、

" 石門心学 " を確立し、

商人たちの精神的な支柱となった

思想家・石田梅岩。

 

 

彼の「温故知新」の解釈は、

私たちが人を導く「師」となるための

深い示唆を与えてくれます。

 

 

 

石田梅岩が語る「温故知新」とは。

 

 

 

単に、古い知識を学び

新しい知識を得るという

表面的な意味で捉えていませんでした。

 

 

彼はこう語ります。

 

 

「 " 温故 " とは、師から教わり学ぶこと。

" 知新 " とは、自分で工夫考案して

新しいことを発明することだ。

発明ができたということは、

学んできたことが、

すっかり身に付いたということになる。

そのようになれば、

如何なる問題にも

応じることが出来るようになるから、

窮するということがなくなるのだ。

これを以て師となることができるのだ。」

 

 

 

石田梅岩にとって

 

「温故」は、先人や師から教えられた

知識や知恵をしっかりと身につけること。

 

「知新」は、その学びを土台として、

自ら考え、工夫し、新しい価値を生み出す

創造的な行為を指します。

 

 

そして、真に学びが身についたとき、

人はどのような問題にも

対応できる力を得て、

初めて「師」となりうると説いているのです。

 

 

 

 

「師」とは特別な存在だけではありません。

 

 

 

 

「師」という言葉を聞くと、

学校の先生や医師、

また何か特別な能力や技能を持つ

特定の職業に就いている人を

思い浮かべるかもしれません。

 

 

もちろん、

そうした人々も

「師」であることは間違いありません。

 

 

 

しかし、

石田梅岩が示唆するように、

人を導く立場にいるすべての人々が

「師」としての役割を

担うべきであると思うのです。

 

 

 

 

たとえば、

武道の稽古場を考えてみましょう。

 

 

私が主宰する

合氣道琴心館寺崎道場では、

「先輩」が「後輩」に

技を教えるのは日常的な光景です。

 

子どもクラスでも

それは例外ではありません。

 

「上の級」の子どもが

「下の級」の子どもに、

「年上」の子どもが

「年下」の子どもに、丁寧に指導します。

 

 

「教える側」の子どもは、

教えることを通して

相手を思いやる心を育み、責任感を学びます。

 

一方、「教えられる側」の子どもは、

先輩や年上の子を

尊敬する心を自然と身につけます。

 

 

そして、今まさに

「教えられている」新しい入門者も、

いずれは「教える立場」に立つ日が来るのです。

 

 

 

 

家庭や職場にも存在する「師」の役割。

 

 

 

 

家庭における父母、

職場における上司もまた、

「師」としての重要な役割を担っています。

 

 

「親」は「子」を養い育て、

人間としての基本的な規範や

人格形成の基礎を教え、

社会で生きていくための教養を身につけさせます。

 

 

「上司」は「部下」に対し、

仕事に必要な知識や技術だけでなく、

社会人としての心構えや成長の機会を与え、

一人前の職業人として育成します。

 

 

 

 

このように考えると、

 

「師」とは決して特別な肩書を持つ人だけではありません。

 

 

 

私たちは、

日々の生活の中で、

誰かの成長を助け、

導く存在になり得るのです。

 

 

 

「温故知新」を心に、人を育てる。

 

 

 

石田梅岩の言葉を改めて心に刻み、

私たち一人ひとりが

「温故知新」の精神を大切にすることが、

 

人を育て、社会をより良くしていく

力になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

過去の学びを深く理解し、

そこから新しい価値を

生み出す努力を続けること。

 

そして、

その経験と知識をもって、

周りの人々を温かく導いていくこと。

 

 

 

今一度、

「温故知新」に真摯に向き合い、

 

私たち自身の成長とともに、

次世代を育む意識を

高めていきたいものです。

 

 

 

それぞれが、それぞれの場所で

「師」としての輝きを

増していくことができれば…

 

そう願うのでありまする。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-04-14 03:25:00

" 安心の一息が油断のはじまり "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候

 

七十二候 

虹始見 にじはじめてあらわる

 

第十五候

「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。

春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

『 あんしん の ひといき が ゆだん の はじまり 』

 

 

 

たとえば、

大規模なプロジェクトを成功させる、

念願の資格を取得する、

受験に合格する、

住宅ローンを完済する。

 

 

人はこのような目標を達成した時、

大きな安堵感とともに深く息をつく。

 

 

また、

やっと部屋の掃除が終わる、

用事を済ませる、

満員電車から解放される。

 

 

私たちは日常生活のそんな瞬間にも、

「安心してほっと息をつく」

 

 

 

しかし、

その安心しきった一息こそが、

次の挑戦への準備を怠らせたり、

新たな問題を見過ごさせたりする

" 油断 " の始まりとなり得るのです。

 

 

 

その「終わった」という小さな安心感が、

スイッチを切り忘れたり、

大事な確認を怠ったり、

忘れ物をしてしまったりという、

うっかりとした油断につながることが

少なくないのではないでしょうか。

 

 

 

 

「油断大敵」という言葉があります。

 

 

油断は大きな敵である。

 

 

 

少しでも氣を緩めると、

思わぬ失敗を招く可能性がある。

 

 

常に十分に注意すべきであるという

自分への戒めの言葉としたいものです。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝

2025-04-11 03:19:00

" 桜が教えてくれる人生のうつろい "

今朝も目覚めることができた、

ありがとう。

 

 

本日は、

二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・次候

 

七十二候 

鴻雁北 こうがんかえる

 

第十四候

「清明」は初候から次候へと移りました。「鴻雁北」は4月9日~13日ごろに相当します。

春の終わり頃に、冬を日本で過ごした雁(がん)が北の繁殖地へと帰っていく様子を指します。

 

 

 

 

 

今日のお題

 

 

 

『さくら が おしえ て くれ る じんせい の うつろい』

 

 

 

春の陽氣に誘われて、

今年も桜が美しく咲き誇りました。

 

 

淡いピンク色の花びらが風に舞う姿は、

何度見ても心を奪われますね。

 

 

 

しかし、

その華やかな時間は儚く、

あっという間に過ぎ去っていきます。

 

 

 

「散る桜 残る桜も 散る桜」

 

 

 

これは江戸時代の

禅僧、良寛 ( りょうかん )和尚の

句とされているそうです。

 

 

 

先に散っていく桜も、

今まさに咲き誇っている桜も、

いずれは必ず散ってしまう。

 

 

 

 

この世のすべてのものは

移ろいゆく、

万物は常に変化し

不変のものはないという

諸行無常 ( しょぎょうむじょう )  の真理を

桜に託した言葉ですね。

 

 

 

 

私たちの人生もまた、

この桜のようではないでしょうか。

 

 

 

 

輝かしい若さ、情熱的な出会い、富や財。

 

 

それらは

まるで満開の桜のように、

私たちの人生を彩ります。

 

 

しかし、

その輝きは永遠ではありません。

 

 

 

時間は流れ、状況は変わり、

いつか別れや終わりが訪れます。

 

 

今この瞬間が

どれほど満たされていても、

それもまた移ろいゆくもの。

 

 

その事実を受け入れるのは、

時に切なく、寂しいものです。

 

 

 

 

しかし、物語はそこで終わりませぬ。

 

 

 

 

「葉桜もまた美しい」

 

 

 

花びらが散った後、

桜の木は青々とした葉を茂らせます。

 

日差しを浴びて

力強く輝く葉桜の姿も、

また違った趣があり、

生命力にあふれていて美しいものです。

 

 

 

 

私たちの人生においても、

華やかな時期が過ぎ去った後にこそ、

見えてくる美しさがあります。

 

 

 

経験を重ね、

円熟味を増した落ち着き。

 

 

若い頃にはなかった

深い洞察力や、人に対する優しさ。

 

 

 

様々な出来事を

乗り越えてきたからこその、

内面からにじみ出る強さや豊かさ。

 

 

 

それは、

満開の桜とは異なる、

葉桜のような

滋味深い美しさではないでしょうか。

 

 

 

散りゆく桜に

人生の儚さや無常を感じ、

一抹の寂しさを覚える。

 

 

それもまた自然なことですね。

 

 

 

しかし同時に、

花が散った後の葉桜の姿にも

目を向けたいものです。

 

 

 

そこには、

次なる季節へ向かう力強い生命の営みと、

成熟した美しさがあります。

 

 

 

 

人生のどの瞬間も、

その時々にしかない

「輝き」と「価値」を持っています。

 

 

 

 

満開の桜の時期も、

そして葉桜の時期も、

どちらも等しく尊く、美しい。

 

 

 

桜のうつろいに人生を重ね、

変化を受け入れながら、

それぞれの季節を味わい深く

生きていきたいものですね。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝