" 師を伸ばす弟子:合氣道で学ぶ「言行一致」"
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
小満【しょうまん】 末候
七十二候
第二十四候 麦秋至【むぎのときいたる】
二十四節氣「小満」は末候へと移りました。
「麦秋至」は5月31日~6月4日ころにあたります。
冬に種をまいた麦が大きく実り、畑一面が黄金色に輝く頃を指します。
初夏の爽やかな風が吹き渡り、豊かに実った麦が収穫を待つ、
そんな日本の美しい情景がこの「麦秋至」という言葉に込められているのですね。
今日のお題
道場長の一日一心
『 し を のば す でし:あいきどう で まな ぶ " げんこう いっち " 』
今月末に控えた令和7年 前期 昇級審査。
各教室では
審査対象者の練習が熱を帯びています。
そんな中、
ある一人の中学生の女子生徒の
「本氣」には、
ただただ胸を打たれるばかりです。
「先生、今回の昇級審査で必ず昇級します。」
この言葉を聞いたとき、
私は彼女の並々ならぬ「覚悟」を感じました。
彼女は決して覚えの早いタイプでは
ありません。
それを彼女自身が一番良く知っています。
" 自分は覚えが人より遅い分、
人より多く稽古をしないといけない "
ということを、よく分かっているのです。
二時間の稽古中も
一切、休むことなく技に取り組み、
その日に指導をお願いした
有段者の先輩から
「少し休憩する?」と聞かれても、
「いえ、続けてやらせてください」と即答する。
その顔つき、目つき、
そして全身から発せられる「氣」は、
「人間が本氣になったら、ここまで変わるのか」と、
まだまだ、中学生の彼女から
教えてもらったような氣がしました。
こんな素晴らしいお弟子さんを持てて、
私は本当に幸せ者であると、
心からそう思います。
"「理解」と「行動」の不一致 "
私たちは
「人間は心が身体を動かす」
という大原則を、
合氣道を通じて深く学んできました。
五年、十年と稽古を続ける者であれば、
この原則を深く理解しているはずだと、
私は長年、信じてきました。
しかし、
残念ながら
必ずしもそうではありませんでした。
彼らは口々に「理解しています」と言う。
しかし、
その「理解」と「行動」が
全く一致しない場面を何度も目にします。
それは、
果たして本当に理解していると
言えるのでしょうか。
" 天地大自然の理 " から
遠く離れているとしか私には思えません。
「できるか」、「できないか」は、やってみないと分からない。
これが「人生の真理」ではないでしょうか。
「やったからできた」あるいは
「やったらできませんでした」となるのが
自然な流れです。
「できたらやります」
「できそうならそうします」
「行けそうなら行きます」といった言葉は、
自身の都合で
「やらない」言い訳を探しているに過ぎません。
こういうタイプの人間って、多いんですよね。
短い、アッという間の大切な人生の時間を
このようなタイプの人間との
時間に取られたくないですね。
"「やらない」選択肢を捨てる人間の基本的精神 "
私が言いたいのは、
「そんな日本語は存在しない」
ということです。
自分の都合で勝手に言葉を作り、
自分の行動を制限する。
それは、
自らの可能性を閉ざすことと同じです。
それは、
本当に " 心の弱い人間 " であると私は思います。
" 自分の弱い心を強くしたい "
そう願って合氣道を始め、
それを実現するために稽古を重ね、
それとは真逆の道を歩もうとする。
まさに「主客転倒」でありまする。
あの稽古に励む
中学生の日本女子の「氣」の出し方。
それはまさに
「できるか、できないか」ではなく、
「やる」という選択肢しかないという姿勢。
彼女のその「本氣」から、
私たちは " 学ぶべきこと " が
たくさんあるのではないでしょうか。
" 師を伸ばす弟子、師匠となる弟子 "
「こんなお弟子さんを持てて、幸せだ」。
師匠に
そう思わせることのできる弟子は、
" 師匠自身をも成長させてくれる存在 " です。
それは、
私自身を成長させてくれる
存在であるから、
私にとっては「師」でもあるのです。
合氣道の道は、
技の技術を磨くだけではありません。
心を磨き、
言葉と行動を一致させ、
真摯に物事に向き合う姿勢を学ぶ場なのです。
「やります」と即答できる潔さと、
それを
成し遂げるための「本氣」の精神こそが、
合氣道の真髄であり、
より良い人生を生きていく「本質」でありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝