" 神仏には願いではなく感謝すること "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節気
小寒 (しょうかん) 初候
七十二候
芹乃栄(せりすなわちさかう)
第六十七候。
1月6日から1月9日頃までは小寒の初候にあたり、春の七草のひとつ、芹が成長する時季です。
今日のお題
『しんぶつ には ねがい では なく かんしゃ する こと』
あけましておめでとうございます。
今年も初詣に参拝した。
今年の参拝は、
より心が静まり、
心の平穏を感じながら
神様に
「ありがとうございます」と
感謝の祈りを捧げた。
自分にとっての
ご利益とか効果であるとか、
そういうことを
期待するだけ。
また、
願い事をすることだけが
参拝の目的になっている
人も多々あると思う。
人の思いは
それぞれだから、
それを否定はしないが、
まずは
神様に感謝の心をお伝えして、
その上で
自身の健康や合格祈願、
良縁や幸せなどを
神様にお祈りするべきでは
なかろうか。
しかし、
自分の願い事や
利益や効果を期待して
参拝している間は、
せっかく神社に参拝しても
心の平穏は訪れないのだ。
なぜなら、
それだけでは
神様と一体になれないからだ。
もっと言うと、
万物の霊長として生まれた
人間として、
たとえ肉が裂けようが、
骨が砕けようが
" 助けて " とか、
" 参った " とか
決して言わないことだ。
何か困ったことがあれば
すぐ「神様助けて」と
言う人がある。
" 苦しい時の神頼み "
というものだろうが、
万物の霊長たる人間が、
自分の人生を
生きているにも関わらず、
神仏にお願いする
神や仏に頼るというような
氣持ちを持っている限り、
そのような人は
絶対に救われることなどない。
神仏は
願ったり、頼ったり
するものではなく、
尊ぶべきものだ。
年に一回や二回、
お賽銭をあげて
「助けてください」などと、
そんな虫のいい話など
この世にあるわけがない。
神社や寺は
みな人間が建てたもの。
神や仏が建てたものなど、
一つもないのだ。
そうであるなら、
神社や寺に参拝する
ということは、
その場所に祀られている
神仏を通して、
天地大自然に感謝するという
ことではないだろうか。
天地大自然は
お賽銭をあげたから
助けてくれる
というものでは決してない。
神仏に祈るものが
助かるというものではない。
そんなことも
分からなかった頃の
私もまた、困ったら神頼みしていた。
高校生の時、
" 野球の試合に出れますように "
" ヒットが打てますように "
商売をしていた頃、
" 商売が上手くいきますように "
" 儲かりますように "
身体の具合が悪い時、
" 良くなりますように "
何一つ、叶わなかった。
普段、
自分のことしか考えず、
好き勝手に生活して、
神仏に手も合わせない人が、
お正月だからといって、
初詣に参拝して
願い事をして、
果たして
神様は聞き入れて
くださるでしょうか。
それが可能なら
神仏に願い事や頼み事をした人は
皆、願った通りの人生を
歩めるはずである。
自分事に置き換えてみると
よく分かるはずだ。
そんなことはありえない。
そうではなくて、
自分の思いや願いを
叶えようと思えば、
ひたすら
努力を継続すること以外に
何もないのだ。
「今、私は生かされているだけでありがたい」
それだけで
何不自由なく生きているんだ。
全てのものを与えられているんだ。
これ以上、
何が欲しいと言うのか。
私はそれに氣付いてから、
世のため人のために
自分にできることを
一所懸命やる。
その貴重な命を
今現在いただいている。
その感謝の心を
天地大自然に捧げるために
神仏を通して参拝する。
そのご縁を大切に尊ぶ。
それが
できるようになってきたら、
神社や寺の静寂に
心がピタッと一致するようになった。
そして心の平穏が訪れるのだ。
初詣に限らず、
神仏に参拝するということは
そういうことであると、
私は常日頃から思っています。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
道場長 拝