" お天道様のいたずらと継承 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
『おてんとうさま の いたずら と けいしょう』
蒸し暑い日でも、
夜はひと風吹けば
涼しい川辺。
隅田川テラス。
東京出張の際、
私のお氣に入りの場所になった。
川を見ているだけで涼しく、
夜は心地よい風が吹く。
日中の猛暑に
身体が悲鳴を上げ、
室内の冷房も
長時間になってくると
身体がこわばる。
隅田川沿いの
自然の風は、
「身体を生き返らせてくれる」
そう感じる場所だ。
そして、
夜はスカイツリーや
川に架かる橋の
ライトアップも楽しめる。
2024年夏期集中稽古では
毎夜、その日の稽古の反省と
明日の稽古の内容などを
指導者の先生方と
隅田川テラスで話し合った。
その二名の先生も
私のお弟子さんだ。
K先生とN先生。
ともに深い縁があり、
同じ道を歩む
同志であるから、
話し合いには
ビールは自然とついてくる。
ある日の夜、
厩(うまや)橋から
駒形橋の脚線美の奥に
堂々とそびえ立つ
スカイツリーに向かって
K先生が叫んだ。
「おてんとうさまはイタズラがだいすきなんだね」
それにしても
上手に表現したものだ。
ホントにそのとおりだ。
天地大自然は
イタズラ好きだ。
K先生とは
私が20歳の時、
サーフィン観光で行った
インドネシア バリ島で
たまたま
同じ飛行機に
成田から乗り、
たまたま
現地でも同じホテルに
ステイして知り合ったのだ。
N先生とは
これまた同じバリ島で、
たまたま
毎日同じサーフポイントで
サーフィンして知り合った。
それ以上は
ここでは書けない。
一冊の本も書ける
ほどの物語がある。
それも長編だ。
それはさておき、
先程から
何度も出てきた
フレーズ
" たまたま "
それは実は
" たまたま "
などでは決してないのだ。
今でこそ
インドネシア バリ島には
たくさんの
日本人観光客も訪れるが、
当時1980年代は
まだまだ未開の地に
等しい場所だった。
K先生は仕事で
私はサーフィン旅行。
目的も仕事も地位も
全く違う者同士が
遥かインドネシアで出逢った。
1日ズレたら、
宿泊先が違えば
知り合えなかった。
その10年後、
私が30歳の時に
一回りも離れたN先生と、
クタリーフという
サーフポイントで出逢った。
そこは沖合い1キロほどの
サーフポイントなので、
カヌーをチャーターして
沖までいくのが一般的だ。
その日も
クタリーフには
私とオージー(オーストラリア人)の
2人だけで
波を分かち合っていた。
今では考えられない…
そこへ一隻の
カヌーがやって来た。
N達一行だが、
Nがいない。
「やつは寝坊だから放ってきちゃった」
「エアポートリーフのほうが波良いみたいだから一緒に行かない?」
と誘われたが、
私はオージーと2人の
メローな波乗りの方が
良かったのでそこにいた。
「じゃ、また」
カヌーが見えなくなった頃、
Nがパドリングで
沖までやって来た。
「みんなエアポートリーフに行ったよ」
「え〜さいあく、超かったるいけど行ってきま〜す」
またパドリングで
エアポートリーフまで
向かっていった。
岸からクタリーフまで
パドルで約30分
さらに
エアポートリーフまでは
40分はゆうにかかる。
ましてや
そこは
猛毒のウミヘビやサメが
うじゃうじゃいる海域なのだ。
岸も見えないほどの
沖合いに
たった一人で、
何かあっても
誰も助けになんか
来てくれない。
そんな勇氣のある18歳の女子。
二人の日本女子とは
そんな出逢いから
始まったのだ。
その後、
ちょくちょく
連絡は取り合っていたものの、
すっかり疎遠になった。
もう会うことも
無いと思っていた。
しかし
天地大自然のはからいで、
今度は合氣道という、
生き方を学ぶ舞台で
再会できた。
私にとっての合氣道とは
武道を越えた
生き方を学ぶもの
だと思っている。
この二人の日本女子も
疑うことなく
そう信じている。
そこに強い連帯があるのだ。
それはそれは
非常に強い連帯感だ。
その二人の日本女子にも
お弟子さんが集まりだし、
東京と神奈川で
約30人の先頭に立つ
立派な指導者となった。
さらに
その30人から
3名の指導者を育成したのだ。
そして
「合氣道とは人のために、社会のために」
私利私欲を捨て去り、
お弟子さんの向上、
なぜ人は生きるのか、
ということを
日々、
合氣道という
武道を通して
弟子達に指導している。
「おてんとうさまはイタズラずきだ」
さあ
この先は、
どの様なイタズラを
用意してくださって
いることだろう。
まさに
生死を超えた、
この尊いご縁に感謝し、
これからも共に歩もう。
出逢うべきして出逢った。
この揺るぎない絆こそが、
そこには実在するのだ。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝