" 教えるは学ぶの半ばなり "
今朝も目覚めることが出来た。
ありがとう。
『おしえるはまなぶのなかばなり』
教えることの半分は
自分が学ぶということである。
教えるとは
学ぶということであります。
合氣道の師範をしていると、
本当にそうだと実感する。
同じ稽古をしていても、
お弟子さんを持っているか、
持っていないか、
人前に立つ人と
立たない人では
全く違うのである。
お弟子さんを
投げることができなかったら、
師範とは言えない。
姿勢が乱れていては
師範とは言えない。
おどおどしているようでは
師範とは言えない。
お弟子さんを
上達させなければ
師範とは言えない。
だから、
本氣でなければ
師範にはなれない。
人を教えようと思えば、
自分で得心がいくまで
学ばなくてはいけない。
従って、
人を指導する立場の人は
著しく進歩するのだ。
その意味で
人に教えることは
とても良いことである。
しかし、
この理を
分からない者も大勢いる。
誰でも
一年習えば一年分の、
五年習えば五年分の
先生でもある。
「私はまだまだ未熟者です」
「人前になど立てません」
「教室を持つ時間などありません」
このような言葉を聴いたり、
そうは言わなくても
心ではそう思っている
人も大勢いる。
そういう人は
いつまでも
小人の域から
抜け出すことは
出来ないだろう。
謙虚と言えば
謙虚ではあるが、
「本当の謙虚」とは
師範にそのように
言われた時は、
「はい。分かりました」
「やってみます」と
返事することを
謙虚というのだ。
自分さえ学ぶことが
出来たら良い。
自分より先輩がしていないのに、
自分などおこがましい。
こういうのを
慢心と言い、
傲慢という。
自分の成長と上達を
自ら止めている
ことにすら氣付いていない。
大変愚かなことでありまする。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
道場長 拝