今日の一言 2026-02-06 (金) ~ 2026-02-08 (日)

道場長の一日一心 " ​感性は「鬱屈」の中にこそ宿る。弟子に伝えた感性の磨き方 "

今朝目覚めることができた。

ありがとう。

 

 

本日は、二十四節氣

立春(りっしゅん)初候

 

七十二候

第一候 東風解凍(はるかぜこおりをとく)

2月4日~8日ごろ。

東から暖かい春風が吹いてきて、

厚い氷をゆっくり解かし始めるころ。

 

 

 

 

 

今日の " 道場長の一日一心 "

​『 ​​​かんせい は「うっくつ」の なか に こそ やどる。でし に つたえた かんせい の みがき かた 』

 

 

 

 

 

不肖私が抱く

合氣道哲学の根底にあるもの。

 

 

 

それは、

 

「合氣道とは、闘争技術ではなく、

人間としての『感性』

磨き上げるための道である」

 

という確信です。

 

 

 

私が心から敬愛し、

仰ぎ見る大先輩は

深淵な感性をその身に宿しておられます。

 

 

その大先輩にとって合氣道とは、

道場の中だけで完結するものではなく、

 

人生そのものの在り方として

昇華されているのです。

 

 

 

​一方で、

技の形状――いかにして投げるか、

 

いかにして関節を極めるか―

のみに固執する人はどうでしょうか。

 

 

彼らの眼には往々にして

「相手を倒してこそ」という、

 

勝敗や優劣に囚われた

刹那的な景色しか

映っていないように見受けられます。

 

 

 

 

先月、東京へ出張した際のことです。

 

 

 

 

ある日の稽古の終わりに、

私はその日道場に集まった

 

お弟子さん方に

向けてこう話しました。

 

 

​「合氣道というものは、感性を磨くことで上達するものです」

 

 

​その日の稽古が終わり、

皆が着替えを済ませて

帰り支度をしている時のことです。

 

 

一年ほど前に入門した

ある熱心な二十代の

女性のお弟子さんが、

私の元へ歩み寄ってきました。

 

 

 

彼女は真剣な眼差しで、

こう質問を投げかけてきたのです。

 

 

「先生、どうしたら

その感性を磨く稽古ができますか?

普段の生活で

何をすれば良いのか教えてください」 ​

 

 

 

なんて素直な

お弟子さんでしょうか。

 

 

 

経験上、

こういう「素直さ」

持っている人は、必ず伸びます。

 

 

 

学びを吸収する

心のスポンジが柔らかいからです。

 

 

 

そこで私は、

実際に私が長年実践していること、

 

そして私が大切にしている

「生き方」そのものを、

彼女に包み隠さず教えました。

 

 

 

「感性」とは何か ​。

 

 

 

そもそも感性とは、

印象を受け入れる能力であり、感受性。

 

また、感覚に伴う

感情・衝動や欲望のことです。 ​

 

 

 

 

合氣道の組技の稽古は

相手がいます。

 

 

その相手の表情や

立ち居振る舞い、

 

また相手に手を持たせたとき、

持ったときに

 

ほんの微細なことを

感じ取れるか。

 

 

 

 

私ごときが

僭越ではございますが、

 

それを感じ取れて

初めて相手の氣を

導くことができると私は思っています。

 

 

では、その感性を磨く稽古は

道場だけでするものでしょうか?

 

 

 

もちろん道場においても

少しづつ深めて行くことができますが、

 

やはり道場以外の

日常において

 

どれだけその稽古をするか

ではないでしょうか。

 

 

 

" 私流・日常を「稽古場」にする方法 "

 

 

私が実践している

具体的な「日常の稽古」は、

 

想像力を働かせ、

勝手にストーリーを作ることです。 ​

 

 

 

たとえば、

東京出張の際の新幹線の車内。

 

隣近所の人を見て想像します。

 

「この人は今からどこへ何をしに行くのか」と。

 

 

 

車窓から見える

風景も稽古相手です。

 

 

信号待ちをしている

車の運転手、

 

スーパーに出入りする

自転車や歩行者を見て、

 

「ああ、この人たちは何を買うのだろうか?今晩の食材か?」

 

「育ち盛りの子どもに明日持たすお弁当の食材を買ってきたのか?」

 

 

「自転車でこれからどこに行くのか?」

 

「仕事へ行くのか?帰宅するのかなあ?」

 

 

 

 

そうやって自分なりに

勝手にストーリーを作ってみるのです。 ​

 

 

 

 

また、

文化に触れることも大切です。

 

 

 

色んな分野の

色んな著者の本をたくさん読む。

 

色んな分野の

アーティストの音楽を聴く。

 

好む好まざるに関わらず、

あらゆるジャンルの映画を観る。

 

落語を聴きに寄席に行く。

 

 

 

そして、

ただ見るだけではありません。

 

 

氣に入ったドラマや

映画の俳優の台詞や言い回し、

表現の仕方を

 

誰かと会話する時に

実際に使ってみるのです。

 

 

氣に入った映画等で

実際に使われた場所に

行ってみることもあります。

 

 

俗に言う

「聖地巡礼」とは少し違います。

 

 

その場所で

今度は自分が映画監督に

なったつもりで

 

自分のオリジナルストーリーを作って、

そのワンシーンを

思い浮かべるのです。

 

人の真似ではダメ。

 

あくまで

完全オリジナルストーリーです。 ​

 

 

 

 

ほんの一部ですが、

こんなことも実践しています。

 

私は子どもの頃から

「怪談」が大好きでした。

 

人一倍怖がりのくせに

怖い話は聴きたくなるのです。

 

 

ただ大人になるにつれ

「怪談=怖いだけの話」だと思い、

 

怪談なんて子どもじみた

ものだと思って

見聞きもしなくなっていました。 ​

 

 

 

それが数年前に

" 宇津呂鹿太郎 " 

(うつろ しかたろう)さんという

 

怪談作家のツイートが

X(旧Twitter)で

タイムラインから流れてきました。

 

 

その投稿にはこうありました。

 

 

 

「怪談はただの怖い話ではなく、それは日本の文化だ」

 

 

 

なるほど!

素直な(笑い)私は早速、

宇津呂鹿太郎さんをフォローし、

 

何冊か著書も拝読し

数回怪談のイベントにも足を運びました。

 

 

怪談というのは

感性を磨くのに適しているのです。

 

 

話を聞くだけの

想像であるからです。

 

 

見えないものを観る力、

氣配を感じる力。

 

 

これは合氣道に通じます。

 

 

 

この「あっ、そうか!」と

素直にすぐに

行動することが大事なのです。

 

 

 

 

そしてもう一つ。

 

 

 

それは、

現在ご覧いただいている

 

このブログ

「ぼくらの合氣道」の執筆です。

 

 

 

下書き保存も含めれば、

その数は800件(令和8年2月現在)を

超えました。

 

 

 

たとえ睡眠時間が

1時間しか取れない

過酷な状況であっても、

 

私は平日の毎日、

午前3時に身を起こし、

スマホに向かいます。

 

 

漆黒の静寂の中で、

己の感覚を言葉として刻み込む。

 

 

 

この孤独な

作業の積み重ねは、

 

道場の畳の上だけでは

決して到達し得ない

 

精神の領域を

私に教えてくれています。 ​

 

 

 

 

また、

私は常日頃、

 

物事を深く

突き詰めて考える性分(しょうぶん)です。

 

 

 

それゆえ、

独りになった時、

 

ふと得体の知れない

「鬱屈 (うっくつ)」

 

苛まれる (さいなまれる)

ことがあります。

 

 

 

誤解しないで

いただきたいのは、

 

これは氣が枯渇 (こかつ) している

わけではありません。

 

 

 

氣は満ち満ちている

にも関わらず、

 

心に重い霧が

かかったように

物憂げ (ものうげ) になるのです。 ​

 

 

 

 

私は

今も未熟者ではありますが、

 

さらに未熟であった

若き日の私は、

 

そのような自身の弱さを

情けないと恥じていました。

 

 

 

不肖私、

道場や人前では

決してそのような影は見せません。

 

 

 

鬱屈が訪れるのは、

決まって孤独な刻(とき)です。 ​

 

 

 

しかし、

今になって

ようやく氣づいたのです。

 

 

 

 

光が強ければ

影もまた濃くなるように、

 

そうした

物憂げな心のひだに

触れる時間こそが、

 

「感性」を研ぎ澄ます

砥石になるのではないか、と。

 

 

 

孤独を知り、

己の弱さと対峙するからこそ、

 

他者の痛みを

我がことのように感じ取り、

 

相手の立場を

真に尊ぶことが

できるのではないでしょうか。 ​

 

 

 

 

私は、

傲慢 (ごうまん) で

独りよがりな、

 

わがままで

あつかましい人間にだけは

なりたくない。

 

 

人様の厚意に甘え、

あぐらをかくような人間にだけは、

死んでもなりたくない。

 

 

 

 

あの一人の

時間の鬱屈や物憂げは、

 

私がそうならないための、

神様が与えてくれた

 

「戒め」であり

「人生の稽古」なのです。

 

 

 

 

そうであるならば、

清濁 (せいだく) あわせ飲み、

 

私はただやるべきことを

淡々と遂行するのみです。

 

 

 

 

 

その日、

稽古の後に質問をしてきた

お弟子さんを含め、

 

6名のお弟子さん方が

帰らずに道場に残ってくれました。

 

 

 

私たちは、

差し入れにいただいた

熱々の「たい焼き」を頬張りながら、

 

車座 (くるまざ) になって

語り合いました。

 

 

 

甘い餡の香りが漂う、

道場での

 

とても貴重で

温かな時間でした。

 

 

 

 

 

​このブログは

不特定多数の方に向けて

発信しているため、

 

私の実体験

すべてを詳らか (つまびらか) に

ここに記すことはできません。

 

 

しかし、あの日道場で、

私は自身の泥臭い実体験や、

 

心の葛藤も

ありのままに吐露 (とろ) しました。

 

 

 

ここに残ってくれた

お弟子さん達には、

 

合氣道の技を超えた、

 

私の「生き様」そのものを

伝授するのが

 

師としての

責務だと感じたからです。

 

 

 

 

​私がその時に

話せるすべてを語り終えた時、

 

ふと見ると、

最初に質問をしてきた

 

あの女性のお弟子さんが、

ハラハラと涙を流していました。

 

私の拙い (つたない) 言葉の

何かが、

 

彼女の琴線 (きんせん) に

触れたのでしょう。

 

 

 

 

その清らかな

涙の姿は、

 

今も私の網膜に

焼き付いています。

 

 

​この日本女子は

もう既に、

素晴らしい「感性」の持ち主です。

 

 

 

その感受性をさらに磨き上げ、

やがては良き指導者として

 

後進を導く

光となっていただきたい。 ​

 

 

 

 

感性を磨く道に、

唯一絶対の正解はありません。

 

 

 

「私のやり方を真似しろ」などと

強制するつもりも夢ございませぬ。

 

 

 

 

あくまで

不肖私の実践経験を

一つの道標として、

 

「なるほど、そういう磨き方もあるんだな」と

捉えていただければ幸いです。 ​

 

 

 

そして、

ご自身なりの

「感性の磨き方」を発見し、

 

それを弛(たゆ)まず

実践していっていただきたい。

 

 

 

その日々の

積み重ねの先にこそ、

 

合氣道、いや

「生きるとはこういうことなんや」

 

という人生の真髄に

触れる瞬間が訪れることを、

 

僭越なから

私は切に願ってやみません。

 

 

 

 

 

今週もありがとうございました。

良い週末を。

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

兵庫県合氣道連盟

合氣道琴心館寺崎道場

道場長 拝