今日の一言 2025-12-16 (火)
道場長の一日一心 " 命は母からの「ギフト」ではなく、天からの「預かりもの」。私たちが勘違いしてはいけないこと "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】末候
七十二候
第六十三候 鱖魚群 (さけのうおむらがる)
12月16日~20日ごろ。
鮭が川を遡上するために群れをなすころ。
海で大きく育った鮭は産卵のため、
ふるさとの川へ帰っていきます。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 いのち は はは から の「ギフト」で は なく、てん から の「あずかり もの」。わたし たち が かんちがい して は いけない こと 』
ふと、
車で信号待ちをしていたときのことです。
歩道の掲示板に、
こんな標語が掲げられていました。
「おかあさんからもらったこの命、大切にしよう」
一見すると、
親への感謝や
自愛を促す美しい言葉に見えます。
しかし、
その言葉を目にした瞬間、
私の胸には温かさとは全く違う、
ある種の「強烈な違和感」が去来しました。
この言葉には、
無意識のうちに
「命の真理」を見誤らせる
リスクが潜んでいるのではないか。
そう感じたのです。
" その命、
本当に「お母さん」が
作ったものですか?"
「お母さんからもらった命」という
表現は正しいのでしょうか。
もし、
命が人間の意志で作れるものなら、
この世の理(ことわり)は
もっと単純なはずではないでしょうか?
どれほど
子どもが欲しいと切望しても、
授からないことがあるのが現実です。
逆に、
予期せぬタイミングで
新しい命が宿ることもあります。
ここには、
人間の意志や肉体的な努力だけでは
どうにもならない、
「人智を超えた領域」が働いています。
人間は、
命というシステムを
一から創造することなどできません。
"「産んであげた」という驕(おご)りが招くもの "
私が最も危惧するのは、
親自身が「この子の命は私があげたもの」
「私が産んであげた」と錯覚してしまうことです。
「私が与えた命なのだから、この子は私のものだ」
「こんな子に育つために、あなたを産んだのではない」
この意識が芽生えた瞬間、
親は無自覚に
子どもを「私物化」し始めます。
自分の所有物だから、
自分の意のままに育てていい。
自分の理想通りに動かしていい。
そんなコントロール欲求の根源が、
ここにあるように私は思うのです。
「あなたのために産んで育ててあげたのよ」
そんな言葉で
子どもを縛り付けてしまう悲劇は、
命の出処を
「自分(親)」だと
勘違いすることから
始まっているのではないでしょうか。
" 命は「天地」からの一時的な預かりもの "
では、
私たちの命はどこから来たのか。
それは
母からではなく、
「天地」から授かったものです。
お母さんは、
命の創造主ではありません。
天から降りてくる
命をこの世に迎えるために
身体を貸し、
痛みに耐えて産んでくれた、
尊い「代理人」です。
あくまで、
天と地をつなぐ
パイプ役を果たしてくれた存在なのです。
こう考えると、
親子関係の景色はガラリと変わります。
親にとって子とは、
自分の所有物ではなく、
天から一時的に預かり、
大切に育て上げる
責任を負った「預かりもの」。
子にとって命とは、
親の所有物ではなく、
天から授かった
一回きりの尊い自分だけの輝き。
" 天に還すその日まで "
「命を大切にしよう」
掲示板にあった
結論そのものは、
間違いのない真実です。
しかし、
それは「お母さんからもらったから」
大切にするのではありません。
天地から授かり、
いつかは
天にお返ししなければならない
尊い「借り物」だからこそ、
粗末にしてはいけないのです。
親も子も、
互いに「天からの授かりもの」である
という謙虚な認識を持つこと。
それこそが、
親子の執着や支配から自由になり、
本当の意味で
命を大切にすることに繋がるのだと思います。
信号待ちで見かけた
あの一言は、
私に
「親としての在り方」と「命のルーツ」を
深く問い直させてくれました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝