今日の一言 2025-12-11 (木)
道場長の一日一心 " 相手が「天」なら、どうしますか? "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
大雪【たいせつ】次候
七十二候
第六十二候 熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月11日~15日ごろ。
熊が冬眠のために穴へこもるころ。
今日の " 道場長の一日一心 "
『 あいて が「てん」なら、どう します か? 』
私は
二ヶ月に一度、寄席に足を運びます。
高座(こうざ)に上がる
噺家(はなしか)の芸を見て笑うため?
もちろん、それもあります。
しかし、
真の目的は別にあります。
それは「学び」です。
不肖私は
合氣道琴心館寺崎道場の師範として、
僭越ながら、
日々お弟子さんの前に
立たせていただいています。
そこで指導にあたるのは
技の理合いだけではありません。
日本人としての在り方、
所作、心の持ちよう、生きる哲学。
それらを指導する際、
いかにして相手の心に言葉を届けるか。
噺家の立ち居振る舞い、
話の間合い、強弱、抑揚、そして表情。
高座という
結界の中から、全身全霊で放たれる「氣」。
それを浴び、
自らの糧とするために、私は寄席に通うのです。
ある夏の日の寄席で、
ある噺家のネタが、
人生の極意のように私の胸に刺さりました。
それは、
短氣な男を諭す、こんな一節でした。
あるところに、
ひどく短氣な男がいました。
氣に食わないことがあれば
すぐに怒鳴り、手が出る。
ある日、
丁稚が軒先で打ち水をしていたところ、
その水が
男の着物の裾にかかってしまった。
「どこに目をつけているんだ!」と、
男はまた烈火のごとく怒り、
丁稚を殴ろうとします。
そんな男に、ある人がこう諭しました。
「お前さん、道を歩いていて、屋根から瓦が落ちてきて頭に当たったらどうする?」
「そりゃあ、その家の主に文句を言って、殴り込んでやるさ」
「じゃあ、そこが空き家だったら?」
「持ち主を探し出して、やっぱり怒鳴り込んでやる」
「なるほど。じゃあな、木も一本も生えていない、見渡す限りの " ひろ〜い野原 " にいたとしてだ。
そこで突然、大雨が降ってきたらどうする? お前さんは、空に向かって喧嘩を売るのか?」
男は少し考えて答えました。
「……いや、そんな馬鹿なことはしねぇよ」
「なぜだ?」
「相手が『天』なら、仕方がない。あきらめるさ」
「そうだろう。なら、道行く人と肩がぶつかっても、水をかけられても、
それを『人』がやったと思わず、『天』がやったことだと思えばいい。
天がやったことなら、どうする?」
「……あきらめる」
この話を
聞いた時、私は膝を打つ思いでした。
ここで言う
「あきらめる」とは、
決して敗北や放棄を
意味するものではないと、私は思うのです。
「諦める(あきらめる)」の語源は、
「明らめる(あきらめる)」。
つまり、
物事の道理を明らかにし、
事実をありのままに受け入れる
という意味があります。
広野で雨に降られた時、
空に向かって
拳を突き上げても雨は止みません。
濡れるという事実があるだけです。
そこで怒り狂うのは、
己の「氣」を無駄に浪費するだけのこと。
合氣道も人生も同じです。
相手が掛かってきた時、
それを「敵」だと思い、
力でねじ伏せようとすれば
そこに衝突が生まれます。
しかし、
相手の力を、
雨や風のような「自然現象(天の働き)」として
捉えたらどうでしょうか。
雨が降れば
傘をさすように、
風が吹けば
柳がなびくように。
相手を「人」だと思うから、
自我(エゴ)がぶつかり合うのです。
相手が「天」だと思えば、
そこに争いは生まれません。
ただ、
あるがままを受け入れ、流すことができる。
「天が相手ならあきらめる」
腹が立つことがあった時、
理不尽な目に遭った時、
ふと空を見上げ
これは天の仕業なんだ。
そう腹をくくった瞬間、
私たちの心から無駄な力みが消え、
本当の意味での
「最強の自然体」になれるのかもしれませぬ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝