今日の一言 2025-05-30 (金) ~ 2025-06-01 (日)
道場長の一日一心 " 激動の合氣道師範人生:最高の感動と深い落胆 "
今朝も目覚めることができた。
ありがとう。
本日は、二十四節氣
小満【しょうまん】 次候
七十二候
第二十三候 紅花栄【べにばなさかう】
二十四節氣「小満」は次候へと移りました。
「紅花栄」は5月26日~30日ころにあたります。
紅色の染料や食用油の原料となる紅花が、鮮やかに咲き誇る頃のこと。
今日のお題
『 げきどう の あいきどう しはん じんせい:さいこう の かんどう と ふか い らくたん』
" 新たな始まりと合氣道師範の道 "
昨日、
何十年もの間、
私の心を覆っていたものに、
ついに、
本当にケリをつけられました。
それが何かは、
私の個人的なことなので、
ここでは伏せさせていただきますが、
この節目を迎えるにあたり、
手を差し伸べてくれた友には、
心から、深く感謝しています。
これで、
もう何も思い残すことはありません。
私にとって、
令和7年5月29日は、
まさに残り少ない
" 人生の再出発の日 " なのかもしれません。
" 天地大自然と合氣道師範という選択、そして壮絶な葛藤と比類なきやりがい "
すべきことはすべてやった。
そう思うと、
もうこの辺で極楽浄土に
行っても良いような氣さえしてきます。
しかし、
こればかりは
自分で決めることなどできません。
すべては
天地大自然がお決めになること。
それに従うほか、
私たちに方法はないのです。
なぜ私は、
僭越ながら合氣道師範という道を
選んでしまったのでしょうか。
" 人を天地大自然の法則に則って正しく導く "
口で言うのは簡単ですが、
この道は常に途方もない
「困難」と絶え間ない「葛藤」の連続です。
人の成長を促すことの難しさ、
それぞれの個性を見極め、
時に厳しく、時に優しく寄り添う
適切な導きを与えることの「重責」。
自分の未熟さに
歯がゆい思いをすることも、
一度や二度ではありません。
もし、
この道を選ばずに
普通に仕事をしていたら、
こんな悩みは決してなかったはずだと、
ふと、いや、しばしば考えてしまいます。
しかし、
この重責だからこそ
味わえる「比類なきやりがい」も、
またこの道には存在します。
稽古生が長年の壁を乗り越え、
目覚ましい成長を遂げた
瞬間の圧倒的な感動。
その瞬間にそこに立ち会えたことの喜び。
それは、
他の仕事では決して味わえない、
まさに" 魂が震える " ような、
言葉にならない喜びです。
一方で、
自分の指導力不足を痛感し、
深く落胆することもあります。
良い意味でも悪い意味でも、
これほどまでに感情を、
全身全霊で揺さぶられる経験は、
私の人生において
他に一切ありませんでした。
これほど深く、
激しい「感動」と「落胆」を
味わうことができたこと。
それが自分の人生にとって
良いことなのか、悪いことなのか、
今の私には計り知れません。
ただ、
この道を歩んだからこそ得られた、
他に代えがたい
唯一無二の経験であることは
紛れもない事実です。
" 私の「天地大自然の理」に根差した生き方 "
私は突出した才能が
あるわけではありませんが、
**「正直」「謙虚」「行動」**という
3つのことには
揺るぎない自信を持っています。
私の言う「謙虚」とは、
決して人に媚びへつらう
ことではありません。
常に天地大自然の法則に則った
真理を追求し、
それを「素直」に学び、
取り入れる姿勢を指します。
そして、
真に正しいと確信すれば、
迷わず「行動」に移す。
その結果が、今の私を形作っています。
これまで、
天地大自然の理を説く
多くの偉人の書物を読み漁ってきました。
表現は異なれど、
彼らの教えは一つの真理に集約されます。
「自身の身体の重さを感じないのは、天地大自然の御心であり摂理である。ならば、自ら進んで重荷を背負うべし」
先人たちのこの言葉を信じ、
自ら進んで重荷を背負い
私は合氣道師範の道を歩んでいます。
"「伝える」と「教える」:合氣道指導者としての信念 "
合氣道師範には、
「伝える」師範と「教える」師範の
二種類があると考えています。
私が師事する
兵庫県合氣道連盟会長、
合氣道琴心館館長である
琴地茂先生から学んだ教えを、
そのまま弟子に引き継ぐことは
「伝える」ことにあたります。
しかし、
私が目指すのは
その先、「教える」師範です。
師から授かった教えを、
私の中で何度も反芻 (はんすう) し、
深く掘り下げ、
咀嚼することで新たな理を見出す。
その理が腑に落ちるまで探求し、
自分の腕を切れば、血液の代わりに、
その思いが溢れ出すよう自身の血肉とする。
そして、
その研ぎ澄まされた真理を
弟子たちに教授することこそが、
「教える」ことです。
僭越ながら、
この「教える」ことができる、
あるいはそう努力する者を
真の「指導者」であると私は思います。
その真の「指導者」にのみ、
天地大自然は「感動」と「落胆」を
味わせるものであると、私は信じています。
" 「一日一心」の教えと、その先へ "
やるべきことはもう全てやった。
だから、
いつ極楽浄土へ行っても構わない。
それでもなお、
生かされるのであれば、
その日、一日一日のすべきことを
ただ淡々と、
しかし、目の前のことに全力で
心を込めてやっていくだけ
なのかもしれません。
これはまさに " 一日一心 " 。
今日のこの日から、
新たな氣持ちで日々を大切に、
精一杯生きていこうと、
強く決意しています。
この私が
持っているもの、背負っているもの、
その何もかもをサッと手放し、
いずれ訪れる
極楽浄土への日を心待ちにしながら、
残された日々を
精一杯生きていこうと思います。
その日がいつになるのか?
今日でも明日でも、
私には何の悔いもございませぬ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝