今日の一言 2025-04-16 (水)
道場長の一日一心 " お守りを持たないということ "
今朝も目覚めることができた、
ありがとう。
本日は、
二十四節氣 清明 ( せいめい ) ・末候
七十二候
虹始見 にじはじめてあらわる
第十五候
「清明」は次候から末候へと移りました。「虹始見」は4月14日~18日ごろに相当します。
春が深まり、空氣中の湿度が高まるにつれて、雨上がりに虹が見られる機会が増えることを示しています。
今日のお題
『 おまもり を もたない と いう こと 』
昔の知人で多くのお守りを
身につけている人がいました。
旅行のお土産には、
必ずと言っていいほど
神社仏閣のお守りをいただくのです。
それ自体を否定するつもりはありません。
しかし、経験的に、
多くのお守りを持つ人ほど、
病氣や災難に見舞われるように感じるのです。
車のダッシュボードに
お守りをいくつもぶら下げている車ほど
よく事故を起こすという話も聞きます。
私は、常日頃お守りを持ちません。
ただ一つ、
靖國神社のお守りを財布に入れています。
それは、
まだ見ぬ私たちのために
命をかけて祖国を守ってくださった
英霊の御霊と共にありたいという、
感謝の思いからです。
神社に参拝に行けば、
境内でお守りが売られているのは
当たり前の光景です。
お寺にだって、
置いていないお寺を探す方が難しいくらい。
その姿も昔ながらのお札の形から、
おしゃれなキーホルダータイプ、
氣軽に貼れる可愛いシール状のものまで、
実にバリエーション豊かです。
期待できる効果も様々ですよね。
受験や恋愛の成就を願うもの、
日々の安全を祈るもの、
厄除けや病からの回復を願うものなど、
私たちの様々な願いや不安に寄り添ってくれます。
でも、ふと立ち止まって考えてみる。
それらのお守りの力を、
私たちは本当に
心の底から信じているのでしょうか?
もし願いが叶わなかったとしても、
「お守りのせいだ!」と
販売元の神社仏閣に
クレームをつける人なんて、
まあ、いないのではないでしょうか。
私たちは心のどこかで、
お守りが一種の心の支え、
氣休めに過ぎないと
感じているのではないでしょうか。
そう理解しながらも、
ついつい手を伸ばしてしまい、
いつの間にかそれが習慣、
いや、もしかしたら
依存にすらなっているのかもしれません。
たとえば、
「交通事故に遭ったのは、あの日お守りを持ち忘れたからだ」とか、
「商売がうまくいかないのは、開店日の運が悪かったからだ」とか、
「最近不幸続きなのは、自分の名前の画数が悪いせいだ」とか。
私たちは、
" 何か問題が起こると、
その原因を自分の外に探しがちです。"
そして、
より効果のあるお守りを求めて彷徨ったり、
占いや根拠のない迷信に
頼ったりしてしまうのです。
自分にとって
都合の良いことばかり追い求め、
都合の悪いことを避けようとするのは、
人間の本能なのかもしれません。
しかし、
良いことばかりを追いかける生き方は、
裏を返せば
悪いことを極度に恐れる心を生み出します。
そして、
悪いことが続くと、
最終的には自分の人生そのものを否定し、
呪うようになってしまうのです。
どんな状況に置かれたとしても、
私たち自身の人生は、
誰の人生とも交換できません。
それは同時に、
誰とも交換する必要のない、
唯一無二の、かけがえのない人生なのです。
私がお守りを持たないという選択は、
単なる「持たない」という行為を超えて、
良し悪しといった相対的な二元論を超え、
目の前に広がる現実をありのままに受け止め、
その中で精一杯生きていこうとする、
力強い意思表示なのでありまする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
兵庫県合氣道連盟
合氣道琴心館寺崎道場
道場長 拝